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それからすぐテスト期間に入り、席も名前順になったため、桃園と話をする機会は自然と減っていった。
桃園の「も」と弓枝の「ゆ」は名前順だと近いが、席になると、桃園は一番後ろで、弓枝は前から二列目の席になる。
いつも彼の背中を眺めていたのに、今度は逆になると思うと、背中がむず痒くなった。
とはいえ、とにかく今は勉強に集中するべきで、テストが終わり次第、桃園と話をしようと決めていた。
二人のこと、冬木のこと、家族のことと知りたいことはたくさんある。
今は勉強に脚本のこともあっていっぱいいっぱいだが、焦らなくてもひとつずつ片付けていけば良い。
両親との一件以来、精神的に強くなったのか、余裕を持って考えられるようになった。
狭かった視野が広がる。
心にゆとりが生まれる。
そのきっかけを作ってくれたのは誰でもない桃園であり、今度は弓枝が彼の抱えているものを背負いたかった。

水曜日、ちょうどテストは中間地点を迎え、後半へ差しかかろうとしていた日のことだった。
その夜は塾があり、弓枝は遅くまで塾の自習室で勉強をしていた。
月曜からの三日間は集中力が途切れることもなく順調にきている。
むしろ今までにないほど頭は冴え渡り、テスト後に自己採点するが、かなり良い結果になりそうだった。
この分だと、次の期末も期待出来るだろう。
弓枝は珍しく手ごたえを感じていた。
切りの良いところで塾を出ると、商店街にはまだ結構な人の行き来があった。
シャッターが下りた個人商店の隣で、チェーン店の牛丼屋が煌々とした明かりの中、営業を続けている。
店内にいたくたびれた様子のサラリーマンが、誰かから急かされるようにどんぶりをかきこんでいた。
それを眺めながら店の前を通り過ぎる。
すると弓枝のすぐ横を一陣の風が吹いた。
十月に入ると、途端に夜は涼しくなってブレザーだけでは体が冷えた。
そろそろマフラーでも巻こうかと思うのだが、昼間はそれほどでもなく、マフラーは邪魔になるだけである。
こういう季節が一番面倒だ。
昼と夜の寒暖差に皮膚は疼く。
肌を掠める風に、夏の匂いは消えている。
あれだけ暑さにうんざりしていたのに、もうあの生暖かい空気が恋しくなっている。
そのくせ、時折、夏に戻ったような暑い日がやってくると、気だるくて余計に疲れた。
暑さはもう懲り懲りだと肉体が騒ぐ。
人間の身体はわがままだ。
心身ともにもう少し鈍ければ生きるのも容易くなるのに。
だが、もし鈍感ならば、ここまで人は地球上で増えなかったかもしれない。
環境の変化に敏感だからこそ、人々は順応しながら生きながらえてきたのだ。
何の脈略もなくそんなことを考えながら鞄を肩にかけて歩いていると、見覚えのある金髪が目に入った。
桃園と出会ってから金髪ばかりに気を取られてしまうから困る。
見つけた瞬間ハッと息を呑んでつい目で追ってしまうのだ。
分かりやすい条件反射にこそばゆさが体を痒くさせる。
それが別人だと気付くと、途端に虚しくなって空笑いするのだった。

「桃園……?」

だが、その時は違った。
別人ではない、桃園本人がそこにいた。
互いに糸で引き合うように近づく。
しかし彼はひとりでなく――、

「あら、あなたは」

その逞しい腕には母親の手が巻きついていた。
先に気付いた彼女が弓枝を見て大きな瞳を瞬かせる。
若々しい格好の母親と、洒落たシャツの桃園は端から見れば恋人同士のようだった。
それが弓枝の心を内側から壊していく。
細かい霧のように、微かな焦燥が辺りに漂った。

「どうしたん? こんな夜遅くまで。もしかして塾?」

すると、絶句していた弓枝より先に桃園が声をかけてきた。
遅れてどうにか弓枝が頷く。
内心、気付かなければ良かったと後悔した。
顔を背け、知らん振りを決め込めば、案外何ごともなく二人は擦れ違っていたかもしれない。
なぜ彼の名前が口をついたのか自己嫌悪してしまった。

「あ……じゃあ、オレ、こっちだから」

道端での会話は三分にも満たなかった。
弓枝はそそくさと逃げるように頭を下げて会話を終わらせたからだ。
居心地悪そうに二人の横を過ぎようとする。
見ていたくなかった。
母子がいまどき腕を組んで歩くのだろうか。
しかも年の近い継母とである。
もし弓枝が事前に彼女を母親として知っていなければ、確実に恋人と勘違いしていたに違いない。
いつか桃園親子を見たクラスメイトが囃し立てたことがあったが、こんな場面を見てしまえば恋人だと思い込むのも無理なかった。
桃園の腕に絡みつく女の華奢な腕に、弓枝は一瞥すると、声を詰まらせて出かかった言葉を呑みこむ。
雰囲気で伝わる親密さに、神経の束を逆撫でされたような苛立ちが走った。

