8

本当は家を出たかったが、そうすると双方の親戚同士が泥沼の争いになることを分かっていたからだ。
なにより父を放っておけなかった。
あれだけ憎らしく思っていても、たったひとりの肉親であり、その肉親が悲しみのあまり部屋に引きこもってしまっている。
仕事命だった男が日がな一日筆も握らずぼんやり空ばかり見ている。
母親に寂しい思いをさせてまで貫いた仕事をあっさりほっぽり出してほしくなった。
現実的な話をすれば、生活費や学費もあるし、事務所の人件費もある。
父に働いてもらわなくては大勢の人が困るのだ。
その窮地を救ってくれたのが、またもや雛子だった。
彼女は献身的に父を世話し、仕事へ引っ張りだした。
以前より多く桃園家へやってきて、一緒に食事までしてくれるようになった。
雛子の明るさは太陽のようで、暮れかけた家の雰囲気を光強く照らしてくれた。
そのお陰でどうにか立ち直った父は、仕事に精を出し、数年かかった図書館のプロジェクトを成功に導くと大きな評価を得た。
一躍父の名は世に広まった。
桃園十三歳、中学一年生になっていた。

仕事の成功と桃園の中学入学が良い転換期と捉えた父は、雛子と再婚することを決めた。
桃園はもう雛子に対して恋心は抱いてなかったが、初恋の相手が母になるというのも複雑な気分だった。
しかしあの落ち込んだ父を社会復帰させてくれたのは彼女だ。
雛子は大学卒業後、父の建設事務所にそのまま就職していた。
仕事でも私生活でも良いパートナーになるだろう。
だから桃園は口を挟まず、好きにするよう伝えた。
本当は新しい母なんていらなかったし、桃園にとって母親はたったひとりであっても、父親がそれを望むのであれば仕方がないと諦観の境地にいた。
――が、しかし親戚はいい顔をしなかった。

「許せるわけないでしょ。まだ美佳子さんが亡くなって数年しか経ってないのよ」
「しかしなぁ、祐一郎君もいることだし、あの年ではまだお母さんも必要だろう。雛子さんもそのご両親も連れ子がいても構わないと仰ってくれているのだから、ありがたい話じゃないか」
「あなたは呑気な人ね。問題はそれだけじゃないのよ。美佳子さんが入院してた時から関係が始まっていたことがマズイのよ。もし美佳子さんのご家族に知られたらまた大揉めになるじゃない」

父の実家へ三人で挨拶へ行った時、偶然訊いてしまった祖父祖母の会話に桃園は頭が白く溶けるような衝撃を受けた。
まさかそんなことあるわけない。
耳を疑ってしまうほど信じられなくて、目の前の現実を受け入れられなかった。
しかし反対を押し切って結婚した二人が開いた結婚パーティーで、似たような話を何度も訊いてしまった。
事務所に勤めている人間には周知の事実だったみたいだ。
心の壁に大きな風穴が開く。
脳裏には病室で寂しさをこらえている母の顔が浮かんだ。
その間に二人は彼女を裏切って親密な関係を築いていたというのか。
(あの時――母の葬儀の時、父が酷く落ち込んでいたのは、悲しみじゃなくて罪悪感から――?)

「いまだに信じられないけどね。証拠もないし。さすがの俺でも直接問いただせないし、訊いたところで正直に答えるとも思ってないし」

桃園は痛々しい顔で笑うと、弓枝の肩を抱き寄せた。

「今のお母さんって雛子さんだっけ? とても不倫なんてしそうに思えないけど。しかも実の母親と仲が良かったんだろ。病気の妻がいる身の人に手を出すかな」

弓枝は二度会っている雛子の顔を思い浮かべた。
確かにベタベタまとわりついて鬱陶しいが、そんな酷いことをする女には見えない。
それどころか明るくていい人だ。

「ん、だから女なんて信じないよ。人なんて信じられない」
「でもお前、あんなに雛子さんと仲良さそうだったじゃん」

腕組んでいる姿は恋人同士みたいだった。
しかし桃園は嘲笑うように冷ややかに、

「ああ。あれは、面倒だから好きにさせてるんだよ」
「は?」
「嫌だって意思表示すんのも面倒だから俺からは何も言わないの。だって拒絶すんのも労力いるじゃない?無駄な消費は勘弁勘弁」

