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***

テスト最終日、ようやく全ての教科を終えて、学校全体が開放感で騒がしかった。
部活が再開ということで、放課後独特の賑わいが戻ってくる。
桃園と冬木もホームルームが終わると、一目散に教室を出て行った。
弓枝もそれまでと同様に図書室で台本の続きを書いていた。
もう終盤まできており、明日中には完成して休日練習している演劇部に渡せそうだった。
自分の手を離れるのは寂しいが、桃園たちがどういう風に仕上げてくるのか楽しみのほうが勝っている。
既存の本を省き、書き直ししただけなのだが、自分が書いた台詞を他人が喋るのは感慨深く、少しだけ照れくさかった。
そんな理由から劇の練習は一度しか見ていない。
ガラガラ――。
すると、図書室のドアが開いた。
気持ちを新たに台本を進めていた弓枝のもとへひとりの生徒がやってくる。
桃園かと顔をあげたが、入り口に立っていたのは冬木だった。
手には荷物を持っている。
黒板横の時計に目をやるがまだ下校時刻ではない。

「部活は?」
「ん、今日はテスト明けだから早めに終わったんだ」

彼は人懐っこい顔で笑うと、スキップしながら弓枝の机までやってきた。

「そういえば桃園はどうしたんだ?」

キョロキョロと見回す。
大抵二人セットでいることが多かったから、冬木ひとりなのが珍しいと思った。
だが、どこにも桃園の姿はない。
忘れ物を取りに教室へ戻ったのだろうか、それとも昇降口で待ち合わせなのだろうか。
弓枝もちょうど切りが良かったから一緒に帰ろうと、鞄に筆記用具をしまおうとしていた。

「んーと、桃園は女子に呼び出されたから、先に帰れって」
「え?」
「女の子って次から次へとすごいよなぁ」

冬木は腕を組み感心したように唸るが、弓枝はその言葉に動きがとまった。
(また告白されてんのか)
つい先日も告白されていたというのに。
まさかテストが終わるまで待っていたのだろうか。
弓枝は「ふーん」と、気のない振りをして鞄に荷物を詰めるが、動揺していたのは明白で、危うく本を落としそうになった。
焦りながら冬木に悟られないよう胸を撫で下ろす。
桃園とこういう関係になったからには多少の覚悟はあった。
彼はクラスの人気者で、モテているのは以前からずっと知っている。
つまりそういう事態も想定して、彼と付き合っていかねばならないのだ。
だが、実際にその場面に出くわすと、案外うろたえるものである。
そんな己の弱さが恨めしかった。
実際のところ、これからもずっと桃園は告白され続けるのだろう。
弓枝と両思いだとしても、二人が付き合っている事実は公表されないから、勇気ある乙女はフリーな桃園に決死のアタックをしてくる。
何とも頼もしい話だ。
しかしそれに対して後ろめたさを感じずにはいられなかった。
蘇るのは、いつだったか下校中に偶然桃園が告白されている場面を見てしまった時のことである。
下級生の女の子は、桃園に交際を断られて泣きそうな顔をしていた。
泣きそうな――ということは、泣くまいと気張っているようにも見える。
胸元に置いていた手は緊張と不安で震えていたに違いない。
ある程度振られることは予想していたのか、俯き、黙って桃園の返事を聞いている。
その健気なくらい純粋な横顔は、弓枝に大きく印象を残した。
桃園が告白されていることに関してはモヤモヤする。
胸の中を言い知れぬ淀みで掻き回されるような不快な感覚だ。。
でも、異性にあんな顔をさせてしまうことへの罪悪感が、それ以上に呵責の念として突き刺さった。
関係ないと割り切ってしまえば楽なのに、ずるずると引きずる気持ち悪さが消えてなくならなかった。
いうなれば無常。
桃園も弓枝も女の子たちもその想いを止めることは出来ない。
制することも出来ない。
だが、そもそも弓枝が女生徒に対してそんなことを思うこと自体失礼だ。
どんな綺麗ごとを述べても同情にすぎないからだ。
高みの見物をして彼女たちを憐れんでいる。
本気でそう思うなら桃園と別れればいい。
なのに、弓枝はどうしてもそれが出来ない。
その歯がゆさが弓枝の胃に爪を立てた。
桃園本人はもっともどかしい思いを抱えているだろう。
彼は誰よりも繊細で優しい男だ。
(今、お前は何を思ってる?)
弓枝は手元の鞄から目を離すと、窓越しに外を見た。
この校舎のどこかで告白されている桃園に思いを馳せる。
(自分を好きになってくれる人だけを好きになれたらいいのに――なんて傲慢な考えだ)
いまだに桃園のことをこれっぽっちも理解していない弓枝は、その心情を慮ることが出来なかった。
以前より近くなったはずなのに、時折彼の存在が遠くに感じて寂しくなる。
埋まらない距離。
手のひらから零れ落ちていくような不安。

