5

***

僕はその日の夕方、何も持たずに音楽院を去った。
持ってきたものはすべてなくなってしまった。
音楽院は理事長と学院長がいなくなったことに大騒ぎで、早くも次を決めねばと混乱していた。
引き留める者はいない。
寄宿舎を出るまで僕を見る奇異の目はやまなかった。
そうして王都をあてもなく歩く。
早々に退学した僕だが、頼れる人なんていなかった。
持っていた僅かばかりのお金では実家に帰れないし、帰れるわけがない。
(はぁ、どうしよう)
こういう時、己の無力さがどうしようもなかった。
どれほど甘やかされて育ってきたのか実感する。
僕はひとりで生きていく術を知らないのだ。
(ヤマトは凄いな)
彼は年下なのに異国の地で生きている。
今は城で厄介になっているとはいえ、元々は吟遊詩人としてひとり逞しく生きてきたのだ。
僕が同じ状況になってもその辺で野たれ死ぬのが関の山である。
だってお金の稼ぎかたすら知らないのだ。
ただ出された物を食べて、買ってきた服を着る、寝る場所の心配も食べ物を得る苦労も知らない。
僕は己の無知さ、非力さに嫌気がした。
そうして辿り着いたのは運河だった。
アルドメリアは貿易が盛んな国で王都には巨大な運河が流れている。
その橋の途中で止まると、ぼんやり空を仰いだ。
だいぶ低くなった夕陽が広い運河の彼方へ沈もうとしている。
東の空にはとっくに姿を現した一番星が煌煌と光っていた。
一昨日の夜、こうしてクラリオン大佐とここで話したことを思い出して胸の奥が切なくなる。
もう一度会いたいなんてこんな状況で思ったりして苦笑いが口元を霞めた。

「ミシェル殿か……?」

するとそこに呟くような声が聞こえた。
忘れるはずのない甘く響く低音に振り返ると瞠目する。
橋の端には夕陽の光を受けて眩しそうに立つクラリオン大佐がいた。
手にはたくさんの荷物を持っている。
綺麗に包装されているところを見るに、帰省する際の土産だろう。
彼には兄弟がいると訊いている。

「クラリオン大佐……っ」

僕は自分の格好を思い出して慌てた。
ほかの服は破られてしまい制服のままだった。
音楽院の生徒はひとめで分かるよう水色のワイシャツと校章入りの白ジャケット、同じ色のズボンにタイをしている。
宮廷や礼拝堂で演奏する時も身につける、いわば生徒である証だった。

「ぐ、偶然ですね」

僕は大佐を直視出来ず、目を逸らしてしまった。
広い街中でようやく知り合いに会えたのに。
しかもあのクラリオン大佐だ。
だが、ここで甘えてはだめなのだ。
安堵から張りつめていた糸が切れそうになって歯を食いしばる。
情けない姿を見せたくなくて気丈に振る舞った。

「これからご実家へ向かわれるんですよね。それは土産ですか?きっと喜ばれると思いますよ。僕もアルドメリア産のお土産が嬉しくて、よく父に買ってきてもらったりして――」

当たり障りのない言葉がペラペラと出てきた。
まるで核心から逃れるようにくだらない話をした。
そもそも忙しい大佐に僕との会話なんてする暇はない。
だが、言葉が途切れるのが怖くて口が閉じられない。
無言に耐えられない。
一度声をなくせばなし崩しに壊れてしまいそうだった。

「あ、わ、わたしもそろそろ寄宿舎の門限が――」
「ミシェル」

するとクラリオン大佐は鋭い声で僕の言葉を遮った。
それにぎくりと顔を強ばらせる。
自分の弱さを見透かされた気がしたからだ。
自然と目が泳ぎ思考を巡らそうとするが断片的に途切れて使い物にならない。

