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「あ、あーーっと。旦那様って毎日書庫に来ますよね。よほど本が好きなんですか?っていうかここの書庫はいっぱい本がありますよねーっ。あ、どういう本が多いんですか?」

無理やりな話題だった気がしなくもないが、細かい事は無視をした。
本を持ったままシリウス様に引き攣った笑顔を見せる。
セルジオールとの約束は知られたくないと思った。
シリウス様にとっていい話じゃない気がする。
むしろその話題自体がここではタブーな気がして、本人を前にしたらなおのこと避けたかった。

「……………」

勢い余って喋りすぎたせいか、意味なく呼吸を荒げる。
これでは勘ぐってくれと言っているようなものだ。
あれだけ煩かった室内は痛いぐらいの静寂に包まれ、このまま消えたくなる。
シリウス様が黙り込んでしまったのが尚更怖い。
もしかしたら怒ったのかもしれないと思うと目を合わせられず、不自然に泳がせてしまうだけであった。

「……お前、字が読めないのか?」
「え?」

だが彼の反応は違った。
シリウス様が無理やり作った話題に食いつくとは思わなかった。
驚いて逸らしていた視線を戻せば、何を考えているのか判らない顔をしている。
お蔭でこちらが戸惑った。

「どうなんだ」
「あ、えっと……はいっ」

普通に会話が出来ていること自体奇跡に近い。
と、いうと失礼だが本当にそうだ。
何せあれだけ話しかけていた頃は気にも留められなかったのだから。

「…………」

シリウス様は暫く眉間に皺を寄せたまま考え込んでいた。
読み書きが出来ないことを馬鹿にされたことは何度もあるし、いまさらどうとも思わない。
だが彼の異様な反応が気になった。
ファーストコンタクトがあまりに不気味だった為、彼を誤解しているのかもしれない。
そう思ってしまうほど目の前のシリウス様は違った印象を受ける。
僕はもう一度彼の姿をじっと見つめた。
いつものようにボロボロでいかにも安そうな(むしろ使用人より酷い)服を着ているし皮のブーツは年季が入っていることも判る。
黒皮の眼帯を着けている為片目は見えないが蒼い瞳が印象的だ。
彼のように艶やかな藍色の髪の毛は、新鮮で見とれてしまうほど美しい。
最初に彼を人外だと思ったのも、この珍しい風貌が原因かもしれない。

「――なら、教えてやる」
「は?」

するといつまでも続くであろう筈の静寂が途切れた。
自分の世界に入り込んでいた僕は彼の言葉に我に返る。
見上げれば僕を見つめる瞳と目が合った。
思わずでた言葉はあまりに間抜けっぽく響いて居た堪れない。

「なにを?」

むしろ彼から「教える」という単語が出てきた事に驚いて馬鹿な質問をしてしまった。
ずいぶん沈黙が続いた事もあり会話の流れが上手く繋げずに居たのだ。

「せめて本ぐらい読めるように」
「えっ――あ、まさか教えるって……」

いち使用人でしかない僕に文字の読み方を教えてくれるというのだろうか?
あまりの急展開に頭が真っ白になった。
(なんだ?なんだ?なんだ?)
これが普通の主人ならば瞬時に理解出来ることも、シリウス様の口から発せられたとなれば話が違う。
お蔭で頭はパニックを起こしていた。
普通の対応すら難しい相手から教えると言われたら無理もないだろう。

「嫌なら別に――」

すると、あまりの驚きっぷりを拒絶と捉えたのか、彼は身を引くようにポツリと呟いた。

「い、いっ嫌じゃない!!あっ、嫌じゃない…ですっ!」

だから勢い余って身を乗り出すように叫んでしまった。
持っていたハタキを力の限り握り締めて振り回す。
そうしてオーバーなくらい否定すると、途中で自分の声が昂ぶっている事に気付いた。
その取り乱しようが恥ずかしくて、咳き込んで誤魔化す。
先ほどから使用人らしからぬ態度を見せてばかりいる気がした。
そんな自分に呆れているのではないかと恐る恐るシリウス様の顔を見る。

「!!」

するとチラッと見上げた彼の顔は僅かに、ほんの僅かに微笑んでいるような気がした。
否、次に瞬きした後は全く変わらぬ無表情だったから僕の見間違いだったのかもしれない。
しかし怒っている様子ではないと思った。

