5

翌日は良い天気といえなかった。
そろそろ梅雨明けのはずだが、どんよりと重たい雲が広がっている。
「明日にしましょうか?」と言ったが、藤千代様は今日行くと言って聞かなかった。
私は渋々了承した。
山といえども厳しい登山をするわけでもなく、一時間ほどで登れてしまうお手頃な山歩きだった。
秋になると紅葉が美しく、寺子屋の子供達と絵を描きに登ったりする。
山には村で祭っている土地神様のお堂があるため、石で敷き詰められた参道が出来ていた。
階段も作られて子供や老人にも登りやすいようになっている。
その道は頂上の見晴台まで続いていたため、気軽に行く事が出来た。

「じゃあ行きましょうか」

握り飯を二つ作って笹の葉で包むと腰にぶら下げる。
暑さに耐えるため、二つの水筒も持った。
今日は山頂で昼ごはんを食べてから、お堂でお参りをして帰ってくる予定である。
藤千代様は楽しみにしていたのか上機嫌で出発をした。
おかげで行きは他愛無い話をしながら楽しく登る。

「先生は思ったより肉体派じゃのう」
「ふふ。別に勉強ばかりしているわけじゃないですからね」
「ほほう。だが喧嘩は弱そうじゃ」
「というより喧嘩が嫌いなんです」

実際に昔から喧嘩は弱くて争う事が苦手だった。
だから学者の道を選んだのだが、結局はこのザマである。
私の能力では小さな農村で寺子屋を開くくらいしか出来なかった。

「それよりほら、御覧なさい」
「ん?」
「あれは山つつじです」
「おおっ綺麗じゃ」

参道の脇に植えられた沢山のつつじに駆け寄った。
ちょうど季節なのか美しい桃色の花が咲いている。
藤千代様は見たことがないのか真剣に見入っていた。

「なぁ抜いてもいいか?」
「それは帰りにしましょう。行きに持っていけば余計な荷物になりますし花が可哀想ですよ」

座り込む藤千代様の後ろで首を振る。
すると「なるほど」と手を叩き、立ち上がった。
そして参道に戻る。

「しかし先生はなんでも知っておるのう」
「そうでしょうか」
「ふむ。花の名前を覚えている男なんぞ先生ぐらいじゃ」
「それは褒めているので?」
「あ、当たり前じゃ!先生は今までの誰より博識で凄い男じゃ」
「ふふ。ありがとうございます」

その言い方に苦笑しながら先を急いだ。
もうすぐ山頂である。
さすがに中腹のお堂を過ぎた辺りから斜面が急になって、階段の段差も高くなっていた。
山の間をぐるりと回るように作られた山道は、大きな木に隠れて木陰のような涼しさが続いている。
山にはとっくに夏が訪れていたのか、蝉時雨が随所に聞こえた。

「はぁはぁ」

歩き慣れている私と違って藤千代様は息を乱している。
いつの間にか遅れ気味になっていて彼の歩幅に合わせていた。
慣れない山歩きはキツイのか苦しそうである。

「仕方がないですね」

私は手を差し伸べた。
覚束無い足取りではいくらあっても時間が足りない。
そろそろ昼頃という事もあり、腹が減っていると思った。
なら急いだほうがいい。
余計に疲れが堪って頂上に着くのが遅くなると思ったからだ。

「なっ私は男じゃ。手を貸されなくても平気じゃっ」

だが藤千代様は悔しいのか拒む。
プイと横を向いたままいかにも平気そうな素振りで歩き出した。
それどころかズンズンと先に歩いていってしまう。

「ほら、ちゃんと足元を見ないと」
「せ、先生はいつも私を子供扱いし過ぎ――うわっ…!」

案の定道の間に突き出た木の根っこに躓いた。
転んでしまう。
側に駆け寄ると、やれやれとため息を吐いてもう一度手を差し伸べた。

「藤千代」
「む、大丈夫」
「いいから」
「わっ」

強情なのかそれでも手を取らない藤千代様に腕を掴んだ。
強引に立ち上がらせると、そのまま繋ぐ。

「私は藤千代を子供扱いした覚えはありませんよ」
「な、う、嘘を申せっ」
「本当に」
「うっ……っぅ……」

念を押すように真剣な顔で見下ろすと、顔を赤らめたまま俯いてしまった。
手を引きゆっくりと歩き出す。
子供扱いをしていないわけではなかったが、こうして触れると歳の違いがよくわかった。
小さな手はまだ何も知らない子供の手である。
ぎゅっと握れば困った顔で目を泳がせた。