「少し黙ってくれないか」
「……っ、す、すみません」

僕は失礼なことをしたと体を震わせるが、クラリオン大佐は僕の傍まで寄ってくると隣に並んだ。
欄干に身を預け、橋から沈む夕陽を眺めている。

「見ろ」
「え?」
「俺はここから見る夕陽が好きなんだ」

彼はゆっくり空を仰ぐ。
僕もつられたように顔をあげた。
運河は夕陽を浴びて血のように赤い。
だが、不吉というより温かく、ほんの僅かな切なさを混ぜた色をしていた。

「俺は今まで色々なところで戦ってきた。君は俺を好きだと言ったが、戦場での俺を見て同じことを言えるかと疑問に思う」
「………………」
「どんなに綺麗ごとを述べようが、例え英雄として讃えられようが、俺のやっていることはただの殺戮だ」

すると彼は手のひらを差し出した。

「見ろ。無数の傷跡がいまだに消えず残っている。君の美しい手とは正反対のものだ」
「そんなっ」

僕が否定しようとすると、彼は無言で首を振り、僕の手のひらを見つめた。
達観しているような眼差しだった。
夕陽を受けて赤い顔が柔らかく微笑む。
まるで静かな水面を連想させるような穏やかな表情だった。
彼の心は揺れない。

「だが、どこへ行っても夕陽を見ると思い出すんだ。自分が英雄でも殺人鬼でもなく、ちっぽけな人間であると。だって君もこの夕陽を美しいと思うだろう?」
「っぅ」
「同じだ。俺とミシェル殿は一緒なんだよ」

一緒という言葉が僕の琴線に触れたのか、知らない間に涙が頬を伝っていた。
止める間もなかった。
気付いた時には流れ落ちた涙が大佐の傷だらけな手の上に落ちていたのだ。
それでも彼は表情を変えはしなかった。

「仮面舞踏会の時も思った。どうして君はそんなに寂しそうな顔をするのだろうか」
「……ぼ、ぼく……」
「すまない。実は少し前から橋の向こうで君を見ていた。すぐ声をかけようと思ったのだが、君の姿があまりに儚く見えて声をかけられなかった」
「……………」
「だが、幻じゃなくて良かった。だってこうして涙を拭ってやれるだろう?」

クラリオン大佐はそっと僕の目尻に溢れた涙を拭ってくれた。
痛々しい手。
何度も死線をくぐり抜け、多くの屍を踏み越えてきた手のひらが僕を慰める。
途端に僕の心は弾けた。
濁流のように押し寄せてくる昂りを抑えられなくなった。

「う、わあああああああああ」

まるで赤子のように声を張り上げて泣き崩れた。
それまで我慢して我慢してきた涙の粒が一斉に溢れた。
泣きわめくような甲高い声に、道を行く多くの人が訝しそうに見ていたが、大佐は動じるどころか僕の背中に手を回してあやすように撫でてくれた。
僕の不安を見つけてくれた。
隠していた涙を見つけてくれた。
これまで、ぬるま湯に浸かっていた己の脆さに嫌悪しながらも、どうにか這いつくばって音楽の道を生きてきた。
弱さを打ち解ける人も出来ないまま続く嫌がらせ、虐め。
どうにかしたかったのに、どうにもならない現状。
帰る場所のない孤独。
人生において支えにしていた音楽が手のひらからこぼれ落ちる。
蘇るのは残骸と化したヴァイオリン。
今はもうヴァイオリンの音色さえも聞きたくもなかった。
あれだけ好きで大切にしたかった物が次々に消えていく喪失感にのたうち回りたくなった。
胸を締め付けるような寂寥感を捉えて涙が次々に零れる。
僕にはもう何もなかった。

「うむ。泣く元気があればもう大丈夫だ」

だが、泣きじゃくる僕に、クラリオン大佐は嬉しそうにはにかんだ。

***

僕はクラリオン大佐の帰省に同行することになった。
彼は事情を聞こうとせず、「もし平気なら一緒に来ないか?」と、誘ってくれた。
その心遣いが今の僕には身に沁みた。
翌日の早朝、まだ夜が明けたばかりの爽やかな時間帯に目覚めると、王都からだいぶ離れた町に来ていた。
大佐の生まれ故郷はアバンタイという職人の町で、森に囲まれた長閑な場所にあった。

