7

「き…れない」
「え……?」
「お前は斬らないと言った」
「あ……」

すぐ側にある剣を持つ手が震えている。
葛藤を表すには十分であった。
辛そうに顔を歪めて唇を噛み締めている。
(本当は僕を斬りたいのだろう。殺したいのだろう)
シリウス様は紙一重の理性で押し留めている。
僕はその恐ろしさと悲しさに視点が定まらなかった。

「はぁ、はぁ…殺したく…ない」
「だ、だ……だんなさま……」
「だから逃げろ……」
「!!」
「そしてもう二度と近付くな」

彼はそれだけいうと刺した剣をそのままに手から離した。
その手は尋常じゃないほど震えて、奇怪な動きをしている。
まるで右手だけ違う生き物のようだった。
シリウス様は唇を噛み締めると、片方の手でその手を掴み、動けないように封じる。
そして書庫から出て行った。

「あああああああああぁぁぁあぁあ」

出て行った扉の向こうから、人とは思えない叫び声が木霊した。
その声は獣が啼いているようにも聞こえたし、シリウス様自身が泣いているようにも聞こえた。
本当は今すぐ立ち上がって様子を見に行きたかったが、もう体は動かない。
体は本棚にもたれて手足を放り出したまま呆然と座っている事しか出来なかった。
思考が働かない。
それだけじゃなく霞む視界が徐々にぼやける。
いつしか痛みも薄れて音さえ聞こえなくなる。
――最後には何も見えなくなってしまった。

次に気がついたのは見慣れたベッドの上であった。
自分の部屋である。
繰り返し悪夢を見ていたようなおぞましさが纏わりついて、目を開けようとするのも苦痛だった。

「ん……」

ようやく意識が戻ったことに気付くと、起き上がろうとする。
そこにはセルジオールの姿があった。
彼はベッドサイドにじっと立っている。
外はとっくに日が落ちて夜の闇に閉ざされていた。

「よくご無事でいらっしゃいました」

セルジオールはまるで何があったのか全てを知っているような口ぶりであった。
一瞬何があったのかと首を傾げたが、すぐに先程までの出来事がフラッシュバックして血の気が引く。
その様子に彼もまた何かを感じ取った。

「だ、旦那様は?」
「今は四階の寝室にいらっしゃいます。といっても未だに目が覚めていません」
「…………」

途中で意識を失ってしまった為、その後何があったのかは分からない。
だが最後に聞いたのは確実に彼の絶望であった。
断末魔のように苦痛を伴った叫び声が未だに耳の奥に残って気分が悪くなる。
だがそれ以上に知りたかった。
どうしてあんなにも朽ち果てた姿になってしまったのか。
人の形をした獣に成り下がったのか。
これ以上見てみぬ振りをしてあんな思いをするのは嫌だった。

「どうして彼はあんな姿になってしまったのでしょうか」

声が震えているのもお構いなしに問う。
今までなら禁忌だと避けていたが、逃げられないと思った。
否、逃れる術なら沢山あるが逃げたくなかったのだ。
あれだけ恐怖に陥れられても、未だにシリウス様を思う気持ちがある。
それは最後に「斬りたくない」と、言ったからだ。
本当はシリウス様だってあんな状態からは救われたいのである。
無論、彼を救えると思っているわけじゃない。
だが向き合うためにはもっと知る必要があった。

