8

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両親と弓枝、桃園、冬木の話し合いが始まった。
まずは両親が昨夜何も言わずに家を抜け出した弓枝を散々責め、その後、予想通り桃園たちにも非難の声が飛び火した。
皮肉めいた嫌味は、直接的でないのに罵声を浴びせられるより胸糞悪く、実の親ながらうんざりする。
中には言いがかりに近いような難癖まであった。
桃園と冬木を下に見て嘲笑っていることが遠まわしながらありありと伝わる。
想定内の事態とはいえ、やはり弓枝には堪えた。
親に友人を悪く言われるのは辛い。
しかし桃園はお得意の作り物めいた表情で彼女の発言を適当に受け流していた。
何を言われても口許に微笑を湛え「ええ、そうでしょうね」と肯定し、深く頷く。
その人の良さそうな顔と別に、冷笑に似た奇妙な笑みが唇の端に浮かんでいるのは彼らしかった。
桃園はどうやって両親を丸め込むか機会を窺っている。
決して動じず、決して本心を見せず態度を崩さない。
肚の底が濁る。
にこやかな目尻の奥にある瞳は鋭いままで、両親が息継ぎする瞬間を狙っているようだ。
人が責め続けるには限界がある。
怒りは膨大なエネルギーを必要とし、自らの口で発散させると満足するため、自然と勢いは弱まり徐々に大人しくなっていく。
それは両親といえども例外ではなかった。
始めは彼らが優勢だったのに対し、その勢いに翳りが見えてくると、桃園はようやく反撃の狼煙をあげた。

「お叱りはよく分かりました。お二人がどれほど教育熱心に浩人君を育て、将来に期待していたのかも理解したつもりです」
「なら私たちが言いたいことも分かるわね。もう今から大学受験は始まっているの。むしろ遅いくらいよ。部活に気を取られているとすぐに入試はやってくるわ。あなたたちには関係ないかもしれないけど、浩人にはとても大切な時期なの」
「だから僕たちは邪魔するな――と仰りたいのですね」
「いえ、違うのよ。親が口出しするようなことじゃないと思っているけど、あなたたちの目指しているところと、浩人が目指している場所は少し違うの。だからそれを理解してもらうとね」
「母さん……はっきり言いなよ。遠まわしのほうがいやらしいよ」
「浩人は黙っていなさい」

弓枝が横から口出しすると矢のように鋭い言葉が飛んできた。
釣りあがった目できつく睨まれる。
無言の圧力だった。
今までの弓枝なら気力が失せて黙り込んだだろう。
苛立ちより諦めが勝れば抗う気は起きなくなる。
だが今日の彼は負けじと屈せず立ち上がった。
腹に据えかねた怒りを滲ませ反論しようとする。
――が、隣にいた桃園に手で制された。
彼は黙って首を振る。
だから弓枝は眉間に皺を寄せながら居心地悪そうに座りなおした。
場の空気が濁る。
明らかに雰囲気が悪くなり、嫌な静けさで窒息しそうになった。
腰掛けた弓枝は俯いたまま膝の上の手で拳を作る。
すると隣にいた桃園が口を開いた。

「……お二人は、いつもそうして浩人君の言葉を遮ってきたのですね……」

ぽとりと落ちた雫が波紋を広げるような柔い響きだった。
弓枝はその声に反応して桃園の様子を窺う。
その横顔は微かな憤りを表していた。
表情には変わりない。
だが胸のうちに溜まっていた彼の怒りに触れて弓枝の心も揺れた。

「今までお訊きした話は、どれもご両親の希望ではないですか。その中に浩人君の意志や望みは入っていなかったように思いますがいかがですか?」
「この子はまだ子どもだ。道を示してあげるのも親の務めだろう。不躾で悪いが、君のご両親は何をやっているんだ?」

母親の隣にいた父親は、探るというより検閲するとでもいうような癖のある目つきで桃園を見返した。
ゆっくりとした目の動きが、やけに不気味に映る。

「父は建築家です。母は僕が十一になる少し前に亡くなりました。現在は同じ建築士の後妻を迎え、二人で世界中飛び回っています。今は揃ってドバイにいますよ」
「ほう、すごいね」

それまで驕慢に満ちた瞳で見ていた父親が、言葉とは裏腹に悔しそうに目元を険しくさせた。
見くびっていたようで決まり悪げに目を伏せた。
対するに弓枝はまじまじと桃園を見上げる。
(桃園の母親は亡くなっていたのか)
後妻がいるとしか訊いていなかったからまごついた。
こんな場所で言わせてしまったことに気を病む。

