5

「は、初めまして。祐一郎君の同級生の弓枝です。夜分遅くにお邪魔しています」

誰かの家へ行ったことがないということは、その家族に挨拶したこともないということだ。
弓枝は回りきらない呂律を必死に動かして早口で言葉を繋ぐ。
その様子は明らかに慣れていないといった有様で、後ろから桃園は目尻に優しい襞を畳み黙って見守っていた。

「ゆうちゃんの母です。よろしくね」

桃園の母親はにこやかに笑いかけた。
なるほど、若い親である。
顔立ちだけなら母親というより姉のほうがしっくりくる。
化粧して着飾れば誰だって彼女を桃園の恋人と勘違いするだろう。

「もう、ゆうちゃんたら全然お友達のこと話してくれないから、こんな格好で出てきちゃったじゃない」
「母さん。明日早い便だって言ってたでしょ。早く寝なさいよ」
「やだぁ。お母さんも二人と一緒にご飯食べたい。ひとりで寝るの寂しいもん」

桃園の母親は駄々っ子のように口を尖らせた。
その仕草は雰囲気をより幼く若く見せる。
対するに桃園はなぜか普段より冷たく思えた。
口調はさほど変わりないのに。

「甘えないでよ。健全な男子高校生が母さんと一緒に寝たり出来ないでしょーが」
「ぶーぶー。昔は懐いてくれて可愛かったのに」
「これでも男なんだからね。ちゃんと分かってる?」
「分からないもん。ゆうちゃんは昔からずーーっとゆうちゃんなんだから」
「ったく。ほら、寝不足だとまたクマとかニキビ出来ちゃうよ? さっさと寝なさい」

桃園はフライパンを取り出すとコンロに火をつけ料理を再開した。
あとは相手にせず何を言われても無視を決めこみ、黙々と料理に集中している。
それを彼女はじっと見つめていたが、しばらくして諦めたのか肩を落として立ち去ろうとした。
その間際、弓枝の耳元で、

「あの子がうちに誰かを呼んだの初めてなの。これからも仲良くしてやってね」

と、囁きかけ、驚いた弓枝が顔を上げると、桃園に聞こえないよう唇に指を当てて内緒という素振りをした。
悪戯っぽく微笑んだ彼女は「おやすみ」と手を上げてその場から去っていく。
唖然として見送る弓枝は反応に困って無言になった。
(なんだろう。この感じ)
胸元がモヤモヤした。
親と子の関係なんてそれぞれで、弓枝の家庭も中々複雑である。
しかし桃園の家庭も異質な感じがして、でもそれは親子の部分であり他人が指摘出来なかった。
(今までの恋人も冬木もここへは招かなかったのか)
最後に言い残した言葉が引っかかり、テーブルに肘を付きながら桃園の料理している姿を眺めた。
冬木なら何度も遊びに来ていると思ったが、呼んでいないという。
いや、もしかしたら家族がいない時に来ていたかもしれない。
弓枝だって本当は明日の親がいない日に約束していた。
今日家であんなことがなければ母親にも会わなかっただろうし、彼女の言う〝初めて呼んだ友人〟にはならなかった。
(まさか……会わせたくない、とか?)
ふとこの前クラスメイトに母親との間柄を怪しまれた時のことを思い出した。
あの時の桃園は嫌な雰囲気が漂っていて何か変だった。
訊かれたくない、突っ込まれたくないという感じだった。
この年になると親の話なんてしたくないのは珍しくなく、当たり前の反応なのかもしれない。
だけどいささか気になった。
桃園と母親の間には何か隠された秘密がありそうだと思ったのだ。
だが訊けるわけがない。
冬木も感づいているだろうが、彼も知った素振りはなかった。
つまりそういう話を避けている――否、避けてやっているのだ。
誰にでも話したくない事情はあるわけで、それを他人が根掘り葉掘り訊いたところで無神経なだけである。
煩わしい人間にだけはなりたくなかった。
自分自身が最も嫌悪する人種だからだ。
だから気になっても口には出さなかった。

「おまたせ。出来たよ!」

すると夜遅くのダイニングには食欲をそそるような香ばしい匂いが漂った。
考え込んでいる間にちゃちゃっと作ったのか、見事に美味しそうなチャーハンと中華スープが出来上がっている。
盛り付けや色味も工夫されていて、このまま中華料理店で出されても素人が作ったとは思わない出来映えだった。

