2

「……何しに来た」
「え?」
「俺を嘲笑いに来たのか」

咽頭の奥から搾り出したような低い声に僕の背筋は凍りつきました。
静かな怒りがエオゼン先生の体に渦巻いていたからです。

「お前は今じゃ世界最高のヴァイオリニストと呼ばれているらしいじゃねーか」
「あの、せんせ……」
「酒に溺れている俺とじゃ雲泥の差だな」

言っていることが判りません。
彼は酷く自虐めいた笑いで口許を歪ませると、困惑する僕に殴りかかろうとしてきました。
間一髪後ろから店主がエオゼン先生の体を羽交い絞めにしたから良かったものの、そうでなければ殴られ、吹っ飛ばされていたでしょう。
僕は恐怖に膝をガクガク震わせると、後ずさりました。
飛び掛ろうとしてきたエオゼン先生の瞳は強い憎しみで濡れています。
何度も襲い掛かろうと腕に力を入れている様がとても怖くて腰を抜かしそうでした。
でも、僕は怒らせるようなことをしていません。
何に対してそんなに苛立っているのか定かではありません。

「落ち着け、エオゼンさん! あんた、誰かと間違えてるんじゃないかい! この子は何もしていないよ」
「先生っ、誰のことを言っているんですか……っ?」
「ほら、ハイネスも早く行け! じゃないとぶん殴られるぞ!」

酒場で飲んでいた男たちもなんだなんだと奇異の目で僕らを見ていました。
店主は必死になってエオゼン先生を押さえ込もうとしています。
僕は彼の勘違いを解きたかったのですが、完全に目の据わったエオゼン先生は危険な獣のようで、僕はその場から逃げざるを得ませんでした。
荷車を引きながら夜の町を全力疾走します。
車輪がけたたましい音をあげて石畳の上を走っていきました。
(世界最高のヴァイオリニストって?)
あまりにも衝撃的な出来事に頭が追いつかず、エオゼン先生の台詞だけが響きます。
それだけじゃありません。
酒場から逃げる時、僕は呻くようなエオゼン先生の声を聞きました。

「ミシェル……」

それは人の名です。
でも誰の名前なのでしょうか。
小声で、うっかりでもすれば訊きそびれてしまうほど密やかな声でしたが、僕にははっきり聞き取れました。
耳の奥へ響かせるように重く沈んだ声色に、気圧されたように息を吸い込むと、振り返る余裕もなく立ち去りました。
まるで粘つくような執着を感じたからです。
僕は先ほどより濃くなった闇の密度に怯えながら家まで帰ると、ひと際うるさい足音を響かせながら階段をあがり、自室へと逃げ込みました。
まだ耳にはエオゼン先生の声が残響しています。
忙しない呼吸に跳ね上がった心拍数は、酒場から自宅まで全速力で走ってきたせいでしょうか。
――いいえ、きっと違います。
僕は激しく上下する胸に手を置き、目を閉じると、落ち着かせるため深呼吸に努めました。
脳裏によぎるエオゼン先生の濁った眼を思い出すと、己の肩を掻き抱いてやり過ごそうとしました。
生まれて初めて恐怖を感じたのです。
(ミシェルって誰のことですか?)
これだけ明確な殺意を向けられたのは初めてで慄きました。
僕だって腹を立てることはあります。
ですが、あんな獣のような目で人を見たことはありません。
純度の高い恨みがエオゼン先生の中にある。
それが彼をああして酒浸りにして、鬱憤を溜め、当り散らしているのでしょうか。
(僕には関係ない)
僕は首を振って平静になろうとしますが、興味は先行していきます。
本来なら無関係の僕が首を突っ込む話じゃありません。
ただ酔っ払いに絡まれたと思って忘れてしまえば楽になります。
ですが、どうしても気になって仕方がありません。
僕は、エオゼン先生のことを深く知りたいという自分に気づき、戸惑いました。
僕とエオゼン先生は子ども音楽団の生徒と先生という間柄なだけで、彼のことは何も知りません。
ここへ来る前までどんな人生を歩んできたのか想像すら出来ません。
漠然とした不安が僕を襲いました。
それは触れてはならないもののような気がして躊躇ったのです。

