7

その次の日も桃園と冬木の態度は変わらなかった。
しいていうなら目が合った瞬間冬木が、
「絶交だかんな」と、指を差し、桃園は嫣然と微笑み返し、
「上等」
だと白い歯をこぼすのだった。
昨日ほどの険悪な雰囲気はないものの、相変わらず何があったか知れないといったありさまで周囲を混乱させた。
それは弓枝も同じで、いつ桃園に声をかけようかと思い迷い、視線を前の背中へと集中させるのであった。
しかし話す機会は訪れず、一度も顔を合わせないまま放課後になってしまう。
己の勇気のなさに呆れながらいつものように図書室を訪れる。
ドアを開けるが誰もおらず水を打ったように静まり返っていた。
(……やっぱりいないか)
もしかしたらと思ったが桃園の姿はない。
それに肩を落とすと、カウンター前の席に腰を下ろした。
心の奥にくすぶっていた息を吐いて鞄から問題集を取り出す。
同時に劇の台本が目に入ってなんとも言えない気分になった。
今日は一日桃園と話していない。
席は前後していて、いつだって話せる距離にいるのに、その背中は途方もなく遠かった。
一言声をかければいいのに、なんて言えばいいか分からないなんて幼稚園児以下である。
どうしてこうなってしまったのかと延々考えては授業にならなかった。
身が入らないまま無情にも時は過ぎる。
ページを開いた問題集に、ふでばこから取り出したシャーペン。
物事は切り分けて考えるべきで、今は勉強に集中しなくてはならないのだ。
早く一問でも解かねばならない。
なのに目を通しているはずの問題が、すうっと頭の先へ出ていった。
くるくるとシャーペンを回して思索するが、集中力は戻ってこない。
森閑とした室内は、無音すぎるゆえに鼓動を露呈し、散漫とさせる。
ふと顔をあげると、室内を見回した。
いつも通り、入学してから毎日のように使い続けた図書室なのに、こんなに静かだったかと思い巡らす。
圧倒的に桃園と過ごした時間の方が少ないくせに、もう以前の状態を忘れている。
ずいぶん都合の良い生き物で、だからこそ人間は地球上に溢れるまで増えることが出来たのかもしれない。
結局落ち着かなくて、弓枝は帰ることにした。
それ以上独りぼっちの閑寂とした図書室の空気に耐えられなかったからだ。
どこの部活も賑やかで、放課後の校内にはまだたくさんの生徒が残っている。
忙しない雰囲気の中を下りてくると下駄箱までやってきた。
校庭からは生徒に檄を飛ばす顧問の声が響いている。
ほんの数日前のことを思い出した。
あの日も心のどこかで待っていたであろう桃園の姿がなくて、ぼんやりとした気持ちで下駄箱までやってきた。
そこで桃園の革靴を発見し、慌てて踵を返したのだ。
今日もあの日のように秋風が昇降口へ吹き込み、僅かに前髪を乱す。
傍にあるイチョウの木は葉を黄色く染めてざわざわと梢が揺らいでいた。
思い返すようにあの時のことを考えていると、同じように桃園の革靴が目に入る。
こんな時に限って――と、思わず出た舌打ちに顔をしかめた。
(一日中何も思いつかなかったくせに)
今探してどんな風に声をかけるというのか。
頭では分かっているのに、理性と感情が相克して弓枝を惑わす。
いつだって頭と心はバラバラで思い通りになんかいかず、余計な混乱を招いた。
だがそういう時は大抵答えは出ていて、あとはそれに従う勇気を持つだけである。
観念した弓枝はやれやれと頭を掻き毟ると、もと来た廊下へ戻った。
真っ先に向かったのは屋上で、また桃園が柵から河原を見下ろしていると思ったのだ。
勢い良く開けたドアの先には痛いくらい鮮やかな青空が広がっていて目を背ける。
まだこの時間だと太陽は高い位置から街全体を照らしていた。
逆光で黒く霞んだ背中が見えて桃園かと思ったが、どうやら違う。

「おっ、弓枝じゃん」

そこにいたのは冬木だった。
今の時間本来なら部活をしているはずなのに、なぜここにいるのかと訝しそうにする。
向こうも同じように驚いていて、一瞬互いに見合ってしまったが、彼はニッコリ笑って差し招いた。
恐る恐るドアを閉めると、すぐ傍までいく。
日差しは強く、今の時間なら十分夏といっていい。
容赦ない炎天下はまるで世界を焼き尽くさんばかりの暑さを放っていた。
立っているだけで肌が汗ばむ。
河原に見やると、いまだに生命力溢れる青々とした草木が茂っていた。
まるで水面のようにたゆたう。

