7

「オレがここに来たのはお前の化けの皮を剥がすためだよ」

まるで勇敢な剣士のように精悍な顔つきで振り向いた。
桃園もつられたようにこちらを向く。
目が合った。
その間を清冽な空気が流れ込むように風が吹き抜ける。
瞬きを忘れた。
互いにこの時を待っていたように、言葉は噤んだ。
一メートルの距離が遠くも近くも感じる。
桃園の表情を確認した弓枝は原稿を屋上に置いた。
次にブレザーを脱ぐと、風で飛ばないよう原稿の上にそっと置く。

「弓枝……?」

さすがの桃園も不審そうに探るような目で弓枝を凝視した。
その間に弓枝は襟元まで締めていたネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外し始める。
手際の良さには、微塵の躊躇も感じられない。

「ちょ、ちょっと何して」

狼狽した桃園が近づいてこようとしたのを、弓枝は視線だけで止めた。
凄むような瞳に、一瞬無機質な鈍い光が射し込む。

「……昨日の続き」
「続きって」
「もっと酷いことが出来るんだろ。だったら今、それをしてみろよ」

その言葉と同時にワイシャツを脱ぎ捨てた。
華奢な体が青空に溶けるよう晒される。
首が細く、なで肩の後ろ姿は、妙齢の美人画として描かれそうなほど色気だっていた。
そう見えるのは桃園の欲目なのか。
昼間の陽射しは強くて、ランニングシャツ一枚になっても寒くなかった。
この時期、日向と日陰では全然温度が違う。
何にも遮るものがない屋上では、じっとしていたら汗ばむくらいの陽気だった。

「いいよ。オレはお前なら何をされても構わない」

そうしてシャツに手をかけたところで、その手をぐっと掴まれる。
見上げるとすぐ隣に桃園がいた。
何ともいえない複雑な表情で弓枝を見下ろしていた。
弓枝は無理にでも振り払おうとするが、掴む手は強くてビクともしない。
首筋に桃園の吐息がかかってくすぐったかった。

「やめてよ」

消えそうなくらい小さな囁きが耳に入る。

「俺が弓枝に酷いことなんか出来ないって分かってて言ってるでしょ」

桃園は辛そうに目を細めて縋りついた。
弓枝は首だけ振り返ると、

「だって桃園言ってたもんな。オレをめちゃくちゃ甘やかせたいって。たしかオレと一緒に堕ちてくれるんだよな」
「ああ……っ、今、ここでソレ言う? 恥ずかしいでしょーが。勘弁してよ」
「ばーか。今言わないでいつ言うんだよ」

片方の手を桃園に掴まれた手の上に重ねる。
彼はそれに息を呑んだ。

「優しくしたい、甘やかせたいなんていうのは結構だが、その割にお前に振り回されっぱなしなんだけど」

皮肉交じりに呟く。
桃園の抱えている矛盾。
確かに彼は、申し分ないほど良い恋人である。
言葉通り優しいし甘えを許してくれる。
人の機微に敏感で気遣いに長け、何度も助けられてきた。
愛情は切々と感じている。
弓枝にはもったいないくらい理想の彼氏だ。
だけど、そうやって密に接しながら、彼はいつも一歩後ろに下がっているように見えた。
まるで膿んだ傷口を隠すために甘い言葉を吐いているとさえ思った。
何をその胸に秘めているのだろう。
ずっと気になっていた。
安易に触れないほうが桃園のためだと、弓枝は知らぬ振りをしていた。
誰だって触られたくないことはある。
曝け出せない事情はある。
恋人になったから、好きだからといって、その領域にむやみに押し入り、踏み荒らすようなマネはしたくなかった。
愛情の押し売りはごめんである。
愛があるから何でも許されると信じているのはただの馬鹿だ。
それはもはや相手のためではない。
己を――己の好奇心を満たす行為でしかないからだ。
特に桃園はそういった易い感情を毛嫌いする節があった。
彼らなら簡単に見抜く。
だから弓枝はこらえた。
抱えている闇ごと受け入れ、いつか彼の口から語られることを待っていた。
でも待つだけではだめなのだ。

「昨日、オレが顔色窺ってるって言ったよな。当たり前だろ。だって桃園が好きなんだ」

擦れ違い。
冬木の言うように桃園と弓枝は擦れ違っている。
たぶん、どちらも相手のことを強く想っている。
想っているからこそ、互いを慮りぶつかろうとしないのだ。
しかしそれではいつまで経っても向き合えない。
想ってる――なんて、心の中だけでは伝わらないし、口に出しても気休めにしかならない。
本当に想っているならば、例えそのあとどうなろうと触れなくちゃいけない禁忌もあるのだ。