「あ、でも教えるってことは近付かなくちゃ…」

シリウス様は一定以上近付くと持っている剣で斬り付ける癖がある。
悪い癖というにはずいぶんおかしな話だが実際に経験している人間から見れば笑いごとではない。
今でさえ結構な距離で話していた。
彼に近付いたのは初対面と落とした本を拾った時と昨日の三回だけ。
ありがたいことに実際に斬られそうになったのは最初だけだが彼の間合いに入るのは勇気がいった。
それにセルジオールからも近付くなと言われているし。
だがシリウス様は軽く首を振ると何てことない様に席に座った。

「お前はもう斬らない」
「え?」
「無害だと理解した」
「む、無害って」

まるで害虫かそうでないかの仕分けみたいな会話にどう突っ込んでいいのか判らない。
斬らないと言われて若干喜んでしまった気持ちを返して欲しいと思ったがもちろん口には出さなかった。
(僕だけが特別なわけじゃないよね)
それに対して少しがっかりしている自分がいたが、これでやっと他の皆と同じラインに立てることが嬉しかった。

――その日から仕事の合間にほんの少しだけ勉強する時間を与えられた。
といってもシリウス様の隣に座って彼が本の文字を指で辿りながら読んでくれるという楽しい勉強だった。
普段は言葉数が少ないというのに意外と判りやすく教えてくれる。
だから僕は寝る前にも復習がてら同じ本を読むように心がけた。
お蔭で少しずつ僕は文字が読めるようになった。
また驚いたのはこの書庫にあるのは全てが童話だった事だ。
世界中の童話やお伽話を集めているらしいがあまりに不似合いで笑ってしまった。
よく無表情で読んでいるからてっきり難しい専門書なのかと思っていたのに。
その顔でどんなお伽話を読もうかと考えていたのだと思うと吹き出さずにはいられないだろう。

最初はただ勉強出来る事が嬉しかったがそのうちシリウス様が本を読んでくれることが嬉しくて待ちわびるようになった。
相変わらずのムスッとした顔で「むかしむかしあるところに~」とか「めでたしめでたし」なんて言われたらおかしくてたまらない。
それに童話なんて読めなかったから次々に飛び出す摩訶不思議な世界に夢中になった。
また一番の問題だったセルジオールだがこの件に関しては一切口を出さなかった。
あれだけ近付くなと言っていたから絶対に何か言ってくると思ったが快く了承してくれた。
(シリウス様からの提案だからだろうか?)
と、思ったが実際はよくわからない。
あまり突っ込んだ話をしてまた出て行けと言われたら堪らないため深い話を聞こうと思わなかった。
まさに触らぬ神に祟りなしである。

「そういえばどうして旦那様は僕を無視していたんですか?」
「無視?」
「いっぱい話しかけたのに全然聞いてないしもちろん返事もないし」
「ふむ」

また勉強の途中でシリウス様と色んな話をした。
といっても九割強は僕が喋り彼はほとんど聞き役だった。
ま、以前に比べればずっとマシなのだけれど。

「無視をしていたわけではない」
「えー」
「ただ目に入らなかっただけだ」
「ええーっ!」

するとシリウス様は全く悪気が無いように涼しい顔して呟いた。
(それが無視では……。いや、無視は故意的にすることか。でも普通目の前に居る子供が目に入らないなんてありえるのか)
やっぱり彼の思考回路が理解出来なくて頭を抱えそうになった。
僕の頭が弱いせいかと悩んだ事もあったがどう考えてもシリウス様の方が異常である。

「でも煩いのは判っていたじゃないですか」

僕は若干口を膨らませながらブーブーと不満を口にした。
そして立ち上がると側の暖炉に薪を一本追加する。
今日はいつもより格段と寒いため二階の暖炉がある居間で本を読んでもらっていた。
パチパチと軽やかな音を立てながら燃える火はそこにあるだけで暖かく感じるものである。
外は朝からの雪が降り続いていて止む気配がなかった。
テーブルにはジェミニが淹れてくれた紅茶とお菓子が置いてある。

「ちゃんと聞いていた」
「えぇっ全然そう見えなかったんですけど」
「ただ相槌を打つ間もなく話し続けていたから勝手に喋らせていただけだ」
「そ、それって僕が馬鹿みたいにひとりで喚いていたみたいじゃないですか」
「ふむ。間違いではない」