「弓枝は桃園が好きか?」
「は」

隣に並ぶと冬木が唐突なことを言い出した。
思わず凝視するが、彼のことだ。
他意はない。

「ふ、冬木はどうなんだ?」

どう答えるか逡巡したあげく、質問返しをしてしまった。
突っ込まれるかと思えば、彼ははにかんだままの顔を向ける。

「大好きだけど大嫌いだ」

その答えがあまりにストレートで瞠ると硬い表情を解く。
いつだって冬木はそうだ。
何にも囚われない自由な心を持っている。
思いも寄らない言葉を投げかけてくる。

「あれか。ニコニコ顔の桃園が嫌いってこと?」
「んーん。うん」
「どっちだよ」
「分からん」

要領を得ないように首を傾げて柵を掴んだ。

「昨日の態度はムカついた」
「…………」
「弓枝だって腹が立っただろ。どうして怒鳴ってやらないんだ」
「いや、まぁ。オレにも原因があると思って」
「原因があろうがなかろうが好きなやつ相手にあんな顔するのは最低だ。貼り付いた顔すんなら始めっからお面でも被ってろ、バカヤロー!」

冬木はやまびこでもするかのように口もとに手を当てて叫んだ。
土手を走っていた人はその声に何事かと不審そうにこちらを向く。
弓枝もいきなりの大声にびっくりして肩を震わせた。

「ばかっ。うるさい!」

肘を突くと「あはは」と破顔させる。
どこまでも緊張感のないやつだ。

「とにかく絶交なんだ。あんな顔の気持ち悪いやつ」
「それ女子の前では言うなよ。反感買うのはお前だからな」

桃園の顔を気持ち悪いと言うのは冬木と少数の僻んだ同性くらいだろう。

「なら、なんで一緒にいるんだ」
「ん。好きだから」
「お前さー、もっと分かりやすく言え」
「だから桃園が好きだから」
「…………」

何を言いたいのか汲むことが出来ずに黙り込むと彼は慌てたように悩みだした。
中々言葉では伝えにくいらしい。

「んとんと。桃園は好きだから一緒にいるけど、桃園の顔は大っ嫌いなんだ」
「つまり……」
「あいつ本当は色々感じてるのに、時折全部隠して何もなかった顔で笑うんだ。本当は小心者で心配性で性格悪くて気持ち悪いのに、爽やか気取って格好つけるんだ。全然格好良くないくせに」
「お前、結構言うのな」
「本当のことはちゃんと言葉にしなくちゃダメだろ。だからそういう時は俺がぶん殴って目を覚まさせるんだ。あんな顔で騙されないぞって引っ叩いてやるんだ。泣いて謝るまで許してやらないんだ」

気持ちを上手く言い表そうと焦りながら捲くし立てた。
真剣な顔で堰を切ったように話し続ける声は切々として呆気に取られる。

「気持ちを隠すのばっかり上手くなったって、きっと楽しくない」

吐き捨てるように言った声は痛々しくて弓枝は無言になった。
二人の間に清々しい風が吹き抜ける。
雲の流れが速い。

「でも桃園は優しい。普段のあいつは、とびっきりいいやつだ」
「…………」
「優しいからちょっとしたことで傷ついてるんだ。いっぱいいっぱいになってるんだ」
「それは……分かる気がする」

空をふり仰ぐと頬が緩んだ。
桃園は優しい。
きっと冬木のいうように優しすぎるから感じることも多くて、それを気付かせまいと無理をしている。
いつだってそうだ。
その優しさや気遣いに何度も救われてきた。
知らない間にすっと入ってきて、いつの間にか心に居ついてしまう。
無理やり強引ではなく、あくまで自然に接してくれた。
だから不快に思うことなく、当たり前のように会話が増えた。
彼の優しさに甘えすぎていたことにいまさら気付いて心が震える。
いつも自分のことでいっぱいいっぱいでそこまで気を寄せていなかった。
冬木のような気付きが自分にもあれば、もっと上手く立ち回れたかもしれないのに。
思い返すのはあの雨の夜のこと。

