8

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その翌日は祭の前日で、城前の大通りには明日の準備がされていた。
一晩中火を焚き続けるため、広場には薪を組んだ塔が建てられている。
舞台も設置されて祭を待つばかりだった。
だが、急遽大勢の貴族たちが城へやってくることになって事態は一変した。
アバンタイの穏やかな町が物々しい空気に包まれていた。
僕と大佐は昨日から気まずい状態を引きずっていたが、そんなことを言っている場合ではなかった。
クラウス様に会いにきたという貴族だが、町は歓迎ムードではない。
話を聞きつけた近隣の町からたくさんの人が押し寄せてきたからだ。
貴族や上流市民だけが優遇されている現状を面白く思っていない者は多い。
厳しい取り立てに仕事だけでなく家族さえも失った男が酒に酔いながら暴れたり、持参のプラカードを手に金切り声で主張する女もいた。
中にはこの町だけクラウス様の恩恵を受けていると、町民に喧嘩をふっかける者も現れて地元民たちは店を閉めると家に閉じこもった。
祭の前日だというのに嫌な雰囲気が漂う。
大佐は、クラウス様の命を受けて急遽城へ向かった。
城の兵士は最低限の人数しかおらず、人手不足だったのだ。

「明日は祭だってのにやだよ」

ドリスさんは騒がしい外の様子に気が気じゃなさそうだった。
滅多に騒ぎが起こらない町で動揺していたのである。
彼女は居間をうろうろしながら不安そうに、

「クラリオンは大丈夫かしら」
「逆だろ。兄貴がいるから大丈夫なんだよ」
「だけどもしものことがあるじゃないか」
「ここは戦場じゃないだろ。相手だって酔っぱらいや女たち素人だ。兄貴の足元にも及ばないよ」

フィデリオはダイニングテーブルに腰かけてパンをかじっていた。
眠そうに目を擦っている。

「そんなこと言ったって心配は心配なんだよ」

すると、ドリスさんはフィデリオの緊張感の欠片もない態度に呆れてため息を吐くと、またキッチンから居間を行ったり来たりした。
どうにも落ち着かないようだ。

「それより親父は?」
「あの人は店を閉めたあと早々に寝室へ行ったよ。まったく、神経が図太いというか、呑気というか」
「兄貴を信頼してるんだろ」

僕はフィデリオの向かいに座って大人しく二人の言い合いを聞いていた。
今の自分に出来ることはない。
(何も話せなかった)
大佐はクラウス様が寄越した兵士と共に急いで出て行った。
フィデリオに「あとは頼む」と言い残して城へ向かっていった。
僕はその背中を黙って見送るしかなかった。
(家柄なんて、そんなの関係ないのに)
最後に交わした言葉が脳裏によぎる。
大佐は初めて会った時から普通に接してくれた。
女性には少し弱いけど、剛腹としていて芯がある。
決してブレない、揺れない。
僕は信念だとかないからゆらゆら海底を漂う藻のようで、彼と話すたびに志の高さに尊敬するようになった。
身分で人は推し量れない。
僕より大佐のほうがずっと素晴らしくて人に必要とされている。
だから憧れている。
それは遠くから見ていた時だけではなく、こうして話せるようになったあとのほうがずっと大きい。
それをあんな風に突き放した言いかたをされると思っていなかった。
大佐まで僕を家で見る人になって欲しくなかった。
(これからちゃんと話し合えるよね)
フィデリオの言葉を反芻しながら自らも落ち着かせる。
大丈夫。
必ず無事に帰ってくると祈る。
そう思っていた矢先、近くで大きな音が響いた。
何事かとドリスさんとフィデリオが窓に近付く。

「くっそったれが」

すると数人の酔っぱらいたちが向かいの店の看板を木の棒で叩き割ったようだ。
それを見たドリスさんはショックだったのか、顔面蒼白で悲鳴を噛み殺す。
男たちはそれで満足して去って行ったが、今度は別の男たちが現れた。
町を徘徊しているのか怒鳴り声をあげながら家の前を通っていく。
彼らは無差別に止めてあった荷車を潰し、家先に飾ってあったランプを割り、鉢植えを落として叩き割った。
家の壁を壊している者もいる。
住民たちは上から怯えた顔でそれを見ていたが、あまりの恐怖に何も言えず、ただじっとしていた。
しばらくして城の兵が馬に乗って男たちを追いかけていく。
すると通りの向こうで大騒ぎとなったが、ここからは何も見えず不安だけが募った。

