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「城の中は冷たくて息苦しくて消えてしまいたかった」
「…っぅ…」
「私には王座なんてどうでも良かった。でもそれをどうでも良いと言える強さすらなくて、周囲に流されてしまう自分が情けないです」
「そんなっ…」

王子の自嘲気味に笑う顔が耐えられなかった。
僕の方が泣きそうになって必死に否定しようとした。
しかしその口元は彼の指で優しく止められる。
見上げれば小さく首を振る彼が微笑んでいた。

「……そんな時、あなたに会えた」
「あ……」
「着飾った女性なんて見慣れている筈なのに、あなただけは違った。一目見ただけで、あなたのことを……」
「ん、王子様」

「初めて誰かを恋しいと思いました。どうしようもなく愛しいと思いました」

彼は耳元でそう甘く囁いた。
だから泣きそうになったのも吹っ飛んで顔を真っ赤にする。

「こんなに胸が苦しくなったのも眠れなくなったのも初めてのことです。恋愛って思っていたより大変で、実のところ戸惑ってばかりです」

そういって彼はペロッと舌を出した。
僕は慌てて反論する。

「う、う、うそですよっ」
「どうして?」
「だって王子様はいつも余裕があって、優しくて……」

僕ばかり余裕がなくて慌てている。
そんな自分が情けなくて恥ずかしかった。

「まさか!余裕なんてないですよ」
「うー」
「ふふ。なんですか?そのいかにも嘘つきって顔は」
「だって」

僕は不服そうに口を膨らませた。
それに対して彼はおかしそうに笑って頬を撫でる。

「今だって結構いっぱいいっぱいなんですよ。さっきだって必死にエマを探してしまったし……」
「あ…」
「あなたを見つけたときは心の中で大喜びしちゃいましたよ。やったー!って。だから思わず大声で名前を呼んでしまいました」
「うぅっ」

その言葉にぐうの音もでなかった。
本当に嬉しそうに話すから何も反論できない。
彼はさらに笑みを深くすると優しい手つきで僕の髪に触れた。
僕はその手を掴む。

「わ、私の髪…変じゃないんですか」
「え?誰がそんなこと…」
「だって長くないし巻き毛でもないから」

この城に来てから何度も髪の毛の事で笑われた。
みんなの綺麗な髪の毛と比較して恥ずかしくなる事もあった。
僕は他の人のようにお金をかけて手入れをしたことがない。
だけど王子は僕の手を引き離してもう一度髪に触れた。
そして甘いキスを落とす。

「私はあなたの髪が好きです」
「ん…っ」
「もしも他の誰かがそう言うのなら耳を塞いで下さい。……どうか自分を卑下しないで下さい。私の言葉だけを聞いていて欲しいのです」
「……っ!」
「なんてちょっと独占欲を出しすぎましたね。ほら、こんなにも余裕がないんです。わかったでしょう?」

そういって照れ臭そうに髪の毛をかき上げた王子はあははと軽く笑った。
だけどこちらの心臓はダメージが深くて爆発しそうになっている。
チラッと垣間見えた王子の雄的な部分に鼓動は速くなるばかりだ。
僕は耳まで真っ赤に染めて固まってしまう。

「……始めから余裕なんて無いんです」
「お…うじ様…」
「この瞬間もずっとあなたに触れたくて堪らなくなっているんです」

王子は僕の顎に手を伸ばした。
それを軽く上に持ち上げて固定する。
必然的に見上げた彼の瞳は熱く情熱的だった。
初めて会った時のように熱っぽい眼差しで僕を見つめる。
だから身動きがとれなくなった。
あれほどにダメだと自制していたのに体が動かない。

「エマ……」
「あ…」

二度目の誘惑には勝てなかった。
そっと近づいてくる彼の顔に僕も静かに目を閉じる。

「ん――…」

暖かな唇が重なった。
その柔らかくて何ともいいようがない感触に体が震える。
まるで電流が走ったみたいにピリピリと体を刺激した。
聞こえるのは草木の揺れる音と噴水の水しぶき。
ただ触れただけのキスなのに全てを持っていかれるかと思った。
こんなにも美しい庭に囲まれて、甘い王子の言葉に酔いしれて……。
なんてロマンチックなキスなのだろう。

