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「こんな非常時に迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい」
「いや、心配して持ってきてくれたんだろう?」

大佐の問いに、僕は神妙に頭を垂れて畏まった。

「この剣は特別だと聞いたから、ちょっと不安になっちゃって……。大佐の強さは僕だって分かってたはずなんですけど、ああいう状況は初めてだったので怖かったんです」

僕がそう言うと大佐は家から持ってきた古い剣を鞘から抜いた。
よく研がれた剣先が鋭く伸びている。

「だから置いてきたんだ」

大佐は剣を眺めながら円やかに口元を緩ませた。

「剣は軍人にとって命のようなものだ。俺は何度もこの剣に命を助けられてきた」
「………………」
「だからこの剣が家族を――君を守ってくれるようにと、持って行かなかった」
「大佐……」
「だが、まさか君が持ってきてくれると思わなかった。そのせいで危険な目に遭わせたことが悔しい」
「ぜ、全然、僕は危なくなんか――」

反論しようとしたら、彼の手がそっと僕のはだけた胸元に触れた。
露出した胸に大佐の手が直接触れて赤面する。

「ん……、た、大佐っ……?」

彼はゆるゆると僕の肌に指を這わした。
まるで繊細な細工にでも触れるように恐る恐ると撫であげる。
その感触はこそばゆくて、必死に耐えるも気を許せば変な声をあげそうだった。
大佐は顔をあげて僕を深い眼差しで射抜く。
その表情はどこか憂いで色っぽかった。

「君の肌は白いな」
「んく……大佐、あのっ……」
「まるで肌に吸い付くみたいだ」

彼は僕の肌から手を離さない。
乱れた襟元から覗く鎖骨や胸辺りまで触れてくれる。
指先が普段より熱く感じたのは、意識しすぎているせいだろうか。
それとも敏感な場所を触られているせいだろうか。

「誰に破られたんだ?」
「んんぅ……これは、へ、兵士に捕まった時……」
「誰……?」
「い、言えません」

いつもより低く芯のある声が耳元で囁かれた。
瞬間、胸の高鳴りを抑えられなくなる。
(こんな声…ど、どこから出して)
ひどく艶やかで肉感的な声が僕の体を縛り付けた。
吐息混じりで感情を押し殺しているようにも聞こえるが、異様に色気が漂い、酔ってしまいそうになる。

「なぜだ?」
「……っ……」
「もう一度訊く。なぜ言えないのだ?」
「…だ、だって、今の大佐に言ったら…んぅ……ボコボコにしそうで……な、なんて…あはは」

さも冗談を装って渇いた笑い声を響かせた。
そうして笑い飛ばさないとこの雰囲気に耐えられなかった。
触れられたところが焼けそうなくらい熱くなる。
気を抜くと変な声が出てしまいそうになる。
大佐が何を考えているのか分からなかった。
変わらぬ表情で僕に触れて、いつまでもやめようとしない。
それどころか彼が触れる場所がどんどん広がっていく。
普通、触れもしないようなところにまで指が伸ばされた時は、びくびくと痙攣してしまった。
いつの間にか二人とも息が荒くなって見つめ合っていた。
僕の潤んだ瞳を見下ろした彼は、僅かに息を呑むと、逃げるように肩口に頭を乗せる。
あれだけ気まずく言葉を交わせなかったのが嘘のように間近に大佐を感じていた。
匂いや温もりに浸って幸せな気分になる。
もっと触って欲しくて、そんな浅ましい自分に気付くと、益々耐えられなくなりそうだった。

「……するに決まっている」

すると大佐は不満げに眉を引き上げた。
そして僕の表情を窺うように見つめる。

「えっ」

僕がその言葉を聞き返そうとすると、大佐は自らの上着を脱いで僕に羽織らせた。

「あ、あの……」
「これを着ていけ。俺は職務に戻る」

大佐はそう言うと、踵を返して広間へと戻って行った。
僕は大佐が触れた肌の熱さに火照りを覚えながら、ただ彼の凛々しい後ろ姿に見惚れていた。

***

それから町には応援の兵士たちがやってきて、すぐに騒ぎは治まった。
その前にクラウス様は城のバルコニーに立ち、押し寄せる人々の話を聞くと、懸命に宥めて落ち着かせた。
ちょうど彼らも冷静になりかけていたころで、クラウス様の説得に納得した様子で応じてくれた。
お陰でデモ隊と軍の衝突はなく、数人の酔っぱらいが逮捕される程度で済んだ。
とはいえ、町の惨状は中々厳しく、明日は祭なんて言っていられない状態だった。
大佐の家は幸運なことに手出しされなかったが、近隣の修繕に追われて、祝うような雰囲気ではなかった。
貴族たちはその日のうちに早々とアバンタイを出て行った。
どうやらアルドメリアは僕が思っているよりずっと深刻らしい。
あれじゃクラウス様も頭を抱えたくなるよなと同情した。

「ミシェルさんはいますか?」

その日の夜、家にエマルド様が訪ねてきた。
僕たち男は全員他の家で修理をしていたから、彼がひょっこり顔を出した時は面食らった。
呼び出されて応じると、エマルド様は手紙を差し出した。

「ミシェルさんは音楽院でヴァイオリンを習われているそうですね」
「習っていた――です。今の私は生徒じゃありません」
「それはエオゼン様の国外追放と絡んでいるのですか?」

僕はその言葉に警戒するよう身構えると、その反応を予期していたようで、

「エオゼン様の嫌がらせは有名でしたから私共も存じていました。彼はあまりに落ちすぎた。音楽院自体が負の連鎖の中心にあった」
「知っていたならなぜ放置していたんですか?」
「仰る通りです。しかしあそこは魔の巣窟。クラウス様とて簡単に手出しができる場所ではありませんでした」

