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弓枝はペンを動かしながら、猛烈な勢いで書き進めると、小さな偶然によってすれ違った恋人の悲しみを味わった。
ロミオとジュリエットは時間差の悲劇とも言われている。
登場人物たちの思惑は、時の悪戯によって、過ちで済まされない悲劇へと落ちていくのだ。
作者のシェイクスピアはそれが人生なのだと皮肉りたいのだろうか。
それとも彼自身も同じように、やるせない思いを味わったのだろうか。
彼が書いたリア王の台詞に、

「私たちが生まれてくる時に泣くのは、こんなアホの舞台に招かれて悲しいからだ」

と、ある。
シェイクスピアは人生を劇場であり舞台、人間は役者だという人生観を持っていた。
似たような意味の台詞が様々な劇で登場する。
アホの舞台に上がり続けることが生きることだとするならば、彼にとって死は何なのだろう。
死こそが安寧と言いたいのか。
だが、役者は皆、華やかな舞台を夢見る。
それが喜劇だろうが悲劇だろうが主役として立つことに憧れ、懸命に明日を生きるのだ。
人間は不思議だ。
自らが泣いて生まれ落ちると、人々に泣かれて世を去る。
シェイクスピアの人生観になぞらえ、死に様がカーテンコールだとするならば、見送る人たちの涙は拍手の代わりなのだろうか。
幸せを一概に測ることは出来ないが、人々の笑顔に包まれて泣き生まれ、人々に泣き惜しまれながら安らかに笑み死ねたら、その一生は豊かだ。
涙は人の感官を刺激する。
命の始まりと終わりに誰かが泣くのなら、せめてその間は笑っていたい。
そもそも田舎町の商人の家に生まれたシェイクスピアは、十八の時に結婚、二十三のころに単身でロンドンへ渡り、四大悲劇も含めたヒット作を続々と生み出した。
絶頂期であった1600年前後のロンドンといえば、エリザベス一世庇護のもと急激に発展し、町は人で溢れ、夏はペストが蔓延するくらいだった。
そのころテムズ川の岸に、かの有名なグローブ座は造られ、ハムレットが上演される。
グローブ座といえばエリザベス朝を代表する建物で、アメリカやドイツ、日本など、各地に模して建てられ、シェイクスピアの上演などに供されている。
だが、彼は五十を前にしてあっさり隠退、本拠地を故郷へ移すと、穏やかな日々を過ごして五十二の時に死去した。
これだけを訊くと、花火のように華やかで潔い人生だ。
彼は己に課せられた役割を自覚していたのだろう。
それはまるで役者の如き人生という舞台を理解していたのだ。
以降、シェイクスピアの作品だけでなく彼自身を題材にした本や映画が作られ、ネット上にも名言集がたくさん載せられている。
四百年以上前の作品だというのに、こうして学生劇から商業舞台まで様々な趣向を凝らして演じられ続けている。
台詞や構成が秀逸なのは言うまでもないが、何が人々の心を掴むのか。
弓枝が書くロミオとジュリエットもカタストロフィを迎える。
舞台であるヴェローナの領主であるエスカラスは、ロミオとジュリエットの哀れな亡骸を見つめ、人々にこう説くのだ。

「夜明けと共に惨たらしい平和が訪れる。太陽も悲しんでか顔を出そうとはせぬ。さ、みなでこの悲劇を語り合おう。許される者もあれば罰せられる者もあろう。ああ、この世にまたとない悲話こそは、ロミオとジュリエットの恋物語」

犬猿の仲であったロミオとジュリエットの一族は、互いに相手の像を建てることを約束し、互いの罪を赦し乞うた。
絶望の夜が粛々と明けながら、悲劇は幕を下ろす。
こうしてロミオとジュリエットは、誰にも阻まれることない永遠の契りを交わすのだった。

