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「こんなもんじゃないよ」

すると俯く弓枝の頭に大きな手のひらが乗った。
そのまま撫でるように触られて、弓枝はさり気なく彼を見やる。

「とても凄いことだよ」

柔らかく微笑む顔は、男でもドキッとしてしまいそうなほど整っていて、心臓の音が大きくなった。
慣れた手つきで触れるのが悔しい。
大体男同士で頭を撫でられるなんて変だ。
(変なのに。おかしいことは分かっているのに)
止めることが出来ず、俯きっぱなしのままこの状況を打破しようと考えを巡らす。

「弓枝、あのさ……」

席ひとつ空いていたはずなのに、耳元で桃園の声が聞こえた。
相貌の整った男は声まで格好良い。
天は二物を与えずなんて嘘だ。
その近さに驚き心臓を掴まれたみたいに息を凝らすと、猜疑深い表情で睨みつける。

「言っておくけど脚本は書かねーからな」
「あ、やっぱり?」

爽やかな顔がくしゃりと潰れた。
愛想のない弓枝にも嫌な反応を示さず、楽しそうにしている。
金色に染めた髪は真夏の太陽みたいに眩しかった。
桃園は顔を離して席を立つと軽く手を振り、カウンターに置いていたノートを持って図書室を出て行く。
残された弓枝は変な感じがした。
言葉では言い表せないむず痒さがあった。
(ロミオとジュリエットか)
振り向くと机に積まれていた資料が片付けられている。
それに息を吐くと、机に向きなおして問題集に目を落とした。
まだ今日のノルマの半分も解いてない。
だが集中力は途切れたままで、シャーペンをくるくる回した。

「はぁ……」

誰もいなくなった図書館は元の静けさが戻り、まるで始めから何もなかったみたいな様相を呈している。
カーテンの隙間から甘く光が差していた。
帯状に揺らいだ陽光が室内をまだらに染める。
自分のため息が異様響いて曖昧な笑みが漏れた。
関係ない。
弓枝にとって桃園や演劇部は関係ない。
向こうから勝手にやってきて、適当なことをつらつら述べているだけなのだ。
頭の中でそう繰り返し言いくるめるが、どうしても問題集が手につかない。
目蓋の奥には肩をすくめて笑う桃園の残像が映り、物言いたげにこちらを見ている。
すべてにおいて器用にこなす男が参っていた。
それを解決する力を持っているのは自分なのだというのも不思議な気がする。
(優越感?)
まさか。
そこまで幼稚ではないし、卑屈な性格をしているわけでもない。
ぼんやり天を仰いだ。
年季の入った図書室の天井は埃と染みで薄汚れている。
上の階で生徒が騒いでいるのか、時折取り付けられた蛍光灯が振動していた。
そのまま微動だにせず顎をしゃくり考え込む。
と、しばらくして眉がヒクついた。
感情の先をゆっくり辿ると、思ってもみない答えに行き着くから困った。
弓枝はただ嬉しかったのだ。
唯一記憶に留めていた男が自分を頼り声をかけて来てくれた。
相手にしてみれば些細な出来事で、弓枝でなくとも良かったのかもしれない。
世の中にその人でなければならないことは限られている。
故に人は自分でなければならないことを探している。
代わりがいるよりいない方が好ましいのは当然で、絶対的な存在であることを懇望するものだ。
だが弓枝にとってはどうでも良いことなはずだった。
あくまで飄然と生きてきた彼にとって、誰かに頼られることや求められたことはない。
あったとしても興味がなかったからさほど気に留めなかった。
自分に降りかかってくるものすべてを相手にしていたら気が狂う。
常に遠巻きから客観的に世界を見ている方が楽だ。
そうして心の平穏を保っているのだ。
そんな頭にノイズが走る。
妙な感覚にこめかみを押さえて目を瞑る。
まだまだ感情の先を辿る。
細く無理にでも引っ張ったら切れてしまいそうな糸を手繰り寄せる。
ガラガラ――。
その時、無造作に図書室のドアが開いた。
涼みにやってきた生徒が二三人手で扇ぎながら入ってきたのだ。
おかげで辿ろうとした糸は切れてなくなる。
(……良かったのかもしれない)
あれ以上、深く自分の心と向き合っていたら、余計な感情まで引っ張り出してしまったかもしれない。
安易に過去を振り返るのは危険な行為だ。
悲しい過去も、幸せな過去でも良いことなんてない。
喜びも悲しみも百倍にするのは容易く、思い出はどうにでも捻じ曲げることが可能な妄想だ。
無意識に美化された思い出は邪魔としか言いようがない。
今の弓枝には必要ない。
強引にかぶりを振ると、決心したように席を立った。
入ってきた生徒を尻目に海外文学の棚へ向かうのだった。

