6

なぜなら好きと言われても困る。
それが幼ければ一過性のものである可能性が大きいからだ。
一時の感情に流されるのは台風の目になると同じ事。
それが過ぎ去った時、辛い思いをするのは流された方なのだ。
だから一々その感情に付き合うのは危険である。
(と思うのだが…)

「……っ……」

触れた肌に予期せぬ迷いが生じた。
頭の中では分かっているのに喉元に絡みつくような焦燥感を覚える。
(早く押し退けて何もなかった振りして笑えばいい)
ある程度大人になるとどんな状況に陥っても対処が出来るものだ。
それなのに私の指は迷い彼の肩を掴めずにいる。
纏わり付く感情がむず痒くて心が揺れた。
本来ならこうして意識をする事自体間違っているのに思い通りにいかない。
そんな心情に苛立ちながらも藤千代様を拒絶できなかった。

「ふじ…ちよ……」

この小さな体いっぱいに広がる純粋な想いが私を惑わせる。
だが同情で彼を受け入れるのは一番失礼なことだ。
わざわざ去っていく彼にそんなえぐい傷を残す必要はない。
(なんて暖かい体なのだろう)
だが密着した体が心地良い温かさで満たされていた。
藤千代様の匂いや感触が私の琴線に触れる。
預けられた体の無防備さに言い知れぬ感情が込みあげた。

「………っ」

だから思わず背中に手を回してしまう。
ほんの少しならと自分に甘えが生じていた。
だが手を回して彼の体を抱き締めてみると改めてその小ささに驚いてしまう。
華奢な体は少しでも力を込めて抱けば折れてしまいそうなほど弱々しかった。
しかも雨で濡れている事もあり体の線がよくわかる。
(………あれ?)
だが可笑しな舞い上がりに惑わされていた私はようやく異変に気付いた。
おや?と首を傾げるとぎゅっと強く抱き締めてみる。
(熱い)
それは藤千代様の体の異変であった。
いつもよりずっと熱い体にようやく私は気付く。
そして体を離すと彼の顔をじっと見つめた。

「藤千代。…あなたまさか…」

顔はうっすら赤く意識が朦朧としているのか私の問いかけにも応じない。
慌てて彼の額に手を当てればそこは熱で火照っていた。
(だからずっと静かだったのか)
いつから熱があったのか分からない。
だが考えてみれば藤千代様の態度はおかしかった。
こうして抱き上げるとき、彼は嬉しそうに騒ぎ色々な話をしてくる。
それなのに黙って私に抱かれていたのは変だ。
いや、変といえば今日はずっと様子がおかしかった。
(って、今までのことを考えていたって仕方がない)
自分の不届きを反省している場合ではなかった。
これからどうするかを考えるべきである。
外を見ても厚い雲で覆われて当分雨は止みそうになかった。
そうなればここでどうにかするしかない。
幸いお堂には必要最低限のものは揃っている。
私は慌てて草履を脱ぐと神棚に一礼して隅に置いてあった布団を手繰り寄せた。
泥だらけのせいで床に私の足跡が付いてしまう。
だがそれすら構わなかった。
布団の用意が済むと行灯に火打ち金で火をつけお堂の中を明るくさせる。
そして藤千代様の浴衣を脱がせると裸のまま布団に寝かせた。

「はぁ…はぁ……」

しばらくするとまた熱が上がったのか彼の呼吸は苦しそうである。
私は手ぬぐいを雨で濡らすと藤千代様の額に乗せた。
これで少しは楽になれば良いのだが、薬はないしここに足止めされたままいつ止むか分からない雨に不安を募らせる。
外は激しい雷雨になっていた。
参道を叩き付けるように降る雨じゃさすがに今の彼を連れて行けない。
だから私ひとり村まで戻ろうとした。
今の自分は何もしてあげられない。
苦しんでいる側でじっとしていることがもどかしかった。
それなら走って村まで戻り徳田さんや村人達に助けを求めた方が良い。
村に行けば薬はあるし大きな番傘だってある。

「ちょっと待っていて下さい。今助けを呼んできますから」

藤千代様は寝ているのか魘されているのか目を閉じたままじっとしていた。
彼の布団を肩まで掛け直すと側から離れる。
そして神棚に一礼すると急いで草鞋を履こうとした時だった。

