6

翌朝のテレビでは各局そろって昨夜の秋雨を詫びていた。
気象庁でも昨日の寒さは異例のようで、夜の気温だけなら十一月上旬だと騒いでいた。
続く異常気象に予報も大変で、生業にしている人から見れば頭の痛い問題である。
だが予報が外れたところでクレームをつけるような視聴者は少ないだろう。
あくまで予報なのだから仕方がないと諦めに似た理解を持っているからだ。
天気を操ることが出来ないのだから仕方がない。
日付が変わるころ雨があがり、東の空に陽が昇ったころには暑さが戻っていた。
湿気によって蒸し暑さが纏わりついたが、昨日までの暑さとどこか違うのは、季節の移り変わりを肌が感じとったのか。
夏からいきなり冬はやってこない。
夏が終わり、西から東へとやってくる偏西風に高気圧と低気圧を繰り返し、季節は移ろう。
雨が降るたびに冬へと近付いていくのだ。
だから昨夜までと違うと思ったのもあながち間違いではない。
――が、弓枝の場合、もっと大きな意味で変化をしいられた。
それこそいきなり冬になったような心持ちにさせられてしまった。
昨日までとまったく違う心境でテレビを見ながら朝食を済ますと家を出る。
その足は限りなく重い。
問題は二つあった。
それは昨夜桃園にキスをされたこと、驚きのあまり彼を殴ってしまったことだ。
なぜ同性のクラスメイトにキスをしたのか、理解の範疇を超え見当がつかない。
しかし原因が自分にあることは把握していた。
見る見ないで揉めたことが少なからず関係していて、それはきっと弓枝が悪いのだ。

「コホッ……」

厳しい秋雨に打たれて風邪ぎみなのか時折咳をする。
何も考えられないまま帰宅して、風呂も入らず髪を乾かすこともせずベッドに入ったせいだ。
翌朝起きてみると体がだるくて熱っぽい気がした。
そのせいか思考の働きが鈍く、断片的に思い出せない部分がある。
(あいつ、冬木がどうとかって言っていたよな)
なぜあの場面で冬木の名が出てきたのか不思議だった。
彼の名前はほんの数日前まで知らず、その程度の関係だったことは桃園も知っているわけで、気にする必要はない。
なぜ必死だったのか曖昧で、霞かかった記憶がもどかしかった。
彼の態度がいつもと違って、あんな展開になってしまった。
そして結果的に弓枝は桃園を力に任せて殴り、傷を負わせてしまった。
切ったところは痛くないだろうか。
風邪は引いてないだろうか。
あんなところでひとり置き去りにして逃げてしまった。
キスをしたことよりそちらの方が気になって頭を悩ませた。
まずは殴ったことを謝るべきで、他は後回しにしよう。
でなければ唇に残った感触に囚われる。
一晩中思い出しては不鮮明な感情に支配された。
全身が心臓になったように響く鼓動はうるさすぎて眠れなかった。
ようやく眠れたのは朝方の薄日が射し始めたころで、実質一時間くらいしか寝ていない。
重い体を引きずるように桜並木の坂をのぼった。
周囲の楽しそうな声は耳に入らず、これからのことを考えては嗄れた息が漏れる。
見えてきた校門になんとも言えない気持ちを抱いたのはどうしようもないことだった。

ようやく辿り着いた教室に意を決して入ると、桃園は席に着いていた。
前に冬木が座り楽しそうに喋っている後ろ姿が見える。
(ちゃんと謝らなくちゃ)
弓枝は一度深呼吸をすると覚悟を決めて室内へ入った。
彼との距離が徐々に縮まる。
自分の席へ向かうのにこれだけの気力を要するなんて初めてだ。
鞄を持つ手が震える。

