13

「――おっと、感動の対面はそれまでだ」

だがそんな僕らにひとつの剣が突き出される。
いきなりの出来事に驚いて見上げるとそこにはニヤリと笑う公爵が居た。
彼の鋭い眼光が僕を貫く。
そして側に居た二人の兵士がセルジオールの体を羽交い絞めにした。

「セルジオールさんっ」

引き離された僕は必死に彼へと手を伸ばすが届かない。
公爵は僕の体を抱き上げると緩やかな階段を登り始めた。
セルジオールを見ると彼は必死に暴れようとしながらこちらを見ている。

「大丈夫です」
「せ、セルジ――」
「あの御方が必ずあなたを助けにやってきます」

彼はなんとかそれだけ言うと口を押さえられて身動きひとつ出来なくなった。
公爵は僕の首にナイフを付き付けて威嚇する。
それを見ていたクリス達はさすがに手出しできなくなった。
あれだけ騒がしかった広場に静寂が訪れる。
彼らは持っていた剣を放り投げるともう戦わないと意思表示に手を挙げた。

「安心しろ。あの老人どもはお前のすぐ後に処刑してやるから」
「なっ」
「どうせ魔の森にある城の住人だろう」
「!!」
「それなら隣国の交渉手段としても使える。お前には感謝しているよ」
「……っ……」

どうやら全てお見通しだったみたいだ。
結局僕がセルジオールたちを巻き込んでしまった。
それだけが悔やんでも悔やみきれない。
僕が悲しそうに顔を歪ませると公爵は面白そうに笑った。
どこまでも卑しい男である。
先程より随分沈んだ夕陽の影に公爵の顔が重なった。
そろそろ街灯が燈り始める頃である。
嫌な静けさに満ちた広場は波を打ったみたいに静寂に包まれていた。
首に押し当てられた刃の痛みより足の裏の火傷の方が辛い。
火に当てられていた時よりピリピリと刺すような痛み駆け上がった。
それを唇を噛み締める事によってどうにか耐える。

ガタガタガタッガタッ――。
「えっ?」

するとセルジオール達がやってきた道の向こうからまたもや何者かが近付いてきた。
だが今度は馬ではなく馬車であった。
レンガの舗道による独特な音を響かせながら猛スピードで向かってくる。
ずいぶん大きな馬車だが近付けば近付くほど美しい細工が施されている事に気付いた。
ただの馬車とはいえ僕らがよく見かけるような物ではなかった。
それを公爵の男も気付いているのか押し黙ると馬車の方をじっと睨みつける。

「…………」

すると馬車は緩やかな階段の下に止まった。
それに合わせてクリス達が馬車へと向かう。
そして静かに頭を下げた。

ガチャ、ギィー―。

従者が馬車のドアに手を掛けるとゆっくりと開けていく。
その奥から静かに一人の男が現れた。
彼は馬車の段差を降りると舗道の上に立つ。

「旦那……様?」

すると馬車から出てきたのは見間違えるような格好のシリウス様だった。
深々と頭を下げるクリス達の間を表情も変えずに通り過ぎる。
見たこともない程高貴な格好をした彼はゆっくりとこちらに歩を進めた。
白い詰襟に銀色のバックル、赤いマントには美しい刺繍が施されていた。
左の胸元に着けられた十字のブローチが光り輝いている。
まるでどこかの国の王子みたいな麗しい姿に驚いてしまった。
思わず何度も瞬きをしてしまう。
だが彼の纏う雰囲気はいつもと違い声を掛け辛かった。
冷酷に思えるほどの冷えた眼差しにビクリと震えて後は声にならない。
シリウス様が歩く度にマントが風で靡いて揺れていた。
あくまでも無言で近付いてくる彼にさすがの公爵も警戒する。
そうしてシリウス様が僕たちの側まで来た時だ。

「…………」

彼は立ち止まると一瞬だけ僕の方を見る。
だがすぐに視線は公爵へと移った。

「ずいぶん、痛めつけてくれたようだな」

シリウス様の声はあくまで淡々としていた。
その割に妙な威圧感を覚えて黙ったまま彼を見つめる。
ようやく会えたのに声を掛けられないほどシリウス様の表情は冷たいものであった。
(何をする気なのだろう)
今日は自分の剣を肩から下げている。
それどころか片手が鞘に触れていた。