「……や…じゃ…」

その途端僅かに藤千代様の声が聞こえた。
(寝言か?)
私はチラッと彼の方に振り返る。
すると藤千代様は上体を起き上がらせこちらを見ていた。

「…先生、行かんでくれ…」

そのまま這う様に私の元へやってこようとした。
だから慌てて履き途中だった草鞋を脱ぎ捨て彼の元へ駆け寄る。

「藤千代。いいから寝ていなさい」
「いやじゃ」
「ほんの少しの間ですから」
「いやじゃ」

藤千代様は私の着物を必死に掴むと何度も首を振った。
言い聞かせようとしても素直に聞いてくれない。

「何を聞き分けないことを……。一人で心細いのは分かっていますがそんな事では強い殿にはなれません」

布団から出た彼は何も着ていない。
だから掛け布団を掴むと引き寄せた。
そして羽織らせるように藤千代様に掛ける。

「…………いい」
「え――?」
「強い殿なんかになれなくてよいっ」

すると藤千代様はそのまま私に抱きついてきた。
だが私の着物は濡れて冷たい。

「ちょ…っ藤千代。いい加減にしなさい」
「いやじゃっ絶対に離れんぞ」
「藤千代!」
「何を…言っても無駄じゃ……」
「なっ……」

彼は苦しそうに息を乱しながらも言葉通り手だけは離さなかった。
藤千代様の熱が私にまで伝わってくる。
背後で鳴り響く轟音は近くで雷が木に落ちたせいかもしれない。
それでも私達は気に止めなかった。

「先生と離れ…とうない…っ…」

彼の背中は僅かに震えていた。
もしかしたら必死に涙を堪えているのかもしれないし、また目から“汗”を流しているのかもしれない。

「お願いじゃ。私の側に居てくれ」

搾り出すような声に思わず胸が締め付けられた。
苦しそうに上下する肩。
弱々しくも強く掴んだ手のひら。
下を向いて表情を隠す彼の心情が痛いほど伝わってくる。

「馬鹿な子…」

だけどそんな姿を見せられて愛しくないはずがない。
私はフッと軽く笑い藤千代様の体に手を回した。
そして彼の体をそっと抱き締める。

「せんっ」
「私にそのまま熱を移してしまいなさい。もうどこにも行こうとはしませんから」
「せんせ…い…」

すると「どこにも行かない」の言葉に安心したのか強張っていた藤千代様の力が抜けた。
それと同時に身を預けてきた彼の体が重く感じる。
だがそれは“些細な重さ”であった。
(貴方はまだこんなに小さいのに)
どこに人を圧倒させるような力を持っているのか不思議だった。
知らない間に人の心に入って居ついてしまう。
(愛しい、か)
胸の奥に燻る感情は懐かしくて甘酸っぱかった。
だからといってその気持ちが本物なのか私にも分からない。
たった一ヶ月でそんなもの分かるはずがなかった。
相手が美しい女性であるならまだしもまだ子供である。
むしろそんな気持ちになるのだとしたら私の方が異常だ。

「藤千代?」
「すぅ…すぅ…」

すると藤千代様はいつの間にか眠っていた。
あれだけ離れないと大騒ぎをしたというのに現金な話である。
だがそういった素直さが何より私の心を動かしている事を知っていた。

「貴方って人は…」

――私はもう一度だけ強く抱き締めた。

それから夜の帳が降り始めた頃、ようやく雨は止んだ。
あれは久しぶりに澄んだ夜だったと思う。
藤千代様の熱もだいぶ下がり健やかな寝顔を見せるようになっていた。
私はこの機会を逃すまいと慌てて彼を背負いお堂を後にした。
すやすやと眠る彼をおんぶして下る坂道はいつもより短く感じる。
片手で持った提灯の火が揺れて足元を映し出した。
ぬかるんだ地面に足はもう泥だらけで酷い有様だった。
流れの早い雲間に浮かんだ三日月が私の影を追うように着いて来る。
雨上がりの森に木霊するのは水滴が落ちる音だけであった。
頬を撫でる風は涼しくて気持ち良い。
そして見えてきた村の明かりに胸を撫で下ろし背中で眠り続ける彼を想った。

徳田さんは私達を心配して村の入り口をうろうろしていた。
よほど私も疲れた顔をしていたのか彼は怒らずに今までの経緯を聞いてくれた。
そして私の背中から藤千代様を受け取ると足早に去っていく。
私はその後姿をずっと見つめていた。
重みの代償に暖かな温もりを失った背中はどこか寂しさを含んでいた。
(ああ、重かった)
まるでそんな感情を払拭するかのように心の中で呟く。
そんな行為が余計に虚しくてやりきれなかった。
――誰も居なくなった道の果てに何を思うだろう。
考えるだけ馬鹿馬鹿しくて私は苦笑しながら帰路に着いた。