「大丈夫ですよ。今の時期他の誰かに会うことはありません」
「え?それってどういう」

顔を赤らめたまま私を見つめる。

「だから根っこに躓いた事も、こうして子供みたいに手を引かれて登る姿も見られてしまう心配はないです」
「な、なっ――先生!」

そう言うと即座に顔を上げて睨みつけた。

「先生は意地悪じゃ!父上なんかよりずっと恐ろしい男じゃ」
「藤千代様にそう言って頂けるのは光栄です」
「ああもうっ、そういう時だけ様付けはやめろ」

怒っている事を表したいのか手をぎゅうっと強く握った。
だが彼の力では痛みを感じない。
それどころか面白い反応に笑いが堪えられなかった。
この一ヶ月藤千代様をからかってばかりいる。
あまりにも良い反応を示すから苛めたくなるのだ。
いい性格をしていると思う。

「くぅっどこまでも馬鹿にしおって…。帰ったら父上に言いつけてやるんじゃ。皆に言いふらしてやるんじゃ!」

藤千代様は頬を膨らませてそう言い放った。
だが口にした途端目を見開く。
まるで何を言ってしまったのか、あとで気付いたみたいに驚いた顔をしていた。

「…っ」

それは私自身にも同じ事が言えた。
彼の言ったひとつの言葉に目を見開いたまま止まってしまう。

“帰ったら――”

それは二人の間で禁忌の言葉になっていた。
暗黙の了解とでもいうかのように、お互い連想させるような事さえ言わなかった。
思わず出た言葉に二人して驚く。

「……っぅ……」

藤千代様はそれ以上何も言えなくなった。
私も咄嗟の事で、どんな風に誤魔化していいのか分からず、口を開けなかった。
先程まで楽しそうに歩いていた山道を無言で歩き始める。

「…………」

空気を変えるべく話しかけようとしたが、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
下を向いた藤千代様は、ただ手を握り、何を考えているのか黙々と山道を登り続ける。
おかげで山の中に居る動物の声しか聞こえなかった。
払拭できない気まずい雰囲気に居た堪れなくなる。
(帰る、か――)
それは最初から決められていたことで、出会いがあれば別れもあるのだ。
未だに考えは変わっていない。
藤千代様に付いて行く気など一切無かった。
城に帰ればお荷物になると分かっていて「一緒に行きます」と言えるほど面の皮は厚くない。

その後暫く歩くと道が開けて山頂に到着した。
相変わらず藤千代様は口を開かず黙って頂上からの景色を眺めていた。

「どうぞ」

遠慮がちに持ってきた握り飯と水筒を渡す。
せっかくの景色だが、厚い雲に覆われて見晴らしが良いとは言えなかった。
気まずさに拍車を掛ける。
(晴れていれば村や奥に広がる広野が見渡せるんだけど)
残念な事に奥の方は霧で覆われ、よく見えなかった。
山の麓に作られた村が小さく顔を出し、周囲の山々が僅かに見える程度である。

「残念ですね。本当はもう少し綺麗な景色のはずだったんですけど」

苦笑しながら振り返る。
彼はその景色を見ながら黙ってご飯を食べているだけであった。

結局藤千代様と頂上で過ごした時間は登ってきた時間よりずっと短いものだった。
それは気まずさだけでなく、空気が湿って空が暗くなってきたからだ。
だが急いで下山するも途中でパラパラと雨が降ってきてしまう。
私は彼の足元に気をつけながら誘導するように山道を歩いた。
山の天気は変わりやすい。
だからせめて中腹にあるお堂まで行けば雨宿りが出来ると思ったのだ。
次第に強さを増す雨の中を早歩きで進む。
だが山というのは登る時より下る時の方が危険だった。
道が出来ているとはいえ抜かるんだ地面に足を取られる。
いつの間にか足元は泥だらけになっていた。