するとイスの背もたれに体を預けたシリウス様は満足そうに頷いて紅茶に手を伸ばした。
僕は自分が上手く丸め込まれたような気がして面白くない。
シリウス様の発言はなぜか説得力があっていつも負けてしまうのだ。
いや、客観的にみたら彼の方が正しいのかもしれないがそれを素直に認めるのも悔しかった。

「――だが」

するとカップをテーブルに置いた彼は真っ直ぐ射る様に僕を見る。

「お前は文字が読めないというのに幅広い知識を持っている」
「!!」

テーブルに置かれたアンティークランプが僅かに揺らめいた。
片目に灯った焔が蒼い瞳に滲む。
いつもなら背筋が寒くなる顔の影が妙に優しく重なってドキッとした。
だから思わず顔を背ける。

「だ、旦那様はお上手ですね」

いつも厳しい事ばかり言うのに不意打ちのように時折嬉しい言葉を掛けられるからどうしていいか判らなくなる。
シリウス様が何を考えて言っているのか分からないからこそ困惑した。
真に受けていいのか戸惑うがお世辞を言えるような器用さを持ち合わせていないことはよく知っている。
むしろ彼がそんなに軽口を叩く人間であればこんな辺鄙な場所に住んでいないだろう。
もし世の中を上手に渡っていけるようなしたたかさを持っていたら今頃きっと豪華絢爛な城を持ち、多忙な仕事を抱え、多くの女性に囲まれている筈だ。
それをわざわざこんな城で老人や子供と一緒に居るのならそれ相応の理由があるに決まっている。
(でも――綺麗な人だな)
こうやって接するようになってようやくシリウス様の美しさに気付いた。
男の人に対して使う言葉じゃないから絶対に言わないけど心の中でふと思う。
格好はだらしないし乱暴なところがあるけど、どことなく漂う品の良さは他の人と違った。
それは残念な事に僕のような凡人、というか普通の生活では得られないものである。
西の国に伝わる童話を読んでもらった時にその感覚が正しかったことに気付いた。
主人公は没落した貴族の娘。
そして敵役は成り金の娘。
身なりも家もボロボロな貴族の娘だが立ち振る舞いが美しく賢かった為町の人に好かれて王子にも見初められる。
それに比べて成り金の娘は豪華なドレスを着て大きな屋敷に住んでいるのに金に汚く卑しい娘として描かれていた。
分かりやすい対比であり、ありがちな話である。
でもこの貴族の娘がシリウス様に重なって見えた。
言葉では言い表せないがそこはかとなく流れる空気が庶民とは違う。
もっとずっと大きな流れを感じずにはいられない時があったのだ。

「昔から庶民はこういう話にカタルシスを得るもんだ。薄幸な貧乏人が意地悪な金持ちに勝つという、な」

しかしシリウス様は童話を集めているくせにドライというかロマンチックからは程遠い思考の持ち主であった。
悪魔の像をあんなに置いているのに「そんなものは存在するわけがない」とあくまで合理的に考えている。
てっきりあれは彼の趣味でオカルト好きなのかと思っていたが違うことに驚いた。

「あ、そういえばシンデレラも同じようなお伽話ですよね」

貴族の娘ではないが同じような話である。
またこの書庫には色んな国の「灰被り」があった。
いかにも夢があるお伽話から残忍な怖い話まで。
何冊もあるからシリウス様もこの話が好きなのかと思った。
なにせ派生とはいえ同じお伽話が数冊あるのはシンデレラだけだったからである。
だがどうやら違うらしい。
やはりシリウス様の思考は理解できない。
彼はじっと何かを考える素振りをしながらも口を開く事はなかった。
こういう反応の時は深追いしないのが賢明だと知っている。
だから僕はそれ以来シンデレラの話題を出さないようにした。

パチ、パチパチ――。

すると薪の燃える音にふと我に返った。
うっかり考えが飛躍しすぎて関係ないことまで思い出していた。
チラッとシリウス様を見るが相変わらずの調子である。
まだ三分くらいしか経っていないのかそれとも十分くらい過ぎてしまっているのか。
彼は喋らないとき平気で何時間もそのままでいるため時間の感覚が判らなかった。
暖炉の上に置かれた時計を見ればまだそんなに時間が経っていないことを知ってようやく安堵する。

