3

「好きな人はいないのか」

彼なら選り取り見取りだろうに。
今まで付き合っていた子たちも大して好きではなかったのか。

「どうだろ」
「どうだろって、肝心なところは知らないのか」
「そういう話はしないんだ。第一桃園の好きな人なんて興味ないし」

友達だろう――と言いそうになったが、友達の定義も曖昧なのに言えなかった。
元々互いに淡白で、そういった話はしないのかもしれない。
男同士というのはそういうものなのかもしれない。
満足な友人関係も築けていない弓枝は無理やり納得させると大人しく頷いた。

「なーに話してんの?」
「おわっ――!」

その時、後ろからガバっと誰かが覆い被さってきた。
一驚を喫して振り返ると、帰ってきた桃園が弓枝にもたれかかっている。
いきなりのことで心臓が口から飛び出るかと思った。
速まる鼓動に左胸が痛くなる。
やましい話なんてしていないのに、本人のいないところで過去を聞いてしまったことに罪悪感を覚えた。

「ちょっと冬木、抜け駆け禁止でしょーが」
「いいだろー。弓枝が相手してくれたんだ。桃園がいない間に二人でいっぱい話したんだからな」
「うわっ俺ですら滅多に相手してくれんのに。益々気になるなぁ」
「相手ってなんだよ。話はしてるだろ」

今朝だって一緒に登校した。
二学期に入ってから嘘みたいに話す機会が増えた。
あたかも昔からそうしていたように思えるが、最近までほとんど目を合わすこともなかった相手だ。
それくらい自然に受け入れてくれて変な感じがする。

「いいの! とにかく、弓枝は冬木と一言話したら俺と二言話すこと」
「はぁ? なんでそんな決まりがあるんだよ。だいたい俺と話したって得なんか――」

ないのに――と、言おうとしたところでチャイムが鳴った。
クラスメイトはその音に慌てて席へ戻ろうとする。
同時に五時間目の教師がやってきて、渋々冬木は席を離れた。
桃園はしっしっと手で追い払う。
その後ろ姿を見ながらふと考えた。
まったく変わった素振りがないということは、冬木の言ったとおり女子生徒を振ったのだろう。
可哀想だが仕方がない。
なら、もし自分が異性に告白されたら、どんな反応をするだろうか。
彼のように何事もなかったような顔を出来るのだろうか。
あんな風に笑えるのだろうか。
人との関わりを避けるが故に不慣れで、上手く立ち回ることが出来ない。
そうして空回りした結果余計に傷つけそうで怖かった。
異性に告白されるなんて夢のまた夢だが、想像するだけで嫌になる。
甘い戯言とはいえ、出来る限り無害な人間でいたい。
(――なら、上手く立ち回れる桃園が人を傷つける理由は?)
あの時聞きそびれてしまった冬木の言葉が頭を巡った。
桃園がヘラヘラしているのが嫌であったこと、その割に簡単に人を傷つけること。
簡単とはどんなニュアンスで加えられた言葉だったのか。
冬木は直感的にしか物事を言わないせいか、弓枝には難しく感じた。
独特の感性から紡がれる言葉を他人が理解するのは大変で、僅かな解釈の違いが大きく意味を損なうようで不安になる。
元々文章を書くのが好きということもあり、些細な言葉にも敏感になっていた。
適当に流せたら考える必要もなく楽なのに――と、ため息を吐く。

「何? 意味深なため息吐いちゃって。冬木との話が原因?」
「別に……ってか、もう先生来てるぞ。前向けよ」

振り返っていた桃園を睨むと、教科書を出しながら苦笑していた。
黒板に向かっている教師が黙々と数式を書き始めている。
他の生徒も授業モードに切り替わって、余計な会話はなく準備する物音が教室内の至るところから聞こえた。

「はいはい。でも、ひとつだけ」
「は?」

すると僅かに身を乗り出してきた彼が耳元で小さく囁いた。

「弓枝と話すのは損得じゃないよ。ただ、俺が話したかっただけ」

同性のクラスメイトに聞かせるにはあまりに艶やかな声で、一瞬世界の音が消え失せたのかと思った。
驚きすぎて何も言えず無言で桃園を見つめる。
彼は茶目っ気たっぷりに微笑むと前を向いてしまった。
だが弓枝の耳にはまだ声の温もりが残り、それは授業が終わるまで余韻のように響き続けた。

