12

***

そのころ、クラリオンは城の中で見回りをしていた。
祭のために帰省したのだが、昨日あんなことがあっては城の警備を厳重にするほかなく、また真面目な彼は自ら休日返上を願い出た。
もう故郷の町が騒ぎに巻き込まれるのは厭だった。
城内は静かで祭などやっていないかのような静寂を保っている。
長い廊下には自分の足音だけが不気味に響いた。
ところどころに立つ警備兵に異常がないかを訊いて回りながら、ぼんやりミシェルのことを考えてしまう。
昨夜、最後に会話を交わした時、大人しく身を引いたミシェルは仮面舞踏会の時に見た顔をしていた。
いわゆる作られた顔である。
彼はその生まれによって一人前の紳士になるべく躾けられたはずだ。
そこにある苦労は、靴屋の息子として生まれ、叩き上げで大佐にまでのし上がった自分には分からない。
だが、聞き分けの良いあの顔が脳裏を掠めて消えてくれなかった。
家の話をしようとするたびに、彼は「関係ない」と嫌がっていたのに、最後にはちゃんと状況を理解して従ってくれた。
そうさせたのは自分なのに、胸の痛みが引かない。
しかしそうせざるを得なかった。
彼をあのまま実家に置いておくことは出来なかった。
平民と貴族の間には決して越えられない壁がある。
しかもそれが侯爵家ともなればなおさらだ。
アルバトロス家は下位の貴族すら声をかけられない名家である。
しかも現在のマヌエル侯爵は中々頭の切れる男で、隣国の宰相として評判も良い。
その息子であるミシェルと、同盟国とはいえ他国の軍人ごときが一緒にいるなんて決してあってはならないことだ。
ミシェルは頑なに否定しているが、彼にもちゃんと同じ血が流れている。
昨日城へ来た時のミシェルは、もうどこへ出てもおかしくない貴族だった。
あの堂々たる素振り、他の貴族を蹴散らす威厳、そういう度胸は幼少から鍛えられなくては身に付かないものだ。
(はぁ……くそっ)
クラリオンは丸めた拳で城の壁を突いた。
頭では身分の違いを理解しているのに、心がついてこない。
感情を殺す訓練は嫌になるほどした。
人を殺すことだって最初は怖くてたまらなかったが、戦場に一週間もいれば慣れて血も肉片も気にならなくなる。
慣れ。
どんな感情だって一時的な盛り上がりはあれど、いつの間にか落ち着いて平常と変わらなくなる。
心なんてどうとでも理由をつければ納得させられる。
ずっとそう思ってきたのに、どうして今になって掻き乱れてしまうのだろう。
(触れたいなんて、馬鹿か、俺は)
本当はミシェルを城へ移したのは侯爵家の息子だからというだけではなかった。
ただ自分の理性に歯止めが利かなくなりそうで怖かったのだ。
ミシェルは育ちが良いのだろう。
何事にも素直な反応を見せる。
無邪気で無防備で、時に子どものように無垢な眼差しを向けてくる。
彼がいると家庭が一段と賑やかになった。
アロイスとエルザはいつの間にか自分より懐いているし、ドリスもたいそう可愛がっている。
普段は頑固一徹、無口な親父も、ミシェルの姿が見えないと「どこ行った?」と、訊いてくる。
そのたびにクラリオンは、「俺だって探しているんだ」という言葉を喉の奥に押し込んだ。
いつの間にかするりと入りこんだミシェルの存在が家族にとっても自分にとっても特別になっていた。
(知らなければ良かった。こんな気持ち)
知らないまま見過ごしていたら切ないという感情がどれほど厄介で面倒だと気付かなかった。
引っ張られるな。
惑わされるな。
何度もそうやって窘めたのに、加速していく気持ちに歯止めは効かなくて、ずるずると堕ちていくほかなかった。

「クラリオン大佐……?」

するとその時、二人組の兵士がやってきた。
城門から交代してきたらしく彼らから報告を受ける。

「いや~しかし、凄いですよ。今」
「何がだ」

兵士のひとりは恍惚とした表情を浮かべた。
その腑抜けた態度に、クラリオンは厳しい目を向ける。

「祭が盛り上がらなくてもうやめようかって時に、男が舞台に上がってきたんですよ。ヴァイオリンひとつ持って」
「ありゃびっくりしたよな。冷やかすような野次を浴びせられて、俺たちも可哀想にって見守っていたんですけど、音を出した瞬間、ぞぞぞって体が震えたんです」
「どういうことだ?」
「潮が一瞬にして引いた感じといいますか。とにかく凄かったんですよ。その場にいた全員が固まってしまって演奏に聞き入っていたんです」
「昨日の件でむしゃくしゃしてるせいか、背を向けて騒いでいる野郎もいたんですけど、その男の演奏が始まった途端、背を向けるどころか前のめりになって聴いているんだから驚きですよ」

