3

「俺に何か用か」

大佐は振り返ると怪訝そうに僕を睨んだ。
早く陛下のもとへ行きたいのだろう。
焦りと心配で気が気じゃなさそうだった。

「……いえ、何でもありません。どうぞ陛下を追いかけてください」

僕は服から手を離した。
精一杯の顔を作る。
ヤマトのような大胆な演技は出来ないけど、こんな振る舞いは幼いころから慣れたものだった。
僕が唯一得意とするのは紳士になりきること。
何百回と繰り返し言われたことは体に染み付いている。
そのスイッチを入れればいつだって僕も紳士になれた。

「そうか。では、俺はこれで」

大佐は軽く頭を下げると、颯爽と陛下たちが消えていったほうへ向かった。
見送った僕は彼の背中が消えると僅かに表情を曇らせて笑う。
それは諦めの微笑だった。
(しょうがないよ。大佐は職務に忠実なんだ。そういうところに憧れていたんだ)
自らを納得させようと言い聞かせる。
割り切れない思いなんて募らせたところで無駄だ。
そもそも、僕相手では退屈させてしまう。
ヤマトのような興味を引かせる話題は持っていないのだ。
どっちみち一緒にいられる存在ではなく、むしろ僅かなひと時でも傍にいられたことに感謝しなければならない。
次、兄さんに会ったら自慢してやるんだ。
間近で見た大佐がどれだけ素敵だったか語ってやるんだ。
(…でも、女性には弱かったんだよね)
さきほどの押されっぱなしの大佐を思い出して声にならない笑いを噛み締める。
大佐の特別な一面が見られた気がして嬉しかった。
そうしてぼんやり仮面舞踏会を満喫していると、背後からドンッと誰かにぶつかった。

「す、すみません!」

急いでいたらしい娘が持っていたシャンパンを零してしまう。
幸い服にはかからなかったが、娘のドレスの裾を濡らしてしまった。

「私よりあなたが心配です。そのままには出来ません」

僕は素早く胸のポケットに畳んであったハンカチーフを取り出すと、娘の足下に跪いた。
濡れた部分に沁み込ませるよう数回叩く。
その慣れた手つきは貴族とは思えず自嘲気味に笑う。
幸い対処が早かったこともあってシミにはならず、遠目では分からなくなった。

「これでとりあえずは目立たないと思います。帰ったら使用人に洗わせると良いでしょう」

すると娘は「ありがとうございます」と、繰り返し頭を下げて去って行った。
僕は「気にしないで」とにこやかに微笑んで手を挙げる。
彼女はよほど急いでいたのか人の間を縫うように駆けていった。
(もしかしたら好きな人に会いに行ったのかな)
慌てんばかりに急ぐ彼女の後ろ姿に羨ましさが募る。
隔離された荘園で生きてきた僕に色恋は無縁だった。
一番上の兄は、父さんから縁談を持ち込まれてそのまま結婚してしまった。
多分、ほかの兄弟も僕も、いずれ両親が望む結婚をする。
それでいいやと諦観にも似た気持ちを持っていた。
(もし好きな人なら会えると良いね)
人ごみに消えた娘を見送る。
時計を見れば午前二時を回っていた。
もう帰らないと明日に響いてしまう。
仮面舞踏会は朝方まで終わらず、この騒がしさは夜通し続く。
ふと木枯らしのような寂しさが心をすり抜けた。
楽しそうな周囲と己の孤独感が酷い。
その落差に耐えきれず帰る用意をすると、ある視線に気付いた。
僕は視線を辿るように振り返ると、目の前にはなぜか陛下を追って行ったはずのクラリオン大佐がいる。

「あ、あれ…………陛下は?」

途端に頭が真っ白になって思考が霞むと、その白紙を埋めるかのようにそう問いかけていた。
これこそ幻ではないのか。
僕が都合良く見ている夢ではないのか。
クラリオン大佐の登場に動揺すら表せないほど困惑する。
するとその心中など知らない彼は、