***

「ふぅ……」

弓枝は出来上がった原稿用紙を感慨深そうに見下ろすと、深く息を吐いた。
オリジナルの作品ではないが、一応、処女作である。
まさか本を書き始めたころは、実際に演劇部が使うなんて想像もしていなかったが、この台本で劇が作られるのである。
考えてみれば重要な仕事であった。
しかし、今は無事に書き上げられたことに安堵し、肩の荷を下ろすような気持ちで原稿用紙をまとめた。
使っていたペンを筆箱に戻すと、思いっきり腕を伸ばして深呼吸する。
図書室の古い本の匂いに口元を緩ませた。
校庭では野球部やサッカー部の練習する声が響いている。
あと校舎にいるのは吹奏楽部くらいだろうか。
爽やかな秋の日に窓を開けているらしく、時折金管楽器の鼻に抜けるような甲高い音が漏れていた。
吹奏楽部も来月の学園祭の練習をしているのか、どこかで聞いたことのあるような曲が次々と流れてくる。
弓枝はそれを気分転換代わりに聞きながら、手早く台本の推敲に取りかかった。
コンビニで買ったパンを頬張りながら一心不乱に目を通す。
途中まで出来ていた分は演劇部に渡していたが、改めて見直すと、手直ししたい部分が出来てくる。
そうして原文と台本を交互に見ながら自分流にアレンジして仕上げていった。

推敲が終わったのはもうすぐ一時になるところだった。
弓枝は書き終えたばかりの原稿を抱えて図書室を飛び出すと、演劇部が練習している体育館へ向かう。
部員たちは残り僅かな昼休憩を惜しむかのように和やかな雰囲気で休んでいた。

「冬木、出来た! 出来たぞ!」

ちょうど舞台袖のところで寝転がっていた冬木を見つけると、弓枝は目を輝かせて駆け寄った。
すると冬木はその言葉を受けてガバッと起き上がると、向かってくる弓枝に抱きつこうとした。

「あいらぶゆー!」

だが、その前に弓枝は身のこなし良く避けると威嚇するように後ずさる。
どうやら間合いの取り方に慣れてきたようだ。
すると、逃げられて肩透かしを食らった冬木は「ぶー」と、いつものように口をへの字に曲げた。
いじけるように再び床にごろんと寝転がる。
子どもか。

「あれ?」

その時、弓枝はおかしそうに辺りを見回した。
こういう時、必ず口を挟んでくる桃園がいなかったからだ。
あの目立つ背丈と金髪は、いればすぐ分かる。
だが、今は体育館の舞台から見回しても一向に見当たらなかった。
昨夜の状況から顔を合わせるのは気まずいと思っていたが、いなければいないなりに気になって仕方がない。
朝に顔を出した時には確かにいたからいないはずはないのだが、トイレにでも行っているのだろうか。
そんな風に思案していると、

「桃園ならまた呼び出しだよん。今日はバレー部の可愛い子だったよ。告白場所は屋上辺りかなー」
「え?」
「ここ最近、急に増えたんだよなーいいなぁー」

冬木はだらしなく寝そべり、ジャージの下から見えた腹をかきながら、羨ましそうに言った。
(また?)
確かにテストが終わったあたりからよく呼び出されている。
それまでもあるにはあったが、こんなに立て続けというのも珍しかった。

「なんでだろ」

驚きすぎて頭と口が直結していたらしく、弓枝は知らずのうちに口に出していた。
言ったあとに気付いてハッと手で覆う。
だが、冬木は気にも留めずにあっさりと、

「んー、決まってんじゃん。桃園の雰囲気が変わったからだよ」

と、弓枝を見上げた。

「なんつーの。突っつくと丸まるダンゴムシ? んー、猫の群れで暮らし始めたライオン?」
「ごめん。全然分からない」
「えー」

残念ながら弓枝には桃園がダンゴムシにもライオンにも見えなかった。
そうだ。
冬木に問うということは答えの翻訳をせねばならない。
本質を掴まなくちゃ誤った答えに行き着いてしまうからだ。