「あ、弓枝」

先に気付いたのは冬木だった。
何も知らず暢気な顔で手を振る。
だけど構う余裕がなくて小さく頷くと、彼は首を傾げて瞬きした。
後ろの席の桃園が振り返る。

「おはよ、弓枝」

(え……?)
なんだろう。
そう言って笑った顔はいつもと同じなのに、突如違和感が走った。
思わず声をかけようとした言葉を呑み込むと目を疑う。
同時に肌が粟立って背筋がゾクリと震えた。
同じ表情、声、口調、どこにも変化はないのに、まるで知らない人に話しかけられたみたいだった。
いや、確実に知らない桃園だった。
(誰だ。こいつ)
途端に冷や水をぶっ掛けられたような寒気が襲う。
頭の先から血の気が失せていくのを肌で感じた。
目に見えない線引きが見えてしまったからだ。
距離を置かれている。
桃園は笑顔で避けている。
ずいぶん器用な芸当だと感心すらしたくなった。
昨夜のせいだと瞬時に悟るもこのままでいいわけなく、相手がそうなら自ら切り出すしかない。
ここで逃げ出したくなかった。
本当は一瞬でも弱気が顔を出せば、すぐにでも怯んでしまいそうだった。
どうにかこらえてその場に留まると、ようやっとの気持ちで机に鞄を置く。

「桃園、昨日のことだけどさ」

口もとが僅かに赤くなっていた。
昨夜殴られて切ったせいだろう。
強張ったままの顔で何とか切り出すが、相手の態度は変わらぬままだった。

「なに? 昨日のことって」
「は?」
「ああ途中で別れたこと? あなた、雨平気だった?」

(しらばっくれるつもりか)
急に頭が真っ白になって働かなくなった。
学校に来るまで散々悪い反応を想定してきた。
もしかしたら怒鳴られるかもしれない。
もしかしたら気まずい態度で上手く話が出来ないかもしれない。
もしかしたら無視をされてしまうかもしれない。
しかし実際の反応は違った。
上記のどれにも当てはまらず、いつも通りなのに根本がなかったことになっていた。
(これも無視に違いないが)
それなら最初から声をかけず、声をかけられても返事をしたりしないで欲しかった。
変わらぬ態度で避けられることは、より人を傷つけると彼は知らない。
否――もしかしたら知った上での行為なのか?

「だからっ……その、昨日の言い合いだけど……」
「言い合い? 俺たち言い合ったっけ」
「お前、本気で言っているのか。それとも怒ってるのか?」
「やだなぁ。俺は何も怒ってないよ。だからそんな顔しなさんなって」

どんなに向き合おうと言葉にしても相手に伝わっていない。
軽く横へ流される。
端から見れば他愛もない話をしているように思えるが、当人ではまったく空気が違った。
(会話をしながら無視することが出来るのか。目の前にいながら人の存在を消すことが出来るのか)
表面だけを取り繕った会話などゴミ同然である。
桃園の顔は引き攣りもしていなかった。
あくまで穏やかに形の良い口許で笑みを浮かべている。
なのに目はこちらを向いておらず、意図的に外されているのだと嫌でも気付いた。
それなら誰が見ても分かるような無視をされた方がマシである。
中身のない対話を望むほど苦痛なことはなかった。
(「桃園がヘラヘラしてるの嫌だった。そのくせ簡単に人を傷つけるから腹立った」)
ふと蘇った冬木との会話に二の句が継げない。
交わらない視線。
かみ合わない会話。
そういうものを正面から突きつけられて言葉を失った。
意気込んでいた分ショックは大きく胸を詰まらせてしまう。
正直、いまだに何が起こっているのか分かっていない。

「ま、とにかく季節の変わり目なんだから気をつけなよ」

桃園はいつものように端正な顔で笑った。
上品な唇には冷ややかな笑いの影が見える。
弓枝には狡そうな笑い方に見えた。
まるで昨夜の出来事はなかったのだと、二人の間には何もなかったのだと決定付ける顔だった。
(こんな桃園知らない)
ここで別人だと騒いでも、誰も取り合ってくれないだろう。
クラスの全員が知っている桃園。
でもきっと誰も知らない桃園。
もう一度声をかけようと逡巡していたが、チャイムが鳴ってしまった。
慌てて他の生徒が席に戻ろうとする中で、何とか自分の席に座る。
なぜか手に力が入らなくて教科書を取り出すことさえ出来なかった。