「素直に田舎と言っていいんだぞ」
「いえ、僕の故郷なんかもっと田舎でした。野原と森と山しかないんです。だから栄えてるなぁって」
「君は面白いことを言うな」

大佐は愉快そうに口元を歪ませた。
彼が笑うと途端に優しい雰囲気になる。
僕はその空気感が好きだった。
二人は揃って窓からの景色を眺める。
王都より気温が高いのか、二月だというのに緑が多かった。
見事な叢林地帯を抜けると、あとはなだらかな平野が続き、町が見えてくる。
馬車を降りたのは町の入り口で、御者は大佐からチップを受け取ると、元来た道へと戻っていった。

「さ、行くぞ」
「はい!」

僕らは並んでアバンタイの町を歩き出す。
工業が盛んな町は百数十年前から変わらないらしく、家々が肩を寄せるように密集していた。
石畳やレンガの建物は色褪せてほどよくくすみ風情ある町並みになっている。
その間を糸のように細い川が流れ、いたるところに橋がかけられていた。
歩いているとそこかしこに鉄を叩く甲高い音や、機織りの軽快な音が聞こえてくる。
店の上が住居となっている家が多く、二階の窓からは色とりどりの洗濯物が垂れ下がっていた。
町の中央には立派な城が聳え立ち、そこの大通りには早朝から市場がたっているらしく賑やかな声がここまで届いてくる。
まだ早い時間なのに、結構な人が路地を歩いていた。
ひとつ小道を入れば迷路のように複雑で、どこも同じレンガ造りなせいか見分けがつかない。
ひとりで歩いたら迷子になりそうだ。

「あまりきょろきょろしているとはぐれるぞ」
「あ、すみません」

好奇心の赴くままに見て回っていたら、隣にいたはずの大佐がだいぶ前を歩いていた。
彼は足が速い。
ついていくだけでも大変なのに、辺りを見ながら歩いていたら遅れるに決まっている。
僕が駆け足で大佐のもとまで行くと、彼はすっと道の向こうを指した。

「あそこが俺の家だ」

こじんまりとした三階建ての家は、一階が店舗となっていて黄緑色の看板がかかっていた。
大きな扉は開けっ放しになっていて客だろう男女が出てくる。
その後ろをふくよかなご婦人がついていくと、

「またどうぞー!」

お辞儀をして客に手を振る。
それを遠くから見ていた大佐は恥ずかしそうに顔を背けて、

「あれが母だ」

と、小声で呟いた。
すると僕らに気付いた婦人が目を輝かせて駆け寄ってくる。

「クラリオン!遅かったわね」
「俺が遅いんじゃなくて、この町の朝が早すぎるんだろう」
「何言ってるの。ここは職人の町よ。朝は早いに決まっているじゃないか。市場は見ただろう?もう大賑わいだ」

見るからに人の良さそうな大佐のお母さんは元気で威勢も良く、いかにも女将さんという感じだった。

「ん、そちらは……?」

するとようやく彼女が僕を見る。

「ああ、彼はミシェルだ。わけあって帰省に同行してもらった。彼の部屋は俺の部屋でいいから」
「手紙で書いただろう。クラリオンの部屋はフィデリオが使ってるよ」
「え、じゃあ俺たちは」
「三階の上にある屋根裏を片付けておいたからそこで寝なさい」
「あそこは狭いだろ。男二人なんて」
「しょうがないだろう。うちは狭い上に人が多いんだ。お客さんを連れてくるならもっと早く言いなさい」

大佐といえども母親には弱く、彼は一方的に言い負かされた。
僕は己の立場に肩身が狭く見守る。
するとそれを察したのか、大佐のお母さんは僕を見て零れるような笑顔を向けると、

「騒がしくてごめんなさいね。この子の母親でドリスと申します。さ、案内するからどうぞ」

と、大佐の荷物を軽々抱えてさっさと行ってしまった。
そのあとを大佐が「持つから」と追いかける。
僕もそれに倣ってあとへ続いた。
クラリオン大佐の実家は代々続く靴屋で、製造から修理まで行っている。
現在は父親が店主となり、大佐の弟であるフィデリオが見習いとして働き、ドリスさんと三人で店を切り盛りしていた。
彼の家は両親、大佐、弟が二人に妹が一人と六人家族で賑やかだった。
僕の家も四兄弟の六人家族なせいか、妙に懐かしい気持ちになった。