「……返してもらおうか」
「な…っ…」
「それは私のものだ」

シリウス様は間合いを見極めるようににじみ寄る。
彼は僕らの前にやってくるなり不躾に言い放った。
これにはさすがの公爵も腹を立てたのか僕に押し付けていたナイフの刃が震えている。
だがそれに気付いていてもシリウス様は態度を改めなかった。
彼の異様な雰囲気に兵士達が集まってくる。
それに気付いたクリス達も新たな剣を手に取った。
まるで一触即発である。

「貴様があの黒い城の主か」
「…………」
「残念だが我々は元老院の命令によりこうしているのだ」
「…………」
「もしそれに刃向かうのであればそれ相応の罰を下さねばならない」

公爵はそういって一枚の紙を取り出した。
そして元老院からの正式な令状であることを見せ付ける。

「例え隣国の貴族といえども容赦はしない。何せ評議員の妻ですら処刑されているのだ。これは絶対の命令である」

するとその場に公爵の嘲笑う声が響いた。
だから僕の顔色はみるみるうちに悪くなる。
もう謝って済む問題ではなくなってしまった。
しかしどうにかして城の皆を助けなければならない。
何よりシリウス様はやっと城から出てこれたのだ。
それなのにこんな所で死ぬのはあんまりな話である。

「――もう一度言う」
「あぁ?」
「それは私のだ。早く返せ」

だがシリウス様は平然とした顔で突っぱねた。
“それ”とはもちろん僕のことで居た堪れなくなる。
どうにかしてこの危機的状況を打破したいのに突破口が見当たらなかった。
ヘタに動けば首に突きつけられたナイフが刺さってしまう。
その間にシリウス様の機嫌はどんどん悪くなっていった。
眉間に寄せられた皺が何よりの証だろう。

「……お兄様、さすがにそれは不躾ではないでしょうか」

すると緊迫感の漂う広場に穏やかな声が響き渡った。
それと同時に開けられた馬車の奥からもう一人の青年が降りてくる。

「任せろというから任せたんですけど、相変わらずお兄様は外交が苦手ですね」

従者に手を引かれてゆっくりと降りてきたのはシリウス様より若い男性だった。
同じ藍色の髪の毛が風に揺れる。
着ているものはやはり高そうで歩く度に装飾品の音が響いた。
ピンと伸びた背筋に颯爽とこちらに向かってくる姿は見るからに高貴な雰囲気を漂わせている。
新たな使者の登場にはさすがの公爵も後ずさった。
それほど現れた男性は独特の気品を持ち合わせていた。
初対面の僕でも彼が高位な人物だと分かる。
だから尚更公爵は動揺したのだ。

「初めまして。私はアルドメリア王国より参りました、クラウスと申します」
「!――」

するとクラウスと名乗る男性は律儀にもお辞儀をする。
だが彼が名乗った途端に公爵の顔色が変わった事に気付いた。
いつの間にか僕を掴んでいた手も震えている。

「まさか――」
「それからこちらが私の兄であり現在王位第三継承権を持っているシリウスです。どうぞ以後お見知りおきを」
「え?」

だが僕は驚いて声を上げてしまった。
(い、今なんて……)
随分突拍子も無いことを言われた気がして目を丸くする。
すると彼は僕を見て優しげに微笑んだ。

「お、王子……様……」

その慣れない響きに僕は困惑する。
だがシリウス様は無反応で相変わらず公爵を睨んでいた。
唯一反応してくれたクラウス様という方が頷いてくれる。
(まさかシリウス様が隣国の王子?)
だがどうしても実感が湧かなかった。
いつも側に居た身近な人が急に遠くなって眩暈がする。
僕ら平民から見れば貴族だって遠い存在だが王族はやはり別だ。
しかも隣国のアルドメリア王国といえば近隣諸国の中で一番領土が大きく権力を持った国だ。
その中では小さい方に分類する自国など敵うわけがない。

「ば、ばかなっ」

すると僕と同じく困惑している人がここにもいた。
公爵は顔を真っ青にしてシリウス様を見ている。
今にも倒れてしまいそうな程酷い顔色をしていた。

「アルドメリアのシリウス王子は十年前に死んだ筈だ。何を今更馬鹿な事を――」
「いえ残念ながらそれは間違いです。貴方が罰しようとしていた黒い城の住人は皆全て城で働いていた者達です」
「っぅ」
「兵士達には可哀想なことをしてしまいました。何せ彼らは元王立騎士団の優秀な団長だったのですから」

