7

「はぁ……はぁ……」

イったあとの気だるさに、荒い呼吸を静めながら互いの温度を分け合う。
二人ともずいぶん早い絶頂に恥ずかしくなって言葉をかけられないでいた。
それくらい興奮していたのだ。
弓枝は初めての行為だったせいか、何が何だか分からないまま濁流に飲まれたような勢いと衝撃だった。
自慰するのとは快感も体力の消費も全然違う。
達したあと、急に全身が虚脱状態に陥ってに力が入らなくなった。
長風呂でのぼせた時みたいなだるさだった。
頭が真っ白になるというのはこういう感覚なのだろうか。
会話に詰まったり驚くべき出来事で思考停止することはあるが、それと今回のはまるで違う。
普段考えすぎの弓枝にとっては少し怖い感覚だ。
あのまま脳は快楽しか受け付けなくなるんじゃないかと思った。
頭が馬鹿になってしまうかと思った。

「ん」

桃園の息が首筋にあたる。
すぐ傍で聞こえる彼の吐息や皮膚を通じて伝わる鼓動がそんな弓枝の恐怖を和らげてくれる。
他人の重みを感じることがこんなに幸せだなんて初めて知った。
肌と肌の触れ合いがこんなに満たされた気にさせてくれるなんて初めて知った。
相手が桃園でなければ気付かなかったことだ。

「はぁ…はぁ……やばい。ここで死ねたらサイコーだよ。腹上死なんて興味なかったのに」

しばらくして桃園は砕けたように笑った。
気恥ずかしさが先行して何も言えずにどぎまぎしていた弓枝を気遣うような口調だった。
こんな時でも場の空気を読んでおちゃらける彼が愛しい。

「アホか。こんなとこで死なれたら困る」

弓枝はふいっと顔を逸らし口を尖らせて呟いた。
息も交わるこの距離では照れ隠しは通用しない。
だが目を合わせられなかった。
セックスをして痴態を晒して平然と振舞えるほど図太い神経の持ち主ではない。
(はぁ、乙女思考はどっちだ。顔さえ見られないなんて)
目が悪くて良かった。
コンタクトをしていなくて良かった。
レンズを通せば見えすぎる視界に弓枝の心臓はきっともたない。
死んでしまうのはきっと弓枝のほうだ。

「あはは。一応男のロマンなんだけどね」

桃園もそれに気付いているはずである。
(なら、桃園はどんな顔をしているのだろう?)
口調だけならいつもと変わらない。
声色も落ち着いている。
さすが学校一のモテ男であり、こういう状況でも余裕があるのだ。
しかし弓枝は、今彼がどんな表情をしているのか気になった。
弓枝自身、今の自分がどんな顔をしているのか分からなかったからだ。
勇気を出して手を伸ばすと、彼の頬を包みこんで見上げた。
ぼやけた視界では桃園も曖昧にしか見えない。
そのままペタペタと指で表情を探るように手を這わした。

「な、何?」
「確かめてるんだ」
「何を?」

桃園は声を震わせた。
まるで動揺を悟られないよう意識しているような声の出しかただった。
頬に触れていた手のひらが一段と熱くなったのは気のせいか。

「眼鏡どこに置いた?」
「あっ、ごめん」

桃園は起き上がると、慌てたようにベッドの下から弓枝の眼鏡を取り上げた。
それを返すと弓枝は眼鏡をかける。
クリアになる視界。

「ああ、やっぱり」

桃園の輪郭の線までくっきり見えるようになると、弓枝は柔らかく口許を緩めた。
見上げた彼の顔は目の縁まで赤らめて紅を散らしたようだった。
まるで初心な乙女の恥じらいを物語るようで、弓枝は同じ気持ちを共有していたのだと覚る。
普段通りだったらどうしようかと思っていた。
何てことない顔で自分を見ていたら、それこそ恥ずかしい。

