2

***

その後、僕はなぜかヤマトと仮面舞踏会に参加することになった。
一張羅の燕尾服を羽織って寄宿舎を抜け出してきた。
とうに門限は過ぎていた。
だが、陛下のご命令で断れなかった。
馬車に揺られて辿り着いたのは、細かな装飾が彫られた劇場。
中は煌びやかな貴族で溢れ、極彩色のドレスは目に刺激的、場内は香水の匂いが充満していた。
まるで南国の果実を思わせるような濃厚な香りに酔いそうになる。
田舎で育った僕には派手な場所は無縁だった。
同じ貴族のくせに心細くて狼狽する。

「どうしよう。僕こういうところに来るの初めてなんだ」
「僕だってそうだ。しかもこんな格好で」

ヤマトは陛下の指示により女性の格好をしていた。
彼はやっぱり噂に訊いていたような人ではなかった。
(あんな素敵な声……忘れられないよ)
僕はいまだに感極まった全身の迸りを抑えられない。
――それはここへ来る数時間前のこと。
僕はヤマトに連れ出されて城へ来ていた。
陛下は鹿狩りに出かけているらしく、閑散とした城の庭は、冬のせいか木は葉を落とし、寂しげに立っていた。
冬に咲く花々と冷気を振りまく噴水は、清らかな静けさを保っていた。
僕はそこでヤマトの歌を聴いてしまった。
唐突に彼が歌いだしたのだ。
僕は絶句する。
その瑞々しく伸びやかな声が、第一声にして僕の心を掻っ攫ったからだ。
歌声の評判について予々訊いていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
感情が昂って指一本動かせなくなる。
胸に迫るものが込みあげてきた時、僕の視界は鮮やかな彩りを取り戻した。
何が陛下を惑わせるだ、悪魔だ淫売だ。
これほど繊細に歌える者が悪魔なら、この世は図々しく卑劣な悪魔しかいなくなる。
ヤマトの歌に対する衝撃は、初めてヴァイオリンの音色を聞いた時と似ていた。
水のように沁み込む音の洪水に、耳が歓喜に震える。
まだ声変わり前の中性的な高音は、ソプラノより格段に品があり澄んで聴こえた。
慌てて楽器を構えた僕は、勢い良くアタック音を出す。
ヤマトが「早くこい」と言っているような気がしたからだ。
僕の音色は高い城壁を跳ね返し、頭の芯にまで心地良く響いてくる。
すると、彼が負けじと声を張り上げた。
そうして二つの異なった音が見事に絡み溶け合う。
二人は目配せをしてタイミングを図った。
そのうち互いの呼吸があってきて、まるで昔からずっと共に演奏してきたと思えるくらい気持ち良くなった。
相手のリズムとか間合いとか、初めてでは中々掴みにくいものが手に取るように分かるんだ。
向こうも僕がどう弾きたいかを察して声を合わせてくれる。
ヤマトの冷めた眼差しに反して、奥底に燻る情熱が声に乗って伝わってきた。
それが僕をさらなる高みへと連れていってくれた。
(ああ、そうだ。音楽って音を楽しむために弾くものなんだ)
忘れていた悦びが迸ってはち切れそうになった。
感情が荒々しく揺さぶられる。
目を閉じるとここが城内ということも忘れる。
この世界には僕とヤマトしか存在しないと思った。
ずっとこの音色に委ねていたい。
僕は全身を粟立たせながら弾いた。
同時に、心の奥に閉じこめていた熱誠が息を吹き返し、共鳴するように溢れ出た。
興奮しすぎて視界が霞む。
足が震える。
それ以上の充実感を噛み締める。
その最中だけは現実を忘れた。
エオゼン様のことも嫌がらせも、自分の中にあった焦りさえも消えた。
残ったのは僕が大切に育んできた音楽への愛情だった。

「その時は陛下に言ってもらう」

するとヤマトの言葉に、僕は現実に引き戻されてしまった。
我に返った僕は、この状況を思い出して落胆する。
隣を見れば豪華なドレスを身に纏ったヤマトが不服そうに腕を組んでいた。
華やかな洋装に似合わぬ彼の仕草はどこまでも男らしい。
二人は仮面舞踏会に来たくせに、雰囲気に溶けこめず柱の影にいた。