「さ、こちらに来て下さい」

私達は二人ともずぶ濡れのまま何とかお堂にまで辿り着く。
ここは修行僧が泊まったりするせいか行灯や蝋燭などある程度必要なものは揃っている。
下は木の板が張られていて大体八畳ほどの広さを持っていた。
手前に賽銭箱と鈴が吊るされており、真横には三体のお地蔵様が祀られている。
私は藤千代様を促すようにしてお堂を開けた。
真正面には土地神様を祀る神棚に三方や松と菊が置かれている。
それ以外は何もない簡素な作りであったが雨風を凌げるもってこいの場所だった。

「大丈夫ですか。寒かったら言って下さいね」

さすがに足元を汚したままお堂の中には入れなくて手前に腰掛けた。
屋根のおかげで雨は凌げる。
私は手ぬぐいを取り出すと藤千代様の顔や髪の毛を拭いた。
すると彼は私を見上げる。

「……ずっと考えていた」

藤千代様の声は小さくて雨音に掻き消されそうだった。
だから私はすぐ隣に腰掛ける。
見たこともない程真剣な顔をされて茶化す事も出来なかった。

「どうして先生なのか。先生じゃなきゃ、きっと簡単に手に入っただろうに」
「え?」
「だか私には分からなかったんじゃ。一目見て先生に惚れた。それ以外どうにも説明できん」
「藤千代…」
「やっぱり私は子供じゃのう」

まるで何もかもを放棄するように彼は困った顔で笑った。
後ろに付いた手を伸ばすと上体を反る。
その横顔が妙に大人びて見えた。
「子供扱いするな」と言っている時よりずっと大人に見えたのだからおかしな話である。
(まさかこの子は本当に私のことを?)
だが一方では未だに信じられずにいた。
なぜ自分なのか問うも理解できない。
小さな農村で寺子屋を開く自分には華の欠片も持ち合わせていない事を知っていたからだ。
いや、それを言ってしまえば信じるも信じないも意味のない感情である。
どちらにしても私の答えは決まっているからだ。

「ああもう。じゃがこういう湿っぽい雰囲気は嫌いじゃ!」

すると考え込む私をよそに彼は突然自分の頭を掻いた。
そして立ち上がる。

「とにかく私は先生が好きじゃ!絶対に諦めんぞ。何せ今まで欲しいものは全部手に入れてきたんじゃからな」

そういって腰に手を当てると豪快に笑う。
何に対しての自慢かよくわからないが彼は自信だけはたっぷり持っていた。
じゃなきゃ毎日男相手に「好き」だとは言い続けられないだろう。
その鋼の精神とでもいうべきものは血筋によるのだろうか。
私は思わず吹き出してしまう。

「藤千代の国の民は安泰ですね」

彼が殿様として国を治める姿が安易に想像できた。
どれぐらいの規模かは分からないが、いつだったか徳田さんが譜代大名と言っていた。
だからきっと大きな国なのだろう。
まさか御三家かとも思ったが今更家名の話はしたくないと思ったから聞かなかった。

「そうじゃ。私も父上のように立派な殿になる。そして先生に褒めてもらうんじゃ」
「ふふ。意外と謙虚じゃないですか。私に褒めてもらうぐらいで良いのならいつでも」
「何を、嘘を申せ!すぐに私を怒るくせに」
「それは何度も言うように藤千代が私を怒らせるから悪いんです」
「ほれっまたそう言って怒るんじゃ!」

すると彼は大げさに怖い怖いと言いながら再び私の隣に座った。
(まったく。本当は怖いと思っていないくせに)
だから私はやれやれと苦笑する。
目が合った藤千代様は悪戯っ子のように幼い笑みを浮かべていた。
こうしてみれば歳相応の子供である。
まるでさっきまでの大人びた彼が消えてしまったようにいなくなっていた。
その違いにもう一度笑いが零れる。
徳田さんを始めとした皆が藤千代様に夢中なのが良く分かった。
彼ほど人に懐柔するのが上手い人間は見たことがない。
人の心を掴む能力に長けているのは天性の素質だろう。
その要領の良さを見習いたいが今更自分を変えられるわけもなく、こうして藤千代様の様子を微笑ましく思うだけである。

