10

***

「恭子――!」

そのころ俺は駅前へ向かう途中の恭子の背中に追いついた。
名前を呼ぶと驚いた顔で彼女が足を止め、恐る恐る振り返る。
その顔は涙で溢れて酷い顔をしていた。
毎度喧嘩で言い負かすような女の顔には見えなかった。
店周辺より人が多く、彼女を連れ出すと近くの公園へ向かう。
雪のせいで誰もおらず、簡易な屋根の下にあるベンチに並んで腰掛けた。
何から話せばいいのか迷って、俺は七年間の楽しかった思い出を口走る。
恭子は黙ってそれを訊き続け、しばらくしてようやく相好を崩した。

「そういえばそんなこともあったね」

今度は彼女が話し始める。
二人で思い出を持ち寄ると、忘れていた様々な日々が蘇った。
そう。
あの日々は無駄じゃない。
どの瞬間も真剣に笑って真剣に喧嘩して、それが幸せだった。
公園の地面に少しずつ雪が積もっていくさまを見ながら思い出話に花が咲く。
別れてからの距離も時間も感じないほど楽しくて、二人は大いに笑い合った。
時計は逆回転を始めて、その時々の気持ちを蘇らせてくれる。
だが実際には時計が逆に回ることはなく、時間も戻ることはない。
分かっているからこそ楽しくて、分かっているからこそ切ないのだ。

「でも、ごめん。恭子とはよりを戻せない」
「うん……」

彼女は神妙な顔つきで返事をした。
でも先ほどよりは壁がなくて、恭子自身素直にそれを受け止めようとしているという感じだった。

「実は今付き合っている人がいるんだ。昨日の学生じゃなくて別な人なんだけど……」
「…………」
「その子のことは絶対に悲しませたり泣かせたりしたくなくて……必死なんだ。だからさっきは酷いこと言った。傷つけてごめん」
「吉信さっきから謝ってばかり」
「あ、ごめん」

他に言葉が見つからなくて謝るも、また同じことの繰り返しで決まり悪そうに苦笑いする。
恭子はその様子に頬を緩めて前のめりになった。

「ね、どんな人?」
「どんな人って……」

興味あり気に問われて、またその質問かと考え込む。
昨夜上手く答えられなかったが、今はもっと答えられなかった。
先ほどの成瀬の表情が浮かぶ。
弱い子だと思っていたのに、時に強い意志を見せるし、何を考えているのか全く想像できない。
一言で表す言葉が見つからなくて、迷路に入ったようだ。
可愛い子優しい子なんて飾りのような言葉は成瀬の本質を突いていない。
俺は唸りながらしばらく考えるが、どうしても答えに行き当たらず、

「分からない」

と、渋々呟いた。
こんなんだから恭子を呆れさせてしまう。
俺は彼女の言うとおり人のことを見ていないのか。
だから成瀬のことも言えないのか。
不安。
胸の奥には彼への気持ちで溢れているのに、これは違う感情なのか。

「ぷっ……!」

すると恭子は吹き出した。
てっきり「やっぱり分かってないのね!最低!」とでも言われることを予期していたので拍子抜けする。
口に手をあてることもせず豪快に「あはは」と笑った恭子の顔は久しぶりで、思わず見入ってしまった。
一通り笑ったあとの彼女は憑きものが落ちたように清々した顔になっている。

「ごめん、訂正するよ」
「え?」

ベンチから立ち上がった彼女は腕を伸ばして背伸びすると上を向く。
俺もつられて立ち上がると首を傾げた。

「人を好きになったことがないなんて言ってごめんね」
「恭子……」
「今のあなたはその子に夢中じゃない」
「――――っ!」
「本気で愛していなくちゃ、そんなこと言えないもの」

そう言って恭子は携帯を取り出すと、俺の連絡先を削除して見せた。

「赤の他人にどんな人かなんて答えるのは案外難しいことなのよ。その人を知ろうとすればするほどね。それは表層だけ見て分からないと言うのとは少し違うでしょ」
「…………」
「これで良い子だなんて答えてたら引っ叩いてやろうかと思ったけど、もういいよ。過去の女になってあげる」