「ん、ぅ…」

唇が離れていくと同時にうっすらと目を開けた。
お互い初めてのキスに恍惚となっている。
ただ唇を重ねただけなのに手が触れるよりずっとドキドキした。
離れていった後も尾を引く感触の虜になる。

「あなたが誰であろうと好きです」
「え…あっ…」

そのまま噴水の横に押し倒された。
いつの間にか僕は空を見上げる格好になっている。
合間から見えたのは凄い速さで流れていく雲と王子の顔だけだった。
曇った空は暗く彼の顔に影を添える。

「お、王子…様っ…」
「エマが欲しい」
「!!」
「あなたの全てが欲しくてたまらないのです」

王子の顔は真剣そのものだった。
僕は初めて見るこの角度での王子の顔に新鮮なときめきを覚える。
だけどすぐにそれが過ちだと気付いた。

「あっ…ダメです、こんな…っ」

このままでいればいつか王子は僕の正体を知るだろう。
だから抗うように拒絶した。
しかしどうしたって僕の言葉は甘く聞こえてしまう。

「ん、だめっ…」

本気で拒絶できない自分が居る。
それはちぐはぐな心の戸惑いだった。
このまま結ばれるなんて奇跡でも起きない限りありえない。
僕が男であること。
下っ端の使用人であること。
ひっくるめて考えればここで逃げるべきなのはバカでも分かる話だ。

破滅を分かっていて体を許すのは本当に愛なのか。
全てを知っていて何も知らないフリをする僕は不誠実なのか。

「…はぁっ…王子様…」
「ん?」
「…真実の愛とは何でしょうか」

王子は僕の首筋から鎖骨にかけて沿うように口付けをしていた。
ふと僕の問いかけに彼はそれをやめる。
彼は顔を上げて僕を見下ろした。
じっと見つめる王子の視線が痛い。

「私は――……」
ピピピっ…ピピっ!

するとどこからともなくロゼの声が聞こえてきた。
二人は起き上がって周囲を見渡す。

「…ロゼ?」
「どこに……」

しかし見渡しても姿が見えなかった。
先ほどからピピピッピチュッという鳴き声だけが聞こえる。
二人はその声を不審に思った。
いつもなら鳴き声がすると同時に姿を現すのに。

「…ロゼじゃないのかしら…」

美しい声で鳴く鳥ならロゼ以外にもたくさんいるだろう。
だから王子と顔を見合わせて首を傾げる。

「あれ?」

すると暗かった空からパラパラと雨粒が落ちてきた。
それは僕の頬に冷たく降り注ぐ。

「行きましょう」

王子は即座に立つと僕に手を差し伸べた。
そのまま起き上がると慌ててテラスの方に戻る。

「はぁっ…はぁ、大丈夫ですか?」
「え…ええ」

テラスに戻ったときには結構な強さで雨が降り始めていた。
庭一面が雨粒で霞む。

「…すみません、私…」
「え?」

僕は空を見上げる王子の横顔を盗み見ながら頭を下げた。

「せっかく王子様が…その…」

また中途半端な形で終わらせてしまった。
彼の愛を受け入れられなければ始めからきっぱりと拒絶すればいいのに。
余計な気を持たせてしまっている自分が酷い女に見えた。

「……エマが謝る必要はありません」

だが王子はこちらを向いてニコッと微笑んだ。
そして手を強く繋ぎ直す。
だから驚いて彼を見上げた。

「私の方こそ、あのままじゃ危うく貴女のドレスを汚してしまうところでした」
「あ…」
「申し訳ありません、エマ。これじゃ王子の名が聞いて呆れますね」

王子は照れ臭そうにしていた。
不覚にも胸がきゅんとしてしまう。
言ってる傍から虜にされてどうすると自ら突っ込んだ。
流されやすい自分にほとほと嫌気がする。

「……それより足の手当てをしましょう?」
「え?」
「先ほどからずっと足元を気にしながら歩いています。靴擦れ位でしたら私の部屋で手当てが出来ますから」

そういって王子は僕の手を引いた。
そしてゆっくりと僕の足を気にするように歩き出す。
僕はドレスを捲って足元を見た。

「わ…」

気付かない間に靴擦れが悪化していた。
最近は今日のように雨が降ることも多くて湿気が酷かった。
だからか、前回の靴擦れが中々良くならなかった。
たかだが靴擦れ如きに薬を出してもらえるわけもなく、ガーゼを押し当てていただけだった。