翌日から三日間は藤千代様に会わなかった。
一之助の話しによると熱は下がったが徳田さんが家から出してくれないらしい。
私自身も彼に会いに行こうとしなかった。
なぜならもう期限の日は間近だったからだ。
会えば余計な話をしてしまうかもしれない。
彼に期待を抱かせてしまうかもしれない。
気まずい思いをするぐらいなら、このまま会わずに立ち去ってもらった方が楽だ。
小心者らしい思考に自ら嫌悪するがそういう部分は都合良く目を瞑る。
藤千代様の気持ちが本物だったとしても私には応えられなかった。
彼らに着いていくなど、どう考えても無理な話である。
それなら余計なことを言わずに見送った方がお互いの為であった。
別れは寂しい。
だからこそ嫌な気持ちを残したくない。
そんな時は自らの気持ちに蓋をする。
そうして何もなかった振りをするのが癖になっていた。

藤千代様が去る前日。
今日も相変わらず天気が悪かった。
朝は晴れていたのに気付けば厚い雲に覆われ時折雨が降る。
時期からみればとっくに梅雨は終わった筈だが今年は天気がおかしかった。
おかげで一之助の家族はもちろん村のかんぴょう農家が困っていた。
続く悪天候はまるで自分を映す鏡のようで気に入らない。
だから私は家に篭りひたすら本を読んで勉強していた。
そうして気を紛らわしていたといった方が正しいかもしれない。
とにかく私は黙々と机に向かい続けた。

コン、ココン、コンコンコン。

するとずいぶん乱暴に引き戸を叩かれた。
その音に反応した私は思わず顔を上げる。
そして恐る恐る玄関の方に振り返った。
(この叩き方は――)
聞き覚えのある音に嫌な予感がする。
一瞬居留守にしてしまおうかと考えた。
そうすれば引き戸の向こうにいる“彼”は諦めて帰ってくれるかもしれない。

「……っ……」

だがそれはあまりに卑怯なやり方であった。
人にものを教える立場の人間にしてはあるまじき行為である。
だから意を決するとそ知らぬ顔をして立ち上がった。
心の中の動揺に左右されないよう気を張る。
そして戸を開けた。

「…………先生」

するとそこには予想通りの人物が立っていた。
それはもちろん藤千代様である。
彼はいつもの強い眼差しで私を見上げていた。
その姿に息を呑む。
顔を見ただけで彼の決意が伝わってきたからだ。
思わず圧されそうになった気持ちを奮い立たせて藤千代様を入れる。

「風邪の具合はいかがですか?」

私は白々しい質問をしてみた。
彼らから見れば見舞いにも来ない人間がぬけぬけとよくそんな事が言えると思うだろう。
だが藤千代様は答えなかった。
締め切った部屋はまだ昼間だというのに暗く静かである。
時折強く吹く風に壁が音を立てた。
木の軋んだ音以外聞こえない室内は重く息苦しい。
いつもなら外で遊ぶ子供達の声が聞こえるのだが生憎の天気では皆家に篭っているだろう。
それが余計に時間の感覚を鈍らせた。

「先生の答えを聞きに来たんじゃ」
「…………」
「明日私は去らねばならない。じゃが先生が私と共に来てくれるというのなら、私はなんでもする」
「藤千代」
「父上も説得する。他の家臣も言い包める。先生を悪く言うやつは皆私が黙らせるから。だからっ、先生さえ……先生さえ私を好きと言ってくれるのなら私は――」

藤千代様の声はいつもよりずっと余裕がなく必死に聞こえた。
黙り込む私を見つめ訴えかけようとする。
詰まらせる言葉の奥に藤千代様の純粋な想いが溢れていた。
彼の言っていることは嘘じゃない。
今、この瞬間は全てが真実であった。
(だけど――)
幼い彼の見通す未来はあまりに浅く儚い。
汚れる前の美しい心には信じるに値するほどの力を持っている。
しかし私はどうしてもそれに身を委ねる勇気が持てなかった。
いまさら彼の気持ちを疑いはしない。
私も本当は心惹かれる部分があるのかもしれない。
だが大人の事情はそれとは全く別に考えなければならなかった。

