10

「じゃあどうして出てきてくれたんですか!」

僕はずかずかと先生の前まで来ると、その胸ぐらを掴みました。

「どうして僕に期待させるようなことをするのですか!僕をっ…抱いたのですか!」
「…………っ………」
「先生だって僕のこと、何も分かっていません!」

感情が暴走していました。
張り裂けんばかりの心が悲鳴をあげて、握りつぶされてしまいそうでした。

「……先生は覚えていないでしょうけど、僕、一度ミシェル様に間違われて、酒場で殴られそうになったことがあるんです」
「――――!」
「それからずっとミシェルという人がどういう人か気になってたまらなかった。羨ましかった。だってエオゼン先生が唯一執着していたのはその人だと分かってしまったから!」
「ハイネス」
「それが世界一のヴァイオリニスト? 僕は知って益々妬みました。だってあんな憎むくらいあの人の演奏を――音を認めていたんですよね? 国追われても、なお、口にするくらいあの人の名前に縛られていたんですよね? 僕なんか鼻で笑われる程度の人間からすればそんなミシェル様が羨ましかった!」
「違う――俺は彼を!」
「知っています!」

僕はひと際大きな声で諌めました。
その余裕がない姿にエオゼン先生は驚いたのか、口を噤んでしまいます。

「……全部、知っているんです……」

エオゼン先生がアルドメリアでどんな恐ろしいことをしてきたのか。
どんな人間だったのか。

「……ひっぅ、それでも……僕は、ミシェル様が羨ましかった……」

胸ぐらを掴んでいた手が震えました。
せっかく止めていた涙がぽたぽたと落ちていきます。
嘲笑うように二人の頭上では粉雪が舞いました。

「ふ…っぅ、ひ……恋をすることが、こんな苦しいなんて……」

僕は知りませんでした。
恋い焦がれる。
人を愛する。
幸せな感情だけだと憧れていたのに、実情は、同じくらい辛くて、同じくらい苦しいことなんですね。
(仕方がないんだ。僕が好きになった人は、理不尽な人だから……)
僕の心は届かない。
音も、想いも、この雪の中で消えていくささいなものなのです。

「馬鹿か」

その時でした。
僕の背中に大きな腕が回ったのです。

「ミシェルにどれほど酷いことをしたか、俺が一番よく知っているんだよ」
「……せ、せんせ……?」
「それをミシェルが羨ましいだ? ずいぶんめでたい頭をしているんだな」

僕がいきなりの状況に反応も出来ず立ち尽くしていると、ぐっと力をこめて抱き寄せられました。
そのせいで前のめりになると、彼に身を預けるような格好になってしまいます。

「そんなこと、あいつの前では言うなよ」
「い、言いません。僕だって自分がとんでもないことを口にしている自覚はあるんです」

当事者にとってはどれほど辛い出来事だったか。
ミシェル様のことを思えば口が裂けても言えないことなんです。
そのうろたえが面白かったのか、エオゼン先生はわざと耳元で囁きました。

「そんなに俺に虐められたいのか?」
「……っ……」

僕はそれまでの冷えた体など忘れて火照りが抑えられなくなります。
だって先生の声が、口調が、僕にいやらしいことをしている時みたいなのです。
こんな風に囁かれたら腰砕けにされてしまいます。
先生は僕の蚊に刺されたように赤い耳に口づけました。

「なら、たっぷり虐めてやろうか?」
「遠慮しておきます」
「あぁ? さっきと話が違うじゃねーか」
「だってその目はただ面白がっているだけじゃないですか」

僕は真剣だったんです。
からかわれていることに気付くと、僕は抗うように胸元から離れようとしました。
ドキドキしたのを返して欲しいです。
本当に、本当に…………。

「ハイネス」

すると、ぐっと手首を掴まれました。
片方には楽器を持っていたし、振り払おうと咄嗟に肘を引いたタイミングだったんですけど、引き寄せられて口付けられたのです。
それも一瞬。
いつもみたいに性欲を煽るような激しいキスじゃなくて、触れているのかも曖昧なくらい繊細なキスでした。
それに驚いて固まっていると先生の手が離れます。
その代わり僕の両肩を掴まれました。
がっちりと強い手は痛いくらいで身じろぎすら出来ません。

