3

こんなの音楽ですらない。
視界が歪む。
体が痙攣を起こす。
僕の弱い胃をねじ曲げ、胃液がこみ上げ、すべてを吐き出してしまいそうでした。
これほど嫌悪すべきものなどないと思えるほど、忌々しい旋律は、夜の闇に溶けこみ、人を半狂乱にさせます。
もはやおぞましいとしか言いようのない音の暴力を一方的に受け続け、僕は背中を丸め膝を抱えたまま、嵐が過ぎ去るのを待つ子鹿のように震えていました。
止めるどころか逃げることすら出来ません。
体に縄が食いこみ、ぎゅうぎゅうに縛られているような感覚でした。
僕は冥い闇へ沈んでいく。
足を引っ張られてもがく間もなく暗闇に閉じこめられてしまう。
人が覗いてはならない深淵を見たのです。
(もう、やめて)
頭を抱え体を掻き抱いて狂うことを恐れました。
曲にはそれほどの悪意が込められていたのです。
もうだめだと本気で思いました。
そうして意識が朦朧とし始めたころ――。
唐突に曲は終わりを告げたのです。
あまりの激しさ故、曲が終わった後も音が残響して気付きませんでした。
音の止まりで無音と化したホールに穏やかな夜が戻ってきます。
静かだったのは一瞬でした。
エオゼン先生はまったく動じず、再び弓を引き上げると、音を奏で始めたのです。
次はどんな恐ろしい曲が始まるのかと、戦々恐々していた僕は、強く耳を塞ぎ、再び耐える姿勢をとりました。
しかし、乱暴に耳を犯すような音は聞こえてこないのです。
僕はゆっくり顔をあげると、手を耳から離しました。
次に聞こえてきたのは、先ほどまでの悪魔のような音を奏でていた人間が弾くとは思えないほど清廉とした音でした。
まるでそれは美しい川の流れを想像するような、柔く、鮮やかな音色だったのです。
半狂乱になりかけていた僕の体に沁み入るようでした。
細胞のひとつひとつに潤いが足されて、活性化していくような錯覚を抱くのです。
それだけではありませんでした。
なんて優美な旋律なのでしょうか。
あれだけの張りつめていた空気を一変させ、うっとりと聞き入ってしまいたくなるほどです。
僕は背負っていたヴァイオリンを取り出したくなりました。
彼の弾いている楽器と僕の持っている楽器が本当に同じ物なのか疑問に思えたからです。
僕はあんな音を出せたことはありませんし、聞いたこともありません。
王様は毎年クリスマスになると、どこかしらのオーケストラを呼んで演奏会をさせますが、こんな美しい音色に出会ったことはありません。
僕たちが普段弾いている音は、比べると玩具のようでした。
練習を始めて二年、自主練も事欠かさずやってきて少しは上達した気でいましたが、なんて浅はかだったのでしょう。
僕はヴァイオリンについて何も分かっていなかったのです。
生きている彼の音が僕にそう語りかけるようでした。
彼から見れば、へたくそと怒鳴るのも当然です。
これじゃ話にならないです。
僕は足下にすら及ばない。
エオゼン先生の音には色がついているのです。
その音楽は色彩豊かな絵を見ているようでした。
自分と比べるのも馬鹿馬鹿しく思えて、僕は扉に寄りかかりました。
目を閉じて、その音に身を委ねたくなったからです。
雲の上を浮いているような心地よさが、粘ついた悪意を取り除いてくれるような気がしたのです。
いつまでも聴いていたい。
この音に包まれていたら、どれだけ幸せなのだろう。
僕は一音一音噛み締めるように聴いていました。
相変わらずエオゼン先生は暗い影と化し、何も窺い知ることは出来ません。
伸びやかな上半身が、時折、音に合わせて揺れるくらいで、何を思って弾いているのかすら、僕には分かりません。
ただ洗い清められていくような感覚に、全身が歓喜に震えていました。
もはや言葉など無意味で、エオゼン先生の音がこの世界を作っていたのです。
(こんな音がこの世にあるなんて――)
赦されているようでした。
何に対しての赦しかも分からないのに、その優しさに包まれて抱きしめられているようだったのです。
僕の温かな頬に涙が伝ったのは、ごく自然なことだったのかもしれません。
意図せず零れた涙は、僕を覆っていた殻を破ってくれたように思えました。