彼は詫びるように目を伏せた。
謝って欲しいわけではなかった僕はまごつく。

「ごめんなさい。今日私が来たのはあなたの過去を穿り返すためではありません。実は、クラウス様があなたのヴァイオリンを聴きたいそうです。その手紙を仰せつかったんです。よろしければ、明日の祭にて弾いてくださいませんか?きっとみんな喜ぶと思います」

エマルド様は親しみ深い表情で笑いかけた。
僕はその顔を見ていられず、目を背けた。

「私は人前で弾けるようなヴァイオリニストではありません。せっかくの申し出ですがお断りします」
「しかし――」
「音楽にはもう関わりたくないのです」
「……ミシェルさん……?」
「わざわざありがとうございました。クラウス様によろしくお伝えください」

僕は拒絶を露に頭を下げた。
エマルド様は何か言いたげにして、クラウス様の手紙を持ち帰った。
早春の風が僕の柔肌を掠めていく。
(弾きたいと思っていたのに、馬鹿だな)
こんなチャンスそうそうないのに自信がなかった。
僕しか聞いていないのなら、いくらでも弾きたい。
だけど誰かの前で演奏するなんて怖くて仕方がなかった。
ただ演奏するのが好きで弾き続けてきた幼いころ。
それが音楽院に入って変わってしまった。
僕の音は誰の心も動かさない。
認めてもらえない。
そう思いながら、認めるだとか認めないとかそういうことに拘っている自分が凄く嫌だった。
音楽は聴いた人がそれぞれに感じるから素晴らしいのに、それを委ねられない心の狭さがあった。
何も知らず無知なまま好きなだけで弾いていたころに戻りたい。
でもどんなに頑張ってもあのころには戻れない。
一度味わった痛みは早々消せないのだ。
(――なんて、まるで底なし沼に足をとられたみたいだな)
もうエオゼン様はいないのに、いつまでも彼の幻影に怯えている。
何もしなかったのは僕だ。
ヤマトは間違っていない。
僕は頑張れば報われると信じていた愚か者だ。

〝「君は清すぎだ」〟

ヤマトの冷ややかな声がまだ耳に残っている。
(違うよ。僕は卑怯なだけだよ)
見てみぬ振りをしていただけ。
君のように動けなかった、立ち向かえなかった。
いつも僕はそうして自分が綺麗だと思い込もうとしていたんだ。

「――また、君はそうして寂しそうな顔をしているのだな」

すると曲がり角からクラリオン大佐が現れた。
彼は夕方には家に戻ってきて、一緒に町の修繕を手伝っていたところだった。

「もう…だから声をかけてくださいよ」

そう口を膨らませながら、彼がどこまで聞いていたのか不安に思う自分がいる。
最悪だ。

「ミシェル殿……いや、これからはミシェル様と呼んだほうが良いでしょう」

すると大佐は仰々しく僕の足元に跪いた。

「ちょっと何してっ。顔をあげてください!」

僕は彼の前にしゃがむとやめさせようとする。
だが、大佐は岩のように硬く動かなかった。
その彼がゆっくりと静かに他人行儀な言葉を紡ぐ。

「あなたが貴族であると推察しておりましたが、まさかマヌエル侯爵のご令息だとは思いませんでした。これまで数々のご無礼、お許し頂きたく願います」
「なんで、そんな……急に!嫌ですっ、だって僕は四男坊。そんな、身分なんか関係ないんです……!」
「ミシェル様。身分なんかという域を越えているんですよ」

すると大佐は顔をあげた。
その苦しそうな表情に、僕も勢いを失くしてしまう。

「アルバトロス家といえばサイフォーン屈指の名家。マヌエル侯爵は宰相、その妹のエレーヌ様は別国の王妃、代々著名な政治家を輩出し、領地を治める名門貴族です。そもそも俺のような靴屋の息子には口を訊ける機会すらいただけない人なのですよ」
「でも僕は違う…僕には何もない」
「見えていないだけ。あなたはたくさんのものに囲まれているのに、それを見ようとしていないだけなのです」

クラリオン大佐は僕の頬に手を寄せた。
いつもこうして触れてくれていた手。
温かくて大好きな手のひらだ。

「ちゃんと見て下さい」
「クラリオン大佐」
「大丈夫。あなたならきっと大丈夫」

まるで言い聞かせるように優しい言葉だ。
でも僕には別れの言葉に聞こえた。
頬を引き寄せられて、互いの額がコツンと当たる。
さらさらとした前髪がくすぐったくて切なくて涙が溢れそうになった。
こんなに近くにいるのに、大佐がとても遠くに感じる。
まるでカメリアの出立式で大勢の人ごみから大佐を見上げていた時のようだ。
だけど、あの時は遠くになんか感じなかった。
それどころか大佐の姿は豆粒ほどにしかなかったのに、とても近くに感じて感激した。
今はそれよりずっと近い距離で話をしているのに、手が届かないところへ行ってしまったような気になる。
この手でいくらでも触れられる距離にいるのに、いざ彼に触れたら透けてなくなりそうだ。
それが寂しくて悲しくて現実を直視出来ない。
大佐は真面目な人だ。
彼に何度「身分なんか関係ない」と言おうが、それで納得するような人ではない。
特に頑固者の血を受け継いでいる彼ならなおのことだ。

「ミシェル様」

大佐は僕から顔を離した。
その時にはもう軍人と護衛すべき貴族の息子の顔をしていた。

「城にあなたの寝室をご用意致しました。このままお連れ致します」
「分かりました」

大佐が立ち上がると僕もそれに倣う。
彼は僕の前を歩いた。
ゆっくりと歩きやすい歩調だから追いかけて小走りになる必要はない。
だが、隣にも並んでくれなかった。

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