「くそっ、あれじゃ暴徒じゃないか」
「あの子本当に大丈夫かしら」

幸いこの家は何もされずに済んだが、また別の男たちがやってくるかもしれない。
壊すだけならまだしも、家に押し入られて金品を奪われたり、家族を傷つけられたらと想像するだけで、ぞっとした。
僕も身震いする。
ここまで差し迫った状況になっているとは思わなかった。
やけくその人間は怖い。
彼らは失う物などないと思い込んでいる。
故に勢いさえあればどんな過激なことでも出来てしまう。
酒や集団なんてものはそれを煽る興奮剤にしかならない。
そうしているとまたどこかで大きな音がした。
隣の通りが破壊されているようだ。
ドリスさんは耳を塞ぐと窓から離れた。
僕は彼女の肩を抱くと、少しでも落ち着かせようとソファへ座らせた。

「はぁ、嫌だね。結局女はこういう事態に弱いのさ」
「誰だって怖いです。僕だって膝がガクガクして止まりません」

隣に座った僕は苦笑して震える膝を見せる。
すると彼女は幾分頬を緩めた。

「クラリオン大佐だって無事に帰ってきます。大丈夫ですよ」

僕はドリスさんを抱いた手に力をこめて頷く。
それは自分自身に言い聞かせるようだった。

「おかしいね。何度も戦争へ送り出しているのに、全然慣れなくて。不安でたまらないの」

彼女は胸の内を零すように呟く。
いつも威勢が良くて肝が座っている彼女が初めて見せた弱さだった。

「なぁ、あの子が持っている古い剣覚えているかい?」

すると、ドリスさんは縋るように僕を見て笑った。
僕が頷くのを待ってから彼女は、

「あれはね、父さんが初めてあの子に贈った剣なんだよ」
「それで大事に使っているのですか」
「いいや、それだけじゃない。クラリオンは言っていたよ。あの剣に二度命を救われたって。戦場ではそういう物が心の支えになるんだ。意外と軍人ってのはジンクスに弱くてね、周りがもっと新しくて軽い剣にしろって言うんだけど頑にあの剣を使うのさ」
「………………」
「それを父さんはたいそう喜んでね。何せ、家中の金をかき集めて、それでも足りずに親戚に借金して買ったんだ。その剣を身につけて凱旋した時は珍しく、あの人も王都まで行って帰ってきた息子の勇士を誉め称えたんだよ」

まるで昨日のことのように目を輝かせる彼女は顔を綻ばせた。
僕もつられて笑顔になる。
大佐の芯が優しい理由が分かった気がした。
彼はたくさんの愛情を両親から受けて育った。
だからこうして大佐も故郷を大事にし、貴重な休暇も帰省に使うのだ。
帰る場所があるというのも大きな支えになる。
血なまぐさい戦場にいればなおさらだ。
知れば知るほど大佐が愛しくなる。
もっと大佐に近付きたいと思う気持ちが止められなくなる。
僕は恋しさと切なさに胸を震わせて曖昧に笑ってみせた。
――するとその時、今度は家の向こうで凄まじい轟音が響いた。
まるで雷が落ちたような衝撃に、耳をつんざくような音がいつまでも残響した。
今までにない音に僕らは窓際にいたフィデリオに振り返った。

「たぶん火炎瓶かなんか投げ込まれたんだ」
「そんな……!」
「ったく、兄貴のやつ何をやってんだよ。この町の住人じゃないやつに町を壊されてたまるかってんだ」
「フィデリオ!」

フィデリオは苛立たせるように舌打ちをすると、家から出て行こうとした。
僕は慌ててそれを止める。

「だめだよ。危ないよ!」
「だからってこのままじっとしていられるか!」
「でも!」

腹が据えかねているのか、フィデリオは下唇を突き出してむっと口を結んで僕を睨みつけた。
それでも構わず僕は服の裾を引っ張る。

「だって大佐に頼まれたでしょ!フィデリオは家族を守らなくちゃいけないんだよ!」

すると大佐の言葉を思い出したフィデリオは目を見張り「くそっ」と吐き捨てると悔しそうに拳を震わせた。
言い合いがなくなると、外の騒がしさがより鮮明に聞こえてきた。
かなりの大勢が町で暴れ回っているようだ。
三人の間で不安が増す。
と、そこへ大佐のお父さんが顔を出した。

「ずいぶん暴れているみたいだな」
「親父、おせーぞ」
「お父さん」

彼は眠たそうにあくびをするとダイニングテーブルに座り、

「母さん、メシ」

新聞に目を落とす。
彼は毎朝、食事を待つ間に新聞を読むのが習慣だった。
こんな非常時でもその様子に変化はない。
ドリスさんは反論したそうに口を開けるが、実際声にはせず、渋々キッチンへ入っていった。
代わりにフィデリオがおじさんの向かいに座る。

「親父、わかってんのか。町が次々に壊されて」
「わーってるよ。うるせえな。んなもん、勝手にやらせとけばいいだろうが」
「そういう話じゃないだろ」

フィデリオが食い下がるが、彼の態度は変わらなかった。
時折目を擦りながら新聞のページをめくる。

「ここで俺たちが出て行ったところで状況を悪くするもんだ。大人しくしとけばいい」
「そんなこと言ってたら町が破壊尽くされるだろ!」
「んなことにはなんねーよ。クラリオンがいるだろうが。あいつがささっと解決して、明日には無事に祭が開かれるってもんだ」