「弓枝」

その時、立ち上がった冬木が神妙な顔つきでこちらを見ていることに気付いた。
鋭い視線に動揺するが、ここでうろたえても状況は悪化するばかりである。
弓枝は冷静を装うとさっさと席へ戻れと促した。
敏感な彼なら二人の変化に気付くだろう。
ここまでされていながら気のせいだと思いたかった。
信じたくなかった。
弓枝はただ現前とした事実を受け入れられず現実逃避をしようとしていた。
大丈夫。
次に声をかけた時は昨夜までの彼に戻っている。
また他愛もない話が出来るようになっている。
だからここで話を大事にしたくなかった。
冬木を巻き込みたくなかった。
それでも彼はその場から去らなかった。
桃園も席へ戻れと促すが、彼に対しては顔を向けることすらしなかった。

「弓枝」
「大丈夫だよ。何もない。さっさと戻れ」

言い聞かせるように言うと、ようやく冬木は自分の席へ戻っていった。
教師が注意しているのも気付かず、チラチラと弓枝の様子を窺っていた。
最後に目が会った時、弓枝は無言で首を振った。
顔の筋肉を精一杯使って口元を引き上げると笑みを作った。
以後、冬木の方は見ず、授業に集中することにしたから、そのあとも彼が見ていたかは知らない。

次に桃園と話す機会が出来たのは、昼休みになってからだった。
一日中彼の背中を見ながら弓枝はひとつの事実に気付いた。
今までずっとなぜ桃園と話せていたのか。
答えは簡単だった。
彼が弓枝と話そうと気遣い構ってくれていたからだ。
朝以来一度も振り返ることのない大きな背中は壁のようだった。
休み時間や移動教室、さり気なく声をかけてくれたのはいつも桃園で、それがなくなった今、二人の間に会話はなくなった。
チャイムが鳴って教師が出て行くと、教室は昼休みの開放感に騒がしくなる。
冬木が来る前に桃園を連れ出そうと立ち上がった。
後ろの席なんだから肩を叩いて呼べばいいのに、その勇気もなかった。
席を立つと彼の前に回る。

「桃園。話がある」

弁当を取り出そうとしていた桃園はいきなりのことに驚いて目が合った。
久しぶりに正面から彼を見たと思った。
しかしそれも束の間で逸らされた瞳に胸が痛くなる。

「あ、ああ。何?」

代わりに向けられたのは作り直された爽やかな笑顔で、胸糞が悪くなった。
それでも弓枝はどうにかこらえて席の前で仁王立ちになった。

「昨日のことでちょっと顔貸せよ」
「まぁまぁ、ちょっと待ちなさいって。落ち着いて」
「落ち着いていられるか」
「うーん。怒ってる弓枝も男前だねえ」

桃園は決して真面目に取り合わなかった。
茶化されている。
上手く誤魔化されている。
それは弓枝を酷く傷つけた。
彼はこれまであまり人と関わってきたことはない。
いつも地味で、友人も面倒だからと他の生徒に深入りすることはなかった。
孤独なわけではないが、群れているわけでもない。
程よいスタンスで接することは楽で心地好かった。
まるで鏡である。
目の前にいる桃園は以前の自分のように見えた。
面倒だと適当に流し、空気を悪くしない程度に身を引く。
中にはひとりでいる弓枝を気遣い、必死に仲間に入れようとした生徒もいたが、数週間で「こりゃだめだ」と諦め去っていった。
せっかくの好意を無駄にした。
その好意がこんなにも大きなものだと、この瞬間まで気付きもしなかった。
それくらい適当にあしらわれるのは悲しいことだった。
お前なんか嫌いだと言われた方がマシだった。
相手が桃園ならなおさら傷は深く抉られる。
それは今まで見向きもしなかった生徒と違って特別な人間だったからだ。

〝「へぇ、弓枝もこの本好きなんだ」〟

始まりは去年、図書室で声をかけられたときのことだ。
初めに思ったのは、自分の名前を知っていたんだという驚き。
次に思ったのは、自分以外にもあの本が好きなんだという喜び。
それは図書室の奥にひっそりと置かれていたシェイクスピアの詩集だった。
(そういえばあのときの本もシェイクスピアだった)
あれからすべてが始まったのだ。
進級してもあの出来事は忘れなかったし、桃園の存在も記憶に残った。
唯一気にかけるクラスメイトであったのだ。

