9

四階はガランとしていて何もなかった。
どの部屋も家具ひとつ置いていない。
三階までなら廊下に絵画や像、花が置かれていたのに対してここには何もない。
剥き出しになった城の内装が寒々しくて無機質だった。
外は相変わらずの突風でガラスが激しく鳴っている。
人気がないことも相まって下の階より広く感じた。
まるでこの階だけ違う生き物が生活をしていたような違和感が胸を突く。
何よりここだけ時が止まっている気がした。
絨毯がひかれていないせいかやけに足音が響く。
荒廃しきった雰囲気はどこか危険な匂いをチラつかせ僕らを呑み込もうとしていた。
だがここまで来たらどうとも思わない。
シリウス様は一切喋らなかった。
お互いの存在は握られた手でしか表せない。
彼は僕のランプを持って廊下を進んだ。
蠢く闇を光で一蹴させながら前へと進む。
廊下にランプが灯されていないせいで真っ暗であった。
今日は月明かりのお蔭で完全な闇ではないがその光も慰め程度である。
これが完全に雲で隠れてしまったら何も見えなくなるだろう。
たとえ隣に人が居ても気付かない。
たとえ隣の人が獣に成り下がっていても気付かない……。

するとシリウス様はある部屋の前で止まった。
そして持っていた鍵でその扉を開ける。
(鍵なんて付いていたのか)
それは始めから取り付けられていたのか、それとも“ある事情”により途中から付けられてしまったのか。
判断出来ない程鍵は古くて傷んでいた。
だがその割に扉は軽く、あっさりと開いてしまう。

「ここは……」

ずいぶん広い寝室であった。
ベッド以外家具が置いていないせいで余計に広く感じるのかもしれない。
しかもそのせいでひとつだけあるベッドに違和感を覚えた。
寝室にベッドがあるのは何もおかしいことではないというのに。
僕とシリウス様は部屋の中央、ベッドの側までやってきた。
どうやらこの部屋はしばらく使われていなかったのか埃が被っている。
ベッドも埃っぽくてもう何年と掃除していないことが分かった。
そうして僕が忙しなく辺りを窺っているとベッドの側に広がる床の染みに気付く。
おかしいな、と思いながらじっと見つめるとそれが人の血である事に気付いてしまった。
ずいぶん時が経ったせいか黒く変色した染みがおびただしい跡を残している。
人の血にしては量が尋常じゃないが一人ではないとすれば答えは簡単に見つかる。
(まさか、これは……)
無意識に息を呑んだ。
チラッと振り返ればシリウス様が静かに頷く。
まるで僕の考えていることを肯定するような素振りであった。

「私はここで何人もの人を殺した」
「…………」
「何の罪もない人を殺した」

すると雲によって遮断された月光は室内に暗闇をもたらす。
シリウス様の持っていたランプだけが煌々と揺れていた。
風の勢いは凄まじく枯れ枝を揺らし森を荒らしている。

「覚えているのは恐怖しかない。気が付いたらいつの間にか目の前の女がバラバラに切り刻まれていた。無残な死体として転がっていた」
「……っ……」
「だから自分が怖かった。相手に対して恐れを抱いていたのに気付いたら自分自身も恐怖の対象になっていたのだ」

彼は普段からは考えられないほど饒舌になっていた。
まるで捲くし立てるように次から次へと喋り続けた。
ふと気付けばシリウス様の手が震えている。
彼は自分でもそれを抑えようと力の限り僕の手を握り締めた。
それこそ僕の掌を砕いてしまいそうなほど強い力であった。
だけど僕は痛みを顔に出さずに握り返す。
そうして彼の気持ちを和らげようと思った。

「……馬鹿馬鹿しい」

するとその気持ちが伝わったのか力は治まった。
冷静さを取り戻したのかそういって自らの昂ぶりを一蹴する。

「私の過去は聞いたな?」
「はい」

僕は素直に返事をした。
又聞きになってしまったのは申し訳ないがあの時のシリウス様からは到底話を聞ける状態ではなかった。

「私は甘かったのだと思う」
「甘い?」
「争うにはそれ相応の覚悟が必要だ。何が起こっても不思議ではないのに当時の私は馬鹿みたいに楽観視していた」
「…………」
「無知な甘ちゃんほど手に負えないものはない。何せ自分の恋人の異変にすら気付けなかったのだから。傲慢とはよくいったものだ」

