2

「……っぅ……」

それは、ほんの一瞬の出来事。
――まるでひと突き。
コンマ何秒にも及ばない刻の狭間で、一本の矢が僕の心臓を貫いた。
だから目を見開いたまま動けなくなってしまう。
自らの意思とは関係なしに肺は呼吸をするのをやめた。
(一体自分の身体に何が起きたというのか)
あまりの衝撃に頭は何も理解していなかった。
同時に言葉に出来ない感情が間欠泉の様に噴き出す。
止められない。止まらない。
グラグラと熱い血潮は体内を巡って騒ぎ出した。

何が?
何が止められないって?

自らの問いに答えを導き出せず声を詰まらせる。
それは頭で理解するより先に命が燃えた。

「っ……」

瞬間、二人の間に眠っていた歯車が廻り出した。
それはゆっくりと軋みながら、止まる事なく廻り始める。
これが初恋など、誰が信じられるであろうか。
ひと目で恋に落ちるなど有り得るのだろうか。
―――まるで別世界。
只でさえ美しかった景色に彩りが加わる。
まばたき一瞬、光り輝くベールで覆われた視界は世界の色を変えた。
息を呑んで震える指先を何とか握り締める。
今の僕には星のひとつさえ高価な宝石そのものに見えた。

「っぅ」

揺れる感情の波についていけずこのまま溺れてしまいそうだった。
それはまさに突風。
一瞬にして全てを奪う。
目の前の青年も酷く驚いた顔をしていた。
先ほどから吹き抜ける強風にマントが靡く。
すらっとした長身に整った顔立ちは聡明で彫刻のようだった。
髪の毛と同じ真っ青なマントは華麗に揺れてその高貴さを証明している。
まさにお伽話に出てきそうな王子そのものだった。

「あ、なた……は?」

青年は熱っぽい眼差しで僕を見つめた。
触れた手が熱く火照っている。
その手に触れられるだけで火傷を起こしてしまいそうだ。
同性だと分かっていて、胸が苦しいぐらいに騒ぎ出す。
ざわっ……ざわっ……。
先ほどから吹き付ける風は大きく煽った。
支えるように抱き寄せられた手は互いの心音を露にする。
ドクンドクンと鳴り続ける二人の心臓は一層早くなった。
見つめ合ったまま視線を反らす事が出来ない。

「ぼっ…っ…」

思わず僕と言いそうになった言葉を止めた。
この状況で自分が男である事を言いたくなかった。
そうすれば変な誤解を生みかねない。

「……――わ、私は…」

だから咄嗟に私と言ってしまった。
あれほど母親に正直者であれと説かれたのに、その思いは一瞬にして裏切られる。

「……エマと申します」
「エマか。なんて美しい名でしょう」

青年は僕の前で跪いた。
手を掴むとその甲に甘いキスを落とす。

「私の名はクラウス。お会いできて光栄です、エマ」
「クラ…ウス…様…」

その甘いマスクに体全体が心臓になってしまったような錯覚を起こした。
洗練された仕草は嗜みだと言わんばかりに手馴れていてドキッとさせる。

「…え?…クラウス…って…」

だがその名に愕然とした。
彼は正真正銘この国の王子だったのだ。

「お、王子様…だったなんて…」

本当に王子様だったとは知らず声が震えた。
なんて無礼をしてしまったのだろう。
本来ならこちらが跪く立場なのだ。
慌てて彼から離れようとする。
王子に恋をしても実らない事は百も承知だ。

「行かないでっ……」

王子は僕の腕を掴んで離さなかった。
強引に引き止めると胸元に寄せる。

「だめですっ…こんなところ…誰かに見られたら…」

素性も不明な女といるところを見られたら、王子の名に傷がつくことになる。
だが彼は決して手を離さなかった。

「お願いです。もう少しこのままで居て下さい」
「…お…うじ、様…」

甘い香水の匂いが鼻を擽る。
不覚にもそれだけでうっとりしてしまう自分が信じられなかった。
頭ではこのまま立ち去れと警告をしているのに体が動かない。
心臓は未だに熱を持ち、燃えていたのだ。