するとクラウス様は素直に頭を下げて詫びた。
さすがに王子から謝られるとこちらとしてはどう反応していいのか判らない。
結局公爵は何も言えずに口を噤んでしまった。

「お兄様」
「ふむ」

するとクラウス様に促されてシリウス様が封書を取り出す。
そして中から一枚の紙を開いた。

「ファン・デ・コルデル公爵に告ぐ」
「…………」
「直ちに魔女裁判及びに非人道的な拷問、刑の執行を中止するように命じる。さもなくば同盟諸国より同盟の決裂を異議なく申し立てることにする」

シリウス様は他にも長々と書面を読み続けた。
そしてこの令状はとっくに元老院や国王にまで通達されている事を言った。

「もうすぐ王都の兵により伝令されるであろう。私達は先回りしてここにやってきた。怪しいと思うのなら確認してみろ」
「……くっ」

だが確認する必要がなかった。
シリウス様の持っていた令状にはアルドメリアの国王のサインが書かれていたのだ。
またさすがに王子二人を目の前にして怪しいなど言える訳がない。
結局公爵は悔しそうに僕の体を離した。
だが足の裏を火傷していた僕は立つことが出来ずにその場に座り込んでしまう。

「ケイトっ」

するとシリウス様がすかさず抱き上げてくれた。
ようやく彼の腕の中に帰ってこれた僕は安堵して力が抜けてしまう。
またそれを見ていた兵士達も剣を下ろすとセルジオールを解放した。

「おい、そこの男」
「…………」

するとさっさとその場から立ち去ろうとしていた公爵をシリウス様が呼び止める。
だから彼は嫌々立ち止まると振り返った。

「国の民はお前達の負債を被る道具ではない。ましてや財産を横取りする為のものでもない」
「…………」
「それから悪魔は誰の心にも居る。無論お前にも私にもだ」
「――!」

公爵は眉間に皺を寄せると顔を歪めながら渋々頭を下げた。
さすがに彼の身分では刃向かうことが出来なかった。
もしくは図星を突かれて何も言い返すことが出来なかったのかもしれない。
結局彼は兵士を連れてさっさと教会に引き上げてしまった。
その哀れな後姿を僕はシリウス様に抱かれて見送る。
残された滑車は広場に置かれたままで、あれだけ燃えていた炎はいつの間にか燃え尽きて黒い墨しか残っていなかった。
広場に来た時は真っ赤だった夕陽もレンガ屋根の向こうへと沈みその姿は拝めない。
反対側にはぽっかりと丸い月が出ていた。
いつの間にか薄暗くなっていて街灯が点されている。
町の人達は兵士に促されてゾロゾロと帰路に着こうとしていた。
変わりに建物に明かりが灯される。

「――ばかもの」

するとシリウス様がぎゅっと僕を抱き締めてくれた。
その顔は悲しそうで見ているだけで切なくなる。
先程までの淡々として無機質な感じはどこかに消えていつの間にかいつものシリウス様に戻っていた。

「……ごめん、なさい」

だから僕は彼の首に手を回すとしがみ付く。
ほんの少しの間しか離れていなかったのに無性に懐かしくて温かかった。
(やっぱりシリウス様だ……)
この感触、この匂い。
全てが僕にとって心地の良いもので顔が緩んでしまう。
だから謝っているのに笑ってしまった。
すると反省が足りないと怒られる。
きっと沢山心配してくれたのだ。
僅かに震えた彼の体がそれを物語る。

「あ…っでも旦那様が……王子様だって……」

すっかり流されて忘れていたがシリウス様は王子だったのだ。
気安く触れていい存在ではない事に気付いて思わず手を離す。
何よりすぐそばに彼の弟であり同じく王族であるクラウス様がいらっしゃったのだ。
だから強引に体を引き離そうとする。
しかしシリウス様の抱く力が強くて離す事が出来なかった。
結局僕は彼の腕の中でもがくだけである。

「ちょっ…あのっ……」
「ふむ、思ったより元気そうだな」
「そ、そうじゃなくて」

するとシリウス様はそのままひょいと僕を抱っこしてしまった。
そしてセルジオールやクラウス様と共に階段を降りていく。
下には馬から降りたクリス達が僕らを待っていた。

