17

***

「あとはクラリオン大佐がご存知の通りです」

窓の外が白み始める中で、僕と大佐は見つめ合ったまま息を漏らした。
話し始めたのは夜中だったが、一晩中喋り続けた結果、夜が明けてしまったようだ。
いつの間に迎えていた堯闇に、黒一色で塗りつぶされていた窓からの景色が一変している。
遠くに見えるのは森か。
あれが噂の魔の森だというのか。
広大な叢林地帯は人を簡単に惑わせ、呑み込むように出口を塞ぐと言われている。
しかし今は怖くなんかなかった。
むしろヤマトがいると思えば、速く行きたくてウズウズした。
すると東の空に冴え冴えとした陽が顔を出したようだ。
豊かな光に目を細める。
ランプの明かりは必要とせず、僕はふぅっと吹き消した。
引き潮のような静けさは朝独特の清々しさで、朝焼けの赤みがかっていく空を仰ぎ、長い話に区切りをつける。

「君とエオゼン様の間にそんなことがあったのか」
「今まで言えなくてすみません」
「いや、むしろその志は素晴らしいと思う」

向かいに座っていた大佐が僕の隣に移動した。
腰を抱き寄せた大佐は慈しむように微笑む。
気を許した時の表情だ。

「いつだったか言っただろう。君を尊敬していると」
「あっ、そういえば……」
「そういうところだよ」
「え?」
「弱音を吐いてしまえば楽になれるのに、ミシェルはいつだって強くあろうとする。その姿がとても気高くて美しいと思っていた」
「気高いなんて、そんな」
「ま、恋人としては、もう少し頼ってくれると嬉しいのだが……」

そっと手を握られたかと思えば、指先に口付けられた。
久しぶりの感触に、心は薄波を立たせる。
瞬間、乙女のような恥じらいを覚えて、左胸がドクドクと鼓動を速めた。
とうに結ばれた仲だというのに目も合わせられず俯く。
まるで初めて二人で帰った夜のような反応だった。

「どうした?」

その様子を窺おうと大佐が顔を覗き込んでくる。
縮まった距離に、さらに照れくさくなって、

「や…だって、数ヶ月ぶりに会ったら…やっぱり大佐はすごく格好良いから」

体の芯がツンと突き刺すような緊張に当てられて甘美に疼いた。
息をするように恋しさが募る。
アバンタイで別れてから、会えないのが当たり前だったから、そういった想いは胸の奥に閉じこめていた。
一人前の演奏家として舞台に立つまでは、甘えないようにと手紙も出さなかった。
甘えん坊は卒業である。
そうして長い遠征から帰ってくると、陛下に帰国の挨拶をするため城へ来ていた。
アルドメリア音楽団は見事な成功を収め、どの劇場も超満員だった。
僕たちは手応えを掴み、音楽を世界へ広められると意気揚々で凱旋したのだ。
それが城へ着くと、かつてないほど物々しい雰囲気になっていた。
衛兵も家臣も、侍女たちさえもピリピリして、よそよそしい態度だった。
何より気になったのは、挨拶へ伺った陛下が思いつめたような表情で玉座から動かなかったことだ。
まるで人形のように生気がなく、団員たちは顔を見合わせる。
城にはヤマトの姿がなかった。
彼の存在だけが消えていた。
それが関係しているのかと、不審に思いながら団員たちと音楽院へ戻ろうとしていたところで、待ち伏せしていた大佐に腕を引かれて、気付けばこの馬車に乗っていた。
旅から帰って落ち着く間もなく再び旅に出たのである。

「……で、でもまさかヤマトが攫われちゃうなんて。大丈夫でしょうか」

いまだ顔を上げられず、視線を迷わせながらまごつく。

「俺の兵がずっと見張りをしていたから命に別状はない。今、ヤマト殿の身はシリウス様の城にある。案ずるな」
「あ、う」
「それより早く俺を見ろ」

大佐の手が僕の頬を滑ると、上を向くように促した。
大きな温かい手に、こんな状況にも関わらずうっとりしてしまう。

「で、でも大佐が、まさかカメリアと王都を行ったり来たりしていたなんて知りませんでした」
「クラウス様はこうなることを予期していらっしゃった。貴族の中には過激な人間がいくらでもいる。俺の部隊は貴族の監視、情報収集などの隠密活動に加えて、ヤマト殿の警護を任されていた。だが、俺は顔が割れすぎているのでな。カメリアと行き来しながら指揮していたのだ」
「このことを陛下は……?」
「当然知っている。それでも我々を泳がせていた。何より俺は陛下側の秘密部隊とも接触している。――が、それでもこんなに早くヤマト殿に危害が加えられると思っていなかったようだ」
「なぜ……?」