「好きだ」

エオゼン先生は怖いくらい真剣な表情をしていました。
色々な表情を見てきた僕でも、こんな真面目な顔は初めてです。
茶化すことも出来ないくらい切羽詰まった先生に、僕は魅入っていました。
凛とした瞳は新緑を詰め込んだような青さをしています。

「好きだ。くそ…っ、お前が好きなんだ」
「せ、せんせ……っ」
「こんな青臭いこと、死ぬまで言わないつもりだったのに、どうしてお前はいつも俺を掻き乱す?」
「っ」
「本当の俺はこんなことを言う男じゃねーんだ。……こんなっ…くそガキに惚れて、あげく振り回されてるなんて格好悪くて反吐が出る……」

彼は自分の髪を荒々しく掻き乱しました。
ぼさぼさになった毛先が跳ねています。

「それでも」

エオゼン先生は諦観したかのように、眉間の皺を解きました。

「……ハイネスに惚れているんだ……」
「…っぅ……」
「心から愛している。人を妬み続けた俺が――冷酷だと恐れられた俺が……お前に対してだけは優しくしたいなんて、辛がる顔を見たくないなんて青二才みたいなことを思った」

なんて声で呟くのでしょうか。
僕の胸は鷲掴みにされたような衝撃が走りました。
言葉で愛されていることを覚るんじゃありません。
声で愛されていることを知るんです。

「食い扶持のためだけに始めたこの仕事だってどうでも良かった。お前らには悪いが興味なかった。だがな……次第に変わっていった。いつの間にかお前の喜ぶ顔が見たくて指揮棒を振るっていた」
「そんな…先生が、ぼ、僕を……」
「いいから黙って訊け。こんな恥ずかしい話、二度としねーぞ」

エオゼン先生の耳が赤くなっていました。
噛み締めた口元は照れている証なのでしょうか。
その表情に僕の胸は高鳴っていきます。

「ハイネスにならすべてを捧げても惜しくないと思った」
「…………………」
「俺の演奏家としての技術もキャリアも使えるなら何でもやってやろうと思った」
「エオゼ……」
「だが、ここへ来てようやく気付いた。与えようとしていたものは、すべて与えられていたんだ」
「……え……?」
「忘れていた音楽への情熱、演奏家としての誇り――俺だって昔は誠実に音楽と向き合っていた。誰よりも練習し、誰よりも楽器について理解していた。――いつからか若い芽に脅かされ、焦り、落ちていくまでは、胸を張って演奏していた。ハイネスと出会って忘れかけていたそういう感情が蘇ってきた。大切な気持ち――音楽を楽しむ喜びを、お前や子どもたちに教わっていたんだ。――指導者のこの俺が、な」

最後に皮肉を混ぜるのがエオゼン先生らしいですが、体の内側から火が灯ったような温かな眼差しで微笑む彼は、僕を優しく抱きしめてくれました。

「今なら自信を持って舞台に立てる。誇り高き音楽家としてな」

その言葉に僕は涙を止められなくなって、先生に抱きつくとわんわん泣き続けました。
彼は「勘弁してくれ」とうんざりしていましたが、僕の涙が涸れることはありませんでした。
その時、僕は彼の中で目覚めた純粋な音楽への愛情を見たのです。
エオゼン先生の人生を顧みた時、とても悲しい気持ちになってしまいます。
彼は真面目すぎたのです。
故に気を抜くことが出来なかった。
人を傷つけることでしか己を守れなかった。
次第に何を守っているのかすら分からなくなったでしょう。
それは寂しいことです。
猜疑心だけを募らせて、鬱積を溜め、己の欲望に忠実となる。
でもそれはまだ人生の途中なのです。

「悔しいが認めてやるよ。俺はハイネスによって変われたんだ」

どんなに回り道をしても、例え途中で逸れてしまっても、その結果、道を見失ってしまうことになっても、いつか必ず拓けるものなのです。
きっと拓けた場所へ出られる。
その歩んできた軌跡こそが己の道なのです。

僕らがホールへ戻ってくると、まだ子どもたちは練習していました。
聴こえてくる合奏を、耳を澄まして聴いていたエオゼン先生の横顔は、とても同じ人とは思えないほど穏やかでした。
そうして扉を開けると、演奏がぴたりと止まります。
全員がこちらへ振り返りました。