「彼が勝手に連れてきたんだ」

ヤマトが僕を気遣ってそう言ってくれているのは分かっていた。
音楽院の生徒は夜間の外出を難く禁じられているからだ。

「そんなこと言えないよ……」

僕は困り果てていた。
ただでさえ今の僕は金とコネの噂で溢れている。
そこへ陛下との関係を誤解されれば、エオゼン様は即、潰しにかかるだろう。
何より、それまで噂止まりだった陛下へのコネが真実味を増せば音楽院にいづらくなる。
噂を流したやつらの思うつぼだ。
僕は宮廷専属入りをしたいわけではない。
だけど、それを目指して日夜練習に励んでいる生徒の前でそんなことは言えなかった。
そこまで無神経ではない。
だから周囲にも自分の家族にさえも夢については伝えていなかった。
(僕だって本当のことを言ってない)
自分自身も嘘で塗り固めている。
周りの目を気にして逃げている。
噂だけが錯綜して辟易としているくせに、自分の気持ちは何ひとつ告げていない。
その事実に眩暈がした。
反吐が出る。
表層だけの綺麗事に思えたからだ。

「どうして?学院長ならば陛下の勝手なご判断に罰を下すことは出来ないはずだよ」

ヤマトは不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
吸い込まれそうな闇の瞳が燦然と輝いている。
そのあどけない表情に決まりが悪くなった。

「そ、そうだけど……」
「それとも何か?他の誰かに知られたらまずいのか?」
「……い、いや……」
「何かあったら力になるよ。嫌なことがあるならなんでも言っていい」

ヤマトが心配してくれている。
こんな風に接してくれる人は家族以外で初めてだった。
ヤマトは最初からそうだった。
そういう人だった。

“「普段通りの言葉遣いでいい。僕も君には敬語を使わないし、使う気もない」”

驚いて何も言えなかったけど、内心凄いと思っていた。
僕はマナーだけは口うるさく躾けられた。
言葉遣いはもちろん仕草とか、女性のエスコートの仕方とか。
立ち方や屈み方なんて細かな立ち振る舞いまで厳しく教え込まれた。
でなきゃ社交場で恥をかくのは自分だったからだ。
だから人前に出る時、つい紳士らしくせねばと気張ってしまう。
そんな僕を見透かすように言ったのが上記の言葉だった。

「僕は何があってもミシェルの味方だよ」
「や、あの……」

嬉しい。
味方なんて、この国に来て初めてだ。
ヤマトはたくさんの初めてをくれる。
それだけで心強くて何でも出来そうな気になる。
ヤマトの励ましに僕は胸がいっぱいになった。
彼は僕を侯爵家の子息とは見ていない。
ただのミシェルとして心配してくれている。
(何よりも僕の演奏を褒めてくれた)
友達になりたい。
もっとヤマトのことを知りたい。
だから僕は口ごもったままそれ以上を言葉にしなかった。
言ってしまいたいことはたくさんある。
今までの辛かったことや苦しかったこと、胸に閉じこめたままドロドロになっていた嫌な心を誰かに聞いてもらいたい。
ヤマトならきっと分かってくれる。
(でも甘えたくないんだ)
友達になりたいからこそ、馴れ合いたくないんだ。
こんなところでエオゼン様のことを悪く言っても現実は変わらない。
清々した気分なんて一瞬で終わり、明日からまた嫌がらせは続くのだ。
人のことを悪く言うのは簡単だけど、だからこそ、その一線を越えたくない。
何よりもせっかくヤマトが一緒にいるんだ。
もっと楽しいことを共有したい。
汚れた僕なんて見せたくなかった。

「あ……それよりっ」

僕はほかにヤマトが喜びそうな話はないかと、賑やかな場内を見回した。
すると目に留まったのは、女性に囲まれたひとりの男性だった。

「誰だ、あれ」

隣で興味なさそうなヤマトの呟きが聞こえる。
彼はあの人を知らないのだ。

「あれはクラリオン大佐だよ。カメリアから戻ってきていたんだ」

僕はそれまでの憂鬱な気分が吹っ飛ぶかのようにクラリオン大佐を見つめた。
それどころか、人違いかと目を擦った。
幻じゃないかと頬を抓った。
だってそうだろう?
まさかこんなところで憧れの人に会えるとは思わない。
そんな奇跡、早々起こるわけがないんだ。
だけど、大佐の姿はいつまでも消えなかった。
あの麗しい横顔、背が高くて軍服がよく似合うすらりとした体型。
軍人なんてゴツくて荒々しい猛者ばかりのように思えるが、彼だけは違う。
そのクラリオン大佐こそがアルドメリア軍を連勝に導いている立役者だ。
あの細身の体はとても剣を振り回しているようには見えないが、誰よりも強く逞しい人。
(ああ、神に感謝したい!)
アルドメリアに来てから散々なことばかりだったが、今は天にも昇るような気持ちだった。
僕は柱の影からじっと見つめる。
見つめるなんてもんじゃない。
血走るような目つきで凝視していた。
出来うる限り瞳に焼き付けて、のちに大切な思い出として閉じこめておきたかったんだ。

