8

翌日、僕は三階の階段に居た。
幸い腕の傷は骨にまで達していなかった。
だから包帯を巻く位で済んだし頬の傷も消毒だけで十分だった。
すぐ動けるようになった僕はいてもたってもいられなくて、階段の周りをウロチョロしている。
シリウス様は相変わらずの状態で寝室から出てこなかった。
本当は今すぐにでも会いたかったが、次に寝起きの状態で会ったら確実に殺されると思い我慢していた。
だからこうして三階の踊り場で立ち尽くし四階へと続く階段の先を見上げ続ける。
何度もセルジオールやジェミニが通り過ぎたが、未だに目覚めないと教えてくれた。

その間に僕は色んなことを考えた。
どうしたらシリウス様が他人に恐怖を抱かなくなるのか。
そして彼の中にある憎しみを消せるのか。
自分の受けた傷は自分にしか分からないから他人がああだこうだ言っても無駄だと思う。
むしろそれは余計に彼を傷つける結果になる。
結局自分が立ち直らない限り無理なのだ。
とはいえ、他人から理不尽に与えられた傷を自分ひとりで克服するのも難しい。
(あああ、もうっ)
僕は自分の頭をガシガシと掻いた。
考えれば考えるほど深みに嵌ってしまい案が浮かばない。
気持ちばかりが先行して焦っていた。
早くなんとかしなくちゃいけないのに、時間だけが刻々と過ぎていく。
そうして気付くと窓の外はどっぷりと闇に包まれていた。

「はぁ……」

再び城に闇が訪れる。
夜の城はやはり気味が悪かった。
見上げた先に続く四階への階段は魔界への入り口のようにも見える。
実際に何人もの娼婦が殺されているわけで、その事実がなおさら僕の心を煽っていた。
廊下に灯されたランプは薄暗く揺らめくたびに影が蠢くような錯覚を起こす。
僕は首にアンティークの笛を掛けていた。
それはセルジオールの計らいで、もし自分がシリウス様に襲われそうになった時、この笛で危険を知らせる事になっていたのだ。
そして比較的大きなランプに何本かの蝋燭。
夜中に移動するためにはランプが必要不可欠であった。
廊下にも一応明かりが灯されているが全てではないし、蝋燭が尽きれば勝手に消えてしまう。
他の兵士や使用人が大勢いる城ならばすぐに気付いて蝋燭や松明を替える事も可能だがこの城ではまず無理だった。

ペタ、ペタペタ――。

すると上の階から覚束無い足音が聞こえてきた。
僕は持っていたランプを上にかざすと階段の方をじっと見つめる。

「だ……れだ……」
「あっ」

それは辛そうに壁に手を付いたまま一段一段ゆっくりと階段を降りてくるシリウス様の姿であった。
彼は寝巻きなのかボロボロのワイシャツを羽織り足は裸足である。
そのせいでいつもの足音と違うのだと思った。

「だ、旦那様っ……」

よくよくみると髪の毛は整っておらず、片目の眼帯も着けていない。
ランプの明かりをかざすと閉じられた目の上をくっきりと走る大きな傷跡が見えた。
(これがあの時の……)
恋人にやられた傷を生で見て息を呑むと同時に胸が痛くなる。
なんでそんなことするのだ、と傷つけた恋人に怒鳴り散らしてやりたいが当事者にしか分からないことで、部外者の僕が抗議をしても何にもならない。

「!――ケイト、か」

すると階段に居たのが僕と知るとシリウス様はそこで立ち止まった。
まるで化け物を見るかのように目を見開くと突然動かなくなる。
(初めて名前を呼んでくれたのがこのタイミングなんてあんまりだ)
シリウス様の反応が僕を拒絶しているみたいで泣きたくなる。
否、彼の反応は明らかに僕を拒絶していた。

「…………いけっ」
「え?」
「今すぐ……ここから、出て行けっ」

するとシリウス様は苦しそうにそう呟いた。
そして胸元を押さえずるずると座り込んでしまう。

「来るなっ!」

それを見て駆け寄ろうとしたら威嚇するみたいに怒鳴られた。
僕はその威圧感に押されて立ち止まってしまう。
だがシリウス様は苦しそうに息を吐くだけで身動き取れない。
あまりに辛そうな状態に僕は唇を噛み締めた。

「な、なら今すぐセルジオールさんを呼んできます。だから大人しくそこにっ」
「い……いから」

それでもシリウス様は首を振った。
ぼんやりとランプに照らされた彼の顔はゲッソリとしていて、冬なのに汗をかいている。
また当時の悪夢を見たのだろうことは容易に想像できた。

「にげ、て…くれ」
「旦那様」
「お前を殺し…たくっ……」

ガタッガタガタ――!