すると渇いた笑い声が部屋に木霊する。
そんな彼の笑みは見たくないのにシリウス様は自分を笑い続けた。

「そのくせ生き恥を晒して自分の受けた恐怖を他人に与えている。どれほどここで散った命が無念であったか……」

彼はそれ以上言葉に出来ずに口を噤んだ。
その間に月は明るさを取り戻し、この部屋を柔らかい光で照らす。
再び露になった室内は無残な血痕だけを映し出した。
怨念のように残った跡は見るに耐えられず目を逸らしてしまいそうになる。
きっとこの部屋は当時の事を思い出してしまうから封じられていたのだ。
それでも彼はこの部屋の鍵を自分で持ち続ける。
あんなに傷んでしまう程に。

「……来い」

すると今度は僕を隣の部屋に案内した。
そこはあの部屋に比べると生活感があって普通の寝室である。
タンスやテーブルが置かれているしベッドメイキングもきちんとされていた。
だからすぐに彼がここで寝ていたのだと気付いた。
建物というのは人が住んでいないと簡単に朽ち果ててしまう。
それはこの城も同じで手入れをしている部屋とそうでない部屋では雰囲気そのものが全然違っていた。

「お前もあの者達のようになるかもしれん」

部屋入るとシリウス様は手を離した。
そしてひとり窓際で佇む。
僕は入り口付近で立ち尽くしたまま彼の姿を追っていた。
今のシリウス様は落ち着いていて人を殺めるような気配はない。
だが本人が言うのだからこの先は分からないだろう。
僕にはそれを宥める術がない。
しかしだからといって逃げたいという意識もなかった。

「わかっています」

だから僕は首に掛けていた笛を外す。
(これでもう助けは呼べない)
自分の身を案じてくれたセルジオールには申し訳ないと思ったが仕方がなかった。
今の彼には笛すら恐怖の対象になると思ったからだ。

「実は僕も知っているんです」

そういって自らベストやシャツに手を掛ける。
シリウス様はそんな様子を無表情のままじっと見つめていた。
静かな室内に衣服の擦れる音が響く。
暖炉も何もない部屋は寒くて素肌が粟立った。
頭の先から足の先まで身に着けていたものを外すと生まれたままの状態に戻る。
そして僕は後ろを向いた。

「僕も、理不尽な暴力を知っているんです」

ランプに照らされたのは僕の爛れた背中であった。
無論、自分の背中は見えないからどうなっているか分からないが酷いことになっているのは知っていた。
瞬時に後ろでシリウス様の息を呑む気配が伝わってくる。
そして同時に自分が何者であるかも気付かれてしまった。
本当は知られたくなかったのだがどうしようもない。
醜い傷は隠しようがないからだ。

「……僕が怖いでしょうか?」

何も言ってこないシリウス様に対してそう問うが答えは返ってこない。
それはそうだ。
その事実を知って逃げ出さないものはいない。

「――――ばかもの」

だがシリウス様は違った。
そっと僕の背中に暖かな感触が伝わる。
それは自分の背中から外した彼のマントであった。
シリウス様は後ろから僕の体をマントで包み込む。
だから僕はその気持ちが嬉しくて思わず笑ってしまった。

「これで三度目」

するとその言葉にシリウス様も気付いたのかふんわりと優しく笑う。
(この顔、好き)

「ふむ、学習能力のないやつだ」

しばらくそうして抱き合った後、シリウス様は自分の衣服に手を掛けた。
そして彼が身に着けている武器を取り出した。
肩から掛けていた剣は元よりありとあらゆる場所からナイフやダガーが出てくる。
むしろそんなに隠し持っていたら重くないだろうか、危なくないだろうかと心配してしまう程であった。

「自分が殺されかけた夜から一度たりとも手放したことはなかった」
「だ、旦那様……」
「でも今これを身に着けていたらお前を傷つけてしまうかもしれない」

シリウス様はそういいながらブーツに仕込んでいた小型ナイフを取り出す。
そんなところにまで武器を仕込んでいたのだから凄い。
ここまでくると感心するしかなくて彼が武器を取り出すのを間抜けな顔で見ていた。
だがそう考えるとシリウス様の受けた傷は相当なものであったと容易に想像できる。
セルジオールが一生癒える事がない傷と言っていたがそれも納得出来ると思った。