「冬木はすごいな」

視線が遠くへ流れる。
弓枝の呟きに対して照れくさそうに顔を綻ばせたのは錯覚ではないだろう。
その素直さが憎めなくて、肩の力が抜けた。

「んー、弓枝の方がすごいよ」

すると彼は背を柵に預けて気持ち良さそうに腕を伸ばした。
眩しいくらいの笑顔で、

「桃園が興味を持った人なんて初めて見た」
「興味って……大体お前の方が仲良いだろ」
「うんやー俺たちは仲良いっていうか殴り合いからの腐れ縁」
「なんだそれ」
「分からん」
「ったく」

やはり理解するのは難しくて頭を抱えたくなる。
(つーかなんで冬木はここに……)
桃園と話すつもりで来たのに肝心の当人がいないままダラダラと話し続けている。
先ほどより低くなった太陽に空の色は若干くすんだ。
(……いや、待てよ。こいつもオレと同じで――)
顔をあげるとやけに楽しそうな冬木が弓枝を見ていた。
真っ直ぐすぎる視線は痛いくらいで、少しだけ息苦しくなる。

「桃園には絶対に言うなって口止めさせられてたんだけど、特別に教えちゃお」
「はぁ?」
「むふふ。弓枝に気持ち悪い顔を見せたバツだ」

珍しく企んだ顔をしている。

「去年さ、弓枝って市の文集に載って表彰されたじゃん」
「ああそういえばどうしてお前が知ってたんだよ」

以前同じ話をしたが、あの時はうやむやなまま話が終わったことを思い出した。

「あれ、教えてくれたのが桃園なんだ」
「え?」
「それ以来ずーっと、どうやったら弓枝と仲良くなれるかモジモジしてやんの。同じクラスなんだからさっさと声かけろって何度も発破かけたんだけどさ」
「そんな、まさか……」
「ホント、手のかかるやつだ。俺が代わりにって言ったら物凄い勢いで怒るんだ。小心者で心配性な上に独占欲が強いなんて面倒な男だ」
「……じゃあ演劇部の話も……」
「書くの苦手なくせに、話すきっかけになるかもって自ら立候補したんだ。回りくどいつーか意外と乙女思考なんだな」
「…………」
「俺だって早く仲良くなりたかったのに、結局一年かかったんだ。まったく。どんだけしつこいっちゅーねん」

呆れたように眉を下げ、ため息を吐く冬木は桃園の保護者みたいだ。
弓枝を始めとした多くの生徒は、しっかり者の桃園とそれに引っ付く子どもの冬木というイメージだった。
意外な関係性に目を瞠る。
もしかしたら弓枝も合わせた三人のうち、最も大人なのが冬木なのかもしれない。
そう思うとおかしくて吹き出してしまった。

「しつこくて悪かったな」

すると屋上のドアが開いた。
二人して振り返ると、綺麗な金髪が風に靡いている。

「大体冬木は声が大きすぎだ。丸聞こえだったぞ」

現れたのは当人である桃園で、暴露されて恥ずかしいのか拗ねたような顔をしている。
対するに冬木は身構えると、

「出たな! 桃園星人っ」

と、わけの分からないことを言いながらとび蹴りをした。
それをあっさりかわされて悔しそうに唇を噛む。

「冬木」
「あーあー。宇宙人語は分かりません」
「宇宙人語っつーかあなたの名前でしょ」
「ふんだ。今日までは絶交だかんな。口利いてやるもんか!」
「冬木っ……」
「ついでにこれ以上弓枝に意地悪したら、お前んちにカレー煎餅入りの封筒送りつけてやる!」
「あー、カレー粉末が溶けて封筒ごとベタベタになってるっていう地味な嫌がらせ?」
「本気だからな、覚えてろよ!」

すると冬木は捨て台詞を吐いて屋上から逃げていった。
残された二人は出て行ったドアを見つめ唖然とする。
が、それは一瞬のことで弓枝は口許に笑みを湛える。
(今日までってことは、明日には許すってことか?)
そもそも冬木がここにいたのは、桃園を待っていたのではないか。
弓枝と同じように、彼がここへ来るだろうと予期して待っていたのではないか。
桃園もそれを理解しているのか顔に険しさは感じられず、つけていた腕時計を見つめ、

「あれま、ウルトラマンより滞在時間短いのね」

なんて微笑んでいる。
たったあれだけのやりとりで互いの気持ちが分かり合えるなんてすごいことだ。
直接的な言葉を必要としなくても双方の考えていることが分かる。
むしろ言葉にならないのかもしれない。
だから弓枝に上手く説明できなかったのかもしれない。