「誰だ」

しかし状況は僕の感動を受け入れてはくれませんでした。
勝手に漏れた嗚咽が、エオゼン先生の耳に届いたのです。
しまった――と思った時にはすでに遅かったのでした。
僕は意を決して立ち上がると、彼の前に姿を現しました。
どうせ僕の顔など覚えていない。
謝ってさっさと立ち去ろうと思ったのです。

「ほう……」

しかしエオゼン先生の反応は予想外でした。
暗がり、僕のランプに映し出された彼は、まるで獲物を見定めるような目つきをしていたのです。
練習時のような意地の悪い顔ではありません。
なのに、冷ややかでどこか皮肉混じりに口元を歪ませていたのです。
嫌な予感がしました。
あんな美しい旋律を奏でていたとは思えない雰囲気に、後ずさろうと背後に重心を置きます。

「あの……僕は……」

彼は顔さえ知らないはずなのに、

「練習時刻はとっくに過ぎているが、どうしたのかな? ハイネス君」

ニタリと、厭な笑みを浮かべました。
僕は驚愕を顔に表すと、ピタッと動きを止めて、目を見張るように彼を見ます。
どうして僕のことを知っているのかと混乱しています。
知らないとばかり思っていたので、強い衝撃を受けたのです。

「どう……し、ぼく……名……」

驚きと不安と恐れで、言葉が途切れ途切れになっていました。
しかし取り繕う余裕はなく、目はエオゼン先生から離せません。
離したら、獣が飛びかからんばかりに襲ってきそうで、どうしても逸らせなかったのです。

「知っているよ。俺はお前の音が大嫌いだ」
「!!」
「聞くたびに虫酸が走ってたまらなかった」
「そんなっ」

酷い。
僕は唖然としました。
まさかエオゼン先生にそんな風に思われていたんてまったく気付かなかったからです。
しかもわざわざ二人っきりの時に言わなくていいではありませんか。
みんなの前で笑われたほうがマシです。
だって密かに思っていたということは、根が深そうではありませんか。
それは、笑いにもならないほど、忌み嫌っていたということでしょうか。
僕は唇を噛み締めると、顎を震わせ耐えました。
温かな涙が零れた頬に、悲痛な涙が伝うのを恐れたからです。
あれだけ必死に合わせていた目は、もう見られませんでした。
目は口ほどにものを言う。
もし軽蔑の眼差しで見られていたら、僕はもうヴァイオリンに触れられないと思いました。
胸を打つ音を聞いて、その演者に大嫌いと言われて平然としていられるほど、強い心を持ち合わせていませんでした。
頭では分かっているんです。
言われても仕方がない。
だってそれほどにヘタクソなのだから、気分を害して当然なんです。
でも改めて直接本人に言われるのは堪えます。
今まで何人もの団員が彼の言葉に傷つき、泣きましたが、僕はそれ以上のショックで呆然と佇むことしか出来ませんでした。
もはや立っている感覚すらなかったと思います。
エオゼン先生はそんな僕の様子を黙ってじっと見つめていました。
さらになじろうと思えば出来たでしょうが、まるで僕の反応を観察するかのように視線を這わしたのでした。

「気分が悪い」

彼は後頭部を掻き上げると、厳しさを増した目で僕を睨みました。

「そんなに俺に嫌いと言われることがショックなのか」
「…………」
「俺はただの酔っぱらいだ。そんな男に言われたところで痛くも痒くもないだろうに」
「だってあなたは先生じゃないですか!」