「だからあまり褒めないで下さいね。僕調子に乗っちゃいますから」

僕はそういって軽く笑うと空になった彼のカップに紅茶を注いだ。
ふんわりと広がる甘い香りに薄い湯気がたつ。

「なら調子に乗ればいい」
「えっ?」
「私は本当のことを言ったまでだ」
「な…っ…ぅ……」

(ああもう、この人はっ)
言っている側からそんな風に褒められて動揺してしまった。
言われ慣れていないようなことばかり言われてうっかり胸を押さえてしまいそうになる。
やっぱり使用人にとって主人は特別な存在で、そんな人から褒められたら嬉しいに決まっているのだ。
お蔭で顔から火が出そうなくらい熱い。
幸いランプと暖炉によって顔の赤さは目立たないがどうにかなってしまいそうだ。
一方のシリウス様は何食わぬ顔で茶菓子に手を出しているのだから恨めしい。
ひとり彼の言葉に一喜一憂していることが馬鹿みたいだった。
(恋でもあるまいし)
僕は勝手に疲れてため息を吐くとシリウス様に話の続きをねだった。

――後日、シリウス様と勉強を始めてしばらく経つと城にまた活気が戻ってきた。

「一時はどうなることかと思ったんだけど良かったわ」
「お騒がせしました」

僕はジェミニと洗濯物を洗いながら軽く相槌を打つ。
以前は僕だけが騒がしかったのに対し、今はシリウス様との溝も埋まって上手くやっているせいか城全体が賑やかになっているような気がした。
もちろん、シリウス様は前と変わらず口数が少ないままである。

「勉強は楽しい?」
「はい、お蔭様で。旦那様にも良くして頂いています」
「そりゃあ皆ちゃんと知っているわよ。旦那様に新しい子分が出来たって話になっているわ」
「あはは。子分ですか」

ジェミニの言い方に苦笑する。
子分とはよく言ったもので二人でいるときはいつもそんな感じだった。
むしろシリウス様の後に引っ付く自分は金魚のフンかもしれない。
今までが今までだったからお互いに警戒していたけど打ち解けたあとは懐くのも早かった。
心なしかシリウス様も優しくなったような気がする。
それから僕との勉強を楽しみにしてくれているような気がする。
――なんて、あくまで主観的にそう思っているだけなのだけれど。
というよりそうだったらいいなという願望なのかもしれない。

「それに旦那様も最近はずいぶん明るくなったわ」
「えっ」

すると今まさに勝手にそう思っていたところでジェミニに呟かれて内心ドキリとした。
そのタイミングの良さに考えていたことが見透かされた気がして動揺を隠せない。
思わず樽に入れた洗濯物を豪快にジャブジャブと洗ってしまった。

「え、あ、でも未だに無表情に無口で僕の話なんか聞いてないですよ。何考えているのか判らないし」

そうすると不思議なものでつい否定したくなるのだ。
まるでその後の「そんなことない」の言葉を待っているようで言った後に居心地悪くなる。
本当は嬉しいし事実であって欲しいのに真に受けてあとでがっかりするのが嫌なのかも知れない。
というより僕が天邪鬼なだけだ。

「ふふ」

するとジェミニは目を細めて笑っていた。
その何もかもお見通しとでも言いそうな微笑みに尚更居心地悪くなって萎縮してしまう。
お蔭でそれ以上何も言えず黙々と洗濯するハメになった。
今自分が口を開いても余計に恥ずかしい思いをするだけだと知っていたからだ。

「大丈夫よ。あなたは十分特別だわ」
「え?」
「旦那様にとっても、この城にとっても」

するとその声は妙に熱がこもっていてなぜか胸の奥を貫いた。
思わず顔を上げるとジェミニは相変わらず笑っている。
それなのに薄ら寒く感じるのはなぜだろうか?

「だけどケイト君は屈せずに居られるかしら?」

彼女の口元が裂けるように歪んだ。
冷たい樽の水が手のひらを刺す様に皮膚に入り込む。

「な、何に?」
「それはまだ秘密」

窓から射し込む鈍い残照に彼女の顔が浮かび上がった。
言い知れる不安が体に付きまとい縛りつけようとする。
それが彼女の警告だと知ったのはずっと後のことであった。

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