「狭い家で悪いな」
「いえ、そんなっ…泊めていただけるだけでありがたいです」
「俺は居間に寝るから屋根裏部屋には君が寝てくれ」

家族全員を紹介され、屋根裏部屋に案内されると大佐にそう言われた。
たしかに部屋はベッドひとつでギリギリ、二人では少々窮屈だろう。

「だめです、大佐がこちらを使ってください!カメリアから戻られて疲れているのに、居間では体を休められません」
「客人を居間に泊めることこそ出来ない。いいから君がこの部屋を使いなさい」
「いいえ大佐が――」

どちらも譲ろうとせず、押し問答となってしまった。
すると、それを聞きつけたドリスさんが階段を上がってきて、

「ああもう、だからここに二人で寝なさい!それ以外は認めませんからね」

と、鼻息荒くもう一人分の毛布を置いて、また店へ出て行った。
ドシドシと階段を下りていく音を聞きながら二人ともその迫力に固まる。
残された僕らは顔を見合わせると、

「……じゃあ、それでいいか?」
「は、はい」

頷くしかなかった。

遅めの朝食を大佐の家でとると、彼は城へ挨拶に行くそうで、僕はひとり町を見て歩くことにした。
すると弟のアロイスと妹のエルザが追いかけてきた。
二人はまだ十歳ほどで、大佐とはだいぶ年が離れている。
彼が入隊したあと出来た弟妹らしく、滅多に会えないから兄弟というより親戚のおじさんと甥姪のようだと言っていた。

「かくれんぼ?僕、得意だよ!」

二人は僕の手を取ると町はずれの広場まで連れて行ってくれた。
そこにはいつも遊んでいるメンバーらしい子どもたちがいて、僕も仲間にいれてくれた。
鬼ごっこやかくれんぼ、虫取りは実家で兄たちとよく遊んだものだ。
僕は童心に返ったように無我夢中で遊んだ。
音楽の道を志してからあまり無茶な遊び、とりわけ手を怪我しそうな遊びは我慢してきたが、この日は構わず遊んだ。
アロイスとエルザは大はしゃぎだった。
僕がそこまで出来ると思っていなかったようだ。

「お兄ちゃんいいとこの坊ちゃんかと思った」
「え?」
「お母さんが有名な学校の制服を着てるっていうから」
「あ……」

僕は音楽院の制服のままだった。
やはりこの格好は有名らしい。
王都にいた時はほとんど外に出なかったし、たまに買い物しに出かけても私服にコートを羽織っていたから気付かれなかった。

「ぷはは、ドロドロだ!」

すると、アロイスは僕を見て腹を抱えながら笑い転げた。
遊んでいる最中に汚れてしまったのだろう、白いジャケットとズボンが真っ黒になっていた。
ほかの子どもたちも間抜けな姿にケラケラ笑っている。

「ぷ……ぷぷっ……あはっははははははは」

僕も妙におかしくなって、子どもたちにつられたように笑ってしまった。
何が面白いのか定かじゃないのに笑いが止まらない。
広場には子どもたちの笑い声が響いた。
邪気のない、まるで宝石のようにキラキラと光る音が僕の塞いでいた心を砕いていく。
腹の底から笑うと、それまでにあった辛いことや苦しいことが弾け飛んでいくようだった。
そうしていると町に鐘が鳴った。
昼の合図に礼拝堂が鳴らすのだ。
子どもたちは昼ご飯を食べようと、それぞれ別れを告げて家へ帰る。
僕らも帰ろうかと広場をあとにしようとすると、

「ミシェル殿!」

その入り口にいた大佐と目が合った。
私服に着替えた彼が軽く手を挙げる。

「また盗み見ですか?」

僕がおかしそうに言うと、大佐は皮肉混じりに唇を緩めた。

「君は俺の前だと堅いからな」

痛いところを突かれて口ごもる。
(だって憧れの人だし)
ぎこちなくなるのは仕方がないじゃないか。
今だって大佐が目の前にいる、こうして話をしているなんて夢なんじゃないかと思ってしまう。
目を閉じれば出立式の大歓声が蘇る。
あの時は、まさかその歓声の中心にいた人物の実家に厄介になっているなんて思わなかった。
青天の霹靂とはこのことである。

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