「……あれはもう十年以上前の話になるでしょう」

すると僕の顔を見下ろすセルジオールは、観念したように重い口を開いた。
どこまでも静かな闇の中で、彼のおぞましい過去を知る事になる。

***

――むかしむかし、ある所に優秀な三人の兄弟がおりました。
長男のユニウスは体が弱いが頭が良い。
次男のシリウスは傲慢で乱暴だったが、武術に秀でている。
三男のクラウスは知能も武力も兄二人に敵わなかったが、とても優しい心の持ち主であった。
三人がある程度の年齢になるとあるひとつの“力”を奪い合うようになる。
有利だったのは次男のシリウスで、三男のクラウスにいたっては争うのも嫌な様子だった。
その後、見切りをつけたクラウスは三人の中で真っ先にその力を辞退した。
ここからが凄まじい争いに発展することになる。
二人は兄弟でありながら憎しみあい、どうにかして力を手に入れようとしていた。
冷戦状態のまま、いつまでも平行線を続けたのである。
その均衡が破られたのは翌年の寒い冬の日であった。
シリウスは恋人と共にベッドで眠っていた。
その彼を思いも寄らぬ裏切りが襲う。
なんと、恋人は内緒でユニウスと金で取引をしていたのだ。
尤も、彼女もシリウスの女好きでだらしがないところに愛想を尽かしかけてのことである。
シリウスはあまりに無防備な状態で襲われる結果になった。
信じていた恋人に顔を切られて、片目を失うことになる。
だが片目だけでは済まなかった。
体中を斬られ刺されて、もし執事が異変に気付いて部屋に入ってこなければ、命を落としていたに違いなかった。
執事は瀕死の重傷を負ったシリウスを何とか助けると、信頼する数少ない部下を引き連れてその場から立ち去った。
その後やっとの思いで辿り着いたのは、森の奥深くに眠る廃墟と化した城である。
そこ以外にもう逃げ場はない。
いつまた襲われる恐怖を思えば、その城で暮らさざるを得なかった。
シリウスの体はひどい怪我に熱を出し、何度も生死の間を彷徨った。
ようやく熱が引き、意識を取り戻すと、部下達は愕然とした。
なぜなら彼の精神は朽ち果て廃人となっていたからだ。
昔は悪く言えば傲慢で乱暴だったが、良く言えば豪快で気の良い男であった。
お蔭で男によく好かれて仲間も多かった。
剣の腕前も王立騎士団の団長を打ち負かすほど強く、誰にも負けた事がない豪傑であった。
そんな彼が愛する者の裏切りと怪我によって口を開かなくなってしまう。
毎日視点の定まらない瞳で遠くを見つめるだけであった。
あまりに不憫に思った執事は、少しでも気が晴れるようにと町まで出かけて娼婦を買った。
元々女好きで有名だった為、これで元の彼を取り戻してもらおうと思ったのだ。
しかし翌日シリウスを起こしに行くと、そこでまたもや恐ろしい現場を目撃することになる。
部屋には娼婦の無残な惨殺死体が転がっていた。
隅では膝を抱えて血のついた剣を握り、震えているシリウスがいる。
欲望のままに消えた命の灯火は、あまりに凄惨な状態で目を当てるのも困難であった。
その後何度か同じ事を繰り返すうちに、シリウスはもう人間ではなくなってしまったことを悟る。
だから執事を始めとした住まう者たちは城の外装を黒く塗り、入り口に醜い悪魔像を置くと外との交流を一切遮断した。
威嚇の意味も込めているのである。
間違えて旅人が迷い込めば同じような死が訪れるに違いない。
またシリウス自身をあのような獣に戻したくはなかった。
それならまだ虚空を見つめる廃人で居たほうが人間らしかったのだ。
こうして城の住人は静かにシリウスと暮らそうと思った。
幸い王都に戻らないと約束し、死んだ事にすれば金と食料は援助してくれるという。
それならこの城でも暮らしていける。
もちろん彼の傷が癒えるその時まで、他の犠牲を出さないように監視をする意味も込めて――。

「それから約十年。この城には誰もやってきませんでした」
「…………」
「あなた以外に」

ようやく話し終えるとセルジオールは深く息を吸って顔を覗き込んだ。
どれ程のショックを与えているか、観察しているに違いない。

「ではなぜ僕を入れたのです?」

僕は森に迷い間違えて侵入してしまった旅人である。
一夜泊めてくれるならまだしも、そこで働かせて欲しいというのは、それこそ危険な行為だと知っていたのではないだろうか。
(もしくは僕自身が餌だった?)
警戒する僕を瞬時に悟って、セルジオールは首を横に振って苦笑した。