「坊ちゃん、よくご無事で」

すると駆け寄ってきたおじさんに頭を撫でられた。
剣を持っていない彼は穏やかでいつもの優しいおじさんであった。
だから僕は頷いて「ありがとう」と笑いかける。
彼らは僕の為にこうして助けに来てくれたのだ。
その気持ちがたまらなく嬉しい。

「本当にありがとう、みんな……」

セルジオールだって僕の為にあんな危険な真似をしたのだ。
彼が助けに入るのが遅ければ今頃僕は燃えカスのまま転がっていたかもしれない。
たった一人の為にそれぞれが最善を尽してくれた。
(僕はなんて恵まれているのだろう)
小さな子供にはこの運命を変える術を持っていなかった。
だがそれを補おうと多くの人が手を差し伸べてくれた。
だから僕は今こうしていられるのだ。

「何を仰います。我々は家族ですから当然の事をしたまでです。それに久しぶりに体を動かすと気持ちいいものですね」
「ふむ、お前らは好き勝手に暴れて楽しそうだったな。だから私も馬で行くと……」
「その割に旦那様はあの公爵を斬ろうとしていたではありませんか」
「当たり前だ。コイツを傷物にされて黙っていられるか」

そう言うと明らかに不機嫌そうな顔でそっぽを向いた。
だから僕は恥ずかしくなって下を向く。
こんな時にどう反応していいのか判らなかった。
僕に触れている彼の手が力を増す。

「でも本当に良かったです。あなたが無事で」
「え?」

すると側に居たクラウス様が僕に笑いかけてくれた。
優しく微笑まれて戸惑う。
(この感じ、どこかで――)
だがどうしても思い出せなかったから何も言い出せなかった。
彼は僅かに含んだ笑みを向けると頭を撫でてくれる。

「……っぅ……」

あと少しで思い出せそうなのに出来なかった。
まるで喉に小骨が詰まったみたいにもどかしい。
だがクラウス様はそれ以上何も言わずに僕の元を離れた。
そしてセルジオールやクリス達に頭を下げると颯爽と馬車に乗り込んでいく。
何やら彼の城は僕らの城より遠いらしくてゆっくり出来ないようだった。
後からセルジオールに聞いた話だが、僕が居なくなった後シリウス様は決死の覚悟で自分を殺そうとした兄である国王に会いに行ったらしい。
そして僕を助けて欲しいと頭を下げたそうだ。
考えてみればそれほど屈辱的な事はあるまい。
争いの最中だったとはいえ恋人の裏切りを嗾けた男である。
また自分から全てを奪った男でもあるのだ。
それからの十年を思えば兄に会うだけでなく頭を下げるというのは並大抵の事ではない。
しかも僕を助けるためなら全ての権利を放棄してもいいとまで言ってくれたそうだ。
その後実際にどんな契約を交わしたのか知らないが十年前の件はシリウス様が折れる事によって和解が進められた。
それによって彼の死亡説も取り消されたのである。
また僕の件は以前から同件を調べていたクラウス様が力になってくれたそうだ。
僕が城に居た頃から近隣諸国と連絡を取り合って彼らに魔女裁判の同意を求めていたらしい。
お蔭でこうして無事に裁判の禁止を言い渡すことが出来たのである。
シリウス様も国王と他国の間に入り約二日間寝ずに走り回っていたと聞いた。
それはもちろん僕を助ける為だが、セルジオール曰く自分が殺した女性達の償いの意味も込められているのでは、と言っていた。
真意は分からないがこれでもう悲惨な目に合う人達が居なくなる。
今現在他の地域で同じように苦しんでいる人達も助けられるのだ。
シリウス様にとっての償いは永遠に終わらないかもしれないが彼のお蔭で多くの命が助かったと信じている。
――もちろん僕も彼によって救われたのだ。

***

「今度は我が城に遊びに来て下さいね」

僕らはクラウス様を見送ろうと馬車の周りに集まっていた。
すっかり夜の帳が下りた町は静けさを取り戻している。
クラウス様は馬車の窓からそういって手を振った。
それに合わせて僕も手を振り返すと従者が手綱を引く。
同時に馬が走り出した。
馬車の車輪がゆっくりと回りだす。
最後までクラウス様は優しそうに笑っていた。
さすが兄弟というだけあってシリウス様とクラウス様は似ている。
だから微笑まれると不覚にもドキッとしてしまった。