「両親は関係ないとは言いません。僕らは確かにまだ子どもで、親の庇護なしには生きられません。だけど浩人君の人生を邪魔する権利もあなた方にはないはずですよ」
「邪魔って……!」
「いつまで子どもにしがみ付いているつもりですか。就職するまで? 結婚するまで? 子どもが出来るまで? そうして結婚相手まで見つけるつもりですか。孫の教育にまで口を挟むつもりですか」
「も、桃園」
「子は親なしでは生きられない。それを付け入る隙にして自らの望み通りに育てたって自己満足にしかなりませんよ」

桃園は哀れむような嘲るような光をその目に漲らせると、それまでの大人しさが嘘のように差し迫った。
言葉を切れ味の良い刃物のように振り回す。
抑えた口調に反して的確に痛いところを突き追い詰めようとする。

「赤の他人であるあなたには関係ないでしょ!」

指摘が正論であればあるほど母親は顔を赤くして怒った。
それまでの様子と一変して食ってかかるとけんか腰の言い合いになっていく。

「お母さんも関係ないでしょ。家族といえど浩人君と別人格であることに違いないんだから」
「お母さんなんて呼ばないでちょうだい!」
「ああ、おばさんのほうがいいですか?」
「――っ!」

鼻息荒くなる母親に対して桃園は好戦的で、

「じゃあおばさん、そろそろ息子は自分の玩具じゃないことに気付かないと恥ずかしいんじゃない?」
「人の家庭に首を突っ込むなんて親の顔が見てみたいわね」
「ネットで検索すれば出てきますよ」
「あ、あなたって人は……!」

何を言われても即座に言い返し飄々としてみせる。
余裕綽々と顎をしゃくり、半ば楽しむような、半ば憎むような濃い眼差しで両親二人を見据えた。
一触即発のまま膠着状態に陥る。
テーブルを挟んで睨み合いになるが両者とも負けなかった。
室内は空気を呼んだように静まり返り車の往来さえなかった。
気まずさが辺りを支配している。
エアコンの動作音が止まると、鼓膜を圧迫させるような無音で息が詰まる。
唾を飲み込む音さえ気になって躊躇した。
弓枝は俯いたまま目だけ桃園へ向ける。
(どういう状況なんだ)
今日三人揃って家へ戻ってきたのは台本の制作を両親に許可させるためだ。
まさかこんなにも緊迫した雰囲気になるとは思っていなかった。
しかも押しているのは桃園である。
普段散々爽やかを気取っている男とは思えないほどふてぶてしい態度だった。
ついさっきまでにこやかな笑みで「大丈夫、任せてよ」と胸を叩いた姿が嘘のようだ。
感情的になって怒りを露にさせるなんて初めてである。

「今まで浩人が反抗的な態度を取るなんてことはなかったわ。どうやら全て桃園君のせいみたいね」
「今まで浩人君が友人らしい友人も作らず、退屈そうな目で世界を見ていたのはおじさんとおばさんのせいですよ」

互いに一歩も引かない。
負けん気の強さは互角のようだ。
もはや手遅れか。
弓枝はどうやって仲介しようか頭を痛める。
余計ねじれては元も子もないのだ。
万事休すだと眉を顰めて考え込む。
そんな状況の中、ずっと黙っていた男が急に雄叫びをあげた。

「だぁああああああ」

冬木だ。
置物のように黙って両親と桃園の言い合いを訊いていた彼が痺れをきたしたように立ち上がると、

「悪役になってどーすんだっ、バカヤロー!」

左隣にいた桃園の後頭部をスリッパでスパーンと叩いた。
あまりにいきなりで弓枝とその親は目を見開いたまま固まる。

「桃園!」
「ハイ」
「お前のかーちゃんデベソって言っちゃだめだと先生に教わっただろ!」
「ごめんなさい」

冬木は小さい子を叱るように指を立てて「めっ!」と怒った。
それに対して桃園はなぜか素直に謝っている。
(つーか桃園はデベソなんて言ってないと思うが)
独特の言い回しは冬木らしいが、相変わらず分かりにくくて難しい。
両親に至っては呆気に取られたようにポカンとしていた。
慣れない人間には難易度が高すぎる。
弓枝も黙って視線を冬木へ向けていた。