「私はあなたの正体を知っています。だからあなたをこの城で働かせることにしました」
「えっ――」

それこそ衝撃の一言であった。
僕は一気に顔色を悪くすると、黙り込む。
見る見るうちに体の水分が失われて喉の渇きに襲われた。

「決してケイトさんの命を軽く見たのではありません。言うなればあなたも旦那様と同じ。ここ以外に逃げ場がないでしょう。だから多少の危険を冒してもこの城に居た方が良いと思いました」
「…………」
「私があなたに言った“近付くな”という約束はここに繋がっているのです。あれは旦那様の素性を知られないようにする事であなたの身を案じていたのです」

つまり約束の近付くなと四階への立ち入り禁止は、自分を危険から遠ざける為のものであったのだ。
何も知らずに迷い込んだ羊が、獣に食われてしまわぬようにする為に。

「で、でも僕は旦那様の違った一面を知っています。あんな悪魔のような殺人鬼ではなく未だに人の心を残している事を知っているんですっ」

僕は訴えかけた。
それこそベッドから起き上がって身振り手振り彼の優しさについて述べた。
確かに最初は怖くて同じ空間で息をするのも嫌だった。
でもそれは些細な誤解だと知り、もっとシリウス様を知りたいと思った。
結果、彼はただ不器用なだけで、他の人となんら変わりない事を知った。

「そうですね。確かに独りぼっちで十年以上の時を過ごし、あなたと出逢った事でまた彼は変わったのかもしれません。でも見たでしょう?あの姿を」
「……っぅ……」
「彼を突き動かしているのは恐怖です。ただの恐怖。自分以外の人間に殺意を抱いている。それはいつ何時自分が襲われるか判らないからなのでしょう」
「僕が襲われたのは寝ている所に近付いたから?」
「ええ。寝起きは彼にとって悪夢です。恋人に襲われた当時にフラッシュバックして一番凶暴になっている。だから旦那様は四階にあるご自分の寝室以外では寝る事がなかった」
「じゃあ……?」
「なぜ彼が書庫で寝ていたのか私には判りません。それこそ彼が変わった証なのかもしれない。ですが心の傷は一生癒える事はありません。つまり勝手に体が反応してあなたを襲ってしまったのかもしれない」

確かに腕を斬ったシリウス様は尋常じゃない様子だった。
ずいぶん人から離れてしまったように見えた。

「あなたが生きているのもその証でしょう。もし昔のままであったら今頃私はあなたの惨殺死体の処理を行っていたのかもしれません」
「…………」

セルジオールの言葉に背中をゾッとさせる。
一歩間違えれば僕は殺されていただろう。
あの時一瞬でも死を覚悟したのは、間違いなく彼に純粋な殺意を向けられたからだ。

「僕はどうしたら……」
「それは私が決めることではありません。命が惜しいなら出て行くべき、と言いたい所ですがあなたの事情もあるでしょう」
「…………」

いや、どうしたらいいのか判らないのは、出て行くかどうかの選択ではなかった。
耳の奥に残ったのは、最後に聞いた叫び声である。
自分が救世主であるとは思っていない。

「僕が彼を救いたいなんておこがましい事は思っていないんです。もちろん救えるとも思っていません。ですがこのままいけば彼は間違いなく残忍な殺人鬼に成り下がってしまう」
「ええ、そうでしょうね」

今は城のみんなが外界とシリウス様の間に立って守っている。
だけど彼らもみな年を取り老いているのだ。
この先何かあったら独りぼっちでシリウス様はどうなる?
セルジオールも全く同じ事を思っていたのか、眉間に皺を寄せて深く頷いた。

