3

翌日の夕方、僕はいつもの様に書庫にいた。
といっても棚の掃除は終わっていた為、あとはテーブルの上に乱雑に置かれた書物の整理だけであった。
ここには暖炉がないせいか掃除中も白い息が出てしまう。
それでもせっせと手を動かした。
仕事に集中していれば余計なことを考えなくて済む。
昨日はあの後からセルジオールの言いつけを守って近寄らないようにした。
もちろん話しかけることもしない。
むしろ変に意識をしてしまって避けていた。
だからといってシリウス様は気付かないだろうし、避けていれば無用な疑いも掛けられなくなる。

「……なんでこうなっちゃったんだろ」

そうはいってもまだ子供で、上手く順応出来ないのか他の使用人には感づかれてしまった。
特にジェミニはセルジオールに連れて行かれたのを見ていた為、ひと際心配してくれた。
しかし自分に非があるわけで反論は出来ない。
むしろ昨日は平和だったと思う。
余程普段から煩くしていたのか、城は静けさを取り戻して平穏な一日であった。
だから余計に自分のした事が恥ずかしくて堪らなくなる。
本当はシリウス様にお詫びをしたかったが、それも“近付いて話しかける”事になると気付いてやめた。
彼に必要なのは謝罪ではなく、立場を理解して遠ざかる事なのだ。

コツコツコツ――…。

すると静かな書庫に足音が響き渡った。
それに気付いて顔を上げる。
(ま、まさか――……)
この足音は紛れも無くシリウス様のものだ。
――しかしおかしい。
彼はこの時間に書庫へやってくることはない。
日中しか現れない事を知っていたから僕は時間をずらして掃除に入ったのだ。
窓から見える夕陽は赤く滲んでいる。
寒々しい森の木々たちの隙間から漏れる灯火のような明かりは、そろそろ闇に包まれようとしていた。
(どうしよう)
書庫のような狭い場所で近寄らない約束は無理だ。
棚に囲まれ本で溢れたこの部屋は、面積よりずっと狭く感じるからだ。
だから無理に避けなくても、何事もなかったような素振りで交わせばおかしなところはない。

コツコツ――。
(でもでも…ど、どうし――)
そうはいっても気まずくて鉢合わせたくなかった。
今はシリウス様の顔を見るだけで、自分の愚かさを思い出し居た堪れなくなる。
昨日の今日で平然としていられるほど経験豊かに過ごしてきたわけではない。
近付いてくる足音を聞きながら慌てて辺りを見回した。
冷静でいればもっと隠れる場所を見つけられる筈なのに、気が動転しているせいか何も思い浮かばない。
(すぐそこまで来ている!)
だがこのまま間抜けな姿を晒すわけにはいかないだろう。
僕はフキンとハタキを手に持ったまま、一番端のその又奥の棚へと引っ込んだ。
そして影に隠れるとうずくまって体を小さくする。

ギギギ――。

ちょうど僕が体を縮めたと同時ぐらいに書庫の扉が開いた。
何とか間に合った事に安堵しながら、息を押し殺して辺りを伺う。
自分のいたところは、シリウス様といえども滅多に足を踏み入れない古い書物の棚であった。
彼が故意に探そうとしない限り、絶対に見つからない場所である。
シリウス様は足音を消す事もせず、入り口から一番手前にあったテーブルに座った。
そこは先ほどまで自分がいたと思われる場所で内心冷や汗を流す。
(気付かれませんように。早く書庫から出て行きますように)
必死に手を合わせて祈り続ける。
しかし彼が座った事もあり、物音が聞こえなくなった。
衣服の擦れる音も、本を読む時に生じる紙の音も聞こえてこない。
静けさを取り戻した書庫は人がいながらも人の気配がしなかった。
シリウス様は自分の気配を消すのが得意な人である。
だが書庫にいる時に、わざわざ気配を消すような真似をしたのは、本の整理をしていたあの一度限りだ。
それ以降は只の一度もない。
僕が話しかけていた頃でさえ、何事もなかったように本を選んでは自室に持ち帰ったり、棚に背を預けて立ち読みしたりと好き勝手にやっていたのだ。
それこそ僕の存在など空気とでも言うかのように。
(な、なんだ?)
元から理解の範疇を超える人であったから理解しようとは思わない。
無論、自分が理解出来るとも思わない。
単なる気まぐれなのか、それともとっくに書庫から出て行ったのか判らなかった。
お蔭で動こうにも動けずにいる。
シリウス様がいるのか確かめたいのにここからじゃ見えない。
だからといって少しでも動けば衣服の音が聞こえてしまう。
もしまだ室内に居たとなれば、彼にそれを察知されてしまう。
そうなれば余計に気まずい事この上なかった。
なら最初から何食わぬ顔で会えば良かったのである。
(……はぁ、アホ過ぎる)
――というより間抜けだ。
妙なかくれんぼ状態に陥ったせいで、自ら首を絞める結果になったのだから。
(シリウス様なら鬼じゃなく悪魔だろうな)
ふとそんな事に気付いてこんな状況なのに吹き出しそうになってしまう。
自分の主人に対して随分な言いようだが真実なので仕方がない。