「分かってんのか。桃園は初めて出来た恋人なんだぞ。ついでに腹立つがお前が初恋なんだ。気にしないほうがおかしいだろうが」

弓枝は恥ずかしさをこらえて開き直った。
相手の腹を割らせるには、まず自分が全てを見せなくては、信頼を得られない。

「一度セックスしただけで、それからは触れようとしなくなっただろ? 気付かないと思ってんのか。あんな四六時中べたべたされてたのに、急にそっけなくなったら気にするなっていうほうが無理だろ。ただの友達みたいになって不安に思うのはしょうがないだろ。お前は以前よりモテて告白だってされまくってるし」
「……………」
「だいたい冬木の件だって、お前が張り合おうとするからオレだって気にするんじゃん。しかも現れるタイミングはいつも悪いし、ホント、何なのお前……」

嫌われても構わない。
自分の気持ちをぶつけてやるんだ。
それまで人との係わり合いを極力避けて、淡々と過ごしてきたのに、今さら他人のことでこんなに熱くなるなんて馬鹿みたいだ。
でもすまし顔はもうやめた。
聞き分けの良い子を演じるのもやめた。
弓枝には勢いがあった。
桃園への想いが彼を突き動かしていたのだ。

「何隠してんのか知らないけど、頼りにされてないのもむかつく」
「ごめん。それはっ」
「だけどな……一番腹立つのは、こんだけ不安にさせられてんのに、やっぱり桃園が好きってことなんだよ!」
「……っ……!」
「オレだって、「それじゃあバイバイ」で終われたら楽なんだよ。だけどお前が気になって気になってどうしようもないんだよ! こんな気持ち、簡単に消えるわけないだろうが!」
「弓枝……」
「くそっ、平穏なオレの日常を返せよ。ばかやろー」

顔から火が出そうだ。
鏡を見なくても顔面真っ赤なのは理解している。
桃園はすぐ傍でそれを見ている。
まさに惚れた弱みだ。
そうだ。
好きなんだ。
惚れてしまったのは仕方がない。
たとえ相手が天下の詐欺師でもこの世の極悪人でも構わないんだ。
気持ちはとっくに走り出している。
人を好きになるっていうのはそういうことなんだ。

「ぷははははははっ! ずいぶん男前なジュリエットだ」

桃園はそれまでの静けさを打ち破るように吹き出した。
その声は抜けるような青さで澄み渡った空に響き渡る。
河原を走っていた人が驚いて数人振り返ったほどの馬鹿笑いだった。
ここまで明け透けに笑う姿は珍しい。
桃園は笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭った。
そんなに笑うことかと、弓枝は口をへの字に曲げて、

「ロミオが何を考えているか分かんないからぶつかる他なかったんだろうが」

恨み言のように呟く。
すると桃園は柔らかく微笑んで、彼の額に唇を落とした。
あまりに自然で咄嗟の出来事だったから弓枝は反応に遅れた。
我に返った彼はまごつく。
口付けられたところが異様に熱いなんて中学生か。

「ん、そうだね。俺もぶつかるのが怖くて逃げてたかもね」

桃園は弓枝の腰を包むように抱き寄せ、反対の手で屋上の柵を掴んだ。
憂いを漂わせる瞳に、わけありそうな微笑を含ませる。

「かなり長い話になっちゃうけど、訊いてもらえるかな?」

それはまるで自分の言葉をひとつひとつ確認するようなゆっくりとした口調で、

「俺の話。色々、取り留めないことばかりで、上手く話せるか分からないけど」

甘えるように弓枝の肩口に寄りかかる。
金色の髪が肩をサラサラと撫でた。

「弓枝に訊いて欲しいんだ」
「馬鹿。訊くに決まってんだろうが。何のためにこんな格好をしたと思ってるんだ」

弓枝は己の貧弱な体を忌々しそうに見下ろしながら息巻いた。
それを頷く桃園はいつもと様子が違う。
自慢の作り笑いも影を潜め、触れていないと霧のように霞んでしまいそうだった。
弓枝は余計な言葉を慎むと彼の言葉に耳を傾ける。
すると桃園は静かに語り始めた。