「で、で、でもっ怖いなら無理なさらず」

いわば心の防具である刃物を外すのは相当神経をすり減らす行為だ。
まだ病み上がりの体でそんな負担を掛けるのは危険だと思う。
しかも僕の正体を知ってしまったのだ。
普通なら余計に警戒してもおかしくない。
犠牲が僕だけで済めばいいがシリウス様自身にまで危害が及んでしまいそうな気がして怖かった。
しかし彼は頑なに拒否して脱いでいく。
その間に露になった体は廃人と化していたにしては鍛えられていて綺麗な体をしていた。
いや、武器を持ち歩くことによって知らず知らず筋肉を使いこの様な状態になったのかもしれない。
当時の傷跡は残り痛々しかったがそれすら魅力に感じるほど絞られたいい体をしていた。

「……っ……」

同性をも憧れる体を前にして貧弱な体を晒している恥ずかしさに気付く。
だから僕は掛けられたマントを羽織ったままモジモジしていた。
さすがシリウス様サイズなのか肩から包んでも床に付いてしまう。

「子供に出来て私に出来ないことはない」
「わっ子供ってもしかして僕のことですか」
「そうだ」
「うー、なんですかそれ」

すっかりいつもの調子に戻ったシリウス様は山盛りになった武器類を持つと部屋から出て行った。
廊下でガチャガチャと音がする。
何やら床にでも置いたのか彼はすぐに戻ってきた。
そしてドアを閉める。

「お前が私に命を預けるのなら私もお前に命を預けよう」
「!」
「これでお互い恨みっこなしだ」

その言い方がシリウス様らしくて思わず吹き出してしまった。
テーブルに置かれたランプの明かりで僕らの影が大きく揺れる。
月夜に似合わない笑い声が室内に木霊していた。
そんな僕の頬に手を這わすと声を遮るように軽く口付ける。
二度目のキスは甘くて胸がドキドキした。
反射的に閉じた瞳と途絶えた笑い声は遠くの空に消えてしまう。
唇を離してお互いの顔を見つめあうと二人とも火照った顔をしていた。
こんな気持ち初めてで上手く説明できない。

「ケイト」
「わわっ」

するとシリウス様はマントごと僕の体を抱き上げた。
お姫様抱っこのように包まれてゆっくりとベッドに向かう。
一歩一歩と響くシリウス様の足音が異様に大きく感じた。
僕の胸は不安と緊張で今にも爆発しそうである。
だが傷つけられる恐怖だけは一滴たりともなかった。
安心して身を任せられる自信もあった。
それはこうして抱き上げる彼の仕草が優しいからである。
シリウス様はベッドまでやってくるとゆっくり下ろしてくれた。
窓際にあるせいか月光を体中に浴びて彼の姿を見つめる。
青白い光はシリウス様の美しい髪と瞳をより輝かせた。
筋張った首筋や筋肉が陰影に映えて彫刻のような錯覚を起こす。
(やっぱり綺麗な人だな)
こうして押し倒されて見上げると作りこまれた顔の良さが分かる。
つい美術品でも見るかのように見入っていたらもう一度キスをされた。
その素振りがさっきより男らしくてひと際胸が高鳴る。

「見せなさい」
「ん、…はずかし…」

ぐいっと包んでいたマントを引っ張られて自分の体が露になった。
自ら脱いだ時には感じなかった羞恥に動揺しながらシリウス様を見つめる。
それはきっと見ている瞳がより熱情的であるから恥ずかしいのだ。
シリウス様は性的な意味で僕の体を見つめ欲情している。
それを視線で感じるだけでどうにかなってしまいそうだ。
だけどもう止まれない。

「旦那様、好きっ……好き」

もしかしたらこれが最後の抱擁になるのかもしれない。
だけどそれでも悔いが残らないほど幸せであった。
僕はシリウス様に求められるがまま抱かれた。
普段あれだけ淡白だと思っていたがベッドの上では情熱的で僕はされるがままになっていた。
しかし肌を通じてシリウス様の喜びも悲しみも苦しみさえも伝わってきたから嬉しかった。
意識が遠のく最後の最後まで僕はとても幸せであった。