桃園は当然とでも言うかのように口許を歪ませた。
そんな姿に性格のねじれを垣間見る。
初恋の人が母になったあげく、実は父親の不倫相手だったともなればトラウマ物だ。
しかも真相を両親に訊けないまま疑いだけを募らせている。
人を疑うのは辛いことだ。
白黒はっきりさせれば落胆はあるだろうが気持ちは落ち着く。
――が、今の桃園にそんなことが出来るわけない。
周りに相談すら許されない。
あまりに酷な状況だ。
ひとりでそういった鬱積を抱えていた分、その闇は濃そうだ。
すると桃園は話を戻すように、

「実際、親父と雛子さんがどういう関係だったかなんてどうでも良かった。不倫していてもしていなくても、そこに差はなかった。母さんがひとり機械に囲まれて苦しんでいた時に、あの二人が誰を想っていたかを想像するほうがショックだった」
「確かに……想像はしたくないな」
「でしょ。人間なんて表層ではいくらでも装える。肚の底で何を考えているかなんて誰も分からないからね」

そのころから桃園は他人と向き合うことが馬鹿馬鹿しく思えた。
己の手の内を明かさず、本心を隠して付き合うほうが簡単であることを知る。
表面だけの相手であれば、傷つけられても痛くないし、傷つけても苛まれない。
その時気持ちいい関係でいられればどうでも良かった。

「割り切るとはっちゃけられるっつーか。元々の性格だとそんなに明るい子でもなかったんだけど、へらへら笑って大勢の中にいる楽さを知ると、そこに落ち着くんだよね」
「それでお前はいつもあんな顔してたのか」
「あんな顔って?」
「むかつく顔」
「ひどっ! その通りだから反論出来ないけど。……んでさ、みんなと仲良くして、全員大好き! 嫌いな人なんていません! みたいな態度でいながら、実は誰のことも興味がなくて一線引いて見てた。いや、たぶん、興味がなかったから、そういう風になれたんだ。好きだ嫌いだなんて以前の問題でしょ、興味なんて。興味があれば自ずと、好意を抱いたり、気に障ったりするわけで、そういうの全然感じなくなっちゃったから、それはそれで楽しかったな」

だから寄って来た女の子は拒まなかったし、追わなかった――と、あっけらかんとした顔で付け加えた。

「ホント……冬木に会うまでは順調だったんだけどね」
「全然順調じゃないじゃん」
「心の平穏って意味。あいつ突然俺のこと殴ってきたんだよ。マジで頭がおかしいって思った」
「ごめん。それ冬木から訊いた」
「えぇー! やだ、何それ。俺の死ぬほど格好悪い話なのに。せめて自分で話したかったわ」
「悪い」

弓枝が謝ると、彼はいいよと困った顔で笑い、

「じゃあ大まかな状況は省くけど、殴り合いながら思ったんだよね。あ、こいつ本気で怒ってるって」
「冬木だからな」
「そ。今でこそ、その一言で片付けられるんだけど。当時は驚いちゃった。だって冬木全然関係ないのに、どうして他人のためにそこまで熱くなれるんだろうって」
「………………」
「つるむようになって冬木の絶妙な距離感に気付いてさ、居心地良くてずるずる甘えてた。あいつは俺が嘘を言っても、嘘だと分かった上で本当だと信じるんだよ。んで、俺の領域には入ってこようとしない。入らないっつーか知らん顔するんだよ。それまでずっと馬鹿にしてたけど、途中で、ああ冬木には勝てないって全面降伏しちゃった。負けを認めるのって楽なんだよね」
「お前って本当に楽だけで生きてんのな」
「あーあー聞こえませんー」

桃園は耳に手を当てると聞こえない振りをした。

「でも桃園、ひとつ嘘ついてるぞ」
「え?」
「お前、冬木に全面降伏って言ったけど、負ける気早々ないじゃん」
「ああ、うっかり」

彼はしまったと面食らい、

「中学の時は負けを認めたんだよ。でも悔しくて。いや、羨ましかった。思った通りに生きてる冬木が楽しそうで、自分のやっていることが空しかった。それまでひっきりなしに彼女を作っていたのをやめたのもそれが原因」
「原因?」
「冬木といる中で気付いたんだ。彼女を作っているのって、母さんや雛子さんへの当てつけにすぎないんじゃないかって」
「どういうことだ」
「二人とも俺を見て欲しかったのに、悉く無視されたわけで。無意識だったけどそういう悔しさも残っていたんじゃないかなって思ったんだ。それを女の子たちに重ね合わせて振り回していたっていうか。ああ、自分で言っておきながら自己嫌悪。俺、最低なやつじゃない?」
「うん、まぁ否定はしないけど」
「相変わらず正直ね」
「だって事実だろ」
「仰るとおりで……」