翌日、眠い目を擦りながら歩いていると、肩を叩かれた。
面食らうと朝とは思えないキラキラオーラを漂わせた男が隣に立っている。
桃園だ。
昨夜も熱帯夜だったというのに、どこにそんな清々しさを隠しているのか謎だ。
彼はこの暑さを感じていないのかもしれない。
むしろ人間ではないのかもしれない。
そんなくだらないことを考えるほど隙がなかった。
いや――違う。
彼は隙だらけなくせに、隙を見せない男なのだ。
わざと隙を作っているような無邪気さとあざとさを備えている。
本当はその奥でギラギラとした本性を隠しているのではないか。
周囲の警戒を解くために軟派を演じているだけで、もっと淀んだ冥い瞳で世界を見ているのではないか。
ふとそんな違和感が過ぎったが、即座に打ち消した。
斜に構えているのは弓枝で、世間は思っているよりずっと穏やかで平和だったりする。
自分が彼のように振舞えないから妬んでいるだけなのだ。

「なに? どうしたの?」
「いや」

コンタクトをつけた瞳がゴロゴロして奥が重い。
昨日ロミオとジュリエットを読んだ勢いで、脚本を書いてみた。
とはいえ初めての作業で、思ったより四苦八苦して中々進まなかった。
結局切りの良いところで終わらせようとしたら寝る時間を二時間もオーバーしてしまった。
故にコンタクトの付け心地が悪いのは仕方がない。

「弓枝って結構遅くに学校来るよね」
「は? 急になんだよ」
「いや、弓枝のようなタイプって朝早くに来て問題集でも解いてそうなイメージじゃない?」
「昨日も言っただろ。別に優等生じゃねーよ」

でも頭良いし真面目だし問題起こさないし、そういうのが優等生じゃないの――と、桃園は言った。

「面倒なだけだ。そうしていれば目立たないし教師からも目を付けられない。家族からもうるさく言われねーし」

余計なことは嫌いだ。
無駄なことも嫌いだ。
合理的に生きていると、不必要なものに触れずに済む。
不必要なものに触れなければ不要な感情に振り回されることもない。
それは楽な生き方だ。
クラスメイトの名前を覚えるのも、人と関わるのも面倒でいらないことだと思っている。
そのくせ勝手に相手の気持ちを忖度して不安になっているから莫迦だ。
最も面倒なのは己なのだと自覚しているくせに、考えていることには進歩がない。

「弓枝の家族ってうるさいんだ」
「どこだってそうだろ」
「んー。うちって結構放任主義なんだよね。両親は忙しかったりしてうるさく言わないかなぁ」

だから家事は得意よんと、ウインクして見せた。

「男で家事が不得意でも困らない」
「あらあら。意外と弓枝って古風というか男前な考え方ね」
「男前ならそんなこと言わない。むしろお前みたいなタイプがモテるんだろ」

少し前テレビでイクメンだか何メンだかやっていた。
料理はもちろん家事や育児もこなす男が評価高いという話だ。
男が何かを望むと文句を言うくせに、自己主張だけは忘れない女たちは図々しい。
女三つで姦しいとはよく言ったものだ。