「クラリオン大佐っていうのはね」

視線だけはクラリオン大佐に置き、知らないヤマトのために説明してあげた。
――なんて、教えようとしていたのは始めだけで、いつの間にか話は熱を帯びて暑苦しくなってしまった。
クラリオン大佐は靴職人の生まれで爵位は持ってなかった。
騎士団に入った時も一般兵だった。
その後、前国王が崩御し、ユニウス陛下に代わると騎士団はアルドメリア軍になった。
彼は剣だけで数々の功績を積み、目を見張るほどの勢いで昇格していった。

「最年少、最短で大佐まで上り詰めるなんて凄いよね」

大佐にはいくつも伝説があった。
どんな過酷な戦場でも活路を見出したとか、部隊全員が死んでも彼だけは帰ってきたとか、難しい作戦も必ず成功に導いたとか。
昇進後も恐れることなく前線で切り込み、次々と敵兵を倒す姿は、アルドメリア国民だけでなく多くの人が尊敬した。
大佐は勇気の象徴だった。
アルドメリア屈指の英雄として人気が高かった。
僕と兄さんも憧れていたひとりだ。
父さんは立場上、あまり良く思っていたけど子どもは関係ない。
兄弟で遊ぶ時は木の枝を剣の代わりに見立てて、クラリオン大佐ごっこをよくしたものだ。
だから一昨年のカメリア出立式も父さんに内緒で見に来た。
馬に颯爽と跨がった姿を、背伸びして人の間から見た。
みんなクラリオン大佐目当てで、彼が前を通った時の大声援は地を割らんばかりに凄かった。

「でもあれ、どうにかしないと可哀想じゃない?」

ヤマトはあくまで冷静だった。
僕なんて興奮して鼻息荒くなっていたのに、これじゃどっちが年上か分からない。
クラリオン大佐は女性に迫られていた。
この国の英雄なんだから無理もない。
いや、そうじゃなくても大佐は格好良いんだ。
武人とは思えないほど甘い顔立ちは世の女性たちの心を鷲掴みにしていた。
男の僕でも惚れ惚れしてしまう端正な顔は羨ましかった。
なのに彼は肝心の仮面を被っていなかった。
仮面舞踏会で堅苦しい軍服を着ていた大佐は、あまりに無防備だった。
ここの女性たちは理性を脱ぎ捨て獣と化している。
標的になるのは当たり前だ。
まるで狼と子羊
大佐が子羊なんてどんな皮肉だ。
しかし憧れが強すぎて動けなかった。
緊張して背中に大量の汗をかく。
するとヤマトは僕の首根っこを掴み、躊躇いもなく大佐のもとまで行ってしまった。

「大佐、やっと見つけましたわ。もう、わたくしとした約束を忘れてしまったの?」

クラリオン大佐と貴族の娘たちを前に、ヤマトは女らしい可憐な笑みを作った。
甘ったるく媚を含んだ声色は、通常より高く上擦っている。
その割に仕草は男で、有無を言わさずクラリオン大佐の腕に絡んだ女たちの手を引き離すと、自らへ寄せ、逃がさんと言わんばかりに己の腕を絡ませた。

「あちらでシャンパンでも飲みましょう?」
「ちょっ、ちょっとあなたたちどちらの――」

奪われた女たちは猫が逆毛を立てるように噛み付くが、ヤマトはしれっと悪びれもなく言い返す。

「仮面舞踏会で無粋なことをお聞きなさるのね」
「なっ」
「さ、大佐。それより参りましょう。ほほほ」

したたかな微笑を浮かべて僕らを引き連れると、容易く元いた柱まで戻ってきた。
ほんの数秒のことだった。
ヤマトは最後まで表情を変えず、余裕あり気に振る舞っていた。
その度胸に感服する。

「はぁ、良かった」

僕は盛大なため息をもらした。
傍で見ていてハラハラしてしまった。
無事に戻ってくれたことに安堵し、胸を撫で下ろす。
するとヤマトはそれまでの娘らしい仕草から一変して冷ややかに、