「なんだ?お前もクラウスの方が好きか」
「ち、違いますって」

しかしシリウス様にはお見通しだったみたいでからかわれる。
それならまだ素直に焼きもちを妬かれた方が良かった。
だってそれだけシリウス様の余裕を見せ付けられているみたいだからだ。
(僕なんか元恋人にまで嫉妬していたのに)
それが経験の差なのだと思う。

「じゃあお兄様、またお会いしましょう」

僕らは馬車が見えなくなるまで大きく手を振った。
側に居るセルジオールやクリス達はずっと頭を下げている。
それを見て彼が王子であったことを思い出した。
そしてシリウス様自身も同じであることも。

「って、僕っ……」

先程は抱き上げられたせいで会話が終わってしまったが暢気に手を振っている場合ではなかった。
むしろ最低でもちゃんと頭を下げるのが礼儀である。
だが馬車が見えなくなるとセルジオール達は一切気にした様子を見せずに馬に乗った。
五頭しか居なかった為セルジオールがクリスの後ろに乗る。
そしてセルジオールの乗っていた馬にシリウス様と僕が乗った。
そうして七人は黒い城へと帰るのである。

「あ、あの……」

僕とシリウス様はあとからゆっくりと向かっていた。
静かな道に馬の蹄が響く。
クリス達は夕食の準備やらで先に走って行ってしまったのだ。

「どうした?」

魔の森は息を呑むほどの静寂に包まれていて変な感じである。
だが怖いとは思わなかった。
僕を前に乗せたシリウス様は抱きかかえるように手綱を持っている。
だから安心して彼の体に身を預けると鼓動の音を聞いていた。

「あの、その……旦那様は王子様なんですよね」
「まぁ身分だけを言えばそうだな」
「じゃあ僕は……その」

正直どう接していいのか分からなかった。
今更跪いても滑稽に見える。
かといって今まで通り接していいものかと思ってしまう。
それこそ今日までのシリウス様はあの城に引き篭もっていたから僕との生活が許されていたワケで、表に出てきた以上彼が華やかな世界に戻ってしまうのではないかと思っていたのだ。
それは彼にとっては凄く良いことだし素敵な話だと思う。
でも僕は心のどこかで寂しさを感じずには居られなかった。
心の傷が癒えて普通の生活が出来るようになれば他の美しい城に引っ越してしまうかもしれない。
そこには綺麗な女性や可愛らしい人がいるかもしれない。
何のとりえもない僕はこのままじゃこの人の側にいられなくなる。
それを思うと不安でたまらなくなった。
元々無口で肝心な事は中々口に出してくれないから尚更不安は増すだと思う。

「ん」

するとシリウス様は僕の髪にそっと口付けた。

「さっきからどうした?」

そして不思議そうに顔を覗き込んでくる。
だから僕はキッと眉を上げるとシリウス様を見上げた。

「だ、だからっ僕は…そのっ、旦那様が――」

自分からこんな事を聞くのは勇気がいる。
だが最後まで言えずに終わってしまった。
なぜならシリウス様が突然言い途中の僕の顎を持ち上げると強引に唇を塞いでしまったからだ。
あまりに無理な体勢に僕はくぐもった声を出してしまう。
一度強く手綱を引いたせいか馬はその場で止まってしまった。

「んぅ……っ、なに……を?」

唇を離せば不機嫌なシリウス様と目が合う。

「ケイト、お前はなぜさっきから名前で呼ばないのだ」
「え…っ」
「いい加減怒るぞ」

どうやら名称で反応したのかシリウス様はご機嫌斜めだった。
普段ならそんな細かい事を気にするような人ではないのに今日に限っては真剣だった。
(今それも含めて聞こうとしたのに、こんな状況じゃ呼べないよ)
名前を呼べと言われても正直困る。
呼んでしまったらもう後には戻れない気がした。
もしこれから先、シリウス様と別れる日が来た時に素直に喜べなくなってしまう。
(ずっと側に居たい、なんて一番言ってはいけない人なのに)
この国の未来や民を思う時、どうしたって子孫を残さなくてはならないのだ。
それは王族の血を絶やすわけにはいかないのだから。
一介の貴族とはわけが違うのだ。
だから僕はどんな時も笑って送り出さなくてはならない。
好きな人である前に僕にとってシリウス様は命の恩人なのだから。