二人は互いにその凄さを言葉にしてみるが、語呂のなさで上手く伝わらなかった。
それがもどかしいようで、

「とにかく聴けば分かりますよ!大佐、ちょっと聴いてきてくださいよ」
「何を言っている。職務中だぞ。そんなこと出来るか」

大佐は頑なに首を振るが、

「もうこんな機会ないんですよ」
「そうそう。だってその舞台に立っている男って、昨日城で捕まったアルバトロス家のご子息様なんですから」
「なに?」

兵士の言葉にクラリオンは目を見開いた。
(まさかミシェルが)
確かに彼は音楽院でヴァイオリンを学んでいた。
アルドメリアの音楽院は世界最高の音楽家を養成する機関だ。
入学するのも困難だというところへ通っていたミシェルは相当腕が良いのだろう。
クラリオンは早くから兵士の養成所に入所していたため、ほかのことに疎かった。
当然音楽の素晴らしさなんて知らなかったし興味もなかった。
オペラもオーケストラも自分の世界には関係ないものとしか映っていなかったからだ。
しかし昨夜ミシェルとエマルドの話を耳に挟んだ時から気になりはしていた。
ミシェルは誰もが学びたい音楽院を辞めているという。
帰省前に王都で会った時の彼は、冗談ではなくそのまま消えてしまいそうだった。
(何か関係しているのだろうか)
その影にエオゼンがいるという話である。
高名なヴァイオリニストと音楽院の生徒の間に何があったというのか。
だけどミシェルからは聞き出せなかった。
無理やり聞き出すのは道義に反していると思ったからだ。
(君はどういう子なんだ)
ずっと一緒にいたのに、彼のことを何も知らない。
訊くことが怖かった。
そうして逃げていた。
何が大佐だ。
軍服には数々の勲章が飾られているというのに、何を恐れているというのか。
呆れる。
輝かしい栄光すら霞んで見えた。
敵国からは鬼神やら鬼畜やら恐れられ、自国では英雄として賞賛されている男が、たったひとりの青年に恐れを抱いている。
(これが恋だというのか……)
ありえない。
信じたくない。
だけど心は惹かれて焦がれてもう戻れないところへまで来ている。

「すまないが、あとは頼む」

クラリオンは二人の兵士に向かって敬礼すると、彼らが来たほうへ駆け出した。

***

「ミシェル――!」

大佐の声が大通りに木霊したのは、僕の二曲目の演奏が終わって拍手が起こったすぐあとだった。
僕はその声に振り返る。
――と、血相を変えたクラリオン大佐が城から出てきたところだった。
彼が何か言いたげにしているところ、僕が先に口を開く。
勇気が残っているうちに伝えたかったからだ。