「じゃあ帰るか」

弓枝はそんなことをおくびにも出さず席を立つと鞄を持った。
全ての窓が閉まっているか確認すると、カーテンを引き、部屋を出る。
その手を冬木が掴んだ。

「な、なんだよ」

底知れぬ深い瞳で見られ、思わずたじろくと、彼はまるで良からぬことを考えているようにニッと笑った。

「よし! じゃあ出発ー!」
「はぁっ? どこ行く気だよ。オレは帰るぞ」

そうは言っても冬木は弓枝の腕を掴んだままぐいぐい引っ張っていく。
彼の手は、学校を出て、駅で電車に乗るまで離れなかった。

***

そうして辿り着いたのは、隣駅にある海岸だった。
冬木の地元らしく、駅前で馴染みの駄菓子屋に寄ってからやってきた。
駅から徒歩で数分、突如豁然と開けた場所に出たかと思うと、どこまでも続く水平線が海と空をわけている。
隣駅といえど、弓枝の自宅はだいぶ内陸寄りになっていて、海まで来たのは幼少のころ以来だった。
冬木はブロックが並ぶ防波堤へやってくると、その場に座り込み、足を海へ投げ出した。
すぐ下には寄せて返す波がコンクリートの壁にぶち当たり、砕けた波しぶきがキラキラと太陽に反射している。
まだ十月上旬で昼間の陽射しは暖かい。
しかし、容赦なく吹き付ける海風は潮の匂いと共に冷ややかな空気をまとっていた。

「あれ? そういえば桃園って同じ中学出身だよな。アイツんち、学区外じゃね?」

仕方がなく隣に腰かけた弓枝は、駄菓子屋で買ったスナック菓子を取り出した。

「ん、桃園は中一ん時に引っ越してるんだ。それまではもっと海に近い場所に住んでいたんだけど――」

と、冬木が指を差した先に、ここからでも見える高層マンションがあった。
「あそこらへん」と、ざっくばらんな説明を受ける。
弓枝は、それを見ながら菓子を口にいれると「なるほど」と、味気ない返事をした。
本当は興味があったが、それを覚られたくなかったからだ。
そのまま上手くやり過ごそうと冬木にならって足をブラブラさせると、靴底の下で水しぶきが跳ねた。
濡れたかと確認するも、幸い水は届かなかったようでホッと胸を撫で下ろす。
その慌て具合が面白かったのか、冬木は自らの太腿を叩きながら笑い転げた。
よほどツボにはまったのか、腹を抱えて哄笑している。
弓枝は失態を晒したことに決まり悪く唇を歪めると、再び足を下ろし、あとはもう波を気にしなかった。

「弓枝ってホント、桃園が大好きなんだな」
「は?」

冬木はまじまじと弓枝を見つめ、先ほどの笑いを噛み殺すように、

「口を開けば桃園のことばっかりだ」
「や、別にっ……」
「今さら恥ずかしがるなよー! 俺と弓枝の仲じゃないか」
「どんな仲だよ」
「俺、嬉しいんだ。だって俺も弓枝と桃園が好きだから」
「は…………?」

その眩しいほどの天真爛漫な笑顔に、弓枝は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
どうやら弓枝の想像していたような好きではなかったようだ。
鋭い冬木ならと肝を冷やしたが、それが勘違いと分かると、恥ずかしいような気詰まりのような思いがする。
彼の言うような純粋な好意ではないことが心苦しかった。
弓枝は後ろめたさを隠すようにうな垂れる。