「いい加減分かりやすく言ってくれないか?」

このもどかしさは堪ったもんじゃない。

「うーむ、言葉を選ぶのは難しいなぁ。……うんと、うんと」

冬木は起き上がると、眉間に皺を寄せて、

「余裕がない感じ、反射神経がいい感じ」
「それが突っつくと丸まるダンゴムシってか。でもそれモテる要因かよ」
「可愛いじゃん! 丸まるダンゴムシ!」
「ダンゴムシじゃなくて桃園の話だよ。突っついて丸まった桃園は可愛くも何ともないだろ」
「ん、うえぇ……想像したら気持ち悪くなった」
「そこまで言うのも可哀想だな……」

冬木の隣に腰を下ろした弓枝は陰でこんなことを言われている桃園を憐れむ。

「で、猫の群れで暮らし始めたライオンってのは? つーか、猫って群れ作らないだろ」

言われたままを頭に思い描いてみるがしっくりこない。
例えば子やぎの中で暮らすオオカミなら分かりやすい。
つまり狩るものと狩られるものがひとつの空間で生きているということで、オオカミが落ち着いた――穏やかになったという意味だろう。

「うーむ。俺もよく分からん」
「はぁ?」
「そう思ったから思ったままを言ってみただけ! なんか文句あっか!」
「そこで開き直るのか、お前は~」

こっちは真面目に訊いているというのに。
弓枝は冬木の両頬を思いっきり引っ張ってやった。
意外と柔らかいのか餅のように気持ちよく伸びる。
その顔が間抜けだ。

「むーんっ、ね、猫も、ライオンも……一緒ってこと!」

弓枝が頬から手を離すと、冬木は擦るように頬を手で包み、恨めしそうに口を尖らす。

「どっちもマタタビあげれば気持ち良くなっちゃうし、猫じゃらしを振れば、追いかけてくるだろ!」
「それの何の意味があるんだよ」
「意味なんて知るかっ、それより」

彼はさらに畳みかけて、

「いいのか、行かなくて!」
「えっ」
「弓枝も桃園も世話が焼ける。昨日何があったのか知らんけど、あいつ今日超落ち込んでいたぞ」
「――――っ」
「弓枝も一緒だろ。二人とも同じ顔してどうすんだよー。そのまますれ違うつもりか? すれ違いって怖いんだぞ。甘くみてたら――」
「分かってる」

弓枝は冬木の言葉を遮るように大きく頷いた。
それに対して冬木は驚いてきょとんとする。
瞬間、ここ最近、ずっと覆っていた霧が晴れたような気がした。
いや、確実に視界がクリアになった。
冬木のたったひとことで、だ。

「すれ違いが怖いのは、ちゃんと分かってる」

弓枝は己に言い聞かせるよう反芻させると、強く原稿用紙を抱きしめ、ふんわり笑う。
胸がすくような清々しい顔だった。

「冬木、さんきゅー!」

弓枝は急いで踵を返すと、体育館から出て行こうとした。
それを冬木が呼び止める。
声に反応して弓枝が振り返ると、冬木は大きく手を振りながら、

「俺、弓枝も桃園も大好きだよー!」

と、叫んだ。
その声は体育館中に響き渡り、中にいた演劇部員はもちろん、ほかに使用していたバレー部の生徒までもがこちらを見ている。
だけど、もう弓枝はどの視線も気にならなかった。

「オレも好きだよ!」

それだけ言って手を挙げると足早に去っていく。
その背中に迷いはなかった。
いつも遠慮して、己に自信がなくて、丸くなっていた背筋がピンと伸びている。
逞しくさえ見えた。
その後ろ姿を見送りながら冬木は天井を仰ぐ。
(二人とも俺がいないとだめなんだから)
そう思いながらも糸が切れたような寂しさが胸に迫る。
しかし嫌な寂しさじゃなかった。
まるで、そう。
巣立つ子どもを見送る親のような心境だった。
だからじんじんと胸が痺れているのに、どこか穏やかで晴れ晴れとした気分でいられる。
冬木は二人の関係を知っていた。
そもそもこの一年、散々桃園から弓枝への想いを訊かされ続けてきた。
一緒にいてその変化に気付かないほうがおかしい。
本当はさっきだって他に伝え方があった。
でも敢えて教えなかった。
(弓枝は気付いていないんだな)
おかしさにひとり思い出し笑いをしてしまう。
目に浮かぶのは先ほどの弓枝のもどかしげな表情。
どうして桃園の告白される回数が増えてしまったのか。
そんなの簡単だった。