だが、桃園の気持ちも分からないではない。
どれだけ思っても尽くしても届かなかったやり場のない気持ちを発散させる術もなくずるずるここまで来てしまったのだ。
多少の歪みは致し方ない。

「コホン。と、まぁ、そんなわけで高校受験を迎えたんだけど、このまま冬木と一緒にいたらいつまでも甘えっぱなしになりそうで、何かを変えたくて、あいつの学力じゃ入れない学校を選んだの。しかも中三の夏に。なのに、冬木ってば死ぬ気で勉強始めて気付けばこの通り。高校でも一緒になっちゃったんだよね」
「冬木、お前に化けて出られたくないから頑張ったって言ってたぞ」
「えー何それ。意味分かんない。何かの謎かけ? つーか勝手に殺さないでよ、もう」
「冬木らしいだろ」
「そうだけど……。あ、でも死にそうだったのはあっちだからね。俺は全然余裕。冬木なんか受験終わるまで干し芋みたいな顔してた。いつ乾涸びるんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」

想像するだけでおかしくて、弓枝は笑いそうになった。
だが、ここで笑ったら雰囲気を壊すようで唇を噛み締め堪える。
そうやって我慢しようとすればするほど目の前に冬木の間抜けな顔が思い浮かんで苦しくなった。
結局、耐えに耐えてきた笑いがふりかかってきて、こんな状況なのにぷはははっと笑ってしまう。
次に冬木と会った時も顔を合わせた瞬間に吹き出してしまいそうだ。
それどころか干し芋を見るたびに冬木を思い出してしまうかもしれない。
すると桃園が弓枝の頬を手で包み込み、じっと見つめてくる。
その顔は明らかに不愉快そうだ。

「冬木が笑わせてるのもムカつく」
「結局、お前負けてないじゃん」
「ぶー」

頬を膨らませた桃園を可愛くないと一蹴させる。
弓枝はやれやれとため息を吐いた。
頬に寄せた手に己の手のひらを重ねると、

「オレだって悔しいよ」

下から睨むように呟く。

「オレは冬木みたいにお前にとって心地良い場所を作ってやれる自信ない。お前のことも分かってやれない。あいつみたいに鋭くないから、桃園が何を望んでいるのかも分からない」

知らず知らず触れられたくない傷にまで手を付けてしまうかもしれない。

「だからずっと不安だった。嫉妬してたのはオレのほうだよ。桃園と冬木の仲に入っていけなかった。オレなんかよりお前の側にいるのは冬木のほうがいいって思ってた」

どうやったって冬木には敵わないと思っていたのは弓枝も同じだった。

「何言ってんの」
「だって」
「俺と冬木なんて絶対にありえない」
「そんなの分からないだろ」
「俺は心地良い場所を求めているわけじゃないよ。弓枝だから。弓枝が弓枝だから丸ごと全部欲しいんだ」
「ももぞ……っ」

すると桃園がぎゅうっと強く抱きしめてきた。
あまりの苦しさに呻きそうなくらいの強さだった。
弛めてもらおうと彼の背中をバシバシ叩く。

「俺たちおっかしーの」

どうにか桃園の腕の中から這い出ると、顔をくしゃくしゃにした桃園が笑っていた。

「あはは。どうしよう。好き。好きだよ。弓枝が大好きだよ」
「何がどうしようだ」
「好き。やばい。ごめん。言葉が出てこないや。えーと、うん。ううん。はぁ、好き」
「なんだそれ」

彼は独り言のように呟いては、勝手に納得していた。
空を突き抜けたみたいに澄み切った表情が印象的だった。

「あー、ここまで話したら、もう格好悪いとかどうとかないよね」
「つーかこれ以上どんなもんが出てきても驚きはしねーよ」

桃園の家族の話だけでも仰天なのに。

「じゃあ好き勝手に言わせてもらおう。ていうか言わないと気持ちが溢れてどうにかなっちゃいそうだ」

耳元で嬉々として囁く桃園が珍しかった。
よほど弓枝が冬木に敵わないと思っていたことが嬉しかったのか、擦りついて離れない。
まるで犬。
桃園の図体なら大型犬。
金髪ならゴールデンレトリーバーがしっくりくる。
――に、襲われているかのようだ。

「俺、ずっと弓枝と話したかった。笑った顔が見たかった。あの目で見られたらと想像するだけでおかずになった時は、さすがにヤバいと思った」
「げっ、そういう話かよ」
「驚きはしないって言ったでしょ。男に二言はなし」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」