おじさんはあくまでマイペースを貫き、ドリスさんが作った遅めの朝食を黙々と食べた。
彼は元々寡黙な人だった。
どんなに外で大きな音がしても、人の怒鳴り声が聞こえても、我関せずといった具合にむしゃむしゃと口を動かしていた。
目はもちろん新聞に見入っている。
僕はおじさんに聞こえないよう小声で、

「凄いね。さすが大佐のお父さんだ」

密やかに呟くと、フィデリオは呆れた顔で、

「能天気なだけだろ」

不機嫌そうに唇を曲げた。
だが、これはこれで頼もしい。
僕とドリスさんだけだったら今ごろ大騒ぎだ。
おじさんのようにどっしり構えてくれる人がいると、それだけで冷静になれる。
それはドリスさんも同じだったみたいで、普段なら食事中に新聞を読んでいると取り上げてしまうのだが、彼女はキッチンから僕らの様子を窺っているだけだった。
そこに下の二人が起きてくる。
彼らも二度寝していたのだが、あまりの騒ぎに目が覚めたようだ。
アロイスとエルザは寝間着のまま眠そうに目を擦っている。

「おはよう」

――ドリスさんがそう声をかけようとした矢先、アロイスが抱えるように持っていた剣に目を奪われると、その口を硬く閉ざした。
神経が凝結した顔を見せる。
彼女の異様な反応に、そこにいた三人もアロイスへと視線を這わした。
途端にフィデリオはぎょっとする。

「あ、アロイス!どうして兄貴の剣を持ってんだ!」
「んー、昨日借りたの」
「借りたのって、おい……!」

アロイスが重そうに抱えていたのは、大佐が仕事の際必ず身に付けていく剣だった。
途端にドリスさんの血の気が引く。
両手を口に当て、これでもかと目をひんむくと、信じられないといった顔で凝視する。
その後は目も当てられなかった。

「いやあああああああああ」

あの剣はドリスさんにとっても心の支えだったに違いない。
彼女は突然取り乱し始めると泣きわめいた。
おじさんがドリスさんの体を抱え、宥めようとしても彼女の興奮は治まらない。
それどころか押さえ付けようとすればするほど激しく暴れて泣き叫んだ。
それを見てアロイスとエルザも泣き出した。
気丈な母親の不安定な様子に怖くなったのだろう。
僕も急に不安になった。
今朝まで声をかけようと思えばかけられる場所にいたのに、もしそうじゃなくなってしまったら。
そう思うだけで体が轢断されたように痛んだ。
だって僕はこの気持ちを伝えていない!
本当は遠くから見ているだけなんて嫌だ。
大佐に恋人が出来たら祝福なんて出来ない。
そんな生易しい感情では抑えきれないくらい想いが募ってしまっているんだ。
自分の気持ちに嘘なんてつけない。
目を背けることなんて出来ない。
(そうだよ。後悔するなんて嫌だ)
あの時。
僕が最後にヤマトと話をした時。
心の底から思った。
もう二度と同じ思いをするものか。
こんな嫌な気持ち味わってたまるものか。
そう硬く誓ったんだ。
僕がヤマトに世界中の劇場で弾いてみたいと言っていたら。
ヤマトと友達になりたいと言っていたら。
あんな風に別れることはなかったかもしれない。
そうやって〝かもしれない〟という呪縛に縛られて、僕はこのことを思い出すたびに激しい後悔にかられる。
そんなの絶対にごめんだ。
出来ないことを探せば山のように見つかる。
でもひとつでも出来ることを探せばきっと見つかる。
僕にだってやれることはある。
なすべきことはある。

「貸して!」

僕はアロイスから剣を引っ手繰った。

「僕が大佐に持っていく」

するとフィデリオは眉を顰めて、

「何言って……、ひとりじゃ危ないだろ」
「大丈夫。そんなずっと暴れ回ったり出来ないだろうし、細い路地に入っちゃえば案外平気かもしれない」
「どんだけお前は無謀なんだよ。大体、城まで行けたところで俺たち庶民は入れないぞ」
「それも大丈夫」

僕は自信漲る瞳で力強く頷いた。
だったら――と、フィデリオは自分も行くと言いだしたが、僕はそれに首を振る。

「さっきも言ったよね?フィデリオは大佐にここを頼むと言われたんだ。約束はちゃんと守らなくちゃだめだよ」
「だけど!」
「というわけで、あとはよろしく」

僕は振り向きざまにニッと笑いかけると、フィデリオやおじさんが止める中、剣を抱えて家を飛び出していった。

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