「屋上にいらっしゃったが、もう馬車でお帰りになられた。もちろんヤマト殿も一緒だ」
「えっ」
「仲間の兵士が同行している。俺もこれから城へ向かう」

彼は堅いお辞儀をすると、踵を返して出口へと向かっていった。
(どうして僕のもとへ?)
大佐の声に夢から醒めるが、代わりに混乱が押し寄せる。
それはひとつ見つけた可能性。

「待ってください!」

騒がしい場内に僕の声が響いた。
大佐は表情を崩すことなく振り向く。

「どうして……僕のところへ来てくださったのですか?」

期待に胸が躍る。
鳴り響く鼓動の音に昂進する。
込みあげてくる希望を何度も打ち消そうとするが、それでも涌き起こる想いが僕の心をざわつかせた。
目の前にいるのは、憧れに焦がれた人。
もう二度と会えないと思っていた人。
すると、クラリオン大佐は眉間に皺を寄せて、

「君が……!……君が、俺の目には寂しそうに見えたから…気になっただけで……」
「……っ……」
「しかし娘と話している時は全然様子が違ったから、あれは俺の見間違いだったのだと思った」

大佐がそのまま言い捨てるように立ち去ろうとしたから、僕は慌てて引き止めた。

「わ、私も途中までご一緒してもよろしいですか?」

感に堪えられない表情で何とか言う。
これ以上にない勇気を振り絞って呼吸すらままならない。
それでも、この期を逃したくないという気持ちでいっぱいだった。
すると、大佐は険しい顔のままで、

「君、ヤマト殿といる時の言葉遣いでいい」
「は?」
「気遣われるのは苦手なんだ。ヤマト殿のご友人ならば君も陛下に近しい間柄なのだろう。俺のほうが身分は下だ」

彼はそう言うとスタスタ歩いて行ってしまった。
僕が呆然としていると、離れたところでおもむろに大佐が立ち止まる。

「ほら、早くしろ。今日は歩いてきたんだ。陛下に何かあったら困る」
「大佐……」
「だが、君だってひとりで帰すわけにはいかない。送ってやるから早く来るんだ」

その言葉に僕は急いで駆けて行くと大佐の隣に並んだ。
二人はいまだに熱気の冷めない劇場をあとにする。
外は場内の騒がしさが嘘のように静かだった。
大佐の手元にあるランプがほのかに揺らめき、暗がりの道を照らす。
僕は冬の芯まで凍える寒さに身震いした。
アルドメリアは比較的気温差もなく穏やかだが、さすがに二月の夜は例外で、露出した手と顔に北風が沁みる。
その代わり冷えた大気が月明かりを鮮明にし、夜空は暗闇ではなく群青の薄紙を重ねたような色をしていた。
人々が寝静まった深夜、街の光は消えて、よりその蒼さを際立たせているような気がする。
だが、せっかくの星が瞬く空も僕には眼中になかった。
石畳の上を滑る影はふたつ。
舗道には二人しかいなかった。
聴こえるのは足音と己の急かすような鼓動の音のみ。
すぐ傍にあの大佐がいると思うと急に現実感がなくなる。
無我夢中だったとはいえ、ずいぶん大胆なことをしてしまった。
あの大佐相手に引き止めるなんて凄いことだ。
途端に恥ずかしさが焼けつくような痛さで体内を這い回り暴れ始める。
今度は顔を上げられなくなった。
極度の緊張で石のように硬くなった頭が持ち上がらない。
すぐそこ、横を向くだけで大佐がいるのに体が自由に動かなかった。
だけど見たい。
その横顔を見ていたい。
相反する感情に挟まれながら大佐の横顔を盗み見ようと、目だけ彼のほうへ向けた。

「どうした?」

すると大佐はだいぶ前から僕を見ていたようで、盗み見ることに失敗した。
(盗むどころかがっつり目が合ってるー!)
さっきまで一緒にいたとはいえ、大佐はヤマトと話していたからこちらを見ようともしなかった。
その瞳が僕だけを見ているのだから興奮と緊張で口の中がカラカラに渇く。
自然と浅くなる呼吸に、吐いた息で辺りが白んだ。
目を泳がせ不審人物極まりない反応に消えたくなるが、どうしたって冷静ではいられない。
すると、クラリオン大佐がくっくと笑った。