「…………んぅ」

だがもっと幸せだったのは次にちゃんと目が覚めたことであった。
目覚めたら天国なんて冗談は通じないのである。
ふかふかなベッドの温もりに身じろぎしながら目を開けると太陽の光に邪魔されて目が痛くなった。
行為の疲れで体は重いが特別どこも痛くなっていないことを確認する。
どうやら僕の体は無事に一夜を乗り切ったようであった。
(もう朝?)
僕は寝ぼけ眼のまま天井を見上げる。
昨晩は朝方まで何度も抱き合った為、先に体力が尽きた僕は気を失ってしまった。
それほど激しく求められたことに嬉しさと共に恥ずかしさが募る。
だから思わず頭から布団を被ってしまった。
(っていうか夢じゃないよね)
僕は白い羽根布団の中で自分の頬を抓る。
それと同時に自分の痴態を思い出すがお互いに普通じゃなかったので気にしない方向に努めた。
すると布団の中に居た為息苦しくなり顔だけ出す。
今の自分の顔が真っ赤であることは鏡を見なくても分かった。
(シリウス様、格好良かったなあ)
さすが女好きで有名だったこともあり、体の扱いや人の悦ばせ方には手馴れたものがった。
何もかも初めてな僕はそれが悔しくもあったが気持ち良くして貰ったのも事実で文句はいえない。

「お前は百面相か」
「うわああっ」
「煩い」
「だ、だだ、旦那様起きていたのですか!」

するとすぐ側から声が聞こえてぎょっとする。
恐る恐るシリウス様を見つめるとしっかり目を開けて僕を見ている彼と目が合った。
どうやら僕より先に起きていたらしい。

「あっ眠れたんですか」
「少し」

だがたとえ少しでもシリウス様が他人の側で眠れたのは凄いことだった。
何せほんの数日前は寝ているところを近付いただけで斬られたのだから。
他の人にとっては簡単なことでもシリウス様にとってはかなり重要なことである。
だから僕は嬉しくてつい顔に出てしまった。
ニコニコしながらシリウス様を見つめていると面白くないのか彼がぷいと横を向いてしまう。

「へへっ」

その顔が可愛くてシリウス様の体に寄り添うと胸元に頬ずりした。

「こら、甘えるな」

するとシリウス様は呆れたように僕の頬を引っ張る。
だけどそんな風に言われても嬉しさは止まらなくてそのまま引っ付いていた。
しかしシリウス様の方が上手なのか僕の体を巧くかわすと体を引っくり返す。
いきなり形勢逆転されると昨晩のように押し倒されていた。

「ん、旦那様っ…」

体が上下に重なると心地良い重みが体に響く。
シリウス様の性器は朝方まで情事に耽っていたというのに熱くなっていたのだ。
それに気付いて口をパクパクさせる。
だけどしがみ付くことしか出来なくてあっさりとシリウス様を受け入れてしまった。
体の奥がズクンと疼く。
再び自分の体内でシリウス様を感じると甘ったるい声が出てしまう。
だが昨日出された精が残っていたせいか律動はスムーズに行われた。
むしろ僕の穴からはぐちゅぐちゅといやらしい音が響いている。
それが恥ずかしくてシリウス様に抱きつきながら喘いでしまった。

「はぁ…っもっと喘ぐんだ」
「ん、んぁっ…は…あぁっ、うぅ」

行為の激しさに伴いベッドが軋む。
その音が妙に生々しくて耳を覆ってしまいたかった。
昨日あれだけしてもシリウス様は僕を求めてくる。
首筋に付けられたキスマークは太陽の光に当たって悩ましげに浮かび上がった。
自分の知らない性感帯を教え込まれてか細い声で啼き続ける。
その度にシリウス様はキスをしてくれた。
心に闇を抱えているとは思えないほど温かい口付けで僕は何度もねだると彼のキスを欲した。
気付けば腕の包帯が取れかかっていて僅かに血が滲んでいる。
だが快楽に溺れていたこともあり痛みはまったく感じなかった。

「ひぁ…ん、んっ…あぁっ、はぁ…」

するとシリウス様は執拗に傷口を舐めた。
そして垂れた僕の血をも舐める。

「だめっ…だめですっ…ぅ、きたな…ぁっ」

まさかそんなもの主人に舐めさせるわけにもいかず嫌だと首を振るがシリウス様はしゃぶりついて離さなかった。
ねっとりとした舌が僕の体を侵食していく。
突き上げられた体は従順で何もかもを委ねた。
そしてシリウス様への想いを募らせた。
その後、僕の体を離してくれたのは二回も精を放ったあとであった。

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