「――――よ、クラウス」

そんな僕らに一人の男性が声を掛けてきた。
それに振り返れば廊下の向こうから一組の男女が近づいてくる。

「お兄様」

それは王子の兄であるシリウス様だった。
隣で腕を組む女性が僕らに会釈する。
僕は慌てて王子より一歩後ろに下がると深くお辞儀をした。
隣に並んだ女性は栗毛にエメラルドグリーンの瞳が綺麗なお姫様だった。
オフホワイトの華やかなドレスがとてもよく似合う。
胸元には瞳と同じエメラルドグリーンの宝石が輝いている。
こちらにまで甘い綿菓子のような匂いが漂ってうっとりとした。

「ふーん」

シリウス様は僕の顔を見定めるように見つめる。
それは明らかに好奇の目だった。
彼の鋭い眼光にたじろいだ僕は身を縮めて下を向く。
それに気付いた王子は僕の手を強く握った。

「お兄様。用がないのなら先を急いでいますので失礼致します」

彼はシリウス様達とは間逆の方に歩き出そうとした。
しかしそれはシリウス様の手によって止められる。

「わわっ」

ぐいっと彼は僕の手を掴んだ。
王子に握られた反対の手が強引に僕を引き寄せる。
その手は王子に比べると力強く乱暴だった。

「痛っ…!」
「エマ!!」

その反動に王子と繋いでいた手がほどけてしまう。
シリウス様は僕の手を掴み舐めるような視線で見つめる。
上から下までじっくりと見つめられて後ろめたさが募った。

「なるほどね」
「…っぅ…」
「何を…っ!」

その行為に王子は声を荒げた。
シリウス様は面白そうな顔で僕を見るとその手を離す。
隣に居た女性も同じように楽しそうな顔で見物していた。

「おー、怖い怖い」

そういって両手を顔まで上げるシリウス様は明らかに僕たちを小ばかにしている。

「そう怒るなよ。別に捕って食ったりしねーよ」

彼はその身分に比べるとずっと口調が荒かった。
まるで町のチンピラのようである。

「これじゃ人形のクラウスの名が聞いて呆れるな」
「くっ」
「お前は父さんの人形なんだろ。だったら人形らしくさっさと隣国のお姫様と結婚でもしたらどうだ。無能な国王は泣いて喜ぶぞ」
「お兄様いい加減にして下さい。口が過ぎますよ」

王子はいつになく苛立った声をしていた。
言葉は相変わらず丁寧だが彼の静かな怒りが顔を見なくても伝わってくる。

「あー、でもダメか」

彼の反応が面白かったのか、シリウス様はあえて人の感情を逆撫でる声で呟いた。
視線をもう一度こちらに向ける。
だから王子はシリウス様から姿を隠すように僕の前に立った。

「今日の舞踏会は酷かった。お前の大切なお父様もお怒りだったぞ」
「なっ」
「よくもまぁ、これだけ酷い女を見つけて来たもんだ。感心するよ、クラウス」
「…っぅ…」
「まだ町にいる娼婦の方がいい女が揃ってるだろうに」
「ぷっ」

シリウス様と隣に居た女性は我慢できないといったように吹き出した。
ゲラゲラと笑う。

「っぅ…お兄様といえども、その暴言は許せません!」
「なんだ?許せなかったら何をするんだよ?お得意のお父様に泣きつくのか?ああ?」
「まさかっ!」

王子は怒りに震えていた。
小脇に差していた小さな剣に手をかけるほど、激しく怒っていた。
あの優しげな彼がそんなにも怒りを露にしている。
それほどの気持ちは嬉しかった。
だけど言い返せない自分に否があることはちゃんと分かっている。
本当はシリウス様が正しい。
自分の立場を分かっているからこそ、反論なんて出来ない。
だってその通りなのだから。