「オレは、冬木の思っているようなやつじゃない」
「何が?」
「買いかぶりすぎなんだよ。もしかしたらオレ、お前が知らないだけですっげー酷いやつかもよ」

いつのころからか、桃園と冬木と三人で行動するようになった。
弓枝は、二人の間に入っていいのかという戸惑いと、それによって冬木と桃園の関係が変わることへの躊躇いから遠慮がちに接していた。
女でもあるまいしグループに拘ることも、友情が壊れることもあるわけがない。
だが、現状、弓枝と桃園は秘密裏に付き合っている。
冬木を省くつもりは毛頭なくとも、疎外感を覚えることがあるのではなかろうか。
こんなにも信じてくれているのに、影で裏切っているような気がしていたたまれなかったのだ。

「ぷぷぷ。弓枝おっかしーの。酷いことするやつは、きっと自分のことを酷いやつなんて言わないぞ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど……って、そうじゃなくて」
「俺の知ってる弓枝と、桃園が知ってる弓枝と、弓枝自身が知ってる弓枝は、それぞれ半分正解で半分間違いなんだ」

冬木は真っ直ぐ海の彼方を見やると、口の中に大きな赤い飴玉を放り込む。
するとリスのように頬が膨らんだ。

「半分間違い?」

弓枝は言葉の意図を図りかねて鸚鵡返しすると、冬木は、

「ん、先生は弓枝を勉強熱心な優等生だと思ってる。でも演劇部の後輩は、弓枝のことを面白い台本書く人だと思ってる」
「あ」
「どっちも間違ってないけど、でも、それだけがすべてじゃないだろ」

彼はまるで子どもに言い聞かせるよう語尾を和らげた。

「それでいいじゃん。俺は俺に与えられた情報だけで弓枝がどういう人なのか判断する。でも、それと違っていて当然だから、本当はどんな弓枝だったとしても、がっかりしないし、嫌いにもならない」
「お前、変なところで達観してるよな」
「ぶー。せっかく俺が一生懸命、弓枝にも分かるようにムズカシイ言葉使ったのに」
「その言葉がよく分からんが、ま、確かに今の話はオレでも理解できたわ」

冬木は簡単に言うが、実際彼のように考えられる人なんてそうそういないだろう。
どうしたって主観が第一で、人が先入観を取っ払って物事を見るのは容易なことじゃない。
こんな風に柔軟に考えられたら人間同士の争いはなくなるだろうが……多分、可能性からいって人が絶えるほうが先になる。

「じゃあさ、冬木から見て桃園はどんなやつだ」

以前にも似たようなことを訊いた。
でもあの時とは少し意味合いが違った。
それを冬木も感じ取ったのか、しばらく黙ると、

「むう……興味ない」

ばっさり切り捨てた。
前と同じ。
桃園の好きな人の話になった時も興味がないと一刀両断していたことを思い出した。
(やっぱり冬木はよく分からん)

「じゃあ何で同じ高校受けたんだよ。お前の学力じゃ相当キツかっただろ」
「おうよ! 地獄の半年間だったぜ」
「厳しいの分かってたらもっと早くから対策しろよ」
「しょうがないだろ。桃園がここ受けるって急に言い出したんだから」
「ああもう。だからっ、何で興味ない人間と同じ学校へ進学するんだって言ってるんだよ」

噛み合わない会話に焦慮を隠せず、弓枝は声を荒げてしまった。
冬木は怒られたとしゅんとして肩を竦ませる。
そうして言葉を探すように目をキョロキョロさせると、

「だって……桃園は他のやつと違う」

潮騒に掻き消されてしまいそうなくらいの細い声で呟いた。

「あいつは半分正解なんじゃなくて、多分、一割も正解してない。見せようとしないやつだから」
「……っ……」
「そんなやつに興味なんて持てないだろ。でも、しょうがないんだ。桃園がそれを望んでるんだから、俺はそれに従う。一割正解なら、その一割の桃園と付き合う」
「始めから冬木は割り切って一緒にいたのか」
「うん。だけどあいつ自身はツライだろ。どこまで意識してるのか分からんけど、こんなこと続けてたらいつか必ず限界が来る。知ってて無視するのは夢見が悪いから、同じとこに進学したんだ。だって化けて出られたら困るし」
「桃園はまだ死んでないけどな」
「あ、そうだった」