「ハイネスー! 帰ったのかい!」

ちょうどその時、階段下から母親の声が聞こえてきました。
僕は店の前に荷車を置きっぱなしにして部屋へ駆け込んできたことを思い出しました。
受領書は上着のポケットに入っています。
僕は慌てて立ち上がると、重いため息を吐いて店へと戻っていきました。

***

翌日の練習は憂鬱でした。
昨夜あんなことがあってエオゼン先生とどんな顔で会えばいいのか分からなかったからです。
しかし危惧していたような状況にはならず、彼はいつもと変わらず周囲に悪態ばかりついていました。
一度僕と目が合いましたが、態度は変わりません。
どうやら彼は昨夜の出来事を覚えていないようでした。
酔っていた上に寝起きだったのですから当然でしょう。
僕は胸を撫で下ろしながら、どこか残念に思いました。
やっぱり知りたかったからです。
長閑な町、平穏な日常に飽き飽きしていたのでしょう。
エオゼン先生に対する興味というより、己の好奇心が勝っていました。
彼ならば僕の欲求を満たしてくれると心のどこかで思っていたのです。
しかし昨夜のことはおくびにも出しませんでした。
その夜、再び酒場へ注文の酒瓶を届けに行きましたが、その日のエオゼン先生は潰れておらず、ただ黙々とお酒を飲んでいました。
話しかけられるような雰囲気ではなかったので、僕は彼の顔を見るだけに留めて帰ります。
店主は昨夜のことを詫びてくれましたが、彼は悪くありません。
やはりあの出来事は全く覚えていないらしく、僕も口にしませんと約束しました。
きっと店主もあの時のエオゼン先生の様子はただごとじゃないと分かっていたのでしょう。
面倒な客だと苦笑していたのに、やはり優しい人なのです。
僕は自分の興味だけでエオゼン先生の過去を穿ろうとしていたことに恥じ、酒場を出ました。
もう二度と先生には近づかないと心に決めていました。

それから十日ほど経ったころでしょうか。
学校の休み時間、急にオリバーに呼び出されました。
まだ肌寒い裏庭の扉を開けると、そこには子ども音楽団のメンバーが揃っていました。
全員しかめ面で不愉快さを隠そうともしない態度です。
それだけでただならぬことが起きていると覚った僕はみんなに駆け寄りました。

「どうしたの?」

その中心で腕を組んでいたオリバーが、僕を見つけて手招きします。

「今日から子ども音楽団は全員練習へ行くことを拒否するんだ」
「は?」
「ストライキだよ、ストライキ!」

鼻息荒いオリバーたちは、もう我慢の限界だと声高らかに叫びました。

「エオゼンが辞めるか、あいつが今までの態度を詫びるかしない限り、俺たちは二度と楽器を吹かないんだ!」
「で、でもそれは何度もお願いしているのに聞いてくれないんでしょ。エオゼン先生の代わりを探すなんて無理なんじゃ……」
「だからストライキだって言ってんだよ」
「こっちにだって考えがあるんだ。もうなりふり構ってられねぇぞ」
「そうだそうだ! 俺たちが弾かなきゃ演奏会は出来ないんだ。王様は面目潰れで恥ずかしい思いをすればいいんだ」

みんなはいきり立ち、興奮した様子で文句を言っていました。
どうやらよほど鬱積を溜めていたようです。
誰かが喋るたびに「いいぞー!」と、合いの手があがり、この場が盛り上がっていくのを僕は黙って聞いていました。
とうとうこの日がやってきたのだと覚悟していたからです。

「いいか、ハイネス。お前も練習には行くなよ」
「わ、分かってるよ。でもどうするの? 家にいたら親に連れて行かれるよ」

僕たちが練習を嫌がることは今までも多々ありました。
しかし王宮からの命令とあれば、子どもの駄々など許されるはずがなく、両親は無理やりにでも練習へ引っ張っていきました。
だから音楽団の中には嫌々練習している子も少なくありません。

「それを今話し合っていたんだけど、全員楽器を持って練習へ行く振りをする」
「振りをするの?」
「そうだ。んで、三ヶ所くらいに別れて練習が終わる時間まで暇を潰す」
「大人に見つからないかな」

練習を無断で休んだとなれば叱られます。
しかしみんなはやる気になっていて反論出来ない空気でした。
町の外れにある森や農場に隠れるらしいのですが、本当にそんな浅はかな作戦で上手く行くのでしょうか。

