6

「……っぅ……」

競技の途中だというのに涙が零れそうになって顎が震えた。
歯を食いしばって耐えても視界が霞む。
こんなところで泣いても笑い者になるだけだ。
何より弱虫である自分と決別したかった。
その為に意を決してこの大会に挑んだのだから、泣くわけにはいかない。
観客は固唾を呑んで見守った。
誰が見ても彼が泣きそうなのは一目瞭然だった。
辺りは静まり返り物音ひとつしない。
遠くの方で出店の騒ぎが僅かに聞こえる程度だった。
早春のひんやりとした空気が頬を過ぎる。
華奢な体に似合わぬ大きな弓が左右に引き分けられた。
ギリギリと乙矢を引き、焦点を合わせる。
強張った体は胸から脇に掛けて開ききっておらず、硬そうだった。
これでは十分に弓を引けない。
小手先だけでは射ることが出来ないのだ。
精神と肉体と弓矢が三位一体にならなくては矢が飛ばない。
だが中村はそれさえ気付かず必死に的を狙っていた。
(矢を離しちゃダメだ。もっとちゃんと狙わなくちゃ)
それぞれ制限時間は決まっている。
30秒前には予鈴が鳴る仕組みになっていた。
ジリジリと焦燥感が襲う。
孤独に苛まれて何も信じられない。
射るタイミングすら分からないのにどうやって中てるつもりだというのか。
(伊瀬……っ、伊瀬……)
中村は心の中で何度も伊瀬を呼んだ。
縋りつくような思いで彼の名を呼び続けた。
彼がここにいるわけない。
伊瀬は中村が毎年この大会の誘いを断っていることを知っていた。
だから二人は祭りの時も大会には近付かず屋台巡りをするだけだった。
(……伊瀬っ、会いたい……っ、伊瀬に会いたいよっ……)
それでも想わずにはいられない。
その名を呼ばずにはいられなかった。
大切な心の支え。
いや、もっとずっと大きな存在だった。
伊瀬さえいれば何もいらない。
たとえ二人の関係が世間から見ておかしくても構わなかった。
(斉藤も佐藤も関係ない。オレは伊瀬が好きなんだ)
走馬灯のように蘇る日々。
楽しかった二人の思い出。
大事に守られて愛されてきた自分。
誰にも知られることなく育まれていた純愛。
窮地に立った時、人は見えなかった世界に気付くことが出来る。
――そして、その時人は奇跡を起こすことが出来るのだ。

「中村ああああっ――!」
「!!」

弓を引き分けていた中村はふと意識が反れた。
青空の下で木霊する声には聞き覚えがあったからだ。
音の無い静かな客席でその声は響き渡る。
彼は弓を構えたまま声の方を向いた。
いや、観客もスタッフも他の選手さえもみんなそちらを向いた。

「い……せ……」

客席の一番前には息を切らした伊瀬が必死の形相で中村を見ていた。
一瞬、中村が自分で作り出した幻想かと思った。
まさかこんな都合よく現れる筈がない。
だが何度瞬きしても彼の姿は消えなかった。
伊瀬は中村だけを見つめ物言いたげに口ごもる。
(そうだ――伊瀬はいつもそうだった。スーパーマンだった)
出会ってから今まで、彼は何度も中村を助けてくれた。
どんな状況でも颯爽と現れて救ってくれた。

「……伊瀬っ……」

きっと慌てて駆けつけたに違いない。
風で乱れた前髪を気にも留めず柵を掴み前のめりになっていた。

「中村……っ」

彼はもう大丈夫だと言わんばかりの顔で優しく微笑む。
はにかんだ伊瀬は一斉に視線を浴びて照れくさそうに後頭部を掻いた。
一瞬でも騒がしくしたことを詫びるように頭を下げて笑う。
こんな状況なのに伊瀬はいつもの穏やかな空気を纏っていた。
彼は再び中村を見つめると小さく頷く。
周囲から見れば何てことない仕草だ。
それが大きな意味を持っていることを誰も知らない。
(いつもの伊瀬だっ)
大事なのはいつもの伊瀬であること。
いつもの二人であること。
――そして、いつもの中村であることなのだ。