冬木は、うっかりと手を叩いていたが、うっかりで済まないほど縁起悪い話である。
だが、彼が言いたいことは伝わった――はずだ。
弓枝は冬木の言葉を反芻しながら整理する。
どうにも自信が持てないのは、自分がそこまで理解度が高くないせいだ。
冬木は桃園が本心を隠していることを見抜いている。
その裏にある複雑な事情も理解している。
だからそこへは触れず、僅かな彼自身の本音を大事にして、友達になることを決めた。
彼はいつか訪れるであろう桃園の限界を心配して、苦手な勉強の末、進学校へ入学を果たしたのだ。

「どうして、そこまで」

冬木はすごい。
何度同じことを思ったことだか。
だけどすごいという言葉しか思い浮かばなかった。
肝心な時に語呂が少ないことに苦笑いを浮かべる。
弓枝は、自分の桃園への想いが小さく感じた。
いや、冬木の前ではどんな強く思おうが小さいものだ。
まるで――そう、目の前にある海のように広く、寛大で、深い愛情。
本当の桃園を知りたいなんて思っている自分が浅ましくさえ思えた。
これでは、冬木のほうが適役なのではないか。
冬木のほうが桃園と――――。

「ぷははっ。弓枝だって俺を買いかぶりすぎだ」
「え?」
「俺は俺のしたいようにしているだけだ。誰のためとか、何のためとか考えたことない」
「…………」
「だから俺は桃園を変えられない。隣で友達は出来るけど、そこから先は求められてない」
「冬木?」
「やっぱり弓枝はすごいんだ」

冬木はほんの少し寂しさを滲ませた顔でくしゃりと笑った。
だけど弓枝は自分の何がすごいのか見当もつかなかった。
そうだ。
弓枝だって自分自身のことを理解していない。
自分のことなのに半分も正解しているのか怪しいくらいだ。
今、冬木に対してすごいと思ったのに、その彼に言い返されている。
何が〝やっぱり〟なのか教えて欲しいくらいだった。

「お前と話すと頭痛くなる」

弓枝は膝を抱えると背中を丸めた。
分かりそうで分からない彼の思考についていけず頭がグルグルする。
意図的に混乱させられたほうが答えを見つけるのは簡単だ。
しかし冬木はありのままに話してこの調子である。
まだ対等に会話が出来る日は遠いようだ。

「ほほう。痛いの痛いのとんでけー!」

すると冬木はオーバーな仕草で弓枝の頭を撫でると呪文を唱え始めた。
数回繰り返したあと、最後のとんでけー! のところで撫でていた手を海へ伸ばすと、

「おおー、飛んでった。大成功だぞ」

と、沖のほうへ目を細めて眺めた。
沖は湾と違い、静かな海面は湖のように大人しい。
どうやら冬木には弓枝の痛みが海の向こうへ飛んでいったのが見えたようである。

「やめろ。ますます痛くなる」

その隣で額に手をあてた弓枝が抑揚のない声で呟く。
付き合ってられないと言いたげな目つきで睨んだ。

「おっかしーな。妹には百発百中で効くのに」

不思議そうに首を傾げる冬木に弓枝は心の中で思った。
(冬木に付き合って効いた振りしてやってんだろうな)
想像するだけで涙ぐましい兄への愛情だ。

「…………あ、そういえば……お前、妹いたんだっけ」

弓枝は思い出したように顔をあげた。
話し合いの時、珍しく啖呵をきった冬木はそのようなことを言っていた。
想像出来ない。
桃園の家も謎だが、冬木の家は輪にかけて謎だ。
普段、彼から家族や家の話を訊いたことがない。
彼の性格から面倒見がよく優しい兄であることは間違いないが、では、どんな妹なのだろうか。
珍しくも興味が湧き、好奇心から自然と前のめりになる。
まさか家族揃ってこんな感じなのだろうか。
ひょろひょろした冬木とその家族を思い浮かべて吹き出しそうになると、

「お兄ちゃんっ」

穏やかな波音に混じって幼女特有の甲高い声が響いた。
突然のことに反応して二人振り返ると、先に動いたのは冬木で、

「雅ちゃぁああああああ」

素早く腰をあげた彼が真っ先に雅という名の少女に駆け寄っていった。

 

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