「……弓枝が傍にいたからだよ」

桃園は弓枝の態度に一喜一憂している。
本人同士では気付いていないらしいが、二人とも表情が豊かになっていた。
特に桃園だ。
彼は元々よく笑うし、ノリがいいからテンションも高い。
だが、どこか作られたような機械的な匂いがしていた。
人の良さそうな温和な顔をしながら、芯は氷のように冷たく、他を近づけさせない。
桃園は他人と付き合う時、必ず見えない線引きをしていた。
どんなに馴れ合おうが、一線引いたところから俯瞰して見ている。
冬木はそんな態度が気に食わなかった。
気持ち悪いと思っていた。
だからつるむようになったあとも、決して溶け込めないと思った。
桃園はそういう男なのだと諦観していた。
それが弓枝相手だと調子が狂う。
何せ弓枝は独特な価値観を持っているし、それまでの話題やノリは通用しないからだ。
桃園は日々接し方について試行錯誤している。
そんな面倒な相手、今までだったら適当に距離を置いてあしらっていただろうに諦めなかった。
面白いのは話しかけられる状況じゃない時だ。
弓枝が上の空で歩いていたり、無防備な姿を他のクラスメイトに晒していると、遠くからでも桃園はあわあわと心配そうにしている。
落ち着かない素振りで弓枝を見つめ、こっちのことはもう眼中にない。
そのたびに冬木は心の中で「オカンみたいだ!」と笑いそうになるのを堪えていた。
世話焼きな性格じゃないくせに、弓枝のことになると気にせずにはいられないらしいが、過保護すぎである。
だからか、弓枝が話に食いついてきたり、興味を示したりすると、尻尾をはち切れんばかりに振る犬のように嬉しそうな顔をする。
挙句笑いかけられると、デレッデレになっていた。
本当、弓枝のことになると反応が早いし過剰だ。
本人は余裕あるつもりで頑張っているが、周囲から見れば余裕なさすぎだと突っ込みたいくらいだった。
女子というのは、勘が鋭いからそういう部分を見抜いている。
休み時間の廊下で女子たちが桃園のことを「変わった、可愛くなった」と喋っている時は、よく見ているなと驚いたほどだ。
人間というのは案外他人を見ている。
桃園が可愛いなんて気持ち悪い話だが、確かに弓枝のペースに振り回されている姿は面白かった。
二人が話していると、漫才を聞いているような気分だった。
桃園の純粋な戸惑い、喜びがふつふつと伝わってくる。
彼自身は無意識だから余計にそう思うのかもしれない。
弓枝の傍にいる時の桃園には影がなかった。
それまで引きずっていた影が、見せないのではなく、綺麗さっぱり消えているのだ。
まるで牙を抜いたライオン。
でもそれじゃもう猫もライオンも変わらない。
(やっぱり弓枝はすごいんだ。きっと猛獣使いなんだ)
よくここまで桃園を躾けたと思う。
本当はそのままを弓枝に伝えれば良かったのだが、冬木は敢えて言葉を濁したのだ。
それは自分の役目ではないからだ。
二人で気付かないと意味がない。
当て馬になりたくない冬木は、ここへきてティボルトではなく、神父ローレンスの道を選んだ。
桃園も弓枝も大切だから仲違いさせる役ではなく、間を取り持つことにしたのだ。
賢明な判断だと思う。
だってそうすればこれからも三人でいられるからだ。

「おーい、そろそろ練習始めるぞ」

冬木は頭上の時計を確認すると、立ち上がり、舞台に部員たちを集めた。
そのうちのひとりが、

「桃園先輩がまだ戻ってきていないですけど」

と、体育館の入り口を見やる。
だが、冬木は首を振ると、

「桃園はお腹痛くて下痢ピーピーさんだから気にしなくて大丈夫よん」
「え、それ余計に心配じゃ」
「平気平気。きっとスッキリ良い顔して戻ってくるから、俺たちはちゃっちゃか練習していよう。ほら、午前中の続きやるぞー!」