するとそこまで言ったところでシリウス様の体が崩れ落ちた。
それと同時に階段から転げ落ちていく。
さすがにこの状況では手出しせざるを得なくて駆け寄ると彼の体を抱き寄せた。

「はぁ…はぁ…はぁっ…」

シリウス様は僕の腕の中で苦しそうに息を吐いている。
額にはべっとりと汗が滲みいかにも辛そうであった。
幸い、階段から数段落ちた程度だということもありどこも怪我していない。
だがそれ以上に苦痛に顔を歪ませる彼を見ていられなかった。

「に、にげ…っ…っぅ……」
「そんな……」

まだシリウス様は僕のことを案じている。
こんな状態になっても僕を気に掛けて離れようとしていた。
小刻みに震える体は痛々しく映り何もしてあげられない無力さに打ちひしがれそうになる。
壁に掛けられたマリア様の絵画は物悲しそうにこちらを見ていた。
階段は静けさを取り戻しまるで何もなかったようにランプが揺れている。
(なんで、な…んでっ)
触れた体は汗をかいているのに冷たい。
シリウス様の手は痙攣していると思えるほど震えていた。
だが僕は彼がズボンの後ろに手を伸ばし何かを取ろうとしていることに気付く。
(迷っているんだ)
その中に入っているものが瞬時に分かった。
そしてそれに気付いた瞬間涙が滝のように溢れた。
彼は未だに魘されているような口調で僕に逃げろという。
きっと斬ってしまう自分に抗えないからそう言っているのだ。
だから僕はズボンに手を突っ込むとそれを彼の手に握らせる。

「殺せばいいでしょう」

シリウス様のズボンから出てきたのは小型のナイフであった。
僕は震えながら両手でそれを持たせるとぎゅっと握り締める。

「そんなに苦しいなら早く殺せばいい。それで少しでも旦那様の気が晴れるならっ」

僕はそのまま強引に彼の手を引っ張ると自らの首筋に押し当てた。

「これ以上無力なら……僕は生きている価値がありません」
「はぁ…はぁ、く……」
「何を躊躇っているんです?そんなに苦しそうな顔で僕を見るのはやめて下さいっ。それならいっそ斬られた方がマシです」

当てた刃が皮膚にめり込み生温かい血が吹き出す。
つぅーっと一滴の血が流れ落ちたのは僕にも分かった。
興奮状態だった僕は痛みも感じず目を閉じる。
(もう駄目なんだ……)
どれだけ彼の思いに感奮して覚悟しても死ぬ事は怖かったからだ。

「――――んっ…ぅ……」

だが暗闇の世界で待っていたのは痛みとはかけ離れた柔らかい感触であった。
唇にふっと触れた“何か”は驚くほど温かく心地良い弾力を秘めていた。
その感覚に思わず頭が真っ白になるが、それと同時に首筋に当てていたナイフに力がこもる。
だからもう一度痛みを予感して顔を歪めたが押し当てていたナイフの感触はいつの間にか首筋から消えていた。

「……ふ……」

驚いてうっすら目を開けると眼前にシリウス様が見える。
否、近付きすぎて完全に視界がぼやけていた。
ふと二人の唇が重なっていることに気付く。
(なに?)
一体今何がどうなっているのか状況が一転しすぎて思考がついていかなかった。
耳が痛いほどの静寂に煩いぐらいの鼓動が聞こえてくる。
まるで世界の果てに二人だけが取り残されてしまったような錯覚に陥った。
それほどお互いの存在が唯一無二に思えたのだ。
肉厚な唇の感触だけが生々しくて、そこに僅かな現実を見出していく。
そこで僕はシリウス様の震えが治まっていた事に気が付いた。