「すぅ――はぁ……」

(伊瀬がいれば怖くない)
不思議と緊張感は増したのに、神経が研ぎ澄まされていくようだった。
見られて恥ずかしいのに、心はどこか安心して落ち着きを取り戻し始める。
ぐちゃぐちゃだった思考は無へと還り、後に何も残らなかった。
中村は目を閉じる。
(世界から音が消えていくようだ)
静寂を取り戻した空気に肌が馴染む。
呼吸をする度に強張っていた体が開かれていく。
(もっともっと解放させるんだ)
ありのまま、流れるままに体を委ねる。
中村の体は解れるままに伸びだした。
弓を引き、左右に体を開かせ胸を張ると腰を中心に踏ん張る。
それだけで下半身は安定し、どんな衝撃も吸収する土台となるのだ。
限界まで開かれた体がしなやかに伸びる。
(一点だけに集中)
中村はようやく目を開いた。
見えるのは先にある丸い的だけ。
中てるのではなく、中る。
鋼の精神が鋭く尖っていくのを感じながら頭の中は相変わらず無音だった。
あれだけ泳いでいた瞳は一点だけを見つめて動かない。
その姿は見事な縦横十文字を表していた。
美しい姿勢に息を呑んで全ての人が中村を見つめる。
張り詰めた空気に彼の気合が矢に込められた。

「――――っ!」

放つときは一瞬だった。
限界まで高められた気を発動すると共に胸の中筋から左右に離れる。
流れるような自然な動作だった。
あれだけ苦しめられた早気は姿を消し、いつもの中村に戻っている。

パァンッ――――!

矢はブレることなく一直線に飛んだ。
瞬きする間もなく的の中心に突き刺さる。

「わあああああ――――!」

その瞬間立ち上がった観客は歓喜に沸いた。
割れんばかりの拍手が場内に響き渡る。
それはようやく的中したからではない。
あまりに見事な一射だったからだ。

「はぁ……はぁ……」

中村はその歓声を聞きながら大きな達成感に包まれていた。
深呼吸をすると弓を腰に執る。
そうして弓を倒すと足を閉じ、射位から下がった。
チラッと伊瀬の方を見つめる。
すると彼は騒がしい歓声の中でただ愛しむように頷いてくれた。

その後、控え室まで戻ってきた中村だったがすぐに飛び出した。
着替える時間も惜しみ伊瀬を探しに向かったのだ。
場内は次の一般部門が始まり静まり返っている。
客席も同じく静かで伊瀬の姿は見当たらなかった。
中村は焦りながら客席を抜けると今度は屋台通りに向かう。

「はぁっ……」

袴では目立った。
周囲にジロジロ見られて気恥ずかしくなる。
だがそれ以上に早く伊瀬に会いたかった。
晴天に恵まれ、出店の方は人でごった返している。
何人かの同級生に伊瀬のことを聞いたが知らないと言われるだけだった。
中村はキョロキョロしながら辺りを見回す。
自分の荷物は全部控え室のロッカーに置いてきた。
そのせいで伊瀬と連絡を取ることが出来ない。
(早く会って伝えたいことがあるのにっ)
もどかしい。
こんなにも気持ちは彼に向かっているのに、いつも見えない何かに阻まれる。
思い通りにいかない歯痒さに身を切られながら中村は駆け回った。
祭りを楽しむ余裕すら持てずに伊瀬を探し続ける。

「中村君っ――」

するとその時だった。
自分の名前を呼ばれて振り返れば佐藤がいる。
彼女もまた息を乱していた。

「はぁ…はぁっ…なんでここにいるのよ」
「え?」
「伊瀬君、あなたに会いに行っちゃったわよ」
「!」

佐藤は膝に手を置きながら息荒く喋ると一旦間を置いた。
それから深呼吸をすると上体を起こす。
相変わらずキツイ顔をしていた。

「……どうして佐藤が?」

突然現れた彼女がなぜ伊瀬のことを知っているのか。

「今日のこと伊瀬君に黙っていたでしょ?アイツ暢気に友達と出店にいたんだから」

だが彼女は中村の質問を無視した。
それどころか怒った顔で中村を睨む。

「私が大会の会場に連れて行ったのよ?少しは感謝しなさいよ」
「そ、それはっ……っていうかどうして大会のこと――」
「だいたい何でもかんでもひとりで背負う癖やめたら?伊瀬君すごく辛そうな顔をしていたわよ」
「あ……っ」
「本当は中村君の口から直接聞きたかったんじゃないの?大会に出場するってさ」