***

「俺んちって別に変でもなんでもなく、普通のどこにでもある家庭だったんだよね」

他の家族と違うのは、母親に持病があることと、父親が建築士として独立し、事務所を構えてほとんど家にいなかったことくらいだった。
特に母は体も弱く、妊娠、出産がそもそも厳しかったようで、桃園が物心ついた時にはすでに入退院を繰り返していた。
それでも家にいる時の彼女は、他の母親同様に育児と家事をこなし弱々しいイメージはなかった。

そんな時、ひょんなことから隣のアパートに住む雛子と出会ったのが、桃園家の運命を変えた。
ある日、買い物を終えた母親は自宅近くで貧血を起こし、道端で蹲っていたところを通りかかった雛子が声をかけてくれた。

「大丈夫ですか?」

雛子は落ち着くまで母の傍に寄り添い、どうにか歩けるまで回復したあとも肩を貸して、家まで送り届けてくれた。
その縁がきっかけで雛子と桃園家は付き合いを始める。
彼女が大学で建築を学んでいるというのも親近感を抱かせた。
以後、母が雛子を夕飯に招待したり、雛子が実家から送られてきた果物や野菜をおそそ分けしたりして親交を深めていった。
親元を離れ、大学へ通うために一人暮らしをしている雛子を母はたいそう可愛がった。
また、雛子も母によく懐き、頻繁に桃園家を訪れるようになった。
雛子は人懐っこく無邪気な性格で、彼女が家にいるだけで花が咲いたようにその場が明るくなった。
当時、桃園は九才。
彼は母が具合悪い時は代わりに家事をしていたが、雛子と出会ってからは彼女が一緒に手伝ってくれるようになった。

「うーん。気付いたら好きって思ってたなぁ。憧れっていうか……淡い初恋ってやつ?」

始まりなんてなかった。
ただ雛子の明るさに救われていた。
桃園は次第に雛子へ想いを寄せていくようになるが、年上の彼女に相手してもらえるはずがないと、己の気持ちを胸に閉じ込めていた。
そのころ、独立して間もなかった父の建築事務所が軌道に乗り始め、人手が足りなくなっていた。
元気な時は母が経理など事務をしていたが、ひとりでは賄えきれなくなっていたのだ。
すると、母はいいことを思いついた。
雛子だ。
建築の勉強をしている彼女ならうってつけの仕事だった。
彼女は早速雛子に夫の事務所を手伝ってもらえないかと頼んだ。
雛子としても建築士になりたいと思っていた手前、建築事務所でバイトが出来るのは美味しい話だった。
双方にメリットがあるということで、話はすぐにまとまり、彼女は父の事務所で働き始めた。
そのせいで雛子が桃園家に顔を出す機会がぐんと減っていった。
大学にアルバイトもあれば時間が足りないに決まっている。
久しぶりに顔を出せば父の話ばかりで、桃園は内心不満に思っていた。
彼は父親を良く思っていなかった。
桃園の父親は次々にやってくる依頼に朝も夜もなく働いていた。
彼は彼なりに生活を安定させよう、建築家として名を馳せようと必死だったのかもしれない。
事務所で寝起きも当たり前になり、食事はいつも母と二人になった。

「あんなやつ……帰ってこなくたっていい」
「祐一郎、そんなことを言ったらダメでしょう。お父さんが働いているお陰で、こうしてご飯を食べて、遊びにも行けるのよ」
「だって全然帰ってこないじゃん。友達は旅行へ連れて行ってもらったり、遊んだりしてもらってるのに」

桃園は羨ましかった。
クラスメイトから訊かされる家族旅行の話や、揃って食事へ出かけた話など、聞くに堪えなかった。
最後に家族で出かけたのは数年前になる。
母が体調良くて父が家にいて――という条件が揃うのは難しくて、家族で旅行へ出かけたのはたったの一度しかなかった。

「ん、まぁ、あと嫉妬もあるよね。雛子さんを取られたって子ども心に思っててさ」

それまで雛子と買い物へ出かけたり、夕飯を作っていたのに、アルバイトを始めたせいで雛子は来られなくなり、桃園家はまた静かになってしまった。
たまにやってくる彼女が父のすごさを話すたび、彼は父親を疎ましく思った。
だが、この時はまだ良かった。
それからしばらくして、母親が定期検診の結果、ふたたび入院することになってしまい状況は一変した。
母は慣れたもので入院に何の不安も見せなかった。
父も検査結果は訊きにきたが、桃園に対して「心配するな」とだけ言い、事務所へ戻って行った。