恭子はそう言うと颯爽と俺のもとを去っていった。
傘を渡そうとしたら今日は濡れて帰りたい気分なの――と、精一杯の笑顔を作ってくれる。
無理やり作った顔は俺の心を苦しくさせたが、触れずに見送った。
今触れたら彼女の健気な思いをぶち壊してしまう。
それくらい愚鈍な俺でもよく分かっていた。
すると、だいぶ離れたところで一度振り返った彼女は大きく手を振った。

「追いかけてきてくれてありがと!嬉しかったっ!」
「恭子……っ」
「彼女大事にしてやんなさいよー!」

その言葉を最後にようやく俺と恭子の七年が終わる。
公園も舗道も白で埋め尽くされた世界に佇み、噛み締めるように目を閉じた。
きっとあのまま喧嘩のように別れていたら、二人とも楽しかった日々さえなかったことにして嫌な気持ちを引き摺っていただろう。
真っ暗な瞼の裏に成瀬の顔が浮かんだ。
彼が強引に俺の背中を押してくれたから、思い出は美しいまま残すことが出来た。
吐いた息の白さと巻いたマフラーの感触、手に持った傘を握り踵を返す。
(本気で愛してなくちゃ、そんなこと言えない)
恭子の言葉が響いて共鳴するようにうるさくなる。
俺はどこかで成瀬を区別していた。
同じ男だとか年の離れた子どもだとか、目に見えることだけでわけて考えていたんだ。
でもそんなもの関係ない。
成瀬は人として大切なことをたくさん教えてくれた。
今こうして恭子との別れを満足して迎えられているのも彼のお蔭だ。
成瀬が愛しい。
成瀬のことをもっと知りたい。
恭子はあんな風に言っていたけど、全部言えるようになりたい。
良いところも悪いところも知りたい。
俺は成瀬の体だけじゃなくて、全てを求めて欲しているんだ。
それは多分成瀬が思っているより強い気持ちで、どうやって伝えればいいのか困惑する。
俺は成瀬の想いの十分の一も返せていない。
それどころか困らせるようなことばかりしている。
情けなかった。
伝え方も知らないまま恋愛経験だけを重ねて大人になってしまった自分。
せめて誠実でありたい。
成瀬が俺を選んで良かったと思ってもらえる男でありたい。
でも誠実ってなんだ。
過去を振り返った時、俺にはどこにも誠実という言葉が見当たらなかった。
女の子たちを可愛いと褒め優しくしながら、無意味に傷つけてばかりいた。
最低な男だ。
人の大切な気持ちを軽んじて、自分のことしか見えていない。
恭子の言った通りだ。
そうして出会いと別れを繰り返して悟ったような気になっている。
俺を想い告白してきた子たちはどんな顔をして伝えてくれたのだろうか。
付き合っていた彼女たちはどんな気持ちを抱えていたのだろうか。 
判然としない思い出が手の間から零れ落ちて酷く切ない気分にさせた。

***

店の近くまで戻ってくると、そのまま鍵もせずに出てきたことを思い出した。
これだけの雪ならば客はいないだろうが、もう閉店の時間だ。
小走りに駆けて見慣れたイチョウ並木が見えてきたところで静止する。

「成瀬君……?」

見れば店先には成瀬がいた。
あれから一時間は経っている。
てっきり帰っているか、待っていたとしても店に入っていると思ったから、その前で立ち尽くしたままの彼に慌てて駆け寄った。
頭には雪が薄く積もっていた。

「何やってるの?風邪引いちゃうよ!」

薄手のコートからは寒々しい素足が出ている。
借りていたマフラーを急いで外し、彼の首に巻きつけた。
成瀬の頬や鼻の頭は赤く手は霜焼けにでもなってしまいそうだ。

「早く中で暖ま――――」

ぐいっと腕を引っ張るも、成瀬は首を振りそこから動こうとしない。
顔を覗きこむと肌以上に目が真っ赤で、泣いたような痕跡がある。
どんなに泣いたらこんな顔になるのかと不思議に思うほど腫れていた。