「でも、エオゼン先生がそれを報告したら?」
「そしたらあいつの悪事を全部暴いてやればいい。エオゼンがいる限り俺たちは演奏しないと言えば、王様だって考え直すだろ」
「……そうかもしれないけど」
「大体あの男が報告するとも思えねーな。練習なくなってラッキーとでも思うんじゃねーか」

オリバーは心底嫌悪した様子で口を尖らせます。
正義感の強い彼は、エオゼン先生の仕打ちに腹を立てているひとりです。
罵声を浴びせられている他の子を庇って、代わりに練習時間が終わるまでずっとみんなの前でバケツを持たされ立たされたこともありました。
屈辱だったでしょうが、それでも負けん気の強さから、何度も先生とぶつかっています。
そのオリバーが立ち上がったのですから、みんなは心強く思っていました。

結局その場はそこでお開きになりました。
学校が終わると、約束通り、人目を逃れながらコソコソと森へ逃げます。
全員が興奮冷めぬ態度で「ざまーみろ」とエオゼン先生を嘲笑っていました。
その日は、暗くなるまで寝転んだり遊んだりして過ごすと、時間を見計らって家へ帰ります。
一日目は自宅に帰って両親と顔を合わせた時、罪悪感と無断で休んだことを知られていないかでドキドキしましたが、変わらない態度に見つかっていないと安堵しました。
他の子たちも同じだったようで、二日目、三日目はビクビクしていましたが、次第に慣れてくると、平然と休むようになりました。
次第に早く大事にならないかとワクワクするほどの余裕も生まれました。
僕らは優勢でした。
エオゼン先生が報告したり、大人に見つかれば、自分たちがなぜこんなことをしているのか説明する場が与えられるし、先に貴族がこの事実を知れば、エオゼン先生の指導責任が問われることになります。
どっちにしろ僕らが拒否をすれば子ども音楽団は成り立たない。
今までは数人の子どもたちがそれぞれ嫌がっていたから抑え込むのも容易でしたが、全員が集団でとなれば話は別です。
僕は普段通りを装いながら、練習へ行った振りをして友達と遊びました。
今まで音楽団に時間を取られて中々遊ぶ時間がありませんでしたが、今は自由に出来る時間がたくさんあります。
一週間、二週間、三週間と過ぎても穏やかな日々は変わりませんでした。
僕を含めた全員が時間を持て余し始めたのもこのころからでした。
森の限られた場所で、毎日数時間も潰すのは中々大変なことです。
こんなにも長い間ヴァイオリンに触れていないのも初めてでした。
自宅での自主練も今はしていません。
他の仲間がいつ家の前を通って聞いているか分からないのに、弾くことは出来ません。
指が弦の感触を恋しがっていましたが、無理やり忘れようとしました。
誰も音楽団が続けばいいなんて思っていません。
僕は仲間外れになるのが怖かったのです。
だから音楽が好きであるとか、ヴァイオリンを弾くのが楽しいといった感情は隠してきました。
みんなのことが好きだから、今までもこれからも同じように過ごしていきたいと思っていました。
同調して生きていれば楽です。
そんな自分が卑怯に思えて、途轍もなく嫌な気持ちになりましたが、仕方がありません。
僕は何も出来ない無力な人間なのです。

子ども音楽団がストライキと称して練習を休み始めて一ヶ月になろうとしていました。
僕は酒場への配達も変わらず続けていました。
エオゼン先生は毎日飲みに来ているようですが、僕はホールへ出ずにやり過ごしました。
一度ホールへ出ましたが、エオゼン先生は全く気にも留めず、グラスを煽っていました。
彼は僕のことなど眼中にないのです。
だからホールへ出ても出なくても同じだったかもしれません。
生徒と先生という間柄なのに、彼は興味がないのです。
幸い僕は名指しで怒鳴られたことはありませんから、なおさら印象に残っていないのでしょう。
複雑な気持ちでした。
別に顔を覚えていて欲しいと思ったことはありませんし、口悪く怒鳴られたくもありません。
だけど胸元を寂しさがよぎりました。
まるで北風が通り抜けたような冷たさでした。
(ミシェルさんは何をしたんだろう……)
エオゼン先生の物寂しげな背中を見るたびに、ミシェルという名前が思い浮かびます。
あんな殺意を向けられたら怖いです。
でも、今の顔さえ覚えられないほどの関心のなさに比べたらマシのような気もするのです。
僕は空気ではありません。
人間なんです。
あなたの生徒です。
今日も喉の奥に出かかった言葉を呑みこんで酒場をあとにします。
夜風が身に沁みる中、ゆっくりと荷車を引きます。
無常な気持ちが込み上げてきて、それが切ないという感情だったことに気付いたのは、ずっとあとのことでした。