冬木はガハハと腰に手を当てて笑うと、台本を片手にてきぱきと指示を飛ばした。
その横顔はどこまでも円やかであった。

***

そのころ弓枝は、原稿用紙を抱えたまま、無人の教室を走り抜け、時が止まったような静寂の階段を駆け上がっていた。
三階を過ぎた辺りから太腿が引きつり始めたが、速度は落とすことなくのぼっていく。
森閑とした校舎には弓枝の足音が大きく反響した。
途中でジャージを来た女生徒と擦れ違う。
向こうはパタパタとすごい勢いで階段を下りていった。
目元を拭っていたような気がするのだが見間違いだろうか?
お互い走っていたので、出会いは一瞬、すぐに通り過ぎ、すれ違ってしまった。
彼女が桃園を呼び出したというバレー部の生徒だろうか。
確認するよう振り返ろうとしたが、もうそのころにはとっくに下の階まで降りていて彼女の姿はなかった。
弓枝は気持ちを入れ替えると、ふたたび階段を上がる。
そうして屋上のドアノブに手をかけた。

ガチャ――。

ドアを開けた瞬間、爽やかな風が汗ばんだ皮膚の上を滑っていった。
前髪を弄ばれ目を細めると、青い空の下に金色の頭を見つける。
桃園は柵から外を見ているようだった。
いつかの光景と重なる。
あの時――、桃園を探しに屋上へ来た時は夕暮れで、強い西日の中で見た彼は儚げに佇んでおり、声をかけるのに躊躇った。
だけど今日の弓枝は躊躇しなかった。
肩で息をしながら後ろ手でドアを閉めると、ずかずかと桃園のいる柵のほうへ近づいていった。

「桃園」

すぐ隣ではなく、僅かに離れた場所で落ち着く。
これが弓枝と桃園にとって居心地良い距離なのだ。

「……台本、出来たの?」

少しの間のあと、こちらを見ようともしない桃園が声をかけてきた。

「すごいじゃん。読ませてよ」

千切れた雲の合間から覗く陽が、彼の髪を光り輝かせる。
桃園は悠然としていて憎たらしいほどだった。
告白されたあととは思えないほど落ち着き払っている。
先ほど階段で会った女生徒の様子が脳裏に浮かんで可哀想に思えてしまうほどだ。
いや――、昨夜の言い合いすらも感じさせない態度である。
相変わらず飄々として掴みどころのないやつだ。

「嫌だ」
「は?」
「今のお前には読ませたくない」

弓枝も桃園へは向かず、河原を眺めながら言い切った。
柵を握る手に力を込める。
土曜の河原は普段より人が多く、色とりどりのランナーが行き交っていた。
まさかこんな状況の二人に見守られているとはしらず、彼らは颯爽と現れては次々に走り去っていく。
弓枝の拒絶に無言になったのは僅かな間で、すぐに、

「あはは、じゃあなんで台本抱えて現れんのよー」

桃園は腹を抱えて哄笑した。
それが悔しくて弓枝はそっぽを向いたまま頬を膨らませる。
(色々事情があんだよ)
弓枝だって図書室を出た時には、まさか完成原稿を持ったまま、こんなところで桃園と話すことになるとは思っていなかった。
今さら冬木に渡してこなかった後悔が押し寄せる。
いや、違う。
一番に読んでもらう相手は桃園が良かった。
口では嫌だと言っても、やっぱり最初に目を通すのは彼じゃなきゃだめだった。
きっかけは桃園。
書き続けようと思ったのも彼のため。
もう書けないと嘆いた時、支えてくれたのも、励ましてくれたのも桃園だ。
両親はいまだに桃園を毛嫌いしている。
いくらでも他人に愛されるよう振舞える彼が、身を挺して悪役の振りをしてくれたから、あの話し合いは上手くいったのだ。
いつも、そう。
たくさん与えられてきた。
ほんの僅かでもいいから返したいのに、何も返せずにいる。
そんな自分が腹立たしかった。
(オレに出来るのは、ただひとつ)

 

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