――そうこうしているうちに陽はどんどん沈んでいった。
明るいうちに掃除を終わらせる気満々であった為、ランプは付けていない。
その間に地平線の彼方へと惜しむように太陽が沈んでいく。
お蔭で陽が陰ると同時にこの部屋は暗くなっていった。
暖かな朱色の光が窓から差し込まなくなると、途端に部屋が寒くなる。
それ以上に心細さでいっぱいになった。
明かりほど精神安定に必要なものはない。
ほんの僅かな灯火でもいい。
闇に呑まれた空間ほど恐ろしいものはなかった。
薄らいだ逢魔ヶ時に夜が訪れようとしている。
書庫は城の中でも端の方にあり、シリウス様以外は滅多に訪れない場所であった。
僕が任されたのは、きっと外が寒くて水掃除が大変だという気遣いからだと思う。
それはジェミニの気遣いだった。
しかし今はそれが絶望感を煽る。
おかげで助けを待つ希望すら持てない。
(寒いし怖いよ……)
肌寒さと言い知れぬ恐怖に体を震わせていた。
只でさえ疲れてお腹も減っているのに、シリウス様の存在だってある。
何もかもが一気に襲い掛かってきて、辛さに泣きたくなった。
だけど泣き声が漏れたら一貫の終わりだ。
陽が完全に沈んだ書庫に静かな夜がやってくる。
僕は必死に唇を噛み締めて泣くまいと気張ったまま、沈んだ気持ちを逸らそうとしていた。
そろそろ食事の時間なはずで、動きがあってもいい頃である。
(はぁ…なにやっているんだろう)
真っ暗な視界に、側の棚さえ見えなかった。
膝を抱き寄せてうずくまると静かに目を閉じる。
暗い部屋の片隅はあまりに孤独感を煽り気持ちを落ち込ませた。

「――――おい」
「……んぅ……」

すると目の前が僅かに明るくぼやけた気がした。
僕は閉じていた瞳の裏側でその光を感じ取るとうっすら目を開ける。
だが暗闇に目が慣れていたところで光を向けられると、その刺激に瞳の奥まで痛みが突き抜けた。
お蔭で何も見えず霞んだ視界に目を細める。

「ひぃぃっ――――」

だが目が痛いなんて言っていられなかった。
僕は悲鳴を呑み込むと後ろに仰け反って目を見開いてしまう。
見上げればランプを持つシリウス様が見下ろしていたのだ。
ランプの小さな明かりが辺りの黒と交わり、彼の無表情な顔に濃い影が重なる。
その顔はまさに化け物の名に相応しく、見た瞬間あまりの恐怖に固まってしまった。
同時に腰を抜かしたことを悟る。

「どうした?いつまで隠れんぼしているつもりだ?」

シリウス様は相変わらず何を考えているのか判らない顔をしていた。
だが今はそんなこと関係ない。
突然彼が現れた事と、自分に対して話しかけている事実が、何より信じられなかったからだ。

「……ぅ……く…」

どうにも声が出ない。
その間に腰を抜かしていただけでなく失禁していた事を知った。
情けないにも程がある。
それほどの緊張感と恐怖の中に居たのだ。
(恥ずかしい)
それを知られるのは嫌だ。
しかし腰を抜かして、歩く事はおろか立つことさえ無理であった。
その様子に嘆きたい気分だったが状況はそれを許さない。
何せ今の自分には失禁が知られないよう、ズボンを隠すことで手一杯だったのだ。

「…………」
「うぐっ――!」

すると何を思ったのか、シリウス様は突然僕の胸ぐらを掴み、そのまま抱き上げてしまった。
片手でひょいと肩に担がれる。

「だ、だめっ…ですっ……」
「…………」
「僕そのっ…ズボンを汚して…っ」

さすがに自分で漏らしたとは言えず、回りくどい言い方をしてしまった。
だがシリウス様は構わず歩き出してしまう。
片方に持ったランプが揺らめいて、室内におぼろげな明かりが灯った。
彼の背が高いせいでジタバタと暴れるわけにもいかず何とか止めようとする。

「旦那様の服が汚れてしまいますっ…だから!」

だから放っておいてくれと言いたかったが彼は聞いていなかった。
そうだ。
シリウス様は僕の言う事など聞いていない。
それは今までの経験で判りきっている事だ。
でも――。