「お前がどんな顔をしているのか見たかった」

弓枝がそういうと益々桃園の顔は羞恥を極めた。

「やっぱりって何よ。そんなだらしない顔してる?」
「いや、オレの好きな桃園の顔してた。だから安心したんだ」
「~っぅ」

すると桃園は言葉に詰まり、声にならない声で唸りをあげると、弓枝の体に覆いかぶさった。

「あなたってホント、とんでもない時に男前発言するから侮れないわ」
「男前発言ってなんだよ」
「自覚ゼロ? もー全然敵わないじゃん。それとも何、俺のじゅんじょー弄んでる?」

桃園に真顔で問われて、弓枝は、

「普段の胡散臭い顔よりこっちのほうが断然良いと思っただけだ」
「えー、これでも爽やかイケメンで通ってるのに」
「オレと冬木には通用しないぞ」
「そこで冬木の名前出さないでよ。萎えるから」
「お前変なところで冬木に嫉妬するよな。すっごい仲良いくせに」

すると桃園は弓枝の隣に寝転がった。
照明を眺めながら形容できない妙な顔で天井を仰ぐ。
その横顔を見ながら弓枝はまずいことを言ったかと二の句を繋げられなかった。
(そういえば、どうしてだろう)
度々彼は冬木を意識するような発言をしていた。
特に深く考えたことはなかったが、その真意は測れずにいた。
信頼し合っているのは確かだ。
二人が喧嘩した時、弓枝は間近でそれを肌で感じていた。
なのになぜ張り合うような真似をするのだろうか。
桃園は曖昧に笑って見せると、それ以上何か言うことはなかった。
その時の目の色が印象的で、弓枝も大人しく口を噤んだ。
多分それには疎外感に対する寂しさも含まれていた。
弓枝はまだ桃園のことを理解しきれていない。
きっと冬木のほうが彼の気持ちに寄り添えている。
そう思うと胸元に淀みが湧いた。
心の底にしまわれていた汚い感情だ。
(オレだって冬木に嫉妬してる)
今までだって二人の関係を羨ましいと思った時はあった。
それまで一度も友人を欲しいと思ったことがなかったくせに、桃園と冬木だけは別だった。
雰囲気だろうか。
表層的な友人ごっこをしている連中と二人を取り巻く空気が違ったからだ。
弓枝はかぶりを振ると布団にもぐりこんだ。
人間は嫌だ。
ひとつ手に入れると、すぐ次が欲しくなる。
桃園とこんな関係になれて嬉しいのに、心はどこか一線引いたまま冷静に現状を俯瞰して見ていた。

***

翌日、弓枝と桃園は、弓枝の自宅に最も近い公園にいた。

「本当に大丈夫なのかよ」
「任せなさいって」

服一式を桃園に借りて靴は桃園の父親のを借りた。
昨夜は自宅を脱走し、連絡もしないまま桃園の家でお世話になった。
両親には怒られるで済む騒ぎではないだろう。
ただでさえ劇の台本を没収され、本は全部片付けられてしまったのだ。
次は二十四時間監視すると言われても驚きはしない。
それくらい弓枝の親は厳格で話の通じない相手だった。
弓枝は桃園に何度も説明したが、彼は平然と頷くだけで、事の重大さを理解していないようだった。
それどころか自宅へ挨拶へ行くと言い出したのだからとんでもない男である。
どうするんだと訊くも任せてとしか言わず、何を企んでいるのか判然としない。
むしろ面白がっているようにも見えたから、やはり彼はただものではない。
弓枝は元々両親に対する苦手意識も手伝ってか心中穏やかではなかった。
今回は桃園も一緒である。
自分が怒られても耐えられるが、桃園が悪く言われているところは見たくない。
最悪縁を切れと言われでもしたら、笑いごとじゃなく本物のロミオとジュリエットみたいになってしまいそうだ。
現状でも不安定な関係なのに、親の反対も加わったら面倒である。