「どうやら私は貴女の事を…」
「な…なにをおっしゃ…って」
「先ほどからずっと貴女を見つめていました。目が離せなくて、その……」

王子は吐息混じりに愛を囁いた。
愛しそうに髪の毛にキスをする彼は積極的である。

「そんなご冗談は…よして下さい…っ」
「まさかっ!こんな熱い想いは初めてです!」

僕の手をとって自らの心臓に押し当てた。
ドクドクと激しく鳴り響く心音に僕の胸まで高鳴る。
見上げれば切なげな眼差しの王子と目が合った。

「ひと目惚れなんて信じられないでしょう?」
「…っぅ……」
「初めて貴女を見た時から私の鼓動は速くなるばかりです。自分でもなんて言って良いのかわかりません」
「王子…様…」
「……こんな気持ち、知らないのです」

彼は自分でも戸惑っているようだった。
触れる手が僅かに震えている。
あの王子が僕に触れる事で緊張しているのだ。
それは彼の戸惑い。

「まだ言葉すら交わしていなかったのに、私の目は貴女以外を見ようとはしなかった。貴女が瞬きをする度に心が震える。触れただけで体が熱くてどうしようもなくなる」

靡く前髪から覗いた表情は恋しさと苦悩に満ちていた。
蒼い瞳に星が散りばめられている。
端正な顔はどこか冷たくありながら熱を感じた。
それは自分ではどうしようもない感情。
彼自身、何が起こっているのか分からないのだ。
まるで熱病のように魘される恋。
その想いが暴走して突き動かしているのだ。

「王子様…」

僕はその言葉に酔いしれる。
不器用で熱い想いは、僕の魂をも溶かしてしまいそうだった。
燃えるような恋なんて自分には無関係だった筈なのに。
出会って間もない二人は瞬間的に恋に落ちた。
それを奇跡と呼べばいいのだろうか?
偶然だと吐き捨ててしまえばいいのだろうか?

「どうしようもなく貴女が愛おしい」

初めて交わす会話が愛の囁きだとしたら、僕たちはここから何を始めるのか。
行方知れずの恋。
何も知らない王子。

「……っぅ……」

彼と同じ恋に溺れながら、僕の胸はチクリと痛んだ。
結ばれるはずの無い愛しい人。
それを知っているのは僕だけである。

ピチュチュチュ…

すると飛んで行ってしまった筈のロゼがこちらにやってきた。
月夜に真っ白な羽がよく映える。

「ロゼ?」

小鳥は何の躊躇いもなく僕らの元へやってきた。
普段のロゼは僕以外の人間の前では姿を現さない。
他人の気配を感じるとすぐに飛んで行ってしまうのだ。

ピチュッ

近づいてくるロゼに手を差し伸べた。
するといつものように僕の指に止まる。

「この子はさっきの小鳥ですね」
「あっ…」
「ロゼという名前なのでしょうか?」
「え…?…え、ええ」

王子は僕の言葉に微笑んでロゼに一礼した。
そして彼も手を差し出す。

「初めましてロゼ。私はクラウスと申します」
ピピッ…ピチュ――。

するとロゼは嬉しそうに鳴いて彼の手に止まった。
僕はそれに驚いて彼らの様子を見つめてしまう。
あのロゼが他人の前に姿を現すどころか、その人の指に止まるなんて信じられなかった。
それほどにロゼは警戒心が強くて臆病な小鳥だったのだ。

「いかがなさいましたか?」
「あ、いえ…」
「この小鳥は貴女のご友人ですか?先ほどまで話をなさっていたでしょう?」
「!」

他人に見られたくない恥ずかしい場面だった。
誰も居ない場所で小鳥に話しかけている自分は酷く間抜けだっただろう。
顔を真っ赤にしながら小さく頷くのがやっとだった。
それを見た王子は優しく微笑む。

「やっぱり貴女は美しい人だ」
ピピピピっ…

ロゼは同調するように鳴いた。
その鳴き声に王子は笑いかける。

「ね、ロゼもそう思うでしょう?」
ピチュ…!
「ほら、ロゼもそう言っています。エマが美しいって」

なんの躊躇いもなく言われた僕は、口をパクパクさせる事しか出来なかった。
こんな甘い言葉を贈られたことなどない。
いつも泥まみれで煤汚れた服に身を通していた僕には無縁の褒め言葉だ。