「――――馬鹿なことを」

だから私は彼に背中を向けると失笑を漏らした。
その一言に藤千代様はピクリと体を震わせる。

「そんなに私を好いているのなら、なぜ貴方はここを去るのでしょう?」
「!!」
「所詮その程度の好意なくせにどの口が愛を囁くのです?」
「せん……っ」
「相手を本当に想うのならまずは自らが変わるべきでしょう?それをなぜ自分の都合に合わせようとするのです。なぜ私が貴方に付き合わなければならないのです」

先程と打って変わって長屋には私の淡々とした声しか聞こえなかった。
本来なら言うべきではないことを口にしなければならない苦痛。
私は自分で反吐が出そうになっていた。
本当は藤千代様を傷つけたくないのに。
笑ってさよならをしたかったのに無理であった。
それはここに来た藤千代様の顔が物語っている。
だから私はあえて一番厳しい言葉で彼を突き放さなければならなかった。
そうしなければ彼に未練が残る。
だから心にも無いことを言わねばならなかった。

「最初に申し上げた通りです。私は犬や猫ではありません。ましてや貴方の玩具になるつもりは毛頭ありません。だから私は貴方に着いて行きません」
「じゃがっ…先生!」
「何を言っても無駄です。これ以上藤千代にお話することはありません」
「先生っ」

それでも藤千代様は諦めなかった。
わざわざ距離を置いて話したと言うのに彼は後ろから私の着物の端を掴む。
その手は震えていた。
それを知って胸が潰されそうになる。
噛み締めた唇に言葉が出てこなかった。
何度も名前を呼ばれてその度に振り返ってしまいそうな衝動に駆られる。
だがそれではいつもと同じだ。
流されて受け入れては意味が無い。

「先生っ…お願いじゃ…せんせ、…先生っ!」

(やめろ。もうやめてくれ)
藤千代様の切ない声が纏わり付いて離れない。
その歯痒さに苛立ちこめかみが痛くて視界が霞んだ。
余計な感情が邪魔して身動きがとれなくなる。
だから私はそんな自分を払拭させるように腕を振り払った。
すると彼の掴んでいた手が離れる。

「――いい加減にしなさい」

出したことがないほど低い声が出た。
お蔭で藤千代様の声が止まる。
彼から見れば怒らせたと思っていたかもしれない。
だが内情はまったく違った。

「これ以上纏わり付くなと言っているのです」

感情を極限まで押し殺したが故に声が出なかったのだ。
閉まった喉から必死になって声を出した結果、私は自分でも聞いた事のない声を出していた。
だがもちろん藤千代様はそんなことに気付かない。

「迷惑なんです。どうしてそれに気付かないのでしょうか」
「せ……」
「勝手に懐かれてどれだけ迷惑な一ヶ月だったか。藤千代にはわからないでしょう」
「…………」
「私は貴方が嫌いです。もう二度と顔も見たくない」
「――!!」

すると私の言葉に藤千代様は絶句したようだった。
顔を見なくても気配だけでどれほど傷ついたか伝わってくる。

「だからさっさとこの村を去りなさい」

だが私はとどめを刺すことを忘れなかった。
駄目押しの一言に藤千代様は後ずさる。
まるで信じられないと言ったようにゆっくりと一歩ずつ私から離れていった。
それでも私は振り返らずじっと彼が立ち去るのを待つ。
顔を見たくないというのはあながち間違いではなかった。
今の藤千代様を見てしまったら決心が揺らぐ事を分かっていたからだ。
小さな傷はやがて塞がる。
時間が全てを解決してくれる。
だから私達はこのまま終わった方が良いのだ。
(――って、何度同じ事を考えているのだろう)
ここ最近何度も同じ事を考えては堂々巡りを続けている。
そんな自分に嫌気が差しながらも考える事はやめられなかった。
実に面倒くさい性分である。
するといつの間にか藤千代様は長屋から去っていた。
あれだけ言われてしまえば無理もない。
それでも私はその場に立ち尽くし動こうとしなかった。
彼は引き戸を開けっ放しのまま出て行ったのか玄関から風が吹き込んでくる。
その風に結った髪が揺れた。
雲間から差し込む光が玄関を照らしている。
だがそれもすぐに隠れてしまった。
唇を噛み締めたまま浅い呼吸を繰り返す。
(いいんだ。これでいいんだ)
頭の中では肯定し続ける自分が必死に言い訳がましいことを言っていた。
一ヶ月前はあれほど面倒な事を引き受けたと頭を抱えていたというのに。
あとに残ったのは開放感ではなかった。
後ろ髪を引かれるような喪失感と僅かな焦燥感。
それをどうやって払拭すればいいのか、この時の私には分かっていなかった。

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