「恭子さんとは……?」

かつて見たことのない怯懦の目つきを漂わせ、成瀬が問う。

「成瀬君のお蔭で仲直り出来たよ」
「……っ……」
「あ、でもそれはよりを戻すとかじゃないからね。俺の恋人は成瀬君なんだから」

それでも成瀬は唇を震わせて、たくさん泣いた瞳からまた涙を流そうとしている。
目じりに溜まった涙の雫は店の明かりを受けて青白く光った。
俺が一歩前に踏み出して成瀬に触れようとすると、彼はすねたように首を振る。

「……おれより、恭子さんの方が……いいです」
「え?唐突に何言って――――」
「だっておれ性格悪いんですっ!」

そして急に顔を上げると声を荒げた。

「ハンカチを忘れた日、お兄さんとの話を盗み聞きしたあと、実は、お母さんにプールのチケットをねだったんです。あれは新聞屋さんがくれたんじゃなくて、おれがお願いして買ってもらったんです。恭子さんとじゃなくて、おれとだったらプールへ行ってくれるかもしれないと期待して。もしあとで恭子さんを誘ったとしても、おれの方が先に秋津さんとプールへ行ったなら優越感に浸れると意地悪なことを考えたんです」
「ちょっと落ち着いて」
「それだけじゃないんです。秋津さんすごく格好良いし、優しいから…ひっく、きっとみんな好きになっちゃうって怖くてっ……うぅっ…雅のお姉さんやお店のお客さんにも嫉妬して、頭ぐるぐるしてっ……秋津さんの一番はおれじゃなくっちゃ…やだって…っひぅ…」

成瀬は自分が泣くのも構わず勢いは止まらなくて、

「うぇっ…やっぱり、他の人見ちゃっ、ひっぅ…やだぁ…っ、恭子さんのことはっ、我慢しましたけどっ……本当はっ、おれだけの秋津さんでいなくちゃ…っやだ…ぁっ…うぅっ…すきって、っひく…好きって言ってほしいっ……っふぇ」
「成瀬君……」
「おれは秋津さんが思っているような子じゃありません…っひぅ…っ我侭で自分勝手で…っひっく、そういう嫌な自分を隠してるんです…っ」
「…………」
「うぅっ、だから…ひっぅ、秋津さんがおれのこと分からないって言っても…っ、しょうがないかなって…ふぇえっえぇ…自分でも何言ってるのか…分からないけど…っ…うぅっ…」
「え」

雪雲を蹴散らすように声を張り上げわんわん泣き出した成瀬を前に俺は固まった。
(分からないって)
彼の言葉に引っかかって、その肩を掴む。

「まさか雅ちゃんに聞いたの!」
「ふっぅ…ひっぅ」

成瀬は嗚咽の合間に何度も頷いた。
俺はそれに頭を抱えて「ああー!」と後悔する。
そういう意味ではない。
よく分からない子だと言ったが、理解できないという意味ではなくて、たくさんある表情をまだ引き出せていない自分の不甲斐なさを込めての意味だった。
たぶん雅は渚からその話を聞き、彼女の中で勝手に解釈して、それが成瀬へと伝わってしまったのだ。

「それで今日は店に入ってこなかったの?」

すると成瀬は再びコクリと頷いた。
どうやら大きな誤解があったらしい。
(……でも誤解なのかな)
自分で誤解と片付けたくせに、湧き上がる疑問。
俺は成瀬の頭に積もった雪を払った。
そうして跪くと目線を合わせる。
いつも見下ろしてしか見ていなかった彼を見上げる。
ズボンは濡れて含んだ水分に色が変わったが構わなかった。

「俺、もっと成瀬君のことが知りたい」

相変わらず泣き続ける彼に真っ直ぐ視線を合わせる。
確かに雅からの誤解があったのかもしれない。
でもそう思わせてしまった原因は俺自身にある。
恭子も言っていた。
俺がモテて、いつも自分は不安だった、寂しかったのだと。
誰彼構わず優しいのは俺の長所であり短所だ。
無論店をやっている以上客へ愛想がなければ接客にならないし、無愛想でいるより人との衝突は少ない。
でもそのせいで誰よりも悲しませたくない人を泣かせるのなら、それは少し違うのではないだろうか。
俺はずっと自分の口から「好き」というのを躊躇っていた。
特別な拘りがあったわけでない。
言うのが嫌だったわけでもない。
ただ認めるのが怖かったのだ。
本当はずっと前から成瀬しか見えていなくて、はち切れんばかりの愛おしさを噛み締めていたのに言葉に出す勇気がなかったのだ。
(俺はどこまでいっても自分のことばかりだ)
いくつもの不安が積み重なって成瀬の憂苦が爆発してしまった。
こんな小さな体でどれだけ我慢していたのだろう。
サインは確かに発せられていた。
ハンカチを渡しに夜会った時やプールで口数少なく俯いていた時。
他にもきっと見過ごしていた中に彼なりのサインがあって、本当なら誰よりも俺がそれを拾わなければならないのだ。
いや、拾わなければならないなんていう義務じゃなくて、気付きたいという自らの意志だ。