「ふふっ。どうやら私とロゼは気が合いそうですね」

月夜に照らされた彼の顔は華やかで気品があった。
王子こそ、美しいという言葉が当てはまる。
人形のように整ったパーツは見ているものをうっとりさせた。
整いすぎて怖いのに、笑うと途端に優しく見える。
そのギャップに慣れる事無く僕の胸はざわついた。

「そんな、勿体無いお言葉です」

王子の目を見れば本気である事が一目瞭然だった。
その瞳に囚われたら最後、身動きがとれない。
恋しいという思いは王子同様に感じている。
このまま激しい愛の中に生きられたら、それはとても幸せなことだ。
――でも僕と王子の間には越えられない壁が立ち塞がっている。
“今ならまだ引き返せる”
ギリギリの境界線だ。
一歩越えてしまったら雪崩のように足元は崩れ、その中に埋もれてしまうだろう。
それは悲劇だ。
この恋が過ちで片付けられないほどの禁忌だと知っている。
だからここでなし崩しにしてはならなかった。

「……ダメです、王子様」
「え?」
「ごめんなさい。これ以上私達は近づいてはならないのです」

僕はそれだけ言って腕を解いた。
傍で見ていたロゼと王子は首を傾げる。

「どうして?貴女の瞳も私を恋しいといっている。こんなにも火照った顔で私を見ているのに」
「…っ…」
「それは私の自惚れなのでしょうか?」

そう問いかける彼の顔は物悲しく切なそうに目を細めていた。
本当ならそんな顔をして欲しくない。
全てを認めて彼の胸の中にうずくまりたかった。
僕も一目あなたを見た時から恋に落ちてしまったのだと。
あなた以外目に入らないと言ってしまいたい。
だがそれはあまりに大きな代償を伴うのだ。
互いの破滅を分かっていて恋に落ちるのは解せない。
それは上等なお伽話ではなく三文小説並みの落ちだ。
だから自らの想いに蓋をする。

「……どうか、分かってください。王子様」
「あっ…エマっ!!」
ピチュっ…!

そのまま強引に王子の体を突き放すと一目散に走り去った。
靴擦れの痛みで感覚のない脚を必死に動かす。
最後、王子はどんな顔をしていたのか見ることも出来なかった。
それを見たらきっと何もかもが溢れてしまうと思ったからだ。

急いで会場に戻った僕は大勢の人波に混ざる。
そうして行方をくらまそうとした。
すると丁度良くモニカとフランシスカがこちらにやってくる。
だがなぜか彼女らは怒っていた。

「あ、エマルドやっと見つけた」
「ちょっとアンタっ、どこに行ってたのよ」

僕の傍までやってきた二人は明らかに不機嫌だった。
そして無理やり僕の腕を掴むと引きずるように引っ張っていく。

「今日はもう帰るわよ」
「え?」
「ったく、何フラフラしてるのよ。使用人の分際で」
「ホント。これじゃ何の為にあなたを連れてきたのか分からないわ」

するとそのまま二人に引き摺られるようにして城を後にした。
僕はチラッと振り返って城を見上げる。
相変わらず荘厳な雰囲気の中に建っている城は美しくて息を呑んだ。
だが僕は先ほど出会った王子の事ばかりを考えてしまう。

「…っ」

きっと深く傷つけてしまっただろう。
王子の心中を思うと辛くて唇を噛み締める。
どうしようもなかったのだと言い訳をする自分が情けなくてチンケに見えた。
何より王子は最後どんな顔で僕を見ていたのか。
それを考えるだけで切なくて胸が痛くなった。

一瞬で恋に落ちた人。
でも、もう二度とお会いする事の無い人。
さようなら、と言うにはあまりに劇的でつかの間の出来事だった。

彼にとっては一晩の過ち。
僕にとっては一夜の夢。
それでいいのだと深く胸に刻み付ける。

「これじゃせっかくの楽しみが台無しだったじゃない」
「ホントね。つまらない夜だったわ」

だから僕は二人の愚痴を聞く事で自分の心に蓋をした。

それから数日後、町にある噂がたった。
夜な夜な王子が城を抜け出してお忍びで町にやってきているという噂だ。

まさか自分を探しに?
などと、畏れ多い事を考えてはため息を吐く。
あれは一夜の夢だったと何度言い聞かせても心は頑なに拒絶した。
本能では未だに王子を愛しいと恋焦がれて震えている。