「な…んでっ……」

どうしてこんな状況になっているのだろうか?
あの暗闇の中で本を読めるわけが無い。
もしあそこでランプに火を灯せばさすがに僕の居た所でも判るだろう。
つまり彼は僕のすぐ側まで来たところで明かりを灯したのだ。
それはそれで十分意地悪だと思う。
じゃあ彼は本を取りに来ただけなのだろうか?とも思ってみたが片方の手は僕を担ぎ、もう片方の手はランプしか持っていない。
(何しに来たんだろう)
さっき説明したとおり場所柄何の用事も無くわざわざ書庫行く事などありえない。
では彼は何をしていたのだろう?何をしに書庫まで行ったのだろう?そして何故僕の隠れている場所にまでやってきたのだろう?
だが何度も書く通り彼を理解するのは難しかった。

しばらく歩くとようやく明るい廊下にまで出てきた。
この辺りには所々ランプが灯っているし、窓からは月明かりも見える。
その明るさにやっと安堵したのか体の力が抜けた。
だがすぐに次の問題が浮上する。
明るいという事はズボンにくっきりと漏らした部分の染みが見えてしまう。

「あ、ああっ…あのっ…」

第一にこんな状態をセルジオールに見つかったら次はどんなお説教をされるか判らなかった。
いや、お説教で済めばいいがクビになる可能性もおおいにある。

「だっだん……」
「――今日はあまり話さないんだな」
「…………は……」

だがシリウス様の一言に言いたかった言葉がすぽんと抜けてしまった。
(い、今なんて……?)
思わず黙り込んでしまう。
だが彼は僕の様子にすら無頓着であった。

「………っ…」

訪れた沈黙に静けさが波打つ。
窓の外は雪のせいで青白く輝いていた。
群青色の空に浮かぶ満月は穏やかな光を灯して瞬いている。
(本当に先ほど声を発したのはシリウス様なのだろうか?)
そう思うほど彼は元の無口な状態に戻っていた。
だがあれだけ声を聞くのが難しい人の言葉を聞き間違えるわけがない。
肩に担がれているせいでシリウス様の顔は見えなかったが彼から目が離せなくなった。

「あ、あの……」

(近付いちゃいけないのは判っている。話しちゃいけないことも判っている)
頭の中でセルジオールの姿が浮かび何度も警告していた。
必要最低限の用事以外は話さない。
彼に興味を抱かない。
守るべき約束が頭にチラつきどうにも口篭る。

「お前は煩いぐらいで丁度いい」
「え?」

すると再び彼の重い口から言葉が発せられた。
それはやはり独り言でも呟いているかのように淡々としていた。
だからまたもや聞き逃してしまいそうになる。
しかしその意味に気付いた時僕はガバッと顔を上げた。
(ちゃんと知っていたんだ)
自分が煩いぐらい話しかけていたことを。
シリウス様ならどんなに煩くても聞こえていない可能性も考えていた。
常人には無理だろうが彼ならそれも可能かと思った。
そう思わせるほどシリウス様は僕を無視し続けていたのだ。

「――――っぅ」

気付けば嗚咽が漏れていた。
情けない格好ながら思わず涙が零れる。
勝手に溢れる涙は止めるきっかけを失って次から次へと流れ落ちた。
どこまでも続く静かな廊下に、子供のすすり泣く声が響き渡る。
どうして涙が零れたのか僕自身も判っていなかった。
どの感情にも当てはまらず泣きながら困惑する。
色々な感情が滲んでは自身を昂ぶらせていたのだと思う。
特に僕を縛り付けていたのは心細さであった。
雪深い森を駆け抜けて辿り着いた城での新しい生活。
ジェミニを始めここで働く人達は皆いい人で助かったと思っている。
それでも初めの頃は見知らぬ顔に慣れない仕事で、順応するのにも苦痛が伴った。
異質な城に不気味な城主とくれば尚更不安は煽られる。
それでもここで生活せざるを得ない状況に、息苦しさを感じずにはいられなかった。
寂しくて心細くて眠れない日々が続いた。
窓の外は見慣れぬ魔の森が広がり、閉じ込められていると錯覚を起こす。
風の音ひとつにも敏感になり、怖くて毛布を頭まで被り一夜を過ごす事も珍しくなかった。
この城に慣れるまで迷子になる事も多々あった。
そういった状況の中でセルジオールやシリウス様に気を遣い続けていたから心身ともに疲れきっていた。
僕の年齢なら今頃学校に通って友達と遊ぶだけの毎日だった筈なのに。
自分の身の上を恨めしく思っても仕方がない。
だから気丈に泣きもせず生活していた。
それがシリウス様の言葉で一気に溢れてしまった。
もしかしたら感情の粒が涙に返還されて流れ落ちたのかもしれない。
(へんなの)
こうしていると胸を蝕んでいた寂しさや心細さが塞がっていく。
お腹はぐーぐー鳴っているし、漏らしてズボンを汚すような失態を起こしているのに無性に安堵している自分がいた。
相変わらずシリウス様は黙っている。
僕が泣いていることに興味がないのかもしれないし、もしかしたら気付いてすらいないのかもしれない。
だがいつもなら苦手だった沈黙が、今は心地良かった。