「もっと怒っていいよ?喚いてもいい。どんな成瀬君も知りたくてたまらないんだ」
「ひっぅ…ひっく、ふええっ」
「俺さ、今まで全然知ろうとしてなかった。だから分からないって答えた時正直悔しかった」
「秋津さ…っ…ふぅ……うぅっ」
「色んな成瀬君が見たい。嫌いになんてなるわけないよ!俺にしか見せない成瀬君を見せて欲しい。これからもずっと……」

俺は成瀬の体を力いっぱいに抱きしめた。
腕の中で泣く彼が愛しくて胸が詰まった。
例えようのないときめきがこの雪のように降り積もって溢れていく。

「俺、本当は全然格好良くなんてないんだよ。本当の俺を知ったら幻滅するかもしれない。愛情が冷めてしまうかもしれない」

それでも成瀬には本当の俺を晒したい。
良いところも悪いところも纏めて好きだと言ってもらえるような関係になりたい。
人は本能だけで生きていけないから皮を被る。
でも俺は成瀬と剥き出しの恋をしたい。

「好き……だよ。成瀬君が大好きだよ。俺はしょうもないやつで、言うのが遅くなったけど、本当は誰よりも大切に想っているんだよ」

俺は成瀬の肩を掴んで僅かに離した。
泣き腫らした目元を拭い微笑む。
一言も漏らさないよう聞く真剣な眼差しに、恋しい気持ちが膨れ上がる。
花びらのような初雪が舞っていた。
止む気配のない一片の美しい雪だ。
静かな並木は穏やかな暗さで満ちていて、店の明かりが柔らかな光を放っている。
その光を受けて二人の影は縦長に伸びていた。

「あとひとつ、まだ成瀬君に言ってなかったことがあるんだけど、いい?」
「ひっぅ……え?」
「見ていたのは成瀬君だけじゃないんだよ?」
「秋津さ……?」
「成瀬君が俺を見ていたように、俺も成瀬君を見ていたんだよ。何度も声をかけようとしたんだよ?」
「……っぅ…………」
「視線が合うたび、話しかけようとするたびに逃げられちゃったけど、俺だってちゃんと見ていたんだよ」

成瀬は店の外から、俺は店の中から、視線の意味は違えどお互いを見ていたんだ。

「それだけじゃないよ。もっとたくさん話したいことがある。同じくらい成瀬君に聞きたいことがある」
「秋津さ……秋津さんっ」
「だからさ、もう一度ここから始めよう?」

もっと早く言えば良かった。
もっと早く自分の心に正直になれば良かった。
――でも、これで良かったのかもしれない。
今なら俺は自分の気持ちを信じられる。
大人の素敵な恋はやめだ。
だって俺も成瀬も恋愛初心者なのだ。
代わりに二人で学びあいながら手を携え歩んでいく。
格好悪いところを晒すだけ晒して泥臭い恋をしたい。
俺は照れくさそうにはにかむと、再び成瀬の前で跪いた。
ぎこちなく彼へ手を差しのべて、

「改めて言うよ。俺は成瀬君が好きだ。こんな俺でよければ付き合ってください」

成瀬は年齢を聞くのも怖いほど年下の子どもで、同じ性を持っている。
これから先、誰にも紹介することは出来ないかもしれないし、恋人として並ぶことも許されない相手だ。
それでも俺は関係ないと胸を張って言える。
例え秘密にしなくちゃいけない恋愛でも後悔はなかった。

「お願いします。俺の恋人になってください」

初めての告白。
初めてのドキドキ。
俺たちは店先から始めるんだ。

END