「ま、小心者で心配性で独占欲が強くて乙女思考なところは特に否定しないけど」

騒がしさが去ると、屋上には再び平穏が訪れた。
桃園は意識しているのか、いまだに目を逸らしたまま隣にやってくる。
いつものように人ひとりぶん開けて柵に背を預ける。
時折吹く風にゆっくりと雲が流れていった。
まだどこかしらに聞こえる蝉の声は、日々か細く弱くなっていく。
終わりの時が近付いているのだ。

「なんか俺、格好悪いね。全部バラされちゃったみたいだし」
「お前、始めっから格好良くない」
「ん、ごもっとも」

いや、桃園は格好良い。
今どき少女漫画でもいないだろうキラキラを背負った男を、誰が格好悪いなどと評するのか。

「あーっと、じゃあどこから話せばいいんだろう」
「話してくれるのか」
「そのためにここへ来てくれたんでしょ?」
「……っ……」

ドキリとした。
一瞬、声が甘さを増したように聞こえたからだ。
(そうだけど……)
改めて本人から言われると恥ずかしい。
弓枝は口を噤むと肯定するように頷いた。
桃園はその反応に気をよくし、屋上の柵に背を預けながら話し始める。

「俺、去年弓枝の作文を読んで感動したんだよね」

それが市の文集に載った作文だった。
高校三年間をどう過ごすのか抱負のようなもので、書いたのが一学期の始めだったのに、文集に載せると告げられたのは二学期に入ってからだった。
そんなもの意識して書いたわけではなかったし、授業で書いてからかなり日が経っていたからそう言われた時は酷く驚いたものだ。
なぜ自分が選ばれたのか不思議だった。

「職員室前に貼り出されていたじゃない?俺としては、もう凄い衝撃的だった」
「おまっ……本当にあれ読んだのかよ……」
「だから最初に読んだって言ったでしょ。だいたい、こんなことで嘘吐いてどーすんのよ。弓枝って案外疑り深いね」
「悪い。改めてちょっと信じられなくて」
「ん、大丈夫。そういうとこ少しは分かってるつもりだから」
「……………」
「じゃあ話を戻すけど、あの作文って他の生徒は部活動頑張る~だとか、大学受験に向けて勉強を~みたいな目標を書いていたのに、弓枝は全然違ったよね」

桃園の瞳は優しくなった。
なのに弓枝は顔を見ていられなかった。
あの時の作文は表彰されるなんて想像もしてなかったから何も考えず思うがままに書いていた。
それをあの桃園に読まれていたと知って、平然となんかしていられない。
(空気を読まずに酷い内容だったんだよな)
後に具体的な目標を書いた生徒が多かったと知った。
だがその時弓枝は人と接することについて書いていた。
きっと入学直後で変な酩酊感に支配されてあんな文章を書いてしまったのだ。
他人と距離を置き、適当に流していた中学までを振り返り、この三年間はもう少し人について知りたいという内容だった。
その割に全然目標を達成できずにいる。
大抵の生徒がその時の内容通りに学生生活を送れていないだろうが、ひとりだけ貼り出された分恥ずかしかった。
しかし幸いなことに、ほとんどの生徒は読みもせず素通りして終わった。
クラスでも騒がれたり声をかけられたりしなかった。
二学期に表彰されたころにはとっくに地味な存在として確立していたからだ。

「俺はこの通り人と接するの得意だし、どんな状況でもカバー出来るんだけどさ、残念なことに誠実じゃないんだよね」
「誠実じゃない?」
「ん、人の輪の中心にいるのって案外楽なんだよ。だからそうしているだけ。自分が人を動かせばその距離も上手く調節出来るじゃない?例え苦手な相手だろうと気付かれずに距離を置くことも出来るし、嫌な話題なら上手く誘導することで避けられる」
「詐欺師みたいだな」
「あはは。まさにそう。弓枝はハッキリ言ってくれるから気持ちいいよ」

桃園はそう言って晴れやかな笑声を漏らしたが、言葉を選べと不快がられてもおかしくない。
直接的な表現は時に人を傷つけるのだ。

「もうそういうの体の一部みたいになっちゃってんの。だから弓枝の作文読んだ時は驚いたな。人との係わり合いをこんな馬鹿みたいに真っ直ぐ受け止めて生きていく人がいるなんてね」