「それから、おっちゃんおばちゃん」

すると次に彼は弓枝の両親へと振り返った。
怒りの矛先が移ったようだ。

「あんたたちも変だ!」

彼は我慢ならないといった仕草でかぶりを振り、

「俺の親父は中小企業のサラリーマンで給料もあんま良くないし、馬鹿みたいにヘラヘラ笑ってて難しいことを考えるの苦手だけど、友達の親が何やってようが気にしない!」
「冬木……」
「お袋はクリーニング屋でパートしてて、料理も掃除も下手くそだけど、いつも楽しそうで俺が何をしても優しく笑っていてくれる!」
「………………」
「俺には二人の妹がいて、時折喧嘩するけどめちゃくちゃ可愛くて目の中に入れても全然痛くない!」

バンッとテーブルを叩き前のめりになった冬木は、目を凝らすように両親を見つめた。

「何が言いたいのかね」

弓枝の父親は訝しそうに問いかける。
呆れた面持ちで冬木を睨むが、すぐに怯んだように視線を誤魔化した。
その気持ちはよく分かる。
いつだって冬木の眼差しは真っ直ぐで、後ろめたいことがあれば息苦しくて目を合わせていられないからだ。

「悲しい」

すると、冬木はそれまでの勢いを萎ませるように泣きそうな顔で、弓枝と両親を交互に見た。

「俺は大好きな人が寂しそうだったり辛そうにしてたら嫌だ! ちょっとでもいいから笑って欲しいし、そのためには何か出来ないか考える! 俺、頭悪いけどそれくらいなら分かる!」
「………………」
「だから弓枝にこんな顔させたくない。いつも弓枝は我慢した顔でじっと見てる。いっぱい気持ちを持て余して抱え込んでる」
「冬木、オレはっ……」
「どんな家族だって一緒だ。俺んちも、桃園んちも、弓枝んちだってそうだろ? 困ってたら助けたい。塞ぎこんでいたら励ましてあげたい。望みがあるなら訊いてあげたい!」
「っぅ」
「おっちゃんとおばちゃんは、弓枝が笑った顔を最後にいつ見たんだ?」

冬木の問いに対して両親は答えられなかった。
淀みのない言葉は胸の奥へ突き刺さる。
少しの装いもない素直な思いには母親でさえ切り返せなかった。
それぞれが思い迷ったように押し黙る。
問いに対する答えを探しているようにも見えた。
(そういえば、オレ、最後に家で笑ったのはいつだったっけ)
もはや記憶にすら残っていない過去を振り返る。
同時に両親の笑った顔すら思い出せなくて心がひりついた。
擦れ違ってきた家族の形が浮き彫りになる。
崩壊の足音はすでに聞こえていた。
だけど自分さえ我慢すればそれでいいと見ない振りをしてきた。
両親だけじゃない、弓枝だって同罪なのだ。
今ここで冬木に指摘されて、やりきれない負い目が頭をもたげる。
苦々しさと心に薄荷のような後味が残った。
自分を守るためだけに両親と距離を置いてきたことを見透かされた気がしたからだ。
(――いや、まだだ)
ここでケジメをつけなくては、何もかもが終わる。
今この状況は物語でいうところの分岐点なのだ。
逃げるな。
怯むな。
面倒だと避けていた現実に直面して、目を逸らしたい気持ちを堪える。
と、膝の上に置いていた手に温もりが走った。
振り返ると隣にいた桃園が弓枝の手を握っていた。
桃園は憂いを持った目の中に訳ありそうな微笑を含ませている。
まるで全てが計算通りとでも言いそうな顔だった。
なるほど、最終兵器とはこのことか。
確かに冬木には誰も勝てない。
彼の口は真実しか告げないからだ。
理解した上で両親を挑発するように煽ったというのか。
(くそっ、妙に引っかかる)
桃園のことだ。
見え透いた嘘は言わない代わりに本心も吐露しない。
今彼が何を考えているのか分からない自分が嫌だった。
といってここで桃園の追求をしていても始まらない。
せっかくの取り繕いが無駄になるからだ。
弓枝は口に出さず、疑問符を頭の中でとどめる。
彼の優しさは己を悪役に仕立てても構わないという強さと狡さにあった。
代わりに彼の手を握り潰すくらい強く握ってやった。
その痛みに桃園は顔を歪ませると驚きで目を剥く。
(あとで覚えてろよ)
弓枝は横目で桃園を睨むと口に出さず唇の動きだけで伝えた。
それを読み取ったのか、桃園は結んだままの唇に微かな笑いを浮かばせる。
了承するように二三度頷くと肩の力を緩めた。
同時に熱くなっていた時よりだいぶ穏やかな眼差しになる。
それが弓枝の背中を押してくれた。