同じころ父は、海外の歴史ある国立図書館を改装するという巨大プロジェクトのコンペに追われていたのだった。
母は自分が足を引っ張るまいと、彼に仕事を優先させた。
故に父は病室へ滅多に現れなかった。
必要な買い出しや洗濯は全部桃園と近くに住む叔母がやった。
独特の消毒液の匂いと、他の患者のうめき声の中、ひとり寂しく俯く母の横顔は、いまだによく覚えている。
影で看護師たちが、

「こんな状態の奥さんと息子さんを放っておくなんて酷い旦那さんね」

と、口々に話していたのを何度か訊いた。
桃園も同意見だった。
どうして支えてやらないのか。
どうして放ったらかしにするのか。
本当に父は母を大切に思っているのか疑問ですらあった。
(もし俺だったら、大事な人にこんな顔させやしないのに)
だが肝心の母は、父のことしか頭になかった。
だから余計に歯がゆかった。
桃園と話す時も父のことばかりだった。

「仕事上手くいっているかしら」
「体を壊さなきゃいいのだけれど」

自分の心配より父親の心配ばかりしている母が嫌だった。
点滴の痕が痛々しい腕を見るたびに、やるせない気持ちになった。
なにより桃園だって心配されたかった。
叔母が手伝ってくれているとはいえ、ほとんどの世話を彼がしている。
家と学校と病院の往復で、友達と遊ぶ暇もない生活をしていた。
それでも文句ひとつ零さず頑張っても母は自分を見てくれない。
たまに見舞いにやってくる雛子と父の近況について盛り上がっている。
(あんなやつ大嫌いだ)
やせ細っていく母を見ながら彼は苛立ちを募らせていった。
それでも彼女の口から出るのは父のことばかりだった。
もどかしい。
桃園は母を支えてやりたかったのに、自分では不足なのである。
その不足分を埋められるのは嫌いな父以外おらず、またその父は顔を出そうとしない。
まともに連絡すらとれず、いつも雛子に伝言を頼んだ。
お願いだから、もう少し母さんの側にいてよ。
父に頼みごとなんて嫌でたまらなかったが、母が元気になるのならそれで良かった。
だけど返事は決まって、

「あと少しだから。あともう少しだから待ちなさい」

桃園は仕方がなく待ち続けた。
日増しに母の病状は悪くなっていったが、その間も懸命に母を励まし、父の分まで支えようと思った。

「はぁ、お父さんに会いたい」

体調が悪くなると、普段は弱気を見せない母が息を吐くように掠れた声で同じことを呟いた。
桃園では彼女の寂しさは埋められなかった。
賢い彼は自ずとそれを理解し、道化のように振る舞った。
余計な心配はさせないよう父への文句も、生活の大変さも表には出さなかった。
入院生活は一年にも渡ったが、それでも待ち人は病室に現れることはなかった。
そんな父にとうとう罰が当たった。
母が死んだのだ。
入院当初はそこまで深刻ではないと言われていたのに、ある日容態が急変してあっさりと彼女は逝った。
桃園は学校で授業を受けていた時だった。
二人が病室へやってきた時には、看護師の手によって体を清められていた。
死んだ母の顔を見て桃園はショックを受けた。
昨夜の顔と全然違ったからだ。
たった一晩のうちに、母の体は骨と皮だけのようにやせ細り、艶やかな赤味を差していた頬は、削いだように肉が落ちてやつれていた。
黒ずんだ目元の皮膚に、重い瞼は二度と開かれない。
これが死なんだと思った。
同じ肉体でも魂が宿っているのと宿っていないのでは、こんなにも差があるのか。
生と死の境界線が見えた気がした。
母の死後、父は憔悴しきっていた。
あれだけ必死になっていた図書館の仕事すら手に付かないほど酷い落ち込みようだった。
「あともう少し」と言っておきながら母をないがしろにして、ひとりで死なせてしまったことを後悔しているのだと思った。
母方の親戚は憤った。
世話を桃園と叔母に任せっきりで見舞いにすらやってこなかったことを知っていたからだ。
こんな父親には任せておけないと、桃園を祖母が引き取る話も出たが、そうすると今度は父方の親戚が黙ってなく、睨み合いのすえ、桃園は自ら父のもとに残ると希望した。

 

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