「次の曲が最後です。この曲はクラリオン大佐と――この町の全ての人に捧げます」

僕は敬慕の表情に満面を輝かせながら楽器を構えると弓を引いて音を奏でる。
讃美歌「主よ深きふちの底より」だった。
これはヤマトの伴奏をした曲だった。
彼の声変わりがまだの柔らかいボーイソプラノがいまだに耳に残っている。
あの時は本当に楽しかった。
まさかアルドメリア城の庭で演奏するとは思わなくて、緊張しっぱなしだったけれど、ヤマトの歌声を聴いた途端に魅了されて、あとはもう余計なことなど気にならなくなった。
伸びやかな声に合わせる。
まるで声と音が共鳴するような響きに、時間も忘れて酔いしれた。
あの瞬間、僕は久しぶりに音楽に触れていた。
迷いそうになっていた僕をヤマトは唄で救ってくれたのだ。
(だから今度は僕の演奏でみんなの心を救ってあげたい)
音を奏でることに集中力の高まりを感じると、雑念が頭から消えていった。
細かく柔軟な指使いと滑らかな運弓。
ひとつひとつの音符がより正確に表現される。
ヴァイオリンは音程の境が曖昧で、僅かな指使いや角度によって音が濁る。
故に巧緻を極めた技術によって紡ぎだされる音色は妙技とも呼ぶべきで、見事に曲の愛惜と情感を表現していた。
滑らかに動く指で自在に移絃していくさまは圧巻である。
紺碧の空に溶けるように響くヴァイオリンの音色に、住民たちは恍惚と浸った。
その清らかな音が沁み入るように町に響き渡っていく。
誰もが手を止めて演奏を聴いていた。
すると、そのうちのひとりが囁くように歌いだした。
それが波紋のように広がり、ほかの人にも移ると、その声が大きくなる。
次第に声に厚みが生まれる。
男も女も、子どもも老人も顔を見合わせると口ずさみ始める。
いつの間にかそこに集まる人々の合唱となっていた。
その声につられて、もう帰宅していた人たちが顔を出すと、再び大通りに集まりだす。
そしてその人たちがまた歌い始めると、声の幅はさらに広がっていった。
その中には大佐の家族も、バルコニーで見ていたクラウス様やエマルド様もいた。
音楽って不思議なんだ。
生きる上では全く必要ないもので、いまだに演奏会なんてない国もある。
音楽家の地位は低いし、せっかくオーケストラを招いても聴いていない貴族もいる。
だけどその音に反応せずにはいらないんだ。
流れるような旋律に身を任せて浸っていたい。
楽しい時も悲しい時も傍にあってほしいものなんだ。
あの日、手のひらから零れていった音楽が、今、形を変えて僕の目の前に現れる。
さっきまでいがみ合っていた人たちが、けだるそうに薄ら目で見ていた人たちが、居心地悪そうに周囲を見ていた人たちが、楽しげに歌っている。
町は曲を通じてひとつになった。
それこそが音楽の力なんだ。
脳裏に蘇るのは、子どものころ兄さんたちと合奏をした時のこと。
そのころはまだ四人とも楽器の習い事をしていて、父さんが王都から帰ってくると、よく広間で練習の成果を聴かせた。
ただただ楽しかった。
あの時の僕は楽しいという感情だけで音を奏でていた。
(……今の僕にあのころの演奏は出来ない)
誰よりも無垢で誠実に音楽と向き合っていた。
その清い僕はもうどこにもいない。
ヤマトが褒めてくれたような演奏なんて出来ないし、地位や名誉なんていらない、お金なんかいらないとは口が裂けても言えない。
居候をしている身で、これからの長い人生、自らの手で生きなくてはならない。
音楽家として身を立てるには厳しい現実が待ち受けているのだ。
不安ばかりがよぎる。
だが、その代わり今だからこそ出来る音楽もある。
色を重ねるように、胸が張り裂けそうなくらい痛かったこと、苛立ちと焦りに翻弄されてギリギリと歯軋りをしていたこと、己の弱さに目を背けて臆病になっていたことを音で表現したい。
ありのまま、なすがままを怖れず音に乗せる。
ずっと美しい音色を理想としていた。
だから打ちのめされ、薄汚れた僕にはもうヴァイオリンなんて弾けないと思った。
醜い己が発する音は汚れていると思ったからだ。
だけどもういい。
そんな表層だけの音は捨てる。
あるがままを享受する。
喜びも悲しみも、音楽に対する執着すら掬い上げて己の糧にする。
大胆に、繊細で、鋭く、柔らかく。
それが僕だ。
僕の奏でる音なんだ。
(気持ちいい)
冷ややかな早春の夜に汗が滲んだ。
魂に呼応するよう放たれた音が、辺り一帯に響き渡る。
覚醒する。
まるで蛹から羽化するように、自分の中に眠っていた音楽の血が目覚めていくのを感じた。

「ミシェル……」

背後で聴いていたクラリオン大佐は、のちにこの時の演奏をこう評した。
狂気と歓喜に心が打ち震えた――、と。
それほど鬼気迫る演奏だった。
僕ひとりで町中の人間の歌声を相手にしていたのに音負けしていなかった。
誰もがこの時の演奏を忘れなかった。
僕の夢だった人の心に残る演奏が出来た。
しかしまだ足りなかった。
一旦音楽から離れていたせいか、急き立てられるほどの飢えを感じていた。
理想の音はまだ遥か彼方にある。
今の自分は足元にも及ばない。
この渇望を満たすのは、その音を奏でられるようになってからだ。
(それでもこれが最初の一歩)
鬼火のようにメラメラと燃え上がる炎が呼応するように激しさを増し、生き物のように揺らぎ蠢く。
シャンデリアのように光り輝く星空の下、継ぎ接ぎだらけの舞台でその音色を響かせる。
これから長い音楽家としての人生が始まるわけだが、あまりに鮮烈な初舞台だった。

「うわあああああああああ」

そうして僕の演奏は終わった。
人々は総立ちで割れんばかりの拍手をしてくれた。
それがアバンタイの町に心地良く響き渡る。
僕はいつまでも鳴り止まない拍手の中でお辞儀をした。
思いも寄らない大歓声が僕を包む。
無名の僕にはもったいない声だった。
(ああ、ヴァイオリンをやっていて良かった)
顔をあげた時に見えた人たちはみな晴れやかな顔をしていた。
それまでのギスギスした雰囲気は消えて、同じ感動を共有していた。
味わったことのない幸福を体中で噛み締める。
そして思った。
どんなことがあっても音楽の道で生きて行こう。
迷いから吹っ切れたような気がした。
僕はようやく大切なものを掴んだんだ。

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