「…だ…なさま…」

すると触れていた唇がゆっくりと離れて徐々に視点が合っていく。
一度開けた瞳は閉じる事を恐れて瞬き一つ出来ない。

「――ばかもの」

すると目の前の男はほんの少し悲しそうに笑った。
そして力が抜けたように僕の肩に頭を乗せるとそのまま安堵のため息を吐いて気を失った。

シリウス様は高熱を出してそのまま四階の寝室に移された。
セルジオールの話だとやはり精神的なものからくる発熱だと言っていた。
階段の踊り場に残された僕は毎日のようにその先を見上げ続ける。
幸い隣国の兵士が来たのはあの時一度限りでそれ以降姿を現していないという。
それでも用心の為、僕は城にこもることになった。
お蔭でこうして三階の階段から今日もシリウス様を待ち続けているのである。
皆も僕の状況を知って協力してくれた。
書庫の掃除は代わってくれたし食事やおやつもわざわざ運んでくれた。
疲れて階段の踊り場で眠ってしまった時は寝室へと運んでくれた。
それからシリウス様の部屋に行った帰りには必ず彼がどんな様子かと教えてくれた。
とっくに熱は下がりそれなりに元気だという。
食欲があるのは食器を運んでいるのを見ているから知っている。
それから僕がここでずっと待っている事を知っているようだった。
本人も何度か来ようとしていたらしいが、どうしても部屋から出られないようだった。
彼なりに葛藤があるのだろう。
無論、すぐに人の気持ちが変わるわけはないし、短期間でどうなるかなんて期待していない。
だから僕はその傾向をポジティブに捉えて大人しく待つ事にした。
そして十日後の夜、彼はようやく姿を見せることになる。

――午前零時を過ぎたころ、ウトウトしていた僕は独特の足音に気がついた。
それはシリウス様の履いている古びたブーツの金具の音であった。
慌てて起き上がった僕はランプを持ったまま立ち上がると階段の先を見つめる。
もう何日もここに居たため体は軋んで腰とお尻が痛かった。

「旦那様」

すると見上げた先には珍しく綺麗な格好をしたシリウス様が背筋を伸ばして仁王立ちしていた。
ここ何週間か色々なことがありすぎてシリウス様の印象はどんどん変わっていったがその時の彼は最初に見た時の印象に一番近かった。
すらっとした手足に相変わらずの無表情が懐かしい。
だがもう体調や精神面は万全なのか獣らしい匂いはまったくしなかった。

「お久しぶりです」
「ああ」

久々の対面ということもあり僕は緊張していた。
お蔭で少し他人行儀な挨拶になってしまった気がしなくもない。
それはシリウス様も同じなのかいつもより返事がギクシャクしていた。

「体の具合はどうですか?」
「悪くない」
「じゃあ、その……精神的には?」
「悪く、ない」
「そうですか」

やはり見たとおり最悪の状態からは脱したようで冷静さを取り戻している。
とりあえず僕はその事に安堵した。
するとシリウス様は一段ずつ階段を降りてくる。
その仕草を僕は黙って見つめていた。
お互いそれ以上言葉を口にせず足音だけが響き渡る。
黒いマントがその度にひらひら揺れて床に擦れていた。
今日はいつものボロボロなシャツではなく限りなく正装に近い格好をしている。
とはいえ黒い詰襟に黒いズボンと黒づくしなのがシリウス様らしい。
所々付けられたシルバーの装飾品がジャラジャラと音を立てていた。
いかにも高そうな宝石は光輝いて少し離れたところにいる僕にまで光って見える。
軍人というより貴族なのだろうか。
珍しい格好に服装ばかり気を取られてしまった。
こうして見るとシリウス様の品の良さが余計に際立って見える。
むしろこの格好のまま晩餐会なり舞踏会に出かけてもおかしくない。
元々綺麗な人だから似合うのは当たり前のことであった。
するとシリウス様は僕のいる踊り場より少し前で止まる。

「お前は強い」
「え?」
「そして――煩い」
「なっ……うぅ……」

突然側に来て何を言うのかと思えば褒めているのか小言なのか判らないことを言われた。
ついその格好に見惚れてボーっとしていた所で思わぬ横槍が入る。
だから僕は彼の発言に我に返ると「煩い」という言葉に反応してシュンとした。
あまりに見に覚えがありすぎて視線が痛い。
というか自分は煩さだけが取り柄だと思う。

「……なぜ落ち込む?」
「だ、だって煩いって言われたらやっぱり……」

するとシリウス様は首を傾げた。
だから僕は素直に思った事を伝える。
実際その通りだとしても面と向かって言われると胸が痛いものであった。
彼が僕の主人であり好きな人であるなら尚更。