馬鹿みたいに真っ直ぐ。
そう言う桃園はなぜか切なげで、一瞬だけ影を落としたような気がした。
先ほどまでけらけら笑っていたのに、少しだけ表情を曇らせる。
彼は胸元に手を置いた。

「だけど読み進めていくうちに、弓枝の文章から目が離せなくなった。なんだろ。よく分かんないけど、痛くて苦しくて読むのもしんどくて……なのに全て読み終わると妙に清々しいから困った」
「…………」
「んで、そういう自分の気持ちがよく分かんないから毎日読みに行っちゃった。で、同じようにぐるぐるしてさ、その繰り返しを貼り出されている間毎日やってんの。俺の方が馬鹿みたいでしょ?」

知らなかった。
弓枝は問われたのに返事も出来ずに唇を噛み締めていた。
(毎日読みに行ってくれたのか)
当人でさえ一度も見に行かなかった。
職員室に用事がある時や前を通らなくてはならない時、恥ずかしくて決して視界に入れようとしなかった。
それを飽きもせず何度も見に行ってくれたというのか。

「弓枝の言葉ってさ、胸の奥に突き刺さってくんの。俺の汚いところ嫌なところ目を背けていたいところまで全部見つけて誤魔化すなって怒っているような気がした。あ、自意識過剰なんて笑うなよ。そんなの自分で分かっているんだ。ついでにもう隠すもんないから言っちゃうけど、あの時の文集先生に頼んで俺も買ったんだ」
「う、うそ……」
「だから嘘吐いてどうすんのって。人との付き合いだとか自分のことを考えた時によく読み直すよ。昨日も一昨日も読んだ。もう暗記しちゃってるのに、勝手に字を追いかけちゃうんだ」
「そんな……オレ……」

そこまで大切にしてくれていたなんて知りもせず、弓枝は俯いた。
すると桃園は彼のすぐ隣に立ち掌で頬を包み込む。

「顔をあげなよ」

少し力を込められて、弓枝は恐る恐る顔をあげた。

「ここからがいいところなんだからね」

桃園は正面から見据える。
昨日今日と曖昧に逸らしていた視線を合わせて屈託ない顔で笑ってくれる。
やっぱり彼は綺麗だった。

「そうなると興味は弓枝本人に向くわけで……」
「あ」
「全然作文と違うから最初は呆気にとられたよ。人と関わろうとしないんだもん」
「……っぅ……」
「ホント、同一人物か疑ったんだけどさ、やっぱり弓枝は独特の空気を持っていてすぐに目が離せなくなった」

頬を撫でていた手が弓枝の前髪に触れた。
夕暮れ間近の風に吹かれながら二人は見つめ合う。

「自分からはあまり声をかけず、だけど人を毛嫌いしている雰囲気もなく。距離感がつかめなくてさ、あれだけ人と接するのが得意とか言っておきながら話しかけられなかった」
「そ、そんなに浮いてたか?」
「全然。クラスの中じゃ見事に空気になっていました」

(それはそれで微妙……)
弓枝は口に出さなかったが苦虫を噛み潰したような顔で唸った。

「一番に気付いたのは目かな」
「目?」
「うん。確かにあなたほとんど会話しないけど、人を見る時はびっくりするくらい真っ直ぐなんだよね。曇りなき瞳っていうのかな?そういう目で人のこと見てんの。で、あ――う――」

すると急に決まり悪そうに口を曲げた。
珍しい表情に見上げると視線が泳いでいる。

「なんだよ」

言い濁すような気持ち悪さに先を促そうとしたらまごついていた。

「はぁ……言った後の文句は受け付けないからね」
「は?」
「そんな弓枝を見ているうちに、いつの間にかあの真っ直ぐな瞳で俺のことを見て欲しいなって思うようになったの!」
「――――――!」

弓枝は瞬きも忘れて目を剥くと絶句した。
(それって……)

「実際にこうして見られるようになったら強烈で……。それを一昨日の夜に言おうとしたんだけど、誤解された上、無理やりキスしちゃうし」
「…………」
「ああもう。やましいことだらけの俺には弓枝の眼差しが眩しすぎるんだって。だけど他のやつ見てるとすっごくイライラするし、それが冬木だと余計に悶々するし、もう完ペキに自己嫌悪だったんですよ、はい」
「何、お前冬木に嫉妬してたの?」
「当たり前でしょうが。って、今、そこ?」