「ばかもの」
「わっ――」

すると考え込んでいた僕をシリウス様が後ろから抱き締めた。
珍しく強い抱擁に戸惑う。
彼は肩口に顔を埋めてしっかりと逃がさないように僕の体を包み込んでいた。
手綱が離れた馬はその場に止まったまま耳を動かして辺りの様子を伺っている。
静かな森は僕とシリウス様の声しか聞こえなかった。
だいぶ奥まで来たせいか町の明かりも見えない。
唯一僕の抱えていたランプだけが二人を照らしていた。

「お前の事だ。身分やこれからの事を考えて落ち込んでいたのだろう」
「そっそれは……」
「だが生憎私はお前を放さんぞ」
「!!」
「どんなことがあってもお前には側に居てもらう。例えケイト自身が嫌だと言っても絶対に手放さない」

するとシリウス様の手が震えていた。
こんな風に取り乱すとは思わず僕の方が焦ってしまう。

「――お前が居なくなった時、私がどんな気持ちになったか知らないだろう?」
「あ……」
「どれほど辛かったか」
「……っぅ……」
「一刻一刻と命の危機に晒されているお前を思うだけで怖くてたまらなかった」
「…………」
「それは十年前と比べ物にならない程怖かった。お前を失う事がなにより怖かった……」

僕はシリウス様が泣いているのかと思った。
そして抱き締めているのではなく、僕を失う事を恐れてしがみ付いているのだと気づいた。
(シリウス様を傷つけてしまう事は分かっていたはずなのに)

「……っ……」

こんなに深く愛されていたことを知らなかった。
僕はきっと大切に大切に守られていたのだと思う。
それはあの城で暮らし始めた時からずっと――。

「身分の差なんて関係ない。私はケイトを愛している」
「……っしり……うすっ」

僕は我慢できなくてシリウス様の名前を呼んでしまった。
強引に振り返ると彼に抱きついてしまう。
持っていたランプは馬の足元に落ちてしまった。
途端に明かりが消えて暗闇が辺りを包み込む。
だけど僕は触れて居たかった。
シリウス様を感じて居たかった。

「だから私と一緒に暮らして欲しい。いつまでもずっと」
「ひっぅ、…っく」
「あの城で――」

シリウス様は空の彼方を指差した。
その先に聳え立つのは月光に照らされた黒い城だった。
ランプの明かりは消えてしまったけど、代わりに美しい星空が瞬いている。
群青色の空に散りばめられた星達はそれぞれが違う輝きを放っていた。
僕はシリウス様の胸元にもたれながら夢みたいな気持ちに浸る。
彼の言葉に何度も頷いた。
そっとシリウス様を見上げると彼は優しく僕の顔を見つめている。
頬に触れた手は何よりも温かくて心地良い感触がした。
僕は笑いかける。

「――僕もシリウスを愛しています」

こうして少年ケイトと不気味な城の王子シリウスはいつまでも仲良く幸せに暮らしました。
その後シリウス王子は自身の過去を悔い改め、恵まれない人や貧しい人の為に身を尽くしたそうです。
またケイトは彼の側で懸命に働きました。
どんな時もシリウス王子の側で彼を支えたのです。

それから荒れた城の庭には多くの花や果実の木、野菜が植えられました。
それに伴い沢山の虫や鳥達が城にやってくるようになったそうです。
お蔭で四季折々の花たちが見られるようになりました。
それはケイトが夢見た庭。
シリウス王子は嬉しそうな彼を見て自身も喜びに浸りました。

そして一番日の当たる暖かい場所にはそこに眠る多くの女性を弔う慰霊碑が建てられたそうです。

――魔の森の奥にひっそりと佇む世にも恐ろしい黒い城。
大きな黒門を開ければおぞましい悪魔達の歓迎を受けます。
そしてその先に待つのは不気味な大扉。
人々が嫌悪するありとあらゆる虫が彫られた扉が待ち構えています。
さて、あなたは開ける勇気を持っているのでしょうか?

「――ようこそ、ダークキャッスルへ」

END