「じゃ」

決まり悪げに目を泳がせて桃園の前から立ち去る。
つい先ほどまでの上々な気分は急転直下して、体中を嫌な虫が這った。
ドロドロとヘドロのような濁った嫉妬が纏わりついて離れない。
弓枝は抗うように早足で夜の更けた商店街を駆け抜けた。
でないと醜い己に引きずられて、自分が自分でなくなってしまいそうだからだ。

「待ってって!」

それを止めるように腕を引かれた。
ぐっと掴まれ反動に引き戻されると、道の真ん中で立ち止まる。
困惑して振り返ると、驚いた顔の桃園がいた。
立ち去った弓枝を追いかけてきたらしく、少しだけ息が乱れていた。

「……何?」

弓枝の可愛げない態度に、桃園は困りながらも愛情の滲み出る顔で、

「夜道危ないでしょ。送るよ」

と、隣に並ぶ。
そうして当たり前のように車道側を歩く姿とか、足が長いくせに弓枝に合わせる歩調だとか、桃園のいつもと変わらない態度が益々弓枝の機嫌を悪くさせた。
紳士的に振る舞われるほど、卑しい嫌悪が膨らむ。
独りよがりな妬心だからこそ、惨めでいたたまれなかった。
弓枝は桃園を見ようともせず、

「いつもこの時間だし、オレは男だ。お前の母親は女なんだからそっちのほうが危険だろう。戻れよ」
「だーめ」
「なんでだよ」
「あの人より弓枝が大事」

どの口が言っているんだと思った。
出かかった文句を口の先で止める。
憤懣をぶつけようにも自分勝手な気持ちだと分かっているから、無理やり胸の奥に押し込んだ。
やり場のない苛立ちで、頭の芯はチリチリ焼けそうになる。
この時ばかりは、普段から愛想がなくて良かったと思った。
むすっとしていても、内なる怒りには気付かれない。
それでも自ずと吊り上がる目尻に、立ち止まると桃園を見上げた。
彼は憎らしいほど爽やかを気取り、悩ましいほど甘い表情を浮かべている。
それも、弓枝の視線に気付いてこちらを向くと、ようやく目が合ったことに安堵したのか、パッと花を散らせるように笑った。
顔の造りに似つかわしくない無邪気な笑顔だった。
何よりも数回しか見たことがない私服が新鮮で、同じ桃園なのにどこか違って見える。
制服だと大人たちに守られている印象を引きずり、どうしたって幼く見えるが、今は野生に放たれた獣みたいに男らしい雰囲気を放っている。
ラフな格好なのに大人びていて、とても同級生には思えなかった。
シャツから覗く首筋や喉仏に色気を感じたのは、一度寝たせいなのだろうか。
(こんな時に思い出すな)
弓枝はかぶりを振ると、乱れそうになった思考を止めた。
あの夜から、たびたび思い出してしまう。
桃園の真剣な瞳とか、柔らかい唇、筋張った筋肉とか、意外と熱い体、抱き締める腕の強さまで。
これではまるで欲求不満な団地妻ではないか。
浅ましさを胸のうちに隠し、表層では貞操な妻を演じながら、妄想逞しく男の体を欲しがっている。
一昔前のアダルトビデオにありがちなネタに自分を重ね合わせて心底深いため息を漏らした。

「……勝手にすれば」

そっぽを向くと、弓枝は再び歩き出す。
桃園といると心が揺れる。
揺れるなんて優しい表現ではなく、激しく揺さぶられるといったほうが間違いない。
弓枝の左胸がじんじん痺れた。
潮のように荒々しく押し寄せてくるものがある。
体の半身が溶けてなくなりそうだ。
すぐ隣、身を寄せれば触れる距離に桃園がいる。
手を僅かに振れば肘が当たるほどの距離で共に歩いている。
苦しい。
心地悪い。
逃げ出したい。

「家まで送らなくていいんだからな」
「なんでよ。家まで送らせてって」
「だって――」

(母親が家で待っているんだろ?)
やましい嫉妬に弓枝が口ごもると、桃園は、

「いい加減気付いてよ」
「……何が?」
「送るなんてただの口実で、俺は少しでも長く弓枝の傍にいたいんだからね」
「――――っ!」

反応を楽しむように彼は弓枝の顔を覗き込んでいた。
ほんの少し照れくさそうに、頬に含羞の色を滲ませている。

「桃園のアホ」

だから弓枝は唇を尖らせると、子どものような言い返ししか出来なかった。
やっぱり桃園といると心が揺れる、揺さぶられる。
苦しい。
心地悪い。
逃げ出したい。
(なのに、離れたくない)
相反する感情が振り子のように左右へ揺れた。