「父さん、母さん。オレの望みは今度の文化祭でやる演劇部の台本を作ることなんだ」

吹っ切れたような顔で両親を見つめた。
もう何振り構っていられないからだ。
まるで透明な、自分が空っぽになったような澄んだ気分で見据え、

「絶対に成績も落とさないし真面目に勉強もする。だから文章を書く時間を少しでいいから与えて欲しい」
「浩人……」
「お願いします」

立ち上がると毅然としたまま頭を下げた。
好きな男を悪者にするくらいなら、頭を下げて懇願することくらい容易かった。

「お願いします」

すると桃園も同じように頭を下げた。
続いて冬木も深々と頭を下げる。
三人揃っての嘆願に、両親は互いに顔を見合わせてため息を吐いた。
しばしの沈黙。
円やかな休日の昼間は延々と続く静けさで満ちている。
その中で遠くから聞こえてくる無神経な移動販売車の呼びかけが、近づくに従い大きくなると、のんびり家の前を過ぎ、室内はまたもとの静寂へ戻る。
父親は二度目のため息を吐いた。

「顔をあげなさい」

三人は恐る恐る顔をあげる。
母親は諦めたように視線を遠くへ這わせ、父親は腕を組み神妙な面持ちでこう切り出してきた。

「とりあえずお前の気持ちは分かった」
「父さん」
「その……なんだ。今回は自分の思ったとおりにやってみなさい」
「それって」

弓枝は目を見開くと、父親は、

「中間も近いんだろう。お前が両立できるとは思えないが、まぁ、ものは試しだ。頑張りなさい」

その言葉に三人は顔を見合わせた。
まさか両親から許可が出るとは思わず目を瞬かせる。
それは桃園も冬木も同じで、驚きと喜びに包まれた顔で弓枝を見た。

「やった…………っ!」

柄にもなく素直に喜びを露にした弓枝は二人に抱きつく。
両親が目の前にいるのも忘れて無邪気にはしゃいでしまった。
それまでの緊張から解放されたのも相俟ってめいっぱいに破顔する。
桃園と冬木も目を輝かせて声を弾ませた。
始めはどうなるかと思った話し合いだが、まさかの逆転勝利に気持ちは舞い上がる。
そうして三人は肩を抱き合っていつまでも喜びを分かち合うのだった。

***

その日の夜、怒涛の一日にクタクタになってベッドへ入った。
すっからかんだった本棚は元の状態に戻っている。
台本も手元へ返ってきて机の上に置かれていた。
昨夜の絶望は霧のように消えて、心地良い疲れが全身へ伝わり、緩やかな眠りがすぐそこまでやってきている。
たった一日の間に出来事が起こり過ぎて、この部屋のベランダから飛び出したのは遠い過去のようだ。
眠い目を擦りながらベランダへ続く窓を見やる。
電気の消えた室内に外の明かりが僅かに射し込んでいた。
カーテンを揺らす風は冷たく肌の上を滑っていく。
桃園の自宅へ行ったこと、そこで彼の母親に会ったこと、そして抱き合ったこと。
全部が現実だと思うと、急に恥ずかしくなって枕を二度叩いた。
今日はずっと一緒にいた。
こうして現在は離れていることが嘘のように、共に食事をして風呂に入って眠りについた。
(桃園は今どうしてる?)
何を考えてる?
彼を思うと胸の奥がきゅうと軋んだ。
味わったことのない寂しさが滲む。
弓枝はおもむろに携帯を取り出すとアドレス帳から桃園の名前を探した。

【繋がってるのか?】

たった一言のメールを苦心しながら送ると、すぐに返事はやってきた。

【繋がってるよ】

一文にたくさんの気持ちがこもっていて思わず携帯を抱きしめる。
ただの機械なのに温もりを感じた。
(繋がってる)
携帯ごときなんかじゃない。
見えない糸で二人はちゃんと繋がっている。
まるですぐそばに桃園がいるような気がした。
これだけのやりとりが幸せなんて今時の小学生ですらいないだろう。
だが弓枝には慕情が雲のようにふわふわと湧き起こっていた。
体の芯がぼんやり光るよう甘美に疼く。
そのこそばゆさに口許を緩ませながら満たされたまま目を閉じるのだった。

END・後編へ続く