「うそつき」
「え……?」

ポツリと呟いた言葉に桃園は目を丸くした。
(オレを知らなかったなんて嘘だろう)
もっと彼を知りたかった。
もっと彼を知りたくなった。
どうしてキスをしたのか、どうしてこんな風に避けるのか、そもそも――どうしてあの時声をかけてくれたのか。
知りたいことは山ほどあって、その山を切り崩すにはどうしたらいいのか考える。
ここで終わりたくないと思った。
もう少し自分に出来ることがあるのではないかと思った。
――が、事態は弓枝を待つはずもなく、唐突にひとりの生徒が飛び出してきた。

「いい加減にしろっ、桃園!」

ガツッ――という鈍い音と共に桃園の体が後ろに倒れた。
不測の事態に度肝を抜かれて振り返ると、見たこともないほど険しい顔をした冬木が拳を突き出して睨んでいる。
一瞬の出来事で把握するのに時間がかかった。
まさか冬木が桃園を殴ったとは思わなかったからだ。
途端に騒がしくなる教室の視線は二人に集中する。

「痛っ……ぅっ……」

殴られた拍子に床に倒れこんだ桃園は痛そうに顔を顰めて立ち上がった。
昨夜弓枝に殴られたところをふたたびやられたのか、傷口が酷くなっている。

「お前気持ち悪い! これ以上そういう態度をとるなっ」

弓枝を守るよう桃園の前に立ちはだかった冬木は、ふたたび拳を握り締め臨戦態勢を整えた。
それを気に入らないといった顔で桃園の目元が厳しくなる。

「冬木は関係ないでしょーが」
「ある!」
「はぁ?」
「ムカつくから俺には殴る権利がある」
「まったく、ずいぶん横柄な言い分だこと」

対峙した二人には険悪なムードが漂っていた。
普段あれだけ仲が良い分、殺伐とした雰囲気に押されて誰も声をかけられない。
弓枝ですらそうだった。
騒がしさが引いたあとの教室は不気味なくらい静まり返る。

「意地悪でニコニコ気持ち悪い桃園なんか大嫌いだっ」
「ああそう。じゃあ俺も遠慮なく殴らせてもらおうかな。気に入らないのは同じなんで」
「こいっ、バカタレ!」

今度は桃園が一歩前に出たと同時に右手を振りあげ冬木の顔面に当てた。
その拳をまともにくらうと、冬木は衝撃でよろけ手で頬を押さえる。
だが痛みに怯まず殴り返すと、また桃園の綺麗な顔が歪んだ。
それで負けるわけもなく、ふたたび冬木を殴ると、あとはもう分からなくなる。
クラスメイトが呼びに行った担任が教室へ来て、二人を引き離してもらうと、ようやく喧嘩は収まった。
だが桃園も冬木も謝ることなく、最後まで睨み合っていた。

「桃園なんか絶交だ!」
「勝手にしなさいよ。俺は冬木に絶交されたって痛くも痒くもない」
「ふんだ。ふーんだっ」

これだけ荒ぶる二人を見たのは初めてで、担任すら困惑していた。
どんなに問い詰めても喧嘩の原因は口を割らず、周囲で見ていた生徒も何が起こったのか分からず、狐につままれたような顔をするしかなかった。
弓枝も聞かれたが、どう答えていいか迷い「知りません」としか言えなかった。
よくつるんでいた彼らが目すら合わさなくなり、みな不思議そうに顔を見合わせる。
桃園はいきなり殴られたことに同情されていたが、例によって誰も相手にせず他人事のような顔をしていた。
冬木の悪口だけは許せなかったのか、口を漏らそうとした生徒を冷えた瞳で一瞥し黙らせた。
彼は分かっている。
普段から周囲に好かれている自分と少し浮いたところがある冬木では、二つに分かれたとき味方になる人間に差が出来ることを。
桃園の方が有利なのは当然で、だからといって冬木を悪者にする気がないことに気付いた。
むしろ庇っている。
絶交相手を庇っているなんておかしな話だ。
しかしあれだけの喧嘩を見せられて、より二人の絆の深さを知った気がした。
本当は誰より信頼し合い仲が良いのだ。
その絆が少しだけ羨ましかった。