すると、彼は食ってかかってきた僕を面白そうに見下ろし、

「ほほう。先生がお前の音の判断をするのか」
「あ、あ、当たり前です。そのための指導者なのではないでしょうか」

僕は珍しく強気になって、エオゼン先生に反論しました。
自分でもこんな風に言い返すなんて信じられませんでしたが、とにかくその時はあとに引けなくて、言うがまま口から出たのでした。
エオゼン先生は気弱そうな見た目の僕が意外と威勢が良いことに、愉快そうに片眉を引き上げると、ヴァイオリンを机に置いて僕のすぐ側まで来ました。
伸びっぱなしのボサボサの頭を掻き、腕を組むと仁王立ちしたのです。

「いいだろう。ヴァイオリンを出せ」
「は?」
「俺は先生なんだろう。だったら聞いてやるから、弾いてみろ」

彼は顎でくぃくぃと僕の背後にあるヴァイオリンケースを指すと、卑しい笑みを浮かべて促しました。
ここまで来たら後戻りは出来ません。
僕は緊張と不安を押し隠しながら、背負っていたケースを外すと、中から楽器を取り出しました。

「……どうして僕がここにいるのかは聞かないんですね」

僕はヴァイオリンを構えながら、ぼそりと呟きますが、エオゼン先生は、

「興味ない」

と、一蹴しました。
悔しくて僕は、

「なら、子ども音楽団のみんなが休んでいる理――」
「興味ない」

言い終わる前に同じ答えが返ってきました。
それは早く弾けという無言の圧力でした。

「何を弾けば?」
「なんでもいいから、さっさと弾け」

どうやら絶対にこの場で弾かなくてはならないようです。
そもそも僕がここへ来たのは一ヶ月ぶりに練習するためでした。
ただでさえ僕の奏でる音が嫌いと言われたのに、ろくに練習もしていない今、その人の前で弾くのは辛いことです。
僕は歯向かったことに後悔を覚えました。
あのまま口答えせずに「すみませんでした」と、謝って帰れば良かったと、うんざりしていました。
しかし、どれだけ過去を顧みたところで、もう先生は僕の音色を聞くまで許してくれないでしょう。

「先ほどまでの威勢はどうした」

エオゼン先生の目は宝石のように輝いて人を追いつめます。
僕は屈することが悔しくて、唇を噛み締めると、覚悟を決めて弦を押さえました。
冷えた春の夜は緩やかに過ぎて、大きなホールには僅かな音さえも呑み込まれています。
色彩を持ったのは小さなランプの灯火だけで、それに照らされた僕と彼は、陰影を強く残しながら橙色に肌を染めました。
僕は呼吸を整えると、静かに弾き始めます。
曲は基礎中の基礎である「キラキラ星」でした。
僕よりずっと下の子どもが弾くような曲を選択したことに、自分の弱さが出ているような気がして、弾き始めてから自己嫌悪に陥りました。
しかし、エオゼン先生の態度はまったく変わらず、側にあった椅子に腰かけると、俯き、黙って音を聞いていました。
どうにか間違えもせず弾き終わると、彼が顔をあげます。

「無難」

しばらく黙り込んだあげく、ようやく口を開いたと思えば、エオゼン先生はそう言い、

「つまらん。害にもならない音楽なんざ、存在しているだけ無駄だな」

呆れたようにため息を吐きました。
僕は反論も出来ずに大人しく聞きます。
彼の言うことは的を射ていました。
僕の音色が誰かを感動させるなんて思いませんでした。
かといってエオゼン先生が荒々しく弾いたように、人の心を壊すことも出来ない。
まさに無難、凡庸といった言葉が良く当てはまる音なのだと思いました。

「聞くだけ無駄な音だな」

彼の気遣いない台詞が胸に突き刺さります。
だけど僕はめげませんでした。
もっと上手くなりたい。
僕も先生のように人の心を動かしてみたい。
たった一音だけで世界を変えるような音を出してみたい。