「ごめんね。急だったもんで冷蔵庫の中にあるものだけで作ったんだけど」

桃園は人の良さそうな顔で笑うと、弓枝の前に食器を置いた。
立ち込める湯気に二回腹が鳴る。

「いや、逆に凄いよ。本当に料理が得意なんだな」

今ある食材だけでささっと作れるほうが何倍も凄い。
弓枝はレシピ本と材料を完璧に用意した上でしか出来ない。

「いやはは、適当なんだけどね」

素直に弓枝が褒めるから、桃園は照れくさそうに頬を掻いた。
適当というのは案外難しかったりする。
料理をしない人間にとって調味料の量が適当と書いてあるだけでチンプンカンプンになる。
つまり適当でも美味しいものが作れるのは、それだけ味付けに慣れているからである。
実際桃園の作ったチャーハンと中華スープは適当に作ったとは思えないくらい美味しかった。
気を利かせて量を多めに作ってくれたのか、弓枝はおかわりまでしてしまった。
美味しい食事で腹が膨れたお蔭で満足感に浸る。
デザートに梨まで出てきた時は感動すら覚えた。

「お前、これならきっとすぐ嫁にいけるぞ」

満腹感に幸せな気持ちでお茶を啜ると、するっとそんな言葉が出てきた。
しまったと思った時には遅く、向かいに座っていた桃園が目を輝かせる。

「じゃあ嫁にもらってよ」

甘えるような眼差しで覗き込んできた。
いちいちサマになるからむかつく。
それより腹立つのは、頭では分かっていてドギマギしてしまう弓枝自身だった。
乗せられまいと必死に耐える。

「すっごい尽くすし、弓枝を満足させる自信あるんだけどなぁ」
「嫌だよ。こんなデカイ嫁」
「えー、家事ならばっちり何でもこなすのに」

桃園は秋波を送りながら、そっと弓枝の口許についていた米粒と取った。
迷わず己の口へ放り込む。
まるで新婚ほやほやの夫婦みたいだ。
弓枝は慌てて口を拭うが、耳まで赤くなった顔は隠せずうろたえる。

「つ、付いているなら先に言え」
「ごめんごめん」
「なんだよ」

桃園はじっと弓枝を見つめて視線を外さない。
これだけ真っ直ぐ見られることに慣れておらず勝手に目が泳ぐ。

「んーん。眼鏡の弓枝って新鮮だなぁって」
「今さら何言ってんだ」
「見た時から思っていたんだけど状況が状況だったもんで、こんなこと言ったら怒られるかなと思ってさ」
「別に」
「眼鏡の弓枝も可愛くて好きだよ」
「――――!!」

弓枝は言われた拍子に唾が気管に入ったのか噎せた。
苦しそうに咳き込みながらグラスに入っていた水を飲み干す。
それでも辛くて治まるまでしばらくかかった。
ようやく鎮まると恨めしそうに桃園を睨む。

「やっぱり怒った」
「お前な……そんなのどうでも――」
「どうでも良くないって」

桃園は弓枝を遮るように、

「前も自分と話すことに得なんか――とか、別にどうでも――とか言ってたけど、ちょっと自分を卑下しすぎなんじゃない?」
「事実を言っているだけだ」
「ほらまた」
「……っ……」

指摘されてぐぐっと詰まる。

「俺は弓枝が大切だからどんなことでもどうでもいいなんて思えないよ。些細なことも知りたいし、全部が大切だと思ってる」
「…………」
「だから眼鏡姿を見られたことは嬉しいし、あんなところから飛び降りる行動的な弓枝を見てもっと好きになった」
「大げさなやつだな」
「大げさで結構。俺の胸に飛び込んでくれた時は本当に夢かと思ったんだからね」
「あれはっ」
「もうホント、このままどこまでも二人だけの世界へ行きたいって……、好きすぎてどうにかなるかと思った」

桃園は些細な反論すら許さず、思いの丈をぶちまけるから困った。
だってどれも嬉しくてもったいない台詞たちだったからだ。
いっそ言葉が欠片になってくれれば大切に拾い集めるのに。
(オレだって窓の下に現れた桃園を見た時、どれだけ嬉しかったことだか)
今こうして満たされた気持ちでいられるのは、あの時に桃園が連れ出してくれたからだ。
それがなければ今も部屋で悶々とした気持ちを抱え、くすぶる苛立ちに追い詰められていたに違いない。
たったひとりの存在に救われている。
もしかしたら憂鬱の中にいたジュリエットもこうしてロミオの存在に救われていたのかもしれない。

「だから、もっと自信を持ってよ」
「…………」
「じゃないと明日の朝まで弓枝の良いところをひとつひとつ挙げていっちゃうぞ」
「そんなにねーよ」
「あるよ」

桃園は胸を張り自信満々に答えた。
なぜ彼の方が誇らしげなのかよく分からない。
だが、こういう時彼は本当に言葉通りのことをしてみせる。
明日の朝まで褒められ続けるなんて羞恥プレイは勘弁願いたかった。
先に心臓が限界を迎えて止まってしまう。
まだ短所を指摘された方が楽だ。
褒められてることにとことん慣れていない証だった。