「色男なのは結構だが、仮面をつけてきた方が良いでしょう」

と、言い放った。
ヤマトらしい言い方だ。
僕は二人の間に挟まれて狼狽したが、大佐は悪い顔をせず、それどころか、

「いや、君の機転のお陰で助かった。感謝しよう」

そう頭を下げた。
軍人らしい実直な態度に僕はときめく。
ヤマトも意外だったのか、目を瞬かせると、それ以上の皮肉は言おうとしなかった。

「こほん」

すると大佐はわざとらしく咳き込んだ。
僕とヤマトは首を傾げるが、クラリオン大佐は頬を染めて、居心地悪そうに、

「助けて下さったのはありがたいが、年頃の娘が無防備にも男の腕に手を巻きつけてはならぬぞ」
「は?」
「だから少しくっつき過ぎだと言っている」

その言葉にヤマトは一瞬言葉を失うと「ぷっ」と吹き出した。

「ははっ……大佐、嫌だな。僕は男ですよ」
「え……っ、しかし君はどう見ても……」
「その反応は嬉しいんだか悲しいんだか。なぁ、ミシェル」

急に話を振られて僕はビクリと震えた。
彼の屈託なく笑う顔に目を奪われていたからだ。
(そんな顔も出来るんじゃないか)
ヤマトとは今日会ったばかりでお互いのことは何も知らない。
だが、雰囲気だけでヤマトは他人と違う気がした。
その違いを説明するのは難しいけど、人より影が濃いのは見て取れた。
あどけなさを残した顔立ちに反して独特の怜悧とした表情は、触れてはならない何かを物語っている。
しかし確証はなかったから口に出さないでいた。
その彼が、あんな風におかしそうに笑うと思ってなかった。

「や、だってヤマトは凄く綺麗だし」
(それに強くて賢くて……僕には持っていないものをたくさん持っている)
「それ褒めてないよ」
「ごめん」
「本当に、もう……。音楽バカと軍人バカは……」

ヤマトは呆れたようにため息を吐くが、それでも穏やかな雰囲気は変わらなかった。
人を寄せ付けないオーラが薄くなっている。
クラリオン大佐もヤマトを一目置いているのが何となく分かった。
楽しそうに話す二人。
どこからみてもお似合いのカップルに、自分が邪魔なのではないかと思った。
どうしたって大佐が傍にいると緊張して思考が働かなくなる。
ぎこちない態度で目を泳がせ、直視出来なくなる。
そんな弱い自分が二人に入っていけるわけもなく、僕は黙って彼らの会話を訊いていた。
居心地悪そうに辺りに視線をずらせば、賑やかな会場にけたたましい音楽が鳴り、フロアでは鮮やかなドレスを身に包んだ淑女が紳士と踊り狂っている。
どこを見ても楽しそうで、急に孤独を感じていたたまれなくなった。
元々こういう場所は苦手だった。
城での行事も気乗りしなかった。
服装も言葉遣いも気にせず、兄さんたちと野山を駆けているほうが楽しかった。
(帰りたい)
そう思ってからどこへ?と自問するが、答えはついぞ見つからなかった。

「ヤマト何をしている」

その時、鋭い声がクラリオン大佐とヤマトの間に割って入った。
僕は表情を強ばらせる
そこにはユニウス陛下がいたのだ。
しかも口をへの字に曲げて、仮面を付けていても不機嫌さが窺える。
彼はなぜか大佐を睨みつけて不愉快そうに鼻を鳴らした。

「君の友人か?」

大佐は、陛下だと気付かずヤマトに問いかける。
まさか女装した少年の知り合いに国王陛下がいらっしゃるとは思わないだろう。
こうもうるさくては声も判別出来ない。
そうして戸惑っている大佐を尻目に、陛下はヤマトの腕を乱暴に掴むと、大佐の腕に絡んであった手を離し、

「ちょっとおいで」
「はっ……っ、なぜっ……」
「いいから」

無理やり引っ張っていってしまった。
僕と大佐は急なことで引き止めの声すらあげられず見送る。
その間にヤマトと陛下は人ごみの中へ消えていってしまった。
(大丈夫かな)
ずいぶん陛下が怒っていたが、何かあったのだろうか。
アルドメリアの国王といえば賢く落ち着いた印象があったから面食らってしまった。
今さらながらヤマトを追いかけようかと思案するが、あの様子ではそれも憚れるような気がして二の足を踏む。

「……もし、聞き間違いだったらすまない」

すると隣にいた大佐の顔つきが変わっていた。
女たちに言い寄られて困惑していたのが嘘のように精悍な横顔をしている。

「今のは、陛下か」

陛下の部分を小声で聞き取りにくくしたのは周囲への配慮だろう。
(やっぱり気付くよね)
僕は黙って頷いた。

「なぜあの御方がここに!」

するとクラリオン大佐が陛下たちを追おうとした。
彼は軍人である。
こんなところで護衛もつけない陛下に「もしも」の事態を想定するのは当然だ。
だが僕は咄嗟に彼の服を掴んだ。
行っちゃだめだと首を振る。
ここで行かせたらあの二人の空気をぶち壊しにしてしまう気がしたのだ。
(……なんて言いながら本当は)
僕自身がもう少し大佐の傍にいたかった。
行って欲しくなかった。
なんて自分勝手なのだろう。
相手は国王陛下だ。
緊急時のことを考えれば大佐が追いかけるのは仕方がないことである。
僕ひとりのわがままなんてゴミのようなものだ。

次のページ