僕がそう言って顔をあげると、大佐は「捕まえた」と、両頬を包み込んで固定させた。

「ちょ、クラリオン大佐っ、今…話し中で……!」
「ようやく君が俺を見たんだ。この機を逃すほど愚かな男ではないぞ」
「た、っ…んっぅ」

唇に柔らかな感触が伝わった。
小鳥のような口づけは、なんて淡く優しげで心地良いのだろう。
思わず反論も引っ込んでしまう。
すると大佐は膝の上に僕を乗せた。

「重いですよ!こんなっ」

その恥ずかしい体勢に慌てふためくが、彼はまったく気にも留めず、

「本当は不安なくせに、少しは俺を頼れ」
「……っ……」
「これからヤマト殿を迎えに行く。ミシェルは久しぶりに会うのだろう?君の性格からして心配でたまらないんじゃないのか」
「ど、どうしてそれを……?」

すると大佐が僕を胸に抱いて微笑んだ。
目尻に優しい襞をたたみ、柔らかく見つめる眼差しの虜となる。
なんて愛しそうな表情をするのだろうと息を呑んだ。
朝日の射し込む馬車の中で、眩しいくらい綺麗な瞳が輝いている。

「平気なフリをする君も、強がる君もずいぶん見慣れたからね」
「す、すみません」
「だが俺は、甘えてくるミシェルが一番好きだ」
「――――!」
「いつまでも可愛がっていたくなる」
「た、大佐……」

僕らは糸で引き合うかのようにキスをした。
すぐ間近に好きな人がいる幸せを噛み締める。

「んっ、ぅ」

大佐は僕の首筋に吸い付きながら上着のボタンを外していった。
城への報告に行っていたため燕尾服を着ている。
靴は以前フィデリオがくれたものだった。

「ちょっ、くぅ…んっ」

腰に手を回されて身動き取れないまま身悶える。
すると彼は、はだけたシャツから金のペンダントを取り出した。
馬車に揺られながらそのペンダントに口付ける。

「俺は約束通りミシェルのもとへ帰ってきた。生憎待っていたのは君でなくて俺だったがな」
「ひゃ、大佐……っ」
「会えないでいた数ヶ月間、ずっとミシェルのことを想っていた。恋しくてたまらなかったぞ」
「ん、んふぅっ」

大佐の手が後頭部に回ると、強引に口付けられた。
唇の間を割って入ってくる彼の舌に、翻弄されるがまま蹂躙されてしまう。
ぺちゃくちゃとまるで犬のようなキスだった。
大佐に求められて体が火照る。
遠征中は目の前のことに必死だった。
でも僕だって男だ。
ふとした瞬間に好きな人のことを思い浮かべてしまうのは当然だ。
今ごろ戦っているのだろうか。
怪我していないだろうか。
戦場へ送り出すのに慣れないとドリスさんが言っていたが、不安の種は尽きない。
今こうして伸ばせば触れられる場所にいるのは奇跡のようだ。

「ん、僕も……っ、ちゅ…はぁ、恋しかったです……」
「はぁっ…もっと君の気持ちが訊きたい。俺に訊かせてくれ」
「不安になった時は、んんっ…大佐のことを考えていました。ん、はぁ…そうすると頑張ろうって力が漲ってくるんです」

吐息の触れる距離で囁き合う。
合間にキスをしていると唇と唇に糸が引いた。
大佐はぺろりとそれを舐めて不敵に笑う。
その色っぽい眼光に胸を鷲掴みにされると、たまらず僕からキスをしてしまった。