「まぁ、ね。男が見ている女と同じくらい女だって男に幻想を抱いているからね」
「だろうな」
「だから勘違いして俺なんかがモテるんだよ」

隣を並んで歩く男は肩を竦ませておどけたように笑った。
まだ濃密な人の気配が薄い朝に、皮肉めいた顔がよく似合う。
だが彼はすぐにいつもの朗らかな笑みに切り替えた。

「俺は弓枝のことをずっと男前だと思っていたけどなぁ」
「は?」

急に何を言い出すのかと思った。
思わず足を止めると目をしばたたかせる。

「嫌味かよ」
「いいえ。滅相もございませんー」
「言い方が嘘くさいんだよ」

というかお前自体が胡散臭い、とはさすがの弓枝も言わなかった。
〝ずっと〟という単語が気になったからだ。
どういうことなのだろう。
去年も同じクラスだが、今みたいに話すことはなかった。
何事にも目立つ桃園だから弓枝は知っていたけど、彼が自分を知っているはずはなかった。
数に紛れた地味な生徒。
そうして小学校も中学校も過ごしてきたから目立った例がなかった。
地元を歩いていても誰にも声をかけられないし、同窓会の話も来たことがない。
一度おせっかいな元クラスメイトが声をかけてきたが、他に数人いた奴らはまったく自分を覚えていなかった。
言われればそんなやついたかもしれない。
その程度の存在だった。
高校にも同じ中学出身者が何人もいるらしいが、顔を覚えておらず誰だか知らない。
弓枝は成績が良くても一位になれるほどの秀才ではない。
運動も、足を引っ張るほどの音痴ではないが、目を引くような身体能力もなかった。
性格だって面白くもなければ避けられるほど変わった性格でもない。
地味で真面目な生徒は卒業すれば名前も掠れるほどの存在になってしまうのだ。
そういう意味では、クラスで浮いている生徒より必要ない人間だった。

「とにかく、もしご飯が食べたくなったらいつでも言ってね」
「どういう状況だよ」
「ま、いいじゃない。つーわけで、はい」
「はぁ?」

すると桃園が弾けるような笑顔で手を差し出してきた。
何のつもりだと頭にハテナを浮かべるが、催促する手をやめない。

「何って、やだこの人。分かってるでしょ、携帯電話プリーズ!」
「えっ……ちょっと、おいっ」

桃園はペタペタとズボンに触れるが、携帯らしき感触がないことに顔をあげる。
ずいぶんナチュラルな手つきで止める間もなかった。
慌てて鞄から携帯を取り出す。

「よっしゃー。弓枝の番号ゲット!」

彼は器用にも歩きながら二つの携帯を操作していた。
未だ体に触られたことにうろたえ、動揺している弓枝のことなど気付きもしない。
(男同士だとしても苦手だ)
どう反応すれば良いのかと判断に惑い狼狽する。
もっと軽く返せたらいいのに、自分が酷くつまらない男に見えて嫌だった。
男同士のつるみ方なんて知らない。
知るほどの付き合いがない。
(じゃあコイツが女だったら……?)
隠れて盗み見るように目だけ向くと様子を窺った。
嬉々として携帯を弄る姿は可愛いが、大柄で骨っぽい男を女だと想像したくない。
瑞々しい夏の風に乱れる前髪、その奥にある涼やかな二重。
秀でた鼻梁に脚のすらりとした長身は、頭の天辺から足の先まで男であることを許されている。
いや、彼は男であるべくして生まれてきたのだ。
女として見るなんてもったいない。
学校までの坂道は生い茂った桜並木で、葉の隙間から零れる朝日がスポットライトのように彼を照らしていた。
どうしたらこんな形の人間が作られるのだろう。
世界中の人間。
元はすべてひとりの女性から生まれたというのに。

「……桃園の両親はきっと美しい人なんだ」

弓枝は思うより先に口に出していた。
その一言に桃園はきょとんとした顔で覗き込んでくる。

「急にどうしたの?」
「いや……なんでもない」

あまりにも自然に言葉が出て、自分の方が混乱した。
何をいまさらと思いながら、どう誤魔化そうか考える。
校門は見えていたが、まだ遠い。
取り繕うことに必死で頭の中が真っ白になった。
取り乱すような内容でもなかろうに会話に慣れていない証だった。

「ん、いいよね」

そんな弓枝だったが、桃園の反応は違った。
(何が?)
返事が話にかみ合っておらず怪訝に見上げる。
すると番号の交換が終わったのか携帯を返してくれた。
彼は弓枝を見ると目を細める。
――――眩しそうに。

「なにがだよ」
「いやさー、やっぱり弓枝は凄いよなって話」
「はぁ? 全然分からん」
「ごめんごめん。勝手にひとりで納得して感動してた。俺の悪いクセなんだよね」
「だからなんだよ。いいよねっていうのは同意としての意味で言っているのか?」
「違うって。そこまでナルシストじゃありません」

じゃあと問うと快活な少年のように晴れやかな横顔が目に入った。
なぜそんな顔をしているのか謎で困る。
(両親を褒められて嬉しいのか)
お世辞で言ったのではない。
まるで息を吐くように、心の奥の声が口に出てしまったのだ。
煽てるために放った言葉だと勘違いして欲しくないのに、どう説明していいのか分からない。
会話は難しい。
相手の真意を忖度するのはもっと難しい。
考えすぎてごちゃごちゃになってしまう。

「そんな難しい顔しなさんなって」

すると皺の寄った眉間を指で弾かれた。
僅かな衝撃に思考が飛ぶと真っ直ぐに見やる。

「俺がいいって言ったのは、親のことだからじゃないよ。弓枝って感性は鋭いのに自分のことになるとトコトン鈍いよね」
「なんだそれ」
「そのまんまの意味。いいなって思ったんだよ。美しい人って表現がさ」
「別に……変わった表現じゃないだろ」
「ん、そうなんだよなぁ。でもね、なんか。うーん。弓枝が言うと特別になる」
「お前の言うことはワケが分からん」
「あはは。そうだよね」