もう一目だけでいい、会いたい。
そして触れて欲しい。
叶わぬ願いだと分かっていて毎晩のように祈りを捧げる自分が滑稽に見えた。
そんな願いは叶ってはならない。
だから僕はあの場を逃げ出したのだ。
彼には相応しい姫たちが待っている。
疼く想いとは裏腹に生活は元に戻ったのだ。

もうあの時のドレスを着たエマは居ない。
王子の愛したエマなど何処にもいない。
いるのは小汚い格好のエマルドだけ。
僕に残ったのは特注で創られた真っ白な靴だけだった。

屋敷に戻ったモニカとフランシスカはあれ以来、さらにこき使うようになった。
何かにつけては意地悪を言って僕をバカにした。
今日も雨の中美味しい紅茶が飲みたいと言って無理やり外に出した。
傘さえ持たせてもらえず、ずぶ濡れの中茶葉を買いに町を駆け抜ける。
モニカはわざと珍しい茶葉を頼んできた。
お蔭でやっとお目当ての茶葉を手に入れた頃にはとっくに夜の帳がおりていた。

「まいど」

僕は店を後にすると空を見上げる。
夜になったせいか一段と寒くて指先が悴んだ。
雨脚は一層強くて激しい。
そのせいかいつもより早仕舞いな店が多くて人が疎らである。
徐々に広がりを見せる水たまりには黒い雲と降りしきる雨粒を映し出した。

このままここに居ても当分変わらないだろう。
屋敷に戻るのが遅れたらそれこそまた怒られる。

だから僕は意を決すると店の屋根下から飛び出した。
年季の入ったブーツは隙間だらけですぐに水が染み込んでくる。
だから走るたびにくちゅくちゅと嫌な音が聞こえた。
ブーツの中の湿った感触は気持ち悪くてたまらない。
だからといってこの寒さの中素足で走ったら風邪を引いてしまう。
何より、舞踏会の時に出来た靴擦れの痕が水に染みて辛いと思った。
だからブーツの嫌な感触にも耐える。
唯一の救いは帽子を被っていたお蔭で直接頭が濡れなかったことぐらいだ。

「――待ってください!」
「!!」

すると町の中心にある小さな時計塔の前まで来たところで誰かに呼び止められた。
反射的に立ち止まってしまう。
その声はあの愛しい人にそっくりだった。
耳に残る余韻に自らの記憶を重ね合わせて胸がきゅっと痺れる。
――空耳?
思わず立ち止まってしまった自分が虚しくて顔を顰めた。
こんな場所に王子が現れるわけ無いと自らに言い聞かせる。
だが僕の目はそんな自分に抗うように彼の姿を探していた。

「………?」

すると雨音に混じって蹄の音が聞こえてくる。
さらに注意深く辺りを見回すと音の方向から薄暗い影が見えてきた。
街灯に照らされて徐々に姿を現していく。

「え…?」

これは夢かと思った。
一晩では足りない僕に神様がもう一度夢を見せてくれたのかと思った。
降りしきる雨の中を黒い馬に乗った青年がやってくる。
顔はマントとフードで見えなかった。
しかし僕にはそれが誰なのかすぐに分かった。
慌てて帽子を深く被り直す。
知られてはならないと思った。
何せ、目の前の青年はあの王子だったからだ。

「これをどうぞ」

王子は僕に一本の傘を差し出した。
どうやらこちらの素性はバレていないようだ。
それを開けと促す。
僕は「ありがとうございます」と一礼して素直にその傘を差した。

「――あの…」
「え?」

すると突然王子から声をかけてきた。
僕はギョッとして俯いてしまう。

「あの…こんな状況で申し訳ありませんが少しよろしいでしょうか?」
「え、あ…」
「あなたにお尋ねしたい事があるのです」

王子は思いつめたように真剣で逃げられなかった。
その雰囲気に押されて思わず息を呑む。

「な、なんで…しょうか」

声に出せば裏返っていた。
幸いなのは雨が強くて互いの姿や声が曖昧に感じるぐらいか。

「この辺にエマという少女はいませんか?」
「え…?」
「あなたと同じ年くらいで、美しい金髪の女性なのですが……」
「…………」
「突然すみません。……私自身、様々な手段で探したのですが、どうしても見つからないのです」