「改めて、君の名を訊いてもいいだろうか?」
「み、ミシェルです」
「そうか。俺は――」
「も、も、もちろん知ってます。クラリオン大佐です!僕大好きなんです。カメリアの出立式も見に来ました。子どものころからずっと憧れていて――」

拳を握ると熱っぽく語る。
――が、そこまで言ってふと我に返った。
(ほ、本人を前にして何を言ってるんだー!)
この状況を思い出して愕然とする。
僕はその大佐と二人で歩いているのだ。
いつも兄と大佐の話をしているせいか、つい彼の話をすると熱くなってしまうのだ。
どれだけ強く思っているのかと伝えたいあまり我を見失う。
それを本人に直接ぶつけるなんて信じられないことだ。
(消えたい。いっそこのまま川に流されてしまいたい)
見えてきた運河に飛び込む勢いで頭を下げる。
なんて気持ち悪いやつだと思ったからだ。

「す、すみませんっ、すみませんっ!調子に乗りました!あの、ぼく、えっと、その!」

そうしてひたすら詫びているとクラリオン大佐が我慢しきれないように吹き出した。
豪快にぷははっと笑っている。
僕は固まってしまった。
あまりに大佐の笑顔が可愛く――いやいや、素敵だったから瞠目していたのだ。
すると彼は橋の欄干に手をかけて、

「ミシェル殿は変な子だな」
「は……え……」
「さきほど娘に接していた時はどこぞの紳士かと驚いていたのだが、今はただのパニックを起こした子どもだ」

大佐が目尻に皺を寄せると、途端に優しい印象になった。
軍人なんて厳しいイメージしかなかったが、今の彼は気さくな口調で全然怖くない。
英雄と呼ばれているくらいだからもっと偉そうでもいいのに、大佐は親しみの湧く表情をしていた。
(なんて惹き付けられる人なんだろう)
彼の灰色がかった髪が風に靡く。
胸元にはいくつもの勲章が燦然と輝いていた。
それに勝るとも劣らない、鼻筋の通った男らしい顔立ちに目が離せない。
体の芯が淡く光るように疼いた。

「落ち着け。それに敬語は使わなくていいと言っただろう」
「それは出来ません!だって大佐は僕の大好きな――」

そこまで言ってまた「しまった」と、慌てて口ごもる。
再び大好きなんて恥ずかしいことを口走ってしまった。
少しは学習しろ自分!と窘める。
羞恥心が強まり今すぐ穴に入りたくなった。
もっと格好良くありたいのに、大佐の前では紳士のスイッチが入らない。
するとそれが露骨に顔に出ていたようで、大佐は再びおかしそうに哄笑していた。

「いや、俺は素直な子が好きだよ」
「っっ!」
「仕方がない。敬語は許可する」
「あ、ありがとうございます」
「しかし、あまり他人行儀になられても困る。俺はしがない軍人だ。あまりそういうのに慣れていない」
「わ、分かりました」
「うむ。分かればよろしい」

そういうと大佐は再び歩き出した。
僕もつられて歩く。
彼はさすが軍人らしく歩調が早くて、追いつけない僕は小走りになった。
だがついていくのも全然苦にならない。
むしろその背中を追えることが嬉しくて、いつまでも寄宿舎に着かないで欲しいと心から願った。