***

放課後、桃園は図書室に現れなかった。
部活にも顔を出していないようで、何度か冬木が探しにやってきた。
途中まで問題集を解いていた弓枝だったが、劇の脚本が気になって、つい執筆に夢中になってしまった。
今さら誰に見せるでもないものを一心に書き続ける。
時間を忘れるほど集中すると、気付けば下校時刻になっていた。
とはいえ夏を引いた空はまだ明るく、柔らかな橙が滲んだように広がっている。
帰ろうと下駄箱までやってきたが、ふと桃園の靴が残されていることに気付いた。
西日の差し込む下駄箱には誰もおらず、時折吹く風に葉擦れの音が響いている。
何を思ったのか弓枝は取り出したローファーを戻すと踵を返した。
廊下で部活終わりの生徒とすれ違いながら教室へやってくる。
窓は閉められ誰もいない。
いた形跡もない。
それを確認すると、また小走りで誰もいない廊下を駆け抜けた。
他に桃園がいそうな場所に向かうと、あてもなく探し続ける。
忙しない呼吸の音は人気の絶えた校内に溶けた。
いくつか回って最後に辿り着いたのが屋上だった。
ここでいなければ帰ろうと決めて扉を開けると、豁然として赤みを増した夕暮れ空とそれに映える金髪が目に入った。
九月とは思えない熱風が頬を掠め、一片の雲が南へ流れて形を変える。
あまりに静かな世界が広がっていて、声をかけるのも躊躇われた。
膜を張ったように赤い夕陽が西の彼方へ傾いている。
名残の明るみを漂わす空は、終末を予感させるほどの美しさで眼前に迫ってくる。
その前に佇む桃園は背景に負けないくらいの存在感で、映画の中の登場人物みたいだった。
現実に生きる人間かと惑うのは立ち姿がさまになっているせいか。
眩しさに瞼を震わせたのは陽の光ではなく彼のせいだったのかもしれない。
(大体探し出して何を話すんだ)
桃園を探そうと思ったことに明確な理由はなかった。
異様な雰囲気に呑まれて後ずさると、握ったままのドアノブに力を入れる。

「……ちょっと、なんで黙ってんのって」

その時おかしそうに桃園が振り返った。
同時に風が止んで丸みのある声が響く。
夕陽を背に抱いた彼はいつもより生気がなく儚げだった。

「よくオレだって分かったな」
「なんとなく」

意を決して一歩前に進むと歩み寄った。
屋上の柵まで来ると隣に並ぶ。
隣どいえど少し距離を開けて立った。
すぐ隣に立てば、近すぎる距離に息苦しくなって、呼吸が難しくなるからだ。
学校の目の前は河原で、川が細い銀線みたいにキラキラ光って見える。
ゆるやかに湾曲した流れは穏やかで、西日を受けた水面の紅さは鏡のようだ。
土手を走る人の後ろに出来た影は長細く斜めに付いてくる。
向こうの岸辺にはサッカーをしている子どもたちがいて、僅かな賑わいがここまで届いていた。
二人して景色に気を取られると無言になる。
元々会話が苦手な弓枝が気の利いた話題を振ることは出来ず、タイミングも計りかねて声をかけられなかった。
横目で桃園を窺うと、彼は早秋の夕暮れに見入っている。
その円やかな横顔は会話なんて必要としていないようで、弓枝も大人しく沈んでいく夕陽を眺めた。

「弓枝はすごいね」
「何が」
「人が呼吸しやすい距離を知ってる」

ようやく彼がこちらを見たかと思えば頬を緩めた。
二人の間に開いた距離のことを言っているのだろうか。
だが桃園のためを思って開けたわけではなく、ただ自分が苦しくなるのが嫌で離れたのだ。
本来なら「失礼なやつ」ととられてもおかしくない。
それも承知でこの場所に立ったのだ。

「ね、どうしてロミオとジュリエットはハッピーエンドじゃだめなのかな」

彼は柵を背にして深呼吸した。
流れる雲を仰ぎ目を閉じると、片手には本が握られている。
原版のロミオとジュリエットだった。

「どうしてってシェイクスピアがそう望んだんだろ」
「あらー、夢のない発言ね」
「物語ってのは結局作者次第でどうにでもなるんだ。どれだけ絶望的な話でも作者が幸せにしようとすればハッピーエンドで納まるし、悲劇にしたいのなら、どんな幸せな状況でも悲惨な結末に導くことが出来る」
「ほうほう」
「つまりシェークスピアは最初っから二人を結ぼうとは考えてなかったんだよ。あれだけ困難な状況に陥らせて、それを乗り越えさせた上での心中エンドなんて悪趣味もいいところだ」

作者は物語において神と同義語だ。
手のひらを転がすようにキャラクターたちの命運を定めることが出来る。
悲劇も喜劇もすべては紙一重なのだ。
すると桃園は含み笑いをした。
それに気付いた弓枝は「なんだよ」と口を尖らせる。
桃園は風で乱れる髪をかきあげると、