「おーーい!」

その時、道の向こうから大きく手を振ってくる男が見えた。
弓枝は目を細めて凝視すると、眉間の皺を深くさせる。

「ちょっ、あれって」
「ん、こういうことにはやっぱり冬木がいなくちゃね」
「なんでだよ。つーかあの格好はどうした! お前何言ったんだよ!」

満面の笑みで駆けてくる冬木はなぜか異様な光沢を放つ金色のタキシードを身に纏っていた。
まるでどこぞの宴会に呼ばれた芸人のような風態をしていた。
サイズが少し大きいのか足がもたつき走りづらそうである。
九月といえども残暑は厳しく昼間は半そでだって暑いくらいだ。
なのにジャケット姿では見ているだけでこっちまで暑苦しくなる。
手に持った赤いバラの花束が余計に滑稽さを浮き彫りにしていた。
弓枝は嫌な予感しかせず肩を落とす。
(桃園は一体何を考えているんだ)
桃園の横顔を盗み見ると冬木に手を振り返して「こっちこっち」と手招いている。
こんな状況でなぜ余裕あるのか理解出来なかった。
弓枝をからかっているのか。
否、そんなやつじゃない。
だがどうしてこうなったのか、頭が痛くてこめかみを押さえずにはいられなかった。

「はぁ、はぁ……おっす」

冬木は弓枝たちのもとまで行くと、疲れを感じさせない顔で笑いかけた。
どこから走ってきたのか肩は激しく上下に揺れている。

「いい格好じゃん」
「うん! 親父の一張羅着てきた」
「お前の親父は何やってんだよ」

突っ込みどころが多すぎて、もはや弓枝の手には負えない。
冬木は事前に桃園から大体の状況を説明してもらったらしく、現状は理解しているようだった。
とはいえこのまま両親に会わせて上手くいくはずなんかない。
それどころか大惨事になるのは目に見えている。
途端に眩暈がしてくる。
弓枝は血の気が引いて頭を抱えたくなった。
明らかに心配といった顔で桃園と冬木を見ていると、

「大丈夫だってば」

桃園が自信満々に断言してくる。

「何がだよ」
「冬木は最終兵器だからさ」
「うっす、呼ばれて飛び出す最終兵器っす」
「自分で言うな」
「ふぉっふぉっふぉっ、安心してくれたまえ。弓枝は俺にどーんと任せて高みの見物をしてればいいんだ!」
「それが一番心配なんだよ」
「ぶー」
「だいたい部活はどうした?」
「ぶーぶー」
「……ったく」

冬木は不服そうに頬を膨らませたが、全然可愛くなかった。
それどころか胃まで痛くなってくる。
三人で両親に会うより弓枝ひとりで会ったほうが事を荒げず上手くいくかもしれない。
桃園だけならまだしも冬木をコントロールする自信がなかった。
何を言い出すかも分からないのに、そんな彼らをあの堅い両親に会わせて良いのか煩悶とする。
(そもそも他人に任せるのが間違っているんじゃないのか)
眼前には暗雲がたちこめ、散々たる未来が広がっている。
どう考えても失敗するとしか思えなかった。

「弓枝」

そんな弓枝の頭を宥めるように桃園が撫でた。
顔をあげると桃園が柔らかく笑っている。

「言ったよね?」
「…………」
「俺は誰が相手だろうと弓枝を守ってみせるって」
「……っ……」

その顔に弱いのを分かっていて見せる桃園は卑怯だ。
午前中の爽やかな風が柔肌を掠める。
不安が渦巻くのに、抗えず反射的に頷いてしまう。

「堕ちる時は一緒だよ」

桃園も冬木も不安を微塵にも感じさせず、精悍な顔つきで弓枝を見つめる。
怖れるものなんてないと言いたげな表情だった。
静かな住宅街の一角で、色あせた葉が舞い上がる。
夏までと違う肌の上を擦り抜けていくような風だ。
流れる雲の隙間から光が射す。
肩に淡い秋の陽光を感じた。
並木の上を踊るように揺らぐ光の粒が拡散する。
靡いた前髪の先に小さな希望が見えた気がした。
(そうだよ。こういう時に信じなくて友達と呼べるか)
彼らはわざわざ付き合ってくれているのだ。
弓枝と一緒に戦おうとしてくれている。
仮初めの友人なら出来ないことだ。
弓枝は不安の煤を払うように大きく深呼吸をすると、