「今はまだ皆がいるから彼は人間の心を保っていられる。だったら今しかないと思うんです。今ならまだ人間に戻れる」

あれだけの恐怖を味わいながら、未だに秘めた想いを募らせていた。
いや、あの出来事があったからハッキリと自覚した。
僕はシリウス様が好きなのだ。

「……つまりあなたがその役目を負ってくれる、と」

セルジオールは一旦間を空けてボソッと呟いた。
だから僕は素直に頷く。

「でも誤解しないで下さい。僕は誰かの為に旦那様を救いたいんじゃないんです。結局自己満足なんです。僕は旦那様が好きだから……」
「…………」
「でもそれはセルジオールさんや皆も一緒でしょ?だから命の危機から旦那様を救った。そして廃人になった後も世話をし続けた。獣でも殺人鬼でも彼を殺そうとはしなかった」

セルジオール程の人ならいつでもその役目を担うことが出来たはずだ。
むしろ彼は自分が死す時、シリウス様も一緒に連れて行く事にしていたのかもしれない。
それでも最大限に生を全うさせたいと思ったのは、やはり彼に人としての生きる喜びをもう一度味わって欲しかったからだ。

「どうやらあなたは私が思っていたよりずっと強いようです」

セルジオールはクスッと笑った。
いつも穏やかに笑う彼が、吹き出すように笑ったのは初めてのことであった。

「……もうひとつ、話していない彼の過去があります」
「え?」

そういうとベッドに腰掛けた。
包帯が巻かれた腕に手を伸ばすとそっと触れる。
彼は僕の小さな掌を見つめてもう一度笑った。

「兄弟で争っていたと言いました。また旦那様が有利だと言いました。それでも争いが続いたのにはワケがあったのです」
「わけ?」
「それは彼自身、兄や弟が弱い事を判っていたからなんです」
「つまり……」
「ええ、旦那様はそれを知っているから決して武力行使に持ち込まなかった。力で制すれば簡単なのに、泥沼だろうが冷戦状態だろうが議論を続けていたんです。決して兄弟を傷つけることはなかった」
「!」
「また自分を殺そうとした恋人にも手を出すなと言いました」
「…………」
「だからその時思ったんです。この先彼がどうなろうと一生私が守り続けよう、と」

手を見ていたセルジオールは、僅かに目を潤ませると静かに顔を背けた。
少しだけ震えた肩が気持ちを表しているようで、口を噤む。

「本当に不器用な人です。普段は口が悪いし行儀もなっていないし乱暴だし、その地位にいる人間としてはどうしようもない人なのです」
「それでもセルジオールさんは――」
「ええ、私は旦那様が好きです。そしてこの城に住む者はみんな彼を本当の家族のように思っているのです」

セルジオールはポケットからハンカチを取り出すと目元を拭っていた。
話を聞きながら自分の居なかった十年を想像してみる。
どっしりと暗闇の中にうずくまる城に、僅かな使用人と廃人になった城主。
寂しいと思うには廃れすぎた。
どれほどの思いを抱えながら生きてきたのかと考えても壮絶すぎて想像出来ない。
だからこそ得られた絆でもあったのだろう。
彼の言う家族にはずいぶん説得力がある気がした。

「もちろん」

セルジオールは僕の顔を見ずに立ち上がると、部屋の入り口まで行ってしまう。

「今はあなたのことも同じように思っています」
「あ……」
「大切な家族だと」

やはり泣いていたのかセルジオールの目元は赤くなっていた。
それでも気丈な態度は変わらず、ピンと張った背筋が彼らしい。

「あなたが旦那様を助けるのなら、私があなたを守ります」
「え?」
「昨日の夕方、隣国の兵士がやってきました。もちろん、あなたを探しに」
「!!」

その言葉に突然目の前が真っ暗になった気がした。
セルジオールは全ての言葉を呑み込んで心配するなと首を振る。
だがついに自分の命があと僅かになることを知った。
(それならいっそ、シリウス様に捧げた方がいい)
背中が疼いて震える指先を堪えるように握り締める。
気付いた時にはセルジオールは立ち去っていた。
あれだけ暗かった空がいつの間にか明けていたことを知った。

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