***

翌日は学校が休みでした。
午後から夕方まで練習の時間ですが、これも普段通りに家を出て、森でみんなと落ち合うと、思い思いに過ごしました。
他の子たちもそろそろ飽きてきたのか、ぼんやりと寝転がって空を見上げています。
自分たちのしていることが無意味に思えているのでしょう。
状況はまったく変わっていませんでした。
僕たちが練習へ行っていないことも露呈されていません。
もっと早い段階で気づかれてしまうと思っていたのに拍子抜けでした。
といって、誰も練習しようとは言いません。
僕はみんなと同じように柔らかい草に横臥し、吹く風を頬に受けながら、ヴァイオリンが弾きたいという思いを募らせていました。
指先が疼くのです。
楽器の重さや弦の感触が体に染み付いていて離れないのです。
こんな気持ち初めてでした。
僕も今までどこか無理矢理やらされているという感覚だったのかもしれません。
それが、今度は楽器に触れるなと言われて、初めてもどかしい思いをしたのです。
当たり前のように練習をしていた時は気付かなかった感情です。
その当たり前がなくなった時、僕は生活の中で占めていた音楽の大きさを実感しました。
多分、オリバーたちがストライキを起こさなければ、一生気付かなかったかもしれません。
音楽が欠けた今、僕の生活はなんて退屈で色褪せているものなのでしょう。
僕はみんなと他愛ない話をしながら、ある決心を固めていました。

その夜、僕は練習場所のホールへヴァイオリンを弾きに行くことにしました。
自宅で弾けば誰かに聞かれてしまう可能性があるため、練習が終わる時間を見計らってホールへ忍び込もうとしたのです。
我ながら大胆な計画だと思いました。
でも、どうしても弾きたくてたまらなかったのです。
建物は一階が個室や会議室になっていて、二階に全員が集まって練習出来る大広間があります。
夜のホールは森閑として、まるで息を潜めるように建っていました。
城のすぐ近くにあり、町から少し外れているため、ホールの前の舗道には人通りすらありません。
僕は裏口へ回ると、一階のとある部屋の前に顔を出しました。
中は真っ暗で何も見えません。
この部屋の窓は鍵が壊れて閉められないことを、音楽団のメンバーなら誰でも知っていました。
音を立てないよう慎重に窓を開け、周囲に人がいないことを確認すると、軽やかにジャンプして室内へ入り込みます。
持ってきたランプに火を灯すと仄かな光が辺りを包みました。
(こんな時間じゃ誰もいないだろうけど)
何が起こるか分かりません。
元々気の弱いところがあって、侵入後も足音を立てないよう気を配って歩きました。
建物内に誰もいないことを確認しようと廊下へ出て、ゆっくりと見て回ります。
僕たちのために建てられたホールは、新しいせいかどこか寒々しく無機質に見えました。
夜のホールに忍び込むのは初めてです。
暗がりにひとりでいると、幽霊でも出てくるんじゃないかと肝を冷やしました。
しかしそれ以上のヴァイオリンへの思いが、こうして僕を突き動かすのです。
怒り心頭のオリバーには、もうやめようとは言えませんでした。
そういう臆病な自分があまり好きではありませんでした。
水を打ったように静かな一階をすぎると、奥の階段で二階へあがりました。
窓から月明かりが差し込んで、階段は青白い光で満ちています。
カタン――。
その時、不意に物音が耳を掠めました。
僕は反射的に息を止めると、階段の途中で止まります。
ランプの明かりを隠すように手で覆いました。
じっと階段の上を睨むように見上げ、恐る恐る足を踏み出し、入り口から大広間を覗き込みます。