佐藤は相変わらず遠慮がなかった。
その迫力に負けて中村は何も言えない。
何より彼女の言っていることは正論だった。
だがやはり引っ掛かる。

「……さ、佐藤」
「何よ」
「どうしてこんなこと――」
「べ、別に……っ、た、たまたま山岸先生に今日のことを聞いただけよ。それ以上に深い意味なんて」
「そうじゃなくてっ……だ、だからオレなんかのことでこんなに……」
「…………」

中村は恐る恐る尋ねた。
また怒られる気満々だった。
それでも聞かずにはいられなかった。
佐藤は伊瀬とキスしているところを見た人間である。
普通男同士のあんな場面を見たら気味悪がって二度と近付いてこないだろう。
むしろ学年中にバラされても可笑しくないネタだ。

「あーあ」

すると佐藤が深くため息を吐いた。
それに過剰なほど反応を示すとチラッと彼女を見る。

「あほらし」

佐藤は眉間の皺を緩ませた。
そうして額に手を置くと首を振る。

「これじゃあ伊瀬君も苦労するわけだ」
「え?あっ……」
「ニブチン」
「ちょっ、佐藤!」

佐藤は呆れたように苦笑すると結局最後まで中村の質問には答えず背を向けた。
そしてヒラヒラ手を振るとさっさと行ってしまう。

「さ、佐藤っ」
「伊瀬君なら控え室の方に行ったわよ。早く行かないとまたすれ違っちゃうんじゃない」

そう言い残して彼女は人混みに消えた。
意味が分からない中村はその場で茫然とするが佐藤の言うとおりである。
またすれ違ってしまう前にどうにか伊瀬を見つけなければならないのだ。
中村は意を決すると自分の来た道を戻り始める。

控え室付近は静かだった。
一緒に戻ってきた参加者たちはとっくに着替え終えたのか誰もいない。
中村は逸る気持ちを抑えて見回す。

「わっ――」

すると曲がり角の向こうから来た人とぶつかった。
前を見ていなかったせいで小さな体は弾き飛ばされる。

「おっと」

だが転ぶ前に腕を引っ張られた。
そのまま引き上げられると中村は恐る恐る目を開ける。

「なっ中村」
「い、伊瀬」

見上げるとあれだけ探していた伊瀬がいた。
二人はお互いの存在に気付くと手を離す。
あまりに突然すぎてどう反応していいのか分からなかったのだ。

「…………」

ようやく会えたのに照れくさくて言葉が出てこない。
伊瀬も同じようでしばらく無言の状態が続いた。
実際に会ってみると気恥ずかしくて戸惑う。
二人とも目を合わせられず下を向いたまま顔を赤くした。

「よく頑張ったな」

そんな状況を打破したのはやはり伊瀬の方だった。
彼は中村の頭をポンポンと撫でると優しく笑う。
触れた手のひらの感触は温かくて心地好かった。
その瞬間想いが溢れて零れ落ちそうになる。
(やっぱり伊瀬だっ)
それは自分が大好きな伊瀬の温もりだった。
暖かくて人を幸せにする優しい感触。
中村は我慢が出来なくて奥歯をかみ締めた。
そして覚悟を決めると顔を上げる。

「い、い、伊瀬っ――好き!」
「え……」
「友達なんかじゃない!もっとずっと、好きっ」

気持ちを伝えるだけで心臓が爆発するかと思った。
中村は震える手を抑えてどうにか耐える。
だけど声の震えだけは隠せなかった。

「ほっ本当はもっと良い成績を残してから言いたかったんだけど、オレ……やっぱり伊瀬がいなくちゃダメだ」
「中村」
「迷惑掛けないように、もっと大人になって伊瀬に追いつけるように頑張るからっだから……だからっ」
「……っ……」
「伊瀬の傍にいさせて……っ」

すると腕を引っ張られた。
驚く間もなく足がよろけて伊瀬に縋りつく。
気付けば彼の腕の中にいた。

「ばかっ!いつも言っているだろ。中村はそのままでいいんだって」
「でもオレ幼稚でいつも伊瀬を傷つけて迷惑ばかりかけてる」
「そんなのどうだっていいんだよ」
「え?」
「迷惑なんかじゃない。迷惑なんて思ったことない。俺がそうしたいからしているだけで中村は何も悪くないんだ」
「……っ」
「もっと構わせろよ。放っておけないんだ……俺も中村が好きだから」
「い、伊瀬っ」

腰を抱き寄せる力が強くなった。
中村は身を縮めて伊瀬の胸元でうずくまる。

「なぁ、だからもう一回言って?」
「あっ」
「俺のこと好きって言って?」

伊瀬は甘えるようにぎゅっと抱き締めた。
互いの鼓動が伝わってくる。
(伊瀬の音、すごく速い)
彼だって中村に劣らず緊張しているのだ。
大きな体で心細そうに呟く伊瀬が愛らしい。
その姿が無性に可愛くて胸がきゅうきゅうする。

「好き。好きだよ」

だから中村も彼の背中に手を回した。
同い年なのに、体の作りは全然違う。
中村の肩に頭を預けた彼は噛み締めるように言葉を聞いていた。
僅かに見えた耳が赤くて中村は思わず笑ってしまう。

「……伊瀬大好き」
「っっ」

すると突然伊瀬ががばっと上体を起こした。
やはり顔が真っ赤になっている。
驚いた中村は手を離した。
だが肩を掴まれて少し痛い。

「い、伊瀬?」
「反則だろっ?お前――っ」
「だって伊瀬が言えって」
「そうだけど。……もー、お前可愛すぎ」
「わっ伊瀬!どこにっ」

すると伊瀬は中村の腕を掴んだまま歩き出した。
引っ張られて為すがままついていく。
中村に拒絶の意志はなかった。
むしろ掴まれた腕の熱さに初めてのキスを思い出して体が熱くなっていた。

伊瀬は適当な倉庫に中村を引っ張り込んだ。
祭りで使う小道具や普段の掃除用具が置かれている。
小さな出窓がひとつだけあったが薄暗かった。

「い、伊瀬っだめだよ。勝手に入ったら怒られるって」

いつ誰が来るかも分からない倉庫では落ち着かない。
普段はあまり使われていないのか埃っぽかった。
中村はソワソワ落ち着かない素振りで辺りを見回す。

「ごめん。我慢できない」

伊瀬は口をへの字に曲げた。
どうやら本気らしい。
中村を壁へと押し付けると頬に触れた。

「俺、中村の袴姿好きだよ」
「なに言って……」
「昔から言ってんじゃん。綺麗だって」
「あ、あれは」
「もちろん作法も綺麗だよ。いつも見とれてた。中村の周りだけ空気が変わるんだ。その瞬間声さえ失って何も言えなくなる」

伊瀬は触れていた頬を撫でる。
くすぐったいけど心地好くて中村はそのままにしていた。
なにより彼の言葉を聞きたかった。
愛しむような眼差しは日向のように暖かくてホッとする。
中村の話をする時、いつも伊瀬はこんな表情になる。
きっと彼は気付いていないに違いない。

「今日だって凄く綺麗だった。格好良いと思った。やっぱり中村はすごいよ」
「ほ、褒めすぎだってば」

中村は恥ずかしくて下を向いた。
何て答えていいのか分からなかったからだ。
しかし伊瀬はそれを許さない。
頬に置いた手を顎に寄せると上を向かせる。

「あっ……」

結果伊瀬の方を見ざるを得なくなった。
泳がせた瞳は戸惑いに濡れる。
それを見た伊瀬は息を呑んで平常心を保った。

「――だから、いつも思っていたんだ」
「え?」

途端に彼の声が低く掠れる。
それにドキリと鼓