「ん、んぅっ……んっ……!」

いつだって大佐は僕の憧れであり、導いてくれる人だ。
もっと深く繋がりたい、交わりたくて彼の頭に手を回す。
二人ともきっちり髪を整えていたのに、口づけの激しさに比例するように乱れていった。
途中まで睦言を呟き合っていたのだが、口づけに夢中になると、言葉は言葉にならないまま消えていった。
互いに目の縁をぽっと赤くさせてキスに酔いしれる。
抱いた体は僅かな隙間もなく重なっていた。
大佐の匂いや感触が僕を魅了する。
心が蕩けて昂揚する。
あとから考えれば、どれだけ大胆な格好でキスをしていたのか悶絶したくなったが、その時は何も考えられなかった。
離れていた間の愛情が一気に押し寄せて暴走している。
大佐も同じ気持ちのようだ。
言葉にしなくても伝わる想いに、益々体は昂って自重出来なくなる。
大佐の瞳に映った僕は酷く淫らでいやらしい顔をしていた。

***

それからしばらくして僕らはシリウス様の城へ辿り着いた。
鬱蒼と生い茂った森の中に、完璧な城が鎮座していた。
だが、漆黒の外装は何とも不吉で長く正視に堪えない。
背筋にひんやりとした汗が流れた。
神経が凝結したような気味悪さが肩にのしかかる。
槍のように突き出た塔からは、今にも魔王が降りてきそうだ。
耳を塞ぎたくなるような鈍い音をさせながら城門が開くと、そこから玄関まで悪魔の像がびっしりと並んでいる。
その生々しい表情は生きていると見間違うほどで、陽が昇ってから城へ着いて良かったと心底思った。
夕暮れ、もしくは夜にこの像を見たら失神する自信がある。
それでも心細さは変わらず、隣にいた大佐の腕に引っ付いた。
まるで雷に怯えて縮こまる子犬みたいに震えていた。
そんな情けない僕に、大佐はくっくっと笑いを噛み殺しながら頭を撫でてくれた。

「では、ここで待っていろ」

城の玄関前で馬車が止まると、大佐は降りていった。
僕はひりつく緊張にそわそわと落ち着かない素振りでその時を待つ。
(もうすぐヤマトと会える)
始めになんて言おうか。
やぁ、久しぶり――では、軽すぎだろうか。
それとも、朝だからおはようがいいのだろうか。
挨拶なんて些細なことなのに、頭の中で堂々巡りをしながらひとり思案に暮れる。
僕は逸る胸に手を置いて深呼吸をした。
それでも気持ちは急かされるばかりで、自然と浅くなる呼吸に汗が滲む。
思いは胸いっぱいに膨らんではち切れそうになっていた。
むしろ僕の拙い言葉でどれくらい伝えられるだろうと不安になる。
その時――、

「おお、久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「大佐こそ。無事に帰国されて良かったです」

ヤマトと大佐の声が耳に入ってきた。
その瞬間、血の気が引くような緊張で体内が満たされ、僕は膝をガクガク震わせた。
喉が締まって唾さえ呑み込めなくなる。

「話は全てクラウス様から聞いている。早く王都へ戻ろう」
「はい!」

短い二人のやり取りに聞き耳を立てていると、クラリオン大佐は一旦、間を置いて、

「……と、言いたいのだが、その前に会わせたい者がいる」
「え?」

馬車へと近付いてくる足音がした。
いよいよだと目が眩む興奮の中、拳を握る。
まるで手綱を引かれた逸馬のような気分だ。
馬車の扉が開く。
僕は覚悟を決めて腰をあげた。
大佐は僕の手を取ると、転ばないようにと慣れた手つきでエスコートしてくれる。
顔が近づいたところで「大丈夫」と囁いてくれた。
同時に掴んでいた手を強く握られて、僕はちらっと仰ぎ見る。
すると大佐はその視線に気付いて、背中を押すように口角をあげた。
(僕は、いつだって支えられている)
両親にも、兄さんたちにも。
大佐や大佐の家族にも。
クラウス様やエマルド様、そしてヤマト――あげてしまえばキリがないほど、僕はいつも誰かに支えられて生きている。
それはなんて幸せな人生なのだろうか。

「ヤマト、久しぶり」

自然に声が出た。
目の前にはヤマトがいた。
誰かに切られたのか、髪の毛は長さも合わず酷い有様である。
僕の登場がよほど予想外だったのか、その大きな瞳を瞬きもせずに丸くしていた。