「先生、遅い! 明日は本番なんだぞ。まだ曖昧なところがあるのにどうするんだ!」

腕を組んだオリバーが頬を膨らませました。
他の子たちからも不満の声が相次ぎました。
それはエオゼン先生を慕っているからこその言葉でした。

「ああ、悪かった」

エオゼン先生は柔和な表情で笑うと、足取り軽く僕の前を歩いていきました。
そうして指揮台に立つと楽譜を広げます。
僕も自分の席へ戻りました。
しかしみんなはぎょっとしたまま固まっています。
まるでメドゥーサによって石に変えられた人々みたいでした。
でもしょうがないでしょう?
エオゼン先生が謝ったところなんて初めて見たのですから。

***

クリスマス演奏会の当日がやってきました。
厚い雲で覆われた町は、すぐにでも雪が降ってきそうでした。
劇場には町の人や招待された貴族たちで溢れていました。
二階席の中央には王様が座っています。
僕らはようやく迎えた当日に、ギリギリまで指使いの練習をしていました。
全員が同じ燕尾服を着ています。
舞台袖から地下へと階段が続き、その奥には楽屋として使われる小部屋がいくつかありました。
僕らは出番までそこで待機です。
今日は他にもいくつか演目がありました。
大道芸からカンタータまで王様の好きなものを詰め込んだプログラムでした。

「な、そういえば先生は……?」

賑やかな楽屋でオリバーと喋っていた時、ふと彼が気付きました。
そういえば先生の姿がありません。
夕暮れ前に楽屋入りした時は、いつものもじゃもじゃ頭にひげは剃らず酷い格好で、責任者から小言を言われていました。
あの人は緊張感の欠片もなくて、昨晩の酒が残っているらしく、気持ち悪いと水をもらっていました。
どこまでも駄目人間です。
こんな人間に認められたいとミシェル様のような一流の音楽家がやってくるのだからおかしな話だとため息を吐きました。

「ちょっと探してくる」
「あれ? でも、もうそろそろ俺らの出番じゃない? どうせ本番には来るだろうし待ってたら?」

オリバーはそう言いますが、僕はなんだかんだ言ってエオゼン先生がいないと落ち着かないみたいで、

「ううん。ちょっとそこら辺見てくるから」

と、立ち上がって楽屋を出て行きました。
他の楽屋を見て回りますが、やはり先生の姿はありません。
僕は地下から上がると、舞台袖を通ってロビーに出ました。
百年前に建てられた劇場は三階建てで、普段はオペラやバレエの上演をしています。
ロビーは吹き抜けになっていて、衛兵が立っているほかは誰もいませんでした。
みんな今やっている演目に夢中なようで、僕の足音だけが響き渡ります。
そうしてぐるっと端から端まで向かおうとしていたところで、僕は足を止めました。
視線の先にはミシェル様と、僕のほうに背を向けたエオゼン先生がいたのです。
なんとなく不穏な空気を感じ取った僕は、また喧嘩になるんじゃないかと気持ちが先走って飛び出してしまいました。

「ふ、二人とも……落ち着いて!」

そうして彼らの間に入りますが、二人はいきなり割って入ってきた僕に目を見開いていました。
どうやら僕はお邪魔虫だったみたいです。
その奥でくっくと笑いをこらえているクラリオン大佐を見つけると、益々いたたまれなくなりました。

「落ち着くのはお前だ。バカめ」
「ご、ごご、ごめんなさい!」

僕はエオゼン先生からげんこつを食らって涙目に謝りました。
しかしそんなことを言っている場合ではありません。

「ど、どうしたんですか、先生!」

なんと、見上げた先にいた先生は、きっちり髪を整え、伸びていた無精ひげが綺麗さっぱり剃られているではありませんか。
燕尾服に着替えたせいか普段より若く凛々しく見えて驚いてしまいます。

「アホ。舞台に上がるんだぞ。失礼のないよう身を清めるのは当然だろう」
「え……? ああ、王様も見に来てますもんね。エオゼン先生も案外気にされる――」
「馬鹿か」

すると先生は、今度は僕の額にデコピンをしました。
ゲンコツにデコピンと散々です。
僕は痛みに悶絶し、うずくまります。
だけどその時の先生はなぜか上機嫌で文句を言えませんでした。