***

しかしどんな夜にも終わりがあるように、必ず朝は迎えてしまうものだ。
僕と大佐はあのあと色々な話をして帰路についた。
城の隣に音楽院があって、僕がそこの生徒だというと彼はとても驚いた顔をしていた。
寄宿舎はみんな寝静まりしんとしている。
僕は気付かれまいと忍び足で自分の部屋へ戻った。
寝不足だったけど、幸せな眠気だった。
大佐はカメリアでの話を訊かせてくれた。
あともう少しで戦争が終わりそうなこと。
そしたらまた王都で暮らせること。
故郷には弟や妹がいること。
明日の夜にはその故郷へ帰省し休みは向こうで過ごすこと。
憧れの大佐は、実際に会ってみると話しやすくて楽しい人だ。
人ごみの中で見上げていただけでは知らなかった一面が僕の心を高鳴らせてくれる。
たった一晩の夢だ。
もう会うこともない。
僕はこれからも音楽漬けな毎日が待っているし、大佐は帰省後、そのままカメリアへ出立するから王都へ戻るのは戦争に勝ち凱旋してくる時だろう。
きっとその時も大勢の人が彼を出迎えるのだ。
僕なんかには一生手が届かない人である。
(っていうか、手ってなんだ。手って!)
僕は自分の図々しい手をパッパと振り払った。
あくまで僕にとっては尊敬すべき人なのだ。
大佐だってあれだけ女性に人気なのだから、その気があればすぐに恋人は出来る。
始めから僕などお呼びではないのだ。
だから幸せな一夜を噛み締めるように胸にしまいこむ。
思い出だけは誰にも汚されない。
僕は部屋にかけられていた燕尾服を見て口元を緩ませた。
(これからどんなことがあっても昨夜を支えに耐えられる)
今日練習から帰ったら家族に手紙を出そう。
クラリオン大佐のことを書こう。
ヤマトという少年と友達になれそうなことも書こう。
それまで心配させないために一切こちらから手紙は出さなかったが、ようやく胸を張ってかけると思った。

その後、音楽院へ行くと昨晩のことが大事になっていた。
寄宿舎を抜け出したことが学院長に知られて即座に僕は呼び出された。
学院長と先生にこってり絞られてしまった。
次に同じことをしたら退学だと警告を出された。
しかし僕には後悔がなかったから、大人しく謝り反省文を書いた。
むしろ陛下とのことを知られていなくて安堵したくらいだ。
だが、午後になってもう一度学院長に呼び出されると態度は急変していた。
僕が部屋へ入るなり、学院長と先生は床にへばりつくよう深く土下座したのだ。

「ミシェル君。陛下からのご命令ならなぜそうと言わないのか」

とにかく恐縮しっぱなしで、学院長は嫌な汗をダラダラ流していた。
先生にいたっては僕の足に絡み付くように、

「このことは陛下に言わないでくれ」

と、みっともなさなど省みずに嘆願してきた。
その異様な光景に面食らいながら必死で頷く。
先生は、何があっても絶対に言いませんと難く誓うまで体を離そうとしなかった。

「やれやれ」

どうにか事を収め、学院長室を出た時にはこっちがフラフラになっていた。
寝不足も祟って足下がおぼつかない。
これじゃ練習どころではないと、自室へ戻ろうとした。
まさか寄宿舎を抜け出したことばかりでなく、その裏に陛下がいることが露呈されると思っていなかった。
明日からどうなるか想像するだけで恐ろしいが、あの調子では学院長も先生も僕と陛下が繋がっていることは公言しないだろう。
むしろ弱みを握られたと怯えているのだ。
当分は近付いてもこないに違いない。
(そんな告げ口みたいな真似、するわけないのに)
夕暮れの廊下をとぼとぼ歩く。
すぐ前をいく二人は友人なのか、楽しそうにたわいもない話をしていた。
ちょうどほかの生徒もそれぞれ部屋へ帰る時間なのである。
それに羨ましさを感じながら僕はひとりだけ廊下の角を曲がると、自主練室がある隣の棟へ向かった。
いつものように自主練室で練習していたところを呼び出されたのだ。
何も持たず、急かされるまま学院長室へやってきたから、全部部屋に置きっ放しだった。

「あれ……?」

だが、自主練室は空っぽだった。
僕は部屋を間違えていないかと、再度廊下へ出て番号を確認する。
いつも35番の部屋を使用しているのだ。
扉の上にはきっちり35と番号が振ってある。
(先生が部屋へ持って帰ったのかな)
彼は青ざめて臆病そうな顔つきをしていた。
少しでも媚を売ろうと僕の自室へ荷物を持ち帰ったのだろうか。
疲れも相まって深く物事を考えられないでいた。
少しでも早くベッドに横になりたかった。
僕は狐に摘ままれたように立ち尽くすと、踵を返してそのまま自室へ戻ることにした。

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