「いんや、弓枝が珍しく饒舌になってると思って」
「別に」
「あ、違う違う。嬉しかったんだ。弓枝の話、もっと訊きたいと思っていたからさ」
「……っ……」

そんな風に言われると逆に話しづらい。
思わず押し黙るが、桃園はいっそう和んだ目を投げる。
柵の下を見れば、部活動を終えた生徒たちが続々と桜並木の坂を下っていく。
ここもそろそろ先生が閉めにやってくるが、二人はいまだに帰ろうという素振りがなかった。
ビルの隙間に沈む夕陽に濃淡の赤で低い空が染まる。

「もしお前がロミオだったらどうするんだ」

その景色を見ながらふと口をついた。
話題逸らしに聞こえたかもしれないが、彼は突っ込むような野暮なことはしなかった。
代わりにゾクッとするほど艶の帯びた微笑みで弓枝へと近付く。
すぐ隣、身じろげは肩がぶつかるほどの距離に立った。
彼はもう景色を見ていない。
陽が落ち薄暮が忍び寄る屋上で、逸らすことなく弓枝を見ている。

「俺だったらきっとジュリエットに恋をした瞬間何もかもを捨てて連れ去ってるよ」
「桃園がか?」
「ん、そう。黙って状況を見ていたって好転なんかしないでしょ。だったらさっさと彼女を攫って二人だけで生きていける場所へ行った方が楽じゃん。好きな人のためなら他のすべてを失っても厭わないよ」
「意外と行動派なんだな」
「っていうかロミオの行動がいまいち理解出来ないんだよね。あんな結末にならなくて済んだはずの分岐点はいくつかあったと思うんだけど」

顔をしかめた彼は気に入らないとでも言うかのような口調だった。
何もかもを捨ててさっさと逃げる――それは桃園にしては強引なやり方だと思った。
しかし彼のことは彼が一番理解しているわけで、その何分の一も分かっていない弓枝に「らしくない」など言えるわけがない。
とはいえ、意外さに驚いたのも無理はなかった。
彼がロミオならもっと上手くことを運び、ジュリエットとの幸せな未来を掴むに違いないと思ったからだ。

「気に入らないんだよね。結局好きな人を不幸にしてしまうロミオがさ。愛する人は何があっても守るのが男の務めっしょ。先走って死ぬなんて間抜けすぎ――と言うと、青臭く聞こえるかな」

仮死状態のジュリエットを本当に死んだと勘違いして絶望したロミオ。
希望が失せた彼は自ら命を絶つが、その後目を覚ましたジュリエットはロミオの死にどれほど悔やみ傷ついたのだろう。
彼女も結局あとを追って果てるのだった。
桃園はそれを茶番だとせせら笑った。

「お前が本当にロミオだったらあんな悲劇にはならなかっただろうな」
「そうだね。その代わり平凡な物語として歴史に埋れてしまうだろうけど」
「でもそんなに深く愛されたらきっとジュリエットは幸せなんじゃないか」
「そう思う?」
「まぁ。うん。オレは経験ないから分かんないけど、そう思うよ」

物語は知っていても、彼のように気にしたことがなかった。
始めから結末に納得し、こうであるものという先入観でそれ以外を想像していなかった。
ロミオは精一杯ジュリエットとの未来のために行動した。
そう信じて疑わなかった。

「じゃあ弓枝がジュリエットになればいいんでない?」
「え?」

うっすらと暗くなる世界で低く掠れた声が響いた。
東の空にはとっくに一番星が輝いている。
一瞬何を言われたのか分からなかった。
反応に遅れてまごつくと、柵がギシリと音を立てる。
いつの間にか右手を掴まれていた。
瞬きも忘れる。
目の前の男は跪くと掴んだ手の甲に唇を落とした。
瞬間、その手に電気が走って総身を硬くする。
あまりに自然で、止める間もなく手にキスをされた。
何かの冗談だと思った。
スローモーションのようにゆっくりと景色が変わる。
視軸を下げると、薄闇の中で金髪が風になびいていた。
覗き込むように――いや、弓枝の反応を楽しむように見上げた顔は人形のように整っていて怖いくらいだ。
くっきりと彫深い二重から鋭い視線を投げかけられる。
まるで蛇に睨まれたみたいに身動き取れなくなった。
何も聞こえない。
血の巡る音がうるさすぎて、他の音は聞こえない。

「俺はさ……弓枝の思っているような男じゃないよ」

だから囁くように呟かれた言葉も、桃園の携帯のバイブレーションも聞き逃してしまったんだ。

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