「私は先生の笑った顔が好きじゃっ」

すると彼は私の胸に飛び込んできた。
もう何度も同じ事を繰り返すと驚かなくなるものである。
私はいとも簡単に藤千代様を抱きとめるとその重みを実感する。

「おやおや、甘えたでは立派なお殿様にはなれませんぞ」
「先生は特別じゃ」
「ふふ。本当は徳田さんにもこうして甘えているんじゃないのです?」
「やめてくれ。想像したら気持ち悪くなったではないか!」

そう言って頬を膨らませると私の胸元にぎゅうと縋りつく。
これだけならいつもと同じで何も思わなかっただろう。
だが今日だけは違った。

「…………っ」

雨に濡れた衣服が肌に貼り付いて彼の体がよく分かる。
それだけじゃなくてその奥にある体の熱を感じ取ってドギマギした。
もしかしたらそう意識してしまった自分に罪悪感を感じて気まずくなったのかもしれない。

「あ、あの藤千代」

さすがに同性であってもこの状況はよくないと思って体を離そうとした。
肩を掴むと僅かに押す。
だが藤千代様は私の胸から離れなかった。
ぎゅっと腰に手を回し離そうとしない。

「藤千代?」

ぴったりと体がくっついたまま離れようとしない彼に首を傾げた。
すると藤千代様はそのまま腰掛けている私の膝に乗っかり首に手を回す。

「ちょ…っ、藤千代。これはさすがに」

その密着感に驚いた。
だが無理やり押しのけることも出来ずに困惑する。
なぜなら彼の細い腕や細い腰は少しでも力を入れて触れたら折れてしまいそうな気がしたからだ。
どんなに強いことを言っても私の方が大きく力は強い。

「…さすがに、なんじゃ?」
「……っぅ……」

目の前の藤千代様は顔を真っ赤にしながら不安げにこちらを窺っていた。
たとえ大胆な行動に出たとしても心の中では拒絶される事を恐れている。
それは藤千代様といえども同じ事だった。
(そんな顔をされたら押し返すことなんて出来なくなるじゃないか)
思わず動揺してしまう自分の甘さに嫌気が差す。
だからいつも彼に振り回されてしまうのだが、どうしても甘やかせてしまうのだ。
受け入れられないくせに拒絶も出来ないなんて、それはただの弱虫である。

「私は先生を好いている」
「それはもう聞き――」
「じゃがさっき言った事を訂正したい」
「え?」

外はしとしと雨が降っていた。
他に余計な音は聞こえなくて、思わず世界には二人だけしか存在していないような錯覚を起こしそうになる。

「一目見て先生に惚れたが、毎日先生のことを好きになるんじゃ」
「…………」
「一緒に居ると胸がきゅうっと痛くなってのう。じゃが先生が居ないと今度は胸がじくじく痛くなるんじゃ」
「ふじち……」
「母上にもしょっちゅう抱き締められるが先生のはそれと違う。触れていられるだけで嬉しいんじゃ。すごく幸せなんじゃ」
「…………っ」
「先生に出会えて良かった。胸を張って言えるぞ。先生が好きじゃって」

そう言うと彼は頭を私の肩に乗せた。
重みがじんわりと広がって胸の鼓動が少しだけ速くなる。
驚くほど無垢で無防備な仕草はそれほど私を信頼しているからだ。
全てを身に任せ私の熱を感じ取ろうとしている。
(子供相手に何を動揺して……)
好きだと言われたら悪い気はしない。
それが子供であっても同性であっても関係ないんだ。
だけどそれは程度の問題である。
彼ぐらいの年の子達は皆私を先生と慕い「好きだ」と言ってくれる。
その好意が嬉しくて私は先生である自分に誇りを持っていたのだ。
だが“もしも”それが程度を超えた好意であったのなら――?
私はどう対処したら良いのだろう。
(――って、迷う必要もない)
今までもこれからも答えは決まっていた。
いや、決まっている筈だった。

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