彼はまたひとりで納得して軽く笑った。

「でもやっぱり言葉選びが上手いよ。っていうか俺は好きだな」

あまりに優しげな眼差しで見つめられたから、謙遜も反論も出来なかった。
何も考えていなかった言葉でこんな風に褒められるのは照れくさい。
相手が桃園なせいだろうか。
照れくささとは別に胸がくすぐったくてムズムズした。
(特別――か)
憂鬱な朝が少しだけほぐれた気がするのは弓枝が単純だからだろうか。
鞄の中に入っている書きかけの脚本が疼いた。
音のない声で主張している。
それを振り切るように坂道を上りきると、あと数分でチャイムが鳴る時間になっていた。

その日の昼休み、桃園は隣のクラスの女子に呼び出されて教室を出て行った。
直前まで一緒にいた冬木は囃したて面白そうにからかっていた。
後ろの席にいた弓枝は一部始終を見ていたせいか、ぼんやりと後ろ姿を見送った。

「可哀想に。ありゃ振られるな」

空になった桃園の席に腰掛けた冬木が振り返る。
昼休みの賑わいに掻き消されそうな呟きが耳に入った。
その声につられて向きなおすと彼がこちらを見ている。
どうやら相棒がいなくなって暇になったらしい。
さっさと違う友達のもとへ行くか自分の席に戻って欲しい。
無視して読んでいた本に目を落とそうとしたが、冬木の構ってオーラに負けてページを捲るのをやめた。

「桃園って他に好きなやつがいるのか」

本を閉じると片肘をついて顔をあげた。
冬木は完全に体をこちらに向けており、話に乗ってきた弓枝に瞳が輝きを増す。
そうして彼は聞いてもいないような過去をペラペラと喋り始めた。
桃園とは中学からの同級生で、当時からかなりの人気者だったらしい。
今と変わらず人の輪の中心にいたのだ。
もちろん女子にもモテたわけで、人懐っこい性格にあの容姿では至極当然だ。
女が途切れなかったと聞かされても別段驚きはしなかった。
だがしかし不思議なのは彼女は作れども、長続きしなかったことだ。
もしかしたら今より軟派な性格だったのかもしれない。

「んで、俺、怒ってやったんだ」

桃園の軽い態度に腹を立てた冬木が見るに見かねて、ある日突然殴ったと言うのだ。
勇ましく突き出した拳を自慢げに振って弓枝に見せる。
その様子にどう相槌を打っていいのか迷い、口先だけで「すごいね」と返す。
冬木は冬木で桃園とは違った風変わりな性格をしていた。
それまで他の生徒と大差なく見ていたせいか、話してみると考えの違いに戸惑う。

「桃園がヘラヘラしてるの嫌だった。そのくせ簡単に人を傷つけるから腹立った」

何も考えていないようで、ちゃんと考えているし、峻別はされている。
鈍感なように見えて、よく人を見ている。
現在の仲が良い二人しか知らなかったから、本当は桃園を嫌っていたなんて意外だった。
(桃園が簡単に人を傷つける?)
どういうことだろう。
得意気になって話す冬木を訝しそうに見つめる。
桃園はどんなに弓枝が態度悪く接しても気に留めず、寛大な心で返してくれる。
今までつまらないだの無愛想だの言われてきたが、彼のように許してくれるクラスメイトはいなかった。
明るく飄々としていながら気遣いに長け、心地好い空気を醸し出してくれる。
そういった優しさが美点であり人気の秘訣だと思っていた。
だから弓枝は感心して妬むことなく桃園を見ていたのだ。

「そしたらさー」

冬木の言葉が引っ掛かったものの、深く問う前に話は次へ移っていた。
見事桃園の顔を殴った冬木だが、思わぬ反撃を食らってしまう。
意外と武道派な桃園が殴り返してきて、二人は大喧嘩に発展した。
それまで桃園も冬木も問題を起こすような生徒ではなかったから、担任は仰天して大事になったらしい。
当の二人は殴りあうだけ殴りあうと満足したのか、翌日にはすっきりさっぱり何事もなかったように登校していた。
それどころか以降つるむようになったのだから、案外拳で語るというのは本当なのかもしれない。
桃園は以後、彼女を作らずああして告白されるたびに振っているというのだ。

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