「…お止めください、王子様」

僕は彼の背中にかかるマントを軽く引っ張った。
そしてぎゅっと握る。

「全てシリウス様のおっしゃる通りなのですから」
「しかしっ…エマ!!」

そういって振り返ろうとする王子にそっと距離をとった。
そのまま顔を見られないように深々と頭を下げる。

「恥をかかせて申し訳ございませんでした」
「エマっ…!?」

ドレスを手で持ち上げるとその場を立ち去った。
じわじわと上がってくる靴擦れの痛みを堪えて懸命に走る。
むしろ足の痛みがあって良かった。
じゃないと今すぐにでも泣き出してしまうかと思った。
真っ白な廊下はヒールの音で反響する。
ドレスのまま全力疾走するお姫様なんて聞いた事がない。
周囲は呆れた顔で見ているだろう。
だが関係なかった。
少しでも早くこの城から消えたかった。
いつものエマルドに戻りたかったのだ。

「ちょっとエマルド!!どこに行ってたのよっ」
「わわっ…!?」

すると城の入り口でぐいっと腕を掴まれた。
その反動にバランスを崩す。
しかし転ばなかった。
もう片方の手が体を支えたからだ。

「はぁ…はぁ…フランシスカ様、モニカ様…」

見上げれば二人が眉間に皺を寄せて僕を見ている。
また今日も不機嫌だとげんなりしたが、それ以上に会えたことが嬉しかった。
このまま屋敷に帰るのだろうと思ったからだ。

「今日は絶対に見逃さないんだからね」
「え?」
「早くこっちに来なさい」

すると僕の予想とは裏腹に彼女達は僕の手を引っ張った。
それは入り口とは反対に向かおうとしている。

「こっちよ」
「ど、どこへ…」

逃げないように掴まれた手に嫌な予感がした。
しかし薄ら笑みを浮かべる二人はどこに行こうとするのか言わない。
暫くして小さな広間に辿り着いた。
そこはホールから少し離れた場所で比較的静かだった。
雨のせいかオーケストラの演奏も聞こえない。

「おまたせ」
「え?」

そこには7・8人の男女が揃っていた。
皆、格好だけ見ると一流の紳士淑女である。
彼らは僕の顔を見て卑しい笑みを浮かべていた。

ドン――…!!
「わっ…ぅ…!?」

すると前触れもなく後ろからモニカに背中を押された。
僕は床の上に転がる。
大理石の床は冷たくて固かった。
打ち付けられた肘と膝に鋭い痛みが走って体を縮める。
だけど痛みに悶えている暇はなかった。
見上げれば皆が囲むようにして僕を見ている。

「なぁ、コイツ本当に男なのか?」
「ええそうよ。そういったじゃない」
「この子、さっき王子様と踊っていた子よね」

見下ろされるのがこれほど圧力を感じるとは思わなかった。
面白そうに話している彼らを尻目に、僕の体はガクガクと震える。
だからといって逃げ道がなかった。
取り囲まれて周りの様子さえ見えない。

「クラウス様はこの事知っているのかしら」
「さぁ」
「もし王様に知られたらきっとその場で殺されるでしょうね。王様はクラウス様を溺愛していらっしゃるし」
「もしくは一生牢屋?それとも他の国に売られるんじゃない?」

何やら彼女達は恐ろしい事を口にしていた。
さすがの僕も怖くなる。
だが最も辛いのは王子に知られてしまうことだ。
それならまだ殺された方がましである。
本当のことを知ったら王子はひどく悲しむだろう。
笑って欲しかったのに、僕の存在が彼の心を痛めつける。
その矛盾に自ら泣きたくなった。

ひとつ、嘘をつくと必ずもうひとつ嘘が増える。
あとは嘘を重ね塗って汚れていくだけなのだ。
そこに本当の気持ちなんて見えるわけがない。
信じられる証なんて僕は持ち合わせていないのだ。
――人は簡単に嘘を吐く。
それと引き換えに失った信用を取り戻すのは困難だ。
それを自らの代償だと、ツケだと言うのは容易い。

「な、ホントにいいのか?」
「どーぞ」

すると一人の男が呟いた。
それに合わせて複数の男が近寄ってくる。

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