放課後、せめて冬木には話をしようと探したが、先に帰ったらしく、下駄箱には靴がなかった。
責任を感じて胃が重くなる。
桃園の革靴もなくなっていた。
勉強する気分にもなれず、早々に学校を出る。
昨夜の雨が嘘のように雲ひとつない空は、まだ青さを保っていた。
帰るころにはいつも夕陽に翳った桜並木になっているのに、今日はまだ陽が高く木の葉の隙間から容赦なく日差しが射しこんでくる。
眩しさに目を細めると、ふいに桃園の声が聞こえた。
空耳かと柵の向こうを見れば、見間違えることのない長身と金髪頭を見つける。
柵の向こうはちょうど体育館へと続く外廊下で、園芸部が育てている花壇があった。
秋に向けて植えられたコスモスが風に靡き揺れている。

「ごめん。好きな人がいるから」

下級生だろう少女と向かい合った彼は、申し訳なさそうに頭を下げた。
(好きな人?)
また告白でもされていたのだろう。
偶然その場面に出くわした気まずさに足が止まる。
さっさと立ち去ってしまえば聞いていたことも知らん振り出来るのに、どうしても立ち止まってしまった。
麗しい顔立ちに口もとの絆創膏は似合わない。
頬は腫れたのか少し丸くなっていた。
下級生と向き合う桃園の横顔は真剣で、また違った顔を覗かせる。
いつもの軽々しさは消え、真摯な態度に思わず見入ってしまった。
振られた少女は泣きたいのをこらえてお辞儀をすると足早にその場から立ち去る。
秋の風が頬を撫でた。
擦れあった葉同士が音を奏で涼しげな響きを聞かせる。
さほど近くもない距離にいるのに、目が離せなかった。
まるで時が止まったように桃園を見続ける。
すると視線に気付いたのか、彼がこちらを向いた。
吸い込まれるような瞳の色に喉が鳴る。
(好きな人がいたのか)
先ほどの言葉を反芻して噛み締めた。
もちろん断る口実だったのかもしれないし、口から出任せの嘘だったのかもしれない。
だけどそう言ったときの顔は本気だった。
散々嘘の仮面を見せられたからこそ、真意を忖度出来た気がした。
あれは本当のこと。
桃園には好きな人がいる。
あんな顔をさせてしまう人がいる。
それに対して胸元が濁ったのはなぜなのか。
(誰?なんて、いつから?なんて訊けるか)
冬木の話では中学時代とっかえひっかえの彼女がいて、喧嘩以降、恋人を作っていない。
遊びはやめて本当に好きな人だけに絞ったということなのか。
それともその後に出来た好きな人を想っているのか。
色恋沙汰に疎い弓枝は、モテる男の気持ちが分からなかった。
サラサラと耳を撫でる音は心地好い。
桃園は今日のように目を逸らさなかった。
深く澄んだ瞳で弓枝を見つめ返す。
どちらも歩み寄ろうとはせず、一定の距離から見つめ合った。
その瞳は昨夜より甘く切なく、息が詰まる。
何もかもを忘れて元の関係に戻れたらいいのに――。
そう思いながら否定する自分がいた。
(元に戻ったって物足りないだけだ)
どの場面の顔も声もちゃんと覚えている。
そのときの気持ちも戸惑いも大切にしまわれている。
速まる鼓動に胸を鷲掴みにしたくなった。
割り切れない想いは落ち葉のように舞い降りてきた。
予期しておらず勝手だから困る。
もうあとには戻れない。
秋風が、匂いが、それを教えてくれた。
桃園に強く惹かれてしまったこと。
辿った細い糸の先にようやく答えを見つけた。
迷子だった気持ちを捕まえた弓枝は、その儚く清い想いに胸を焦がすのだった。

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