「失礼なのは、音楽に対してだ」

その背筋が伸び、胸を張った姿は威風堂堂という言葉がしっくりきました。
そう。
何もかも吹っ切ったように清々しい目元は、まっすぐ前を見ています。
酒場の隅で猫背にちびちび酒を煽っていた姿とは似ても似つかない姿です。
どこにそんな威厳と気品を隠していたのでしょうか。
今のエオゼン先生はどう見ても貴族のような出で立ちでした。
僕がちらっとミシェル様を見ると、その視線に気付いた彼がふんわりと微笑みます。

「さて、そろそろ時間だろう」

するとエオゼン先生が襟を正しながら振り返りました。
(まだ、話があるんじゃ)
邪魔してしまった手前、申し訳なくておろおろしていると、先生が手を引いてくれました。

「ミシェル、その耳でよく聴くといい」

彼は晴れやかな表情でミシェル様へ振り向くと、

「これが俺の本気だ。今出来る最高の演奏を聴かせてやる」

自信たっぷりに言い切った先生は、誰よりも楽しんでいるようでした。

***

そうして僕らの出番となりました。
僕の席は、舞台から向かって左側の一番前。
演奏者が先に席に付き、僕の合図でチューニングを済ませると、ようやく指揮者であるエオゼン先生が現れます。
彼は満場の拍手のもと、指揮台へ立ちました。
アルドメリア時代を知っている者たちは熱狂します。
しかしそれもすぐに止みました。
観客たちの視線は、僕ら子ども音楽団へ降り注ぎます。
かつてない緊張で、唾を飲み込むのも一苦労でした。
大きな舞台に照らされる光、波を打ったあとのように静まり返る客席。
怖いくらいの不安が次から次へと押し寄せるようで、僕は己の筋肉が凝り固まっていくのを感じました。
息も詰まる緊張とはこのことでしょう。
自分が自分ではないような不思議な感覚に支配されます。
それはみんな同じでした。
僕らは昨年の大失態を味わっています。
今度こそという気持ちで歯を食いしばって練習してきました。
いわば、失敗は許されないのです。
そう思うと余計に緊張して体が震えました。
全員がエオゼン先生に縋るように見上げます。
その頼りない視線を一身に受け止めた彼は、声に出さず、口をぱくぱく動かすと、

「俺だけを見てろ」

偉そうにふんぞり返ります。
それは普段のエオゼン先生でした。
彼はこんな大舞台でも緊張していないのでしょうか。
いいえ、違います。
僕たちのためにあえて普段通りの横暴な態度を見せてくれるのです。
そうです。
僕らはエオゼン先生だけを見ていればいいのです。
ほかに気を取られる必要はありません。
恐れなくていいのです。
彼が、厳しく僕らを演奏家に仕上げてくれた。
その耳を信じればいいのです。
エオゼン先生は、ひとりひとりの顔を見るように眺めます。
僕たちを落ち着かせるように、時に頷いて見せたり、時に、くしゃっと顔を崩したりします。
そうすると、緊張で固まっていた子どもたちも、自分を取り戻しました。
僕だってそうです。
目が合った瞬間、彼は、これ以上にないくらい優しい顔をしてくれました。
それが作り物か本物か分かりませんが、見ているだけで全ての不安から守られるような幸せな表情でした。
(こんな時に、卑怯です)
気が緩んでしまう。
今すぐ抱きつきたくなるようなずるい顔でした。
強ばっていた肉が解れていきます。
あとに残ったのは適度な緊張感と集中力。
頭の中が澄み渡っていくようでした。
エオゼン先生はタクトを挙げます。
僕らはそれを合図に楽器を構えます。
構えた時には、それぞれ指揮者と演奏者の顔をしていました。
彼がその白く細い棒をゆっくり振り落とします。
そのタイミングで、管楽器の甲高く華やかな音が劇場へ放たれるのでした。