「まずは――」
「たんまたんま! 悪かった。分かったよ、それ以上言うな」

弓枝はイスから腰を浮かせると前のめりになって桃園の唇を手で遮った。
桃園の場合何を言い出すか分からないから怖い。
大抵よからぬことで、先にギブアップした方が傷は浅いと学習していた。

「……お、お前にそんなことされたら、恥ずかしくて死にたくなる」

林檎のように赤味が差した弓枝の頬は悔しげに膨らんでいる。
視線を逸らした彼は、きっと自分が今どんな顔をしているか気付いていない。
桃園は口許を覆っていた弓枝の手のひらにちゅっとキスをした。
その感触に手を引こうとするのはお見通しで、素早く彼の腰に手を回し抱き寄せる。

ガタ――。

イスが倒れた。
桃園に抱きしめられて弓枝の心臓は激しく脈を打ち始める。

「ももぞ……」
「弓枝の好きなところ、その一」
「んっ」

耳元で聞こえる彼の声に弓枝は身震いする。
やっぱり電話とは少し違う。
もっと生々しくて色気が漂う柔らかい声。
電話越し、耳に当てて訊いていた時も心拍数は跳ね上がったけど、生の声には勝てまい。

「人を惹きつける真っ直ぐな瞳」
「だ、だからやめろって」
「そのニ」
「おいっ」
「無関心を装ってるのに本当は誰よりも気遣っているところ」
「そ、それはお前だろ」

弓枝は消えそうな声で呟く。
桃園の胸元で心地悪そうに身じろいだ。

「その三」

だが彼は無視して先へ進めようとする。

「俺の大好きな文章を紡ぐ手のひら」

不意に体を離した桃園は、弓枝の頬を包み込むと泣いてしまいそうなくらい切なげに目を細めた。
なぜそんな顔をするのか謎で、弓枝はその表情に見入ってしまう。
静かになった室内には時折風がガラス窓に吹き付ける音がした。
住宅街の中にあるせいか今の時間車の往来もなく深々と耳が沁む。

「来て?」

彼は弓枝と手を繋ぐとリビングをあとにした。
真っ暗な階段を軋ませながら上ると二人分の足音が響く。
桃園の部屋は二階の手前にあった。
すっきり片付けられたフローリングの部屋は、想像通り綺麗で掃除も行き届いている。
さすが家事をこなすと自称していただけのことはあった。
案内されて中へ入ると、真っ先に学習机の棚に並べられた文集が目に入った。
弓枝の作文が掲載されている文集だ。
桃園は春の陽射しめいた朗らかな顔で微笑む。
促されるように弓枝は文集を手に取ると、何度も読んだのか彼のページにはくっきりと線がついていた。

「弓枝はどうしたいの?」
「え?」

それを見ていた桃園は問いかける。

「まずは望みが先でしょ?」
「望み……」
「俺たちはまだ子どもで、どうやったって親には敵わないけど、だからって何もかもを諦めるのはおかしいでしょ」
「………………」
「弓枝は何をしたいのか、どう思っているのか、そのためには何をすればいいのか。一度に全部を考えちゃうとパンクするけどさ、ひとつひとつ心を定めていけば案外状況なんてものは簡単に変えられたりするもんよ」

彼の口調はあくまで語りかけるようで責めてはいない。
(オレは何を望んでいるのか)
望みはいつだってひとつだった。
文を書きたい。
物語を作りたい。
それがどういった話なのか定まっていないけど書きたいものはたくさんあった。
文を紡ぐことで体の中にある秘めたものを表現したかった。
小さなころから本を読むのが好きで、興奮した時の気持ちや、心の内側にあった情熱。
両親のもと抑制され続けた感情を発散できるのは文章を書いている時だけで、その瞬間だけは自由を感じていた。
彼は文中に己を表すことで平静を保ち精神のバランスを取っていたのだ。
(ああそうか)
これは対話だったのだ。
弓枝にとって文を書くということは、外面的に作られた弓枝と弓枝の中に眠る消えかけの本心、ひいては弓枝自身と外の世界を繋ぐ唯一の架け橋だったのだ。