その声はどこか寂しそうで悲しみに満ちていた。
フードの奥でどんな顔をしているのか気付いて胸が痛くなる。
(まさか、本当に僕を探していたのだろうか?)
僕は雨の激しさも忘れるほどの昂ぶった気持ちに体が震えた。
存在を明かしてはならないと必死に自我を抑えるのが困難なほど胸が高鳴る。
だから傘の合間から彼の顔を覗き見てしまった。

「…それは、あなたの大切な人…ですか?」

恐る恐る彼に問いかけてみる。
すると僅かに見えた口元は柔らかく微笑んだ。

「……はい」

その返事には潔さと強さを兼ね備えていた。
躊躇いも無く、王子は僕を大切だと断言する。

「たった一度しかお会いした事がないのです。それもほんの僅かな時間だけ。何だかおかしな話でしょう?」
「い…いえ…」
「でも不思議とあれから片時もその人の事が忘れられないのです。一目でもいいからお会いしたい。許されるのならばもっと触れていたいと強く願っているのです」
「…っ」
「ホント、おかしな話だと思いませんか?」

王子はそういって僕に笑いかけた。
だからもう一度深く帽子を被りなおす。
じゃないとこのまま王子の前で泣き出してしまうかと思った。

「…っぅ…」

あの一夜の夢は未だに続いている。
会いたくて枕を濡らした夜も同じように二人は過ごしていたのだ。
それを思うと高鳴っていた胸が張り裂けそうになる。
今度は痛みにシクシクと泣いた。
心臓が悲痛に軋んで泣いた。

「…ぼ、僕は…知りません…」
「…そう、ですか…」

雨音が煩くて丁度良かった。
頬を勝手に流れ落ちる涙を彼に見せなくて済む。
僕は傘に自分の全てを隠した。
何もかも見られたくなくて閉ざした。

「おっと、お急ぎ中に引きとめてすみませんでした」
「……」
「どうぞその傘はお遣い下さい。……では」

すると雨音に混じって馬の歩き出す音が聞こえた。
見上げれば彼は背を向けている。
きっとまた悲しい顔をしていたのだろう。
王子の声は無理やり明るく努めようとしていた。

「…っぅ……」

見ず知らずの人間にこんな事をする人なんて中々居ない。
特にお金持ちやたいそうな肩書きを持っている人は僕らの様な底辺の人間をあしらった。
哀れむような汚いものを見るような瞳でしか見ない。
しかし王子はドレスも何も無い僕にこんなにも優しくしてくれた。

「待って…下さいっ!」

僕は追いかけようと駆け出した。
驚いた王子は振り返ると首を傾げる。

「これをっ…あなたに」
「え?」
「…あの、どうぞ…っ、お受け取り下さい!!」

僕はカバンの奥から小さな本を取り出した。
そして彼に差し出す。

「私に?」
「はいっ」
「でも…い、いいのですか?」
「いいんですっ…だからっ…」

王子は汚い僕の手を優しく両手で包み込んだ。
大事そうに本を受け取る。
これはずっと大切にしてきた母親お手製の童話集だった。

「だからっ…笑って下さい…!」

雨の中この世の終わりみたいに沈んでいた僕に、傘を差し出してくれた貴方だから。
こんな汚い僕の手を暖かく包み込んでくれる貴方だから……。
(ずっとずっと笑っていて欲しい)
それは裏切っている自分が出来るせめてもの恩返しだった。

「ありがとう!」

王子は丁寧に一礼して笑ってくれた。
そうして雨の中を颯爽と走り去っていく。
僕は後姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。

―――それから数日後の夜だった。
またフランシスカの部屋に呼び出された僕は再度彼女達と舞踏会に行く事になった。

「ふふ」

怪しく笑う彼女を尻目に前回同様ドレスを着る。
今日は真っ白なレースたっぷりのドレスだった。
ピンク色の花と宝石が付けられたコサージュを頭に付ける。
その姿を見たフランシスカとモニカはとても満足そうだった。

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