ぶうたれている弓枝に代わって桃園は目尻に皺を寄せて穏やかに微笑む。

「えへえへ。だから弓枝も同じ気持ちだって知った時は、もうホント、世界が明日終わっても良いって思えるくらい嬉しくて幸せで、言葉になんかならなかった」
「そりゃどうも」
「ずいぶん冷めてんね。ま、いいや。でもさ、人って欲張りだから、次第に欲求が肥大化してくんの。話せるようになるまでは、ちょっとでも声を聞けただけで嬉しかったのに、今じゃ、弓枝の興味は全部俺にあって欲しいなんて思っちゃったりして」
「………っ………」
「あーごめん、はっきり言うね。弓枝が好きすぎてヤバいと思った」
「お前、ヤバいと思ってばっかだな」
「本音なんだからしょうがないっしょ。だって俺だけしか見て欲しくない。他のやつ見てるだけでもイライラする。声を聞くのも笑い顔を見られるのも俺だけじゃなくちゃ嫌だ。いっそのことぐるぐるに縛って俺の部屋に閉じこめておきたいと思った。独占欲なんていう生易しいもんじゃなくて、もっとドロドロの。弓枝の体、全部俺のもんにして、俺以外の隙なんか一ミリも入らないくらい満たしてやりたかった」
「……それ、犯罪だろ」
「弓枝が悪いんでしょ。話せるようになって、印象が変われば気持ちも落ち着くと思ったのに、知るたびに愛しくて可愛くて。ホント、顔に出ない性格になって良かったよ。気持ちだだ漏れだったら女の子だってどん引きの酷い顔してるよ。せっかく綺麗に産んでもらったのに、台なし。ああもう、なんでそんな俺を夢中にさせるの? ずるいよね。卑怯だよね」
「ずるいって言われても知らねーよ。お前が勝手にそう思ってんだろ。それに、訊かされているこっちの身にもなれよ」

告白しているのは桃園なのに、恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。
だってどれも生々しいほど桃園の本心なんだ。
いつものスマートで気取った素振りなんて全然ない。
余裕がないんだ。

「まだ言い足りないんですけど」

桃園はふふんっと誇らしそうに胸を張った。
そんなところを偉そうにされても、本人としてはどう反応していいのか分からない。

「ま、とにかく加速度的にまずいなって思って、自制に努めたんよ。特に弓枝がようやく台本書く許可をご両親からもらって、一生懸命テスト勉強しているのに、俺が邪魔したら元も子もないじゃない」
「それであんな引いた態度だったのか」
「ん、ごめん。そのせいで不安にさせてるとは思わなかった。俺ばっかり弓枝が好きだと思ってたし、初めてで浮かれて他に余裕なかったし。とにかく自分を抑えることだけ考えてた」

桃園としても必死だったわけだ。
電話をしたら、メールをしたら、肌に触れたら、それだけで彼の心は弓枝でいっぱいになって、己の欲望に忠実になってしまう。
そんな危惧から修行僧のように煩悩を断ち切ろうとしたのだ。

「なのに、知らない間に階段で冬木と抱き合ってるわ、二人で仲良さそうに海見てるわ、あげく冬木のやつ弓枝の腕に巻き付いて、何やってんのよ」
「どれもしょうがなかったんだよ。説明しただろ。階段から落ちそうになったから、冬木に支えてもらったって」
「頭では分かってるのに気持ちじゃ割り切れないの!」

ひと際強い声で言われて弓枝は目を丸くすると言葉を噤んだ。
そんな姿に桃園はバツが悪そうに彼の肩口に顔を埋める。
そっと耳元で囁くように、

「今まで家族のことでも何でも割り切れたのに……弓枝だけは上手くいかないんだよ、ばか」

泣きそうな声をしていた。
弓枝は息を呑むと、体を離し、桃園の顔を窺おうとする。
――が、彼は見られないよう強く腰を抱き寄せて離さなかった。
だが一瞬、彼の赤い耳が目に入ると、弓枝も抗ってまで見ようとは思わなくなった。

「いつの間にか冬木がコンプレックスになってた。あいつは俺にないものをたくさん持ってる。それがどんなにすごいものか誰より知ってる。だから怖かった。冬木も弓枝を気に入ってるの分かってたから余計に。いつ取られるんじゃないかと気が気じゃなかった」
「オレと冬木こそありえねーよ」
「でも、弓枝も冬木の前じゃいつも楽しそうだし」
「そうか?」
「俺の前じゃ中々見せてくれないような顔を簡単に見せるんだ。そのたびに思った。やっぱり弓枝も俺より冬木のほうがいいんじゃないか。冬木といたほうが幸せになれるんじゃないかって」

 

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