「分かっています! だからお願いしますっ、教えてください! どんなことでも構いません。僕にあなたの音楽を教えてください」

僕はその場で深く頭を下げると、必死になって懇願しました。
ひたすら教えを乞い、頼み込んだのです。

「お願いします! お願いします!」

このまま土下座でもする勢いでした。
するとエオゼン先生は、吹き出して笑い始めました。

「お前、すごいな」
「え?」
「つい今しがた、お前の音を大嫌いだと罵ったばかりなのに」
「か、関係ありません。だったら僕を指導してください。少しでも上手くなって、エオゼン先生の好みの音になってみせますから」

僕の背中を押したのは情熱でした。
ようやく目標にすべき人に出会えた。
僕はエオゼン先生の音に惚れ込んでいました。
どんなに酷いことを言われても、ついていきたい、教えていただきたいと強く願ったのです。
きっと僕はずっと変わりたかったのだと思います。
何をやっても普通で、秀でたところのない自分が嫌でした。
そんな自信のないところも変えてしまいたかったのです。

「ふぅん」

だけど僕は勘違いしていました。
音の美しい人は心も美しいのだと勝手に美化していたのです。
エオゼン先生にどんな過去があったのか知りません。
本当はどんな人なのか、何も知らないのです。
純粋なる僕の想いが、ますます彼を不愉快にし、その心に溜まった澱を増やしていたことに気付かなかったのでした。

「じゃあ教えてやるよ」
「え、ちょっ、っ……!」

エオゼン先生は僕の腕を掴むと、強引に押し倒してきました。
僕が尻餅をついた拍子に、彼はヴァイオリンを取り上げ、放ってしまいます。

「何すっ」

楽器が音を立てて床を転がりました。
僕は壊れてしまったのではないかと、ヴァイオリンに視線を移しますが、そんなことを言っている場合ではありません。
僕の上に大柄な体がのしかかってきます。
どんなに抵抗しようとも力で適わず、掴まれた腕すら振りほどけません。
僕は乱暴されると懸命に抗いますが、拒否すればするほど彼は面白そうに笑います。
その豹変ぶりに慄きました。
どんなに口が悪い先生でも、誰かに暴力を振るっているところは見たことがありません。
その先生に力で押さえ込まれて恐怖に震え上がりました。
エオゼン先生が片手を振りかざします。
僕は殴られると目を瞑り、奥歯を噛み締めましたが、痛みはやってきません。
代わりに、彼の冷たい手がズボンの中へ入ってきました。

「ひっ」

僕は突然のことに身を竦ませると、抑えきれなかった悲鳴が喉の奥であがりました。
エオゼン先生の手は、僕の反応を予期していたようで、躊躇うことなくズボンに突っ込んだ手で僕の性器を掴みました。

「何考えてっ……!」

これも嫌がらせのひとつかと僕は怪訝に見上げ、抵抗の手を止めません。
顔が近づくと酒の匂いがしました。
きっと今日もたくさん飲んでいたのでしょう。
そして、これからあの酒場でまた酔い潰れに行くのでしょう。

「教えて欲しいんだろう」
「――――!!」

すると彼の言葉に僕の手がピタッと止まりました。
ヴァイオリンを教えて欲しければ大人しくしていろ。
そう言いたげな態度に、これがからかいではなく、本気なのだと覚ったのです。
僕に迷いはありませんでした。
これから何をされるのか分かりませんが、楽しいことではないのは確かです。
でも。
それでも僕は、エオゼン先生からヴァイオリンを教わりたかったのです。
どうしてもあの音に近づきたかったのです。
僕は強ばっていた体の力をふっと抜きました。
真っ正面から彼を見据えて、覚悟を決めたのです。
目が合ったエオゼン先生は目を瞬かせました。
驚いているような顔つきでした。
そんな顔を見せたのは初めてです。

「……だからお前は嫌いなんだ」

彼は低く掠れたような声でそう呟きました。
しかし僕の耳には途切れ途切れにしか聞こえなくて、何を言ったのか判然としませんでした。

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