「ひっぅ…旦那様、僕頑張ります…っぅ」

やっとシリウス様に認められたと思った。
それが心底、嬉しかったのだ。

その後、漏らしたことは気づいたのか、無言のまま浴室に連れて行かれた。
体を洗うぐらいでお湯を用意するのはとても大変な為、寒くても水で我慢する。
昔は家の近くに公衆浴場があった為、よくじいちゃんに連れられてお風呂に入りに行った。
と、いっても来ていた町の人は風呂に入るより、人と交流するのが目的のようだった。
いつまでも飽きずに話し続けたじいちゃんを思い出す。
庶民の社交場だったのだろう。
僕は懐かしい思い出に浸りながら冷たい水に体を震わせて洗った。
一緒に汚したズボンとパンツを洗う。
その後風呂から上がると、脱衣所に着替えの衣服が置かれている事に気付き、シリウス様がジェミニに用意させてくれた事を知った。
着替え終えたあとは特別何も変わらなかった。
相変わらずシリウス様は静かにご飯を食べてさっさと自室に篭ってしまう。
一連の出来事はセルジオールに知らせなかったのか彼は何も言ってこなかった。
それに安堵しながらこちらも気付かれないように細心の注意を払う。

翌日、僕はいつもの様に書庫にいた。
今日は昨日と違って遅い時間に掃除をしなくてもいい。
というよりシリウス様に対する苦手意識が、昨日までと比べて格段と薄くなっていた。
鼻歌を響かせながらハタキで棚の上の埃を叩いていく。
窓の外は久しぶりに雪が降っていた。
昨夜はあれだけの美しい満月を見せていたのに、今朝は厚い雲に隠れて太陽が見えない。
シンシンと静かに降り続く雪は、人々の足跡を残らず消して白一色に染め直してしまう。
この地方の冬は長く厳しい。
残っていた雪も結構な量だったが、また深く降り積もるだろう。
明日もし晴れたらまた庭や入り口にある悪魔像の雪を取る作業に追われる。
これだけ広いと雪掻きもかなり大変だった。
城の使用人は皆年老いているから自分が頑張らねばならない。
だがそうはいっても一番ひ弱で役立たずなのは僕だから情けない。
皆結構な年齢に達していると思うのだが、力持ちで逞しかった。
それをジェミニに言うと彼女は「ここで暮らし始めて長いからもう慣れているのよ」と、笑う。
――確かに。
仕事もせずボーっとしているだけなら、人間は案外早く老いてしまうのかもしれない。
その代わり体や頭を使う事によって、若さを保っていられると考えれば納得できる。
じいちゃんも病で伏せる直前まで自分の畑を耕していた。
それこそ一日も休む事無く働き続けていた為、年齢に比べると元気だったと思う。

ギギギ――。

すると書庫の重い扉が軋みながら開いた。
奥から入って来たのはもちろんシリウス様である。

「お、おはようございます」

朝食時、使用人と共に挨拶したがこうして対面するとまた同じ挨拶をしてしまう。
だが頭を上げた後もシリウス様はこちらを見ていた。

「?」

(なんだろう?)
話そうともしないくせに、彼はハタキを持つ僕を見つめている。
それが居心地悪かったから軽くもう一度頭を下げると掃除に戻った。
昨日の一件があったとしてもセルジオールの約束は変わらないわけで、あまり関わらない方がいい。
本当は少し話したかったけど、堪えて横を通り過ぎた。
(気まずい)
何食わぬ顔で掃除をしているものの、背中に突き刺さる視線が痛い。
まだ僕を見ている。
意識すると作業がし辛くて、動きがギクシャクしてしまった。
シリウス様は眼帯で片目を隠しているのに眼力が強い。
さすがにあの顔で見られたら肝を冷やすだろう。
無口に無表情がそれを助長させていた。

「どうした?昨日から様子が変だぞ」

すると静かな部屋に低い声が響き渡った。
驚いた僕はハタキを持ったまま振り返って固まる。
どうした?という台詞は僕が言いたいくらいだったが、シリウス様に聞けるわけなく口を噤んだ。

「まさかセルジ――」
「あーーあーー!!」

だがこればかりは口を出さずにいられなかった。
まるでセルジオールの名が禁止用語のように反応してしまう。
シリウス様の声は僕の大きな声に掻き消されてそれ以上聞こえなかった。
そうやって反応した事を内心マズイと思いながら、止まれなくてその辺にあった本を適当に取ってしまう。

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