「じゃあいつ私が煩いのは嫌いだと言った?」
「!!」

するとシリウス様の声はいつもより優しく聞こえた。
彼の一言に下を向いていた顔をあげる。
目が合うとシリウス様はやれやれといった感じで苦笑していた。

「お蔭でお前が居ないと物足りなくなってしまった」
「だ、旦那様」
「子供に気を許してしまうとは愚かなことだ」

彼は自分でも呆れているといった口調で自嘲的に話す。
薄暗い階段は二人の声を反響させて不思議な印象を残した。
城自体が結構年数経っているのが床を見ると判る。
三階までは廊下も階段も絨毯を敷かれているのに対して四階へと続く階段からは剥き出しの床になっていた。
石で出来ているらしく見た目もゴツイように思う。
だからシリウス様の足音も異様に響いたのだ。

「ケイト」
「はい」

するとシリウス様は真剣な顔で僕の名前を呼んだ。
こうして名前を呼んでくれたのは二回目である。
もう何ヶ月とここで暮らしていたのに実際は「お前」で通されていたから彼が名前を知っているかも怪しかった。
しかも一度目は前回の苦痛に満ちたシリウス様が呼んでくれたのである。
出来れば笑顔で呼んで欲しかったが状況が状況なだけに仕方がなかった。
むしろ名前を覚えていてくれたことに喜んだほうがいい。
僕は自分の名前を呼ばれて素直に返事をした。
そこには先程までの柔らかい笑みが消えていて彼の決意が窺える。
キリッとした眉にはいかにも堅い意志が感じられた。
だから僕は姿勢を正すと真っ直ぐ彼を見上げる。

「正直、お前を殺してしまうかもしれん」
「…………」
「だから逃げるなら今のうちに逃げて欲しい。もしくはもう二度と近寄るな。そうすれば私も近付かない」

外は突風が吹いているのか時折ガタガタとガラスが鳴った。
シリウス様は気を鎮めるように淡々と言い続ける。
(どちらも本物の気持ちなんだろうな)
愛そうとする想いと傷つけてしまう事実からは逃れられない。
シリウス様は相当悩んだはずだ。
僕にこうして話す事にすら葛藤があったはずだ。

「昔じいちゃんが言っていました」
「え?」
「ハリネズミは可哀想な生き物だって」
「…………」
「外敵から己を守るはずの針のせいで愛しいものにも近付けないって。なぜなら近付けば近付く程相手を傷つけちゃうから」
「…………」
「でも旦那様はハリネズミじゃないでしょう?旦那様はただの人間なんです」

少なくとも今は――。

「不器用だけど優しい人です」

それが僕の答えだった。
精一杯の気持ちだった。

「でも誤解しないで下さい。こうしているのはあなたの使用人だからとか同情じゃなくて旦那様が好きだからなんです」
「…………」
「どんな事をされても好きです。たとえ殺されたとしても、好きです」

自己犠牲的な愛ではないから死ぬより共に生きたい。
でもどうしてもそれが難しいのなら仕方がないと思う。
自分でも笑ってしまうほど達観した考えでおかしかった。

「……旦那様にだったらどんな事をされてもいい」

結局そういうことなのだ。
結論とは至極簡単なもので意外とシンプルである。
僕がそういうとシリウス様は更に階段を降りてきた。
徐々に近付いてくるとランプの明かりで彼の顔に赤みがさした。
青い瞳に映る炎の揺らめきを見ていると、その中に自分が映っていることに気付く。
すぐ側までやってくるとお互い無言のまま見つめあった。
しばしの静寂が訪れると共にシリウス様の右手が動く。
そのまま彼は僕の腰を引き寄せるとぐっと力を込めた。
そして僕の体をそっと抱き締める。

「お前が私の胸に身を預けてきた時、本当は心臓が止まりそうな程ドキドキした」
「旦那様」
「必死に平然さを装っていたのが自分でも滑稽に見えた」

シリウス様が自虐的に笑っていたのは見なくても分かった。
僕は彼の胸に蹲りながら鼓動の音を聞く。
(今日もすごく速い)
彼の心臓は凄まじい勢いで脈打ち僕に心情を露呈していた。
後ろから抱き締められた時のことを思い出して僕も鼓動を速める。
だけどシリウス様の胸が居心地良かったからいつまでもそうしていたかった。
遠慮がちに彼の服を掴み寄り添う。
呼吸をする度にシリウス様の匂いがしてドキドキする。
それ以上に彼の暖かさが嬉しかった。
寒い冬ほど人肌恋しくなるものでくっついていたくなる。

「なら、四階に来て欲しい」

するとしばらくお互いの温もりに浸っていた二人は離れた。
僕はシリウス様の言葉にしっかりと頷く。
そして彼の手を握った。
それは決して離れないという覚悟をシリウス様に知って欲しかったからだ。

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