桃園はへなへなとその場にうずくまってしまった。
僅かに見えた耳は虫に刺されたように赤くなっていて、顔を見せようとはしない。
腕で隠したその先でどんな表情をしているのか気になる。
弓枝は寄り添うように隣にしゃがむと様子を窺った。
校庭から賑やかな部活生徒の声が聞こえ、心地良く反射している。

「……去年は弓枝を知らなかったなんて嘘だよ……」

聞いたこともないくらい濡れた声で桃園が呟く。

「ずっと話してみたかった。声をかけたかった」
「うん」
「はぁ……俺、格好悪い……」
「うん」

相槌を打ってやるとムッとした顔をあげた。
何か言おうとしたのを遮るように弓枝は、

「オレも嘘ついてた。桃園のことはずっと知ってたよ。一度だけシェイクスピアの詩集読んでいた時声をかけてくれただろ? あの時のことを忘れたことはなかった」

それから鞄に手を伸ばし台本を取り出すと桃園に突き出した。

「もうひとつ――。実は桃園たちに内緒でこれを書いてた」
「え……? これって」
「ロミジュリの台本。興味ない振りしてたのに、どうしても気になって勝手に書いてた。もちろん使われないことは承知だったし、ずっと黙っているつもりだったけど――」

すると桃園は言い途中の弓枝を力強く抱きしめた。
瞬間、視界から消えた彼の息遣いがすぐ傍で聞こえて動揺する。

「も、ももぞ――――」

突然の抱擁に狼狽し、尻餅をつくが、彼は構わずに腕を回ししがみついてくる。
驚いて持っていた原稿用紙が屋上の床に散らばった。
反射的に抗おうとした腕は、その大きな肉体に包まれて身動きすらとれない。
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
こんなにも近づいたのは雨の日以来だったからだ。
桃園の持っている熱が体中をがんじがらめにして動きを止める。
彼の肩口に見えた景色は先ほどと何も変わらないのに、まるで初めて見たような彩りに包まれた。
途端に色づいた世界が弾けたように広がる。

「桃園……?」
「嬉し……ありがと」

しみじみ呟くから弓枝の声が途切れる。
顔を見なくても桃園が笑っていることが分かった。
今までたくさんの笑みを見てきたけど、きっとどれにも当てはまらない表情をしていると思った。
だから不安げにしていた弓枝の肩の力が抜ける。
(喜んでいる……?)
桃園は優しいから余計な真似しやがってなんてことは言わないと分かっていた。
でもどう思うのだろうと内心不安でいっぱいだった。

「怒らないのか?」
「なんで俺が怒るのよ。むしろ嬉しすぎて弓枝の体離してやんない」
「なんだそれ。暑くないのか?」

秋とはいえまだ人肌恋しくなるほど涼しくなっていない。
むしろ汗ばんだ体を持て余している。

「あー、俺寒がりなんで」
「見え透いた嘘つくなよ」
「ん、ばれた?」

桃園は「それでも離さないぞ」と、無邪気に顔を緩ませてぎゅっとする。
深い喜びから出た微笑を唇に含ませ、子どものようにはしゃぐ姿に弓枝の表情も和らぐ。
桃園が台本を受け入れてくれたことが嬉しくて、桃園とまたこうして話せることが嬉しくて、考えてみると弓枝の世界は桃園中心で回っているみたいだ。
不器用ながら彼の態度に一喜一憂している。
心の中が温かくなる。
それは身に覚えのない感情で、でも素直に受け止めることが出来るのはとても幸せな気持ちだからか。
弓枝はゆっくりと彼の背中に手を回して身を寄せた。
自分もこうしていたいと意思表示する。
どうしたって言葉にするには憚れるから、態度で表したほうが楽だった。
自ら引っ付くと爽やかなシトラスの香りが濃くなる。
始めは慣れなかった匂いも、今では嗅ぐだけで無性に安堵する。
ドキドキ心臓がうるさいのに変わりないが、どこかで弓枝も触れ合うことを望んでいた。
身に沁みるような恋しさで胸が膨らむ。
そんな弓枝の反応に、桃園は息を呑むと肩口に顎を乗せた。
中々分かり合えることの少ない二人だが、今はきっと同じ気持ちでいる。
ぼんやりとなだらかな夕暮れを見つめながらそう思った。

END

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