「ありがとな」

と、二人の肩に手を置いた。

***

三人は揃って弓枝の自宅へやってきた。
チャイムを鳴らすと明らかに不機嫌といった顔の母親が出てきて弓枝を睨む。
やはり家を抜け出していたことに気付いたらしい。
彼女は桃園と冬木の顔を一瞥すると、

「浩人(ひろと)どういうことか説明しなさい」

感情の起伏を抑えた声で責めたてた。
息子でも慄く冴え冴えした眼光は、桃園と冬木を侮蔑し、さも汚物を見るような目つきであった。
彼女はすぐ悟ったに違いない。
弓枝が勉強そっちのけで台本を書いていたことと両親に告げずこっそり家出をしたのは彼らの影響だということに。
(第一印象は最悪だな)
狭い玄関は逃げ出したくなるほど嫌な空気で溢れ、少しでも気後れすれば一歩下がりたくなる。
それほど母親の放つ怒りは並々ならぬものになっていた。
怒鳴り散らさない分タチが悪い。

「どうぞ、美しいマダム」

しかし桃園と冬木はまったく気負うような素振りはなかった。
冬木にいたっては鳥肌が立ちそうなほどキザったらしい振る舞いで持っていたバラを差し出した。
練習してきたらしい台詞のぎこちなさに、内心、演劇部ならもっと自然に言えと突っ込みを入れる。
案の定母親は見向きもせず「あがりなさい」とだけ言って背を向けると、リビングへ行ってしまった。
受け取ってもらえないままの花束が行き場を失い物悲しげに垂れ下がる。
それでも冬木の眉毛はキリリと凛々しく、事前に用意していた台詞を言えた満足感からか胸を張って堂々としていた。
空気を読まないシュールな場面に、桃園は吹き出す手前で口許を緩ませている。
笑いをこらえているが、目尻の皺は隠せない。
どんな状況でも従容としている二人に、弓枝は呆れるどころか感心すら抱きたくなった。
完全に無視をされた冬木だが、めげるどころか真っ先に靴を脱いで母親のあとを追う。
そのメンタルの強さに唖然としていると、隣にいた桃園がゆっくり手を引いてくれた。

「冬木が言ったでしょ。あなたはどーんと構えていればいいの」

泣きたくなるくらい優しい声に導かれて無意識に見上げる。
たったそれだけの言葉で、憂いは体を覆っていた薄衣が滑り落ちるように消えた。
触れた手に力を込める。
(何が逃げ出すだよ)
桃園は以前、自分がロミオならジュリエットを攫ってさっさと逃げると言った。
そのほうが楽だから、すべてを失っても彼女と共に消え失せる。
投げやりな言いかただった。
あの夕暮れ時、虚空を描くように振り仰いだ横顔を思い出す。
どこか冷めていてジュリエット以外はどうでも良さそうな雰囲気だった。
実際には逃げるどころか真正面から向き合っているのだからおかしかった。
桃園なら他人事で済ますことも出来るだろうに、こうして手を差し伸べてくれる。
いつも、いつだって。

「やっぱりお前がロミオだったら悲劇にはならなかったな」
「そう?」
「断言してやるよ」

そう言って桃園の手を強く握り返すと、彼は無邪気な顔で弓枝を見下ろした。
その瞳は楽しさと嬉しさを滲ませていて、

「じゃあ一緒に幸せになろうよ、ジュリエット」

膝を屈み、内緒話をするよう耳元で甘ったるく囁いた。

 

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