「どうして……」

蚊の鳴くような声は、ヤマトが出したとは思えないくらい弱々しかった。
でも驚かなかった。
僕が最後に見たのは、こんな風に弱い君だった。
(あの時、僕はなんて残酷なことをしてしまったのだろう)
もしかしたらヤマトは僕に助けを求めていたのかもしれない。
ほかに言いたいことがあったのかもしれない。
なのに僕は有無を言わさず突き放してしまった。

「ずっと謝りたかったんだ」

正面からヤマトを見据える。
胸のしこりが重さを増した。
ヤマトは顔に影を忍ばせると、首を振って、

「僕は謝られるようなことをしてないよ。むしろ僕の方が――」
「いいから聞いて?」

僕はその言葉を遮ると、ヤマトの前まで来て彼の手を包み込んだ。
(まだ小さな手だ)
すっぽり収まってしまう柔らかな感触に泣きそうになる。
この手に何が出来るのだろうか。
人々が噂する悪魔のような所業が出来るとでもいうのか。
王を誑かし、魔の道に引きずり込むことも厭わないというのか。
いいや、違う。
これは、国を貶めることも、人を傷つけることも出来ない子どもの手のひらだ。
何を怯える?
何を嫌う?
そのか弱さに切なさが込みあげて、声が震えそうになるのをこらえると、

「君の言うとおりだったんだ。僕はどんなに辛くても、自分からは行動を起こせず甘んじて受け入れていた。仕方がないってね」

心のどこかで諦めていた。
人々から遠巻きで見られるのも、噂を立てられるのも、僕だけではどうしようもないから、しょうがないと思っていた。
それが一番楽だった。
そんな弱さを真っ先に見抜いたのがヤマトだった。

「エオゼン様の嫌がらせだって、いつかは分かってくれるって信じて我慢ばかりしてた。何もしようとしてこなかったのは自分なのに、ヤマトに図星を指されて酷いことを言ってしまった。僕はそれをずっと悔やんでいたんだ」
「悔やむ必要なんてないんだよ。僕が勝手にやったんだ。しかも自分のことしか考えていなかった」
「そんなことないよ?」

僕は精一杯の愛情を込めた声色で否定をする。
ヤマトは優しいから全部自分のせいにしようとしている。
でも、僕には僕の気持ちがあって、それがヤマトと同じとは限らない。
それは違っていいんだ。
だって僕と君は違う人間なんだから。

「たとえ目的は自分のためだったとしても、僕は君によって救われた。あのままじゃきっと、いつかは音楽が嫌いになっていたと思う」

決して忘れない。
ヤマトがくれたひとつひとつの大切な気持ち、思い出。
何よりも――、

「たった一度だったけど、ヤマトとのセッションは楽しかった。君の歌声はとても素晴らしかったし、あの時、久しぶりに音楽に触れられた気がしたんだ」
「ミシェル」
「未だに鮮明に思い出す。とても楽しい思い出だったからね」

僕はヤマトの手を両手で握り直した。
想いが伝わるように心をこめて包み込む。
僕も大佐から手のひらの優しさと温もりを教わった。
それを少しでも彼に感じて欲しかった。

「音楽院の改革がヤマトの発案だと知った時、僕はすぐに君に会いに行きたかった。感謝とお詫びをすぐにでもしたかった。だけど結果を残すのが先で、オーケストラの評価が君の評価に繋がればいいと思ってた」

どれだけ会いたくても耐えた。
僕の願いは君の幸せだった。
散々甘やかされて生きてきた僕に、君の苦悩を肩代わりすることは出来ないかもしれない。
共感も理解も出来ないかもしれない。
だけど幸せな人生を歩んできた僕にだからこそ、君の力になれることがあるかもしれない。
支えることが出来るかもしれない。

「………っぅ……」

涙ぐむような愛しさが胸に迫って言葉に詰まった。
溢れ出る敬慕の想いが、波のように打ち寄せては返す。
ヤマトの顔はみるみる歪んでいった。
顎を震わせて泣くまいと堪えている。

「遅くなって本当にごめんね」

あの時――、ヤマトと最後に話した時、どうしても彼を抱きしめたかった。
この世の苦しみから守ってあげたかった。
でも、弱かった僕にはそんなこと出来なかった。
(また震えているんだね)
弱々しく震えるその肩を、今度こそ抱きしめてあげられる。

「今度は僕が君を助ける番だよ」

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