「…………っ」

するとホール内には黒い影がありました。
僕は幽霊が出たと咄嗟に悲鳴を殺しました。
息の合間に漏れる驚きを手のひらで覆い、なんとか声にすることを抑えました。
もし本当に幽霊ならば一目散に逃げていたでしょう。
しかし、視線の先にいた黒い影は、おもむろに何かを取り出し、ゴソゴソと動くと、タバコを吸い始めたのです。
ふぅっと白い煙がたちのぼり、赤い炎が見えました。
それだけで得体の知れない化け物から急に現実へ引き戻されて、生身の人間であると冷静に見ることが出来るのです。
しかし化け物であることより、それが誰かということに驚かされました。
エオゼン先生だったのです。
先生は思いがけない場所で出会うから心臓に悪い人です。
僕はランプの明かりを悟られないよう隠しながら、開いた扉の隙間から中の様子を窺いました。
暗がりでひとり佇むエオゼン先生は、表情も分からず、何を考えているのか定かではありません。
その黒で塗りつぶされた横顔は、抱える孤独の色を表しているようで、むやみに立ち入ってはならない気がしました。
まるで今日、世界が終わるような物悲しさを感じたのです。
(……もしかして、僕たちが来るのをずっと待っていたのかな)
唐突に芽生える罪悪感。
この一ヶ月間、毎日エオゼン先生が僕たちを待っていたとしたら、なんて酷いことをしてしまったのでしょう。
途端に自分が罪人のように思えていたたまれなくなりました。
オリバーや罵声を浴びせられてきた人たちならば、ざまあみろとせせら笑ったでしょうが、僕は何も言われていません。
意地悪をされたこともありません。
ただみんなの言う通りに従っていただけなのです。
そんな自分を嫌なやつだと責める声が聞こえてきそうでした。
(帰ろう)
帰って明日、オリバーに話そう。
エオゼン先生は暗くなっても団員を待っていたことを話せば、少しは気持ちが落ち着くかもしれない。
見直してくれるかもしれない。
そんな健気さで僕は踵を返そうとしました。
――しかし、先に動いたのは影のほうでした。
コツコツと響いた足音に、帰ろうと背を向けていた僕は振り返り、再び扉の間を覗き込んだのです。
エオゼン先生は何を思ったのか、タバコを踏み消し、ホールの奥へ歩き出すと、後ろに置かれてあった楽器の中からヴァイオリンケースを持ってきたのです。
僕が困惑していることなど露にも知らず、おもむろにケースを開けると楽器を取り出しました。
ヴァイオリンに触れる直前、僅かな躊躇いが指を迷わせたことを、僕は見ていました。
エオゼン先生はそれでもヴァイオリンを構えると、慣れた手つきで弦を弾きます。
チューニングで使うラの音でした。

「―-――-っっ!」

僕は瞠目しました。
こんなにも美しいラの音を聞いたことがなかったからです。
ランプを持つ手に鳥肌がたちました。
その鳥肌がまるで生き物のように両腕へ広がり、背中の震えが奔馬の勢いで脳へと駆け上がったのです。
たった一音だけ。
その音だけで胸の奥を鷲掴みにされたような気がしたのです。
いえ、気ではありません。
確かに彼の放った音は、僕の肉体の奥に眠る魂を掴んだのです。
その衝撃に呆然と立ち尽くしていると、舌打ちした彼は、ヴァイオリンを構え直し、曲を弾き始めました。
しかしそれは先ほど魂を掴まれたラの音とはまったく違いました。
そもそも曲でも音でもありません。
強いて言うのなら、暴力――でしょうか。
唐突に始まった演奏は、まるで人を打ちのめすような攻撃的な曲で、エオゼン先生は狂ったように激しく荒々しくヴァイオリンを奏でました。
同じ楽器が放つ音色だとは到底思えません。
まるでそれは悪魔の音楽でした。
僕の鼓膜を強引に犯し、頭を引っ掻き回し、脳髄を引きずり出さんばかりの迫力があったのです。
僕はたまらずその場に座り込むと、悶えるよう床にランプを置き、己の耳を塞ぎました。
直に聞いていたら頭が割れてしまうと思ったのです。
荒れ狂わんばかりに弾き続けるエオゼン先生に、曲は激しさを増し、もはや戦慄を覚えるほどの凄みで僕を圧倒しました。

次のページ