「オレは……」

喉が異様に渇く。
望みを口にするのは怖い。
今まで両親に散々否定されてきたのだ。
耳に響く怒鳴る声と紙を破る悲痛な音が喉の奥で言葉を邪魔する。
紙が破れる音は嫌いだ。
書き続けてきた小説を破られた時も、朝礼時に表彰されてもらった賞状を破かれた時も、痛い音にしか聞こえなかった。
紙は破られた瞬間にゴミと化す。
それまでの価値は一切なくなって、ただの紙切れとして燃えてしまう。
叶わない望みならいっそ願わないほうが楽なのだ。
夢に溺れても現実は辛いだけで、むやみに心を傷つけるくらいなら何もなかった振りをしていたい。
そうやって己を守り続けてきたのだ。
人と関わらずに来たのも同じこと。
いちいち一喜一憂することに疲れるからだ。
元々不安定だった精神を乱されたら苦しいだけだ。
(――――でも)
文集の横には見慣れた装飾の本が並んでいた。
弓枝にとって大切だった本だ。
彼は言葉を濁らせたままその本を手に取る。

「それ、弓枝がよく読んでいたから必死になって探したんだ。まさかあのシェイクスピアも詩集を出していたとは思わなかったよ」

シェイクスピアの詩集を取り出した弓枝に、隣で桃園は頬に含羞の色を浮かべる。

「あの時は話すきっかけばかり探してた。不純な動機でがっかりした? ごめんね。俺がヘタレで結局一度しか話しかけられなかったけど、その代わりその本はよく読んだよ。弓枝の心に寄り添えている気がして嬉しかった」
「………………」
「でも恋の詩とかあって驚いた。すっごく綺麗でさ」
「まさかそれで――」
「ん、そう。それで俺がロミオとジュリエットを提案したんだ。ラッキーなことに他の部員もノリノリで、多数決で決めたんだけど圧倒的大勝利。こりゃあもう勇気を出して次の行動へ繋げなきゃって思った。一年近く弓枝を見るだけだったからさ、そろそろ見るだけから卒業かなって」

机には他にもロミオとジュリエット関連の本が置いてあった。
きっと彼は彼なりに必死で台本を書こうとしていたに違いない。

〝「俺、くじ運良いんだよね」〟

本当にくじ運が良かったみたいだ。
一年も片思いしていた相手の前の席にこのタイミングで着けたのは奇跡に近い。
桃園はそうやって望みを結果へ繋げた。
いつも余裕があって飄々としていると思っていたが、もしかしたら誰よりも必死にチャンスを窺っていたのかもしれない。
運なんていうのは波に漂う小さな欠片だ。
引き寄せられた時に手を伸ばす力がなくては物には出来ない。
桃園はずっと弓枝を見ていた。
声をかけられない己の弱さに辟易とした日もあっただろう。
焦って空回りした日も、諦めようとした時もあったかもしれない。
それでも諦めきれずきっかけを探し続けた。
(……ストーカーかよ)
弓枝は心の中で呟いてからふと笑った。
その一途な想いに思慕の情が高ずる。
自分がそこまで想われるほど価値のある人間か分からない。
だが価値なんてそれぞれが決めるものだ。
弓枝自身はそう思わなくても桃園はそう思っていた。
文を書くことだって同じだ。
両親にとっては不必要な遊びだったとしても、弓枝にとっては何よりかけがえのない時間だった。
他人が価値を推し測ることなんて出来ない。
まして価値を決め付けることなんて許されない。
(じゃあオレは?)
桃園の言葉を脳内で蘇らせる。
何をしたいのか、どう思っているのか。
糸を手繰り寄せるように答えを導き出す。
かさぶたのように貼り付いた余計な感情をそぎ落とす。
剥きだしの心に問いかける。
(オレは――――)
弓枝はパラパラとページを捲ったあと、ようやく顔をあげた。
ほんの僅かな間だったのに、途方もなく長い時間に思えた。
ゴクリと唾を飲み込む。
本を持つ手が僅かに震えていたのは内緒だ。
望みを口にするのはやっぱり怖いからだ。

「オレは劇の台本を完成させたい。これからも文を書いていきたい。もう自分をごまかしたくない!」

堰を切ったように心の澱を吐き出す。
どんなに否定されても消えなかった。
たとえ書くことをしなくなっても、頭の中ではいつもそのことを考えていた。
大人から見ればくだらないこと、無駄なことかもしれない。
だけど弓枝にとって何よりも大事な生きがいだったのだ。

「よっし!」

すると桃園は喜びを額に湛えて目を輝かすと、弓枝の頭をがしがしと撫でた。
なぜか彼は弓枝より嬉しそうだった。

「じゃああとは話が早いね。どうやって両親に認めさせるかってだけか」
「それが一番難問なんじゃないか」
「違うよ。大事なのは自分の気持ち。そこがブレてたんじゃなんにも出来ないっしょ」
「そうだけど……」
「弱気にならないの。なんてったって俺が味方にいるんだから安心しなさい」

何が安心なのか判然としないが、桃園の太陽みたいな笑顔を見ていると不安が吹き飛ぶ。
楽観視しているのに心強くて、彼が言うと本当に何でも出来そうな気になってくるから不思議だ。

 

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