「うっす。あほっす」

すぐ傍で笑った気配がした。
ただ二人並んで夜道を歩いているだけなのに、特別なことのように思えた。
そうだ。
特別だ。
噎せそうなくらい息苦しくても、近づきたいと想う気持ち。
張り裂けそうな心臓を抱えても、一緒にいたいと欲する気持ち。
他の誰かではこんなに辛くない。
だってその誰かはどうでもいいんだ。
いちいち意識してまともに声さえ出なくなるのは桃園だけなのだ。
肩が触れるだけで、ささやかな気配を感じるだけで、胸がけたたましく鳴り響くのも桃園だけだ。
あげく、ちょっとしたことで、いくら言葉を重ねても言葉にならない焦燥が、頭の中でギリギリと軋みまわる。
弓枝は自分の中にこれほど強く喜怒哀楽の感情が表れるとは思ってもみなかった。
それが恋をすることならば、恋ほど心臓に悪いものはない。
だが、桃園は始めから心臓に悪い男だった。
今さら負担がかかったって、もう手遅れなのだ。

「ね、手を繋いでいい?」
「だめ」
「じゃあキスは?」
「もっとだめ」

桃園は弓枝が拒絶するのを分かっていてねだってくる。
宝石のような蒼い瞳がキラキラと煌いていた。
憎めない態度に眉を顰めるも、桃園は笑って流すと擦り寄ってくる。
鬱陶しいと振り払おうとするが、めげずに身を寄せてくる。

「ちゃんとひとりで歩けよ」
「はいはい」
「聞き流すなって。大体、はいは一回で良いんだよ」

たった数日話さなかっただけなのに、こうして彼と一緒にいるのが凄く久しぶりな気がした。
どうしてこう満たされた気になるのか。
温かい気持ちになれるのか。

「あはは。やっぱ弓枝といる時が一番心地良いな」

桃園も同じことを考えていたようだ。
彼は独り言のような調子で呟くと、照れ隠しに鼻歌を唄い始める。
耳がほんのり赤くなっていた。
(こいつ同じことを思って……)
弓枝はその横顔を盗み見ると、寒さを蹴散らすように体が熱くなる。
瞬間――弓枝は息をするのを忘れた。
ああ、夜で良かった。
暗くて良かった。
寒くて良かった。
鏡で見なくても分かる紅潮した顔に気付かれないで済む。
だが、表情だけは止められなくて、桃園から顔を背けると、幸せが溢れるように口許を緩ませてしまった。
顔の筋肉がだらしなく弛緩しきっている。
人間は感情に素直な生き物だ。
どんなにこらえたところで限界はある。
だから桃園に見えないところで噛み殺しきれなかった笑みを顔面に滾らした。
途端に止めていた息を吸い込むと、肺は冷たい酸素で満ちる。
今の弓枝にはちょうどいいくらいだった。
締まりのない顔をしているのは分かっている。
あと三センチ。
ほんの少し勇気を出して伸ばせば触れられる距離に桃園がいる。
拒絶しておきながら、今度は弓枝自身が触れたくてたまらなくなった。
その腕に、手に、触れたい欲求が弓枝の手を迷わせる。
桃園のほうへ伸ばしかけたと思えば、触れそうになると、慌てて引っ込めるを繰り返す。
人通りのある道端でそんなこと出来るわけがない。
弓枝は自分の気持ちを閉じ込めるように手をポケットへ突っ込むと握り締めた。
(オレってこんな欲深かったっけ)
淡々と当たり障りなく周囲とすごしてきたとは思えない変化に戸惑う。
今の弓枝は煩悩まみれだった。
その情けなさ、気恥ずかしさに苦笑すると、自分をこんな風にした桃園が憎らしくて、ばーかと小突いてやる。

「ひどっ。せっかく乙女心に浸っていたのに!」

桃園は文句を言いながらも、口許を掠めた笑いは隠しきれず頬を緩めた。
つられて弓枝も柔らかく微笑む。
本当は二人で向き合ってたくさん話したいことがあった。
だが、いざその状況になると、隣で笑う桃園が愛しくて切り出すタイミングがなかった。
先延ばしにしたっていいことないのに、今はこの雰囲気に浸っていたい。
話し合うのはテスト明けにしようと逃げる臆病な自分がいた。
きっと一歩踏み込んだ時に拒絶されることを恐れているのだ。
桃園に拒まれることを想像しただけで心が抉られたような気になる。
だから黙って桃園の話に耳を傾けた。
少しでも長く隣に並んでいたかった。
二人はいつもよりゆっくり歩くと、互いを想いながら夜空を仰ぐ。
薄月は絹で包んだように柔らかい光を放ち、静かな町を照らしていた。
冴え冴えとした星も今夜は霞んでいる。
こんなにも家までの距離を短く感じたのは初めてだった。

 

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