演奏中のエオゼン先生は体をめいっぱいに使って指揮をしていました。
真冬だというのに、汗を散らしながらタクトを振るいます。
ひとたび演奏が始まると、僕らはエオゼン先生しか目に入らなくなりました。
激しい時は、大げさなくらい手を振り回して、繊細な音の時は、極力小さな動きで柔らかく。
彼はその体ひとつで曲を支配していました。
ミシェル様が仰っていたことが今は手に取るように分かるのです。
舞台上における指揮者の頼もしいこと。
エオゼン先生は僕らをどこまでもぐいぐい引っ張っていきます。
でもそれは練習で築き上げた信頼がそうさせるのです。
楽譜から曲の意味を読み取り、演奏者に伝えるというのは難しい作業です。
僕はそれまで指揮者なんて誰がやっても同じだと思っていました。
だって舞台で棒を振り回すだけの仕事でしょう。
楽譜があれば僕らは演奏出来る。
ずっとそう思い込んでいたんです。
でもエオゼン先生と練習を重ねるごとに、それが違うと気付きました。
記号ひとつにおいてもどう音を出すのかは指揮者次第ですし、同じヴァイオリンでも楽譜の理解は異なります。
そういうのを全部まとめてひとつの音楽にするのが指揮者の仕事なのです。
僕はこの時間が少しでも長く続けば良いのにと思いました。
普段の無頓着な彼からは想像出来ないほど情熱的な指揮に魅入っていました。
惹きこまれるようです。
それどころか血が沸騰して燃えるようです。
僕らの感情を激しく揺さぶる、盛り上げてくれるのです。
エオゼン先生は一流の演奏家でしたが、指揮者としても素晴らしい能力を持っていました。
正確に聞き分ける耳を彼は持っているのです。
だから僕たちはエオゼン先生を信じて彼に身を委ねればいいのです。
彼の求める音楽に従えばいいのです。
この高揚感は、言葉に出来ませんでした。
どんな言葉を用いても表現出来ないくらい、幸せなひと時でした。
僕だけでなく、たぶん全員が同じことを考えていました。
僕らは音楽を通じて悦びを共有していたのでした。
恍惚と揺るぎない音の嵐の中で、僕はエオゼン先生の音を聴いた気がしました。

***

演奏が終わると、瞬く間に大歓声があがりました。
音が割れるような激しい拍手と人々の賞賛が劇場中から降ってきました。
全員が総立ちとなって僕らの演奏を誉め称えてくれたのです。
エオゼン先生は、曲が終わるころには整えられていた髪も乱れ、額からは汗が流れていました。
荒く肩で息をした彼は、それでも満足感で冴え冴えとした表情をしていました。
エオゼン先生は観客のほうに振り向くと礼をします。
僕は醒めない興奮で心臓をばくばくさせていました。
手に持っていたヴァイオリンはいまだに震えています。
みんなも頬を赤く染めて熱気が冷め上がらない様子でした。
すると、さらに拍手が厚くなります。
世界一のヴァイオリニストと称されるミシェル様が花束を持って壇上にあがったのです。
場内の興奮は最高潮にまで上がりました。

「しかとエオゼン様の生きた音を聴かせていただきました」

花束を先生に渡す直前、ミシェル様は深く頷いて呟きました。
二人は見つめ合うと、互いに笑みを漏らします。
長年の確執が消えた瞬間でした。

「今まで……すまなかったな」
「エオゼン様……?」
「ずっとお前の音に憧れていた。妬ましいくらいに羨ましかったんだよ」
「――――っ!」

エオゼン先生の言葉にミシェル様は瞳を潤ませて精一杯の笑顔を見せます。
その一言がどれだけ嬉しかったか、想像するに難くありません。
同時に、それはエオゼン先生の凍っていた心が溶けた証でもありました。
一番前にいた僕は、歓声の中で訊いたその言葉を噛み締めるように胸の奥へ落としました。

***

こうして波乱だらけのクリスマス演奏会は幕を閉じたのでした。
王様は子ども音楽団の演奏が昨年と比べて格段と完成度が上がっていたことに驚き、担当の貴族とエオゼン先生に褒美をくれました。
それだけではありません。
僕らにも金一封をくださったのです。
それほどの評判だったそうで、クリスマスの演奏会は毎年恒例の行事となりました。
子ども音楽団はその後、名前を変えながらも何百年と続き、最古の子ども演奏集団として歴史に名を残すことになります。
でもそれは何百年も先のこと。
今の僕たちは、長閑な町で、音楽を楽しみながら生きているだけなんです。

「ほら、頭からもう一度やるぞ」

僕が見上げた先にはいつもあなたがいる。
あなたがタクトを振り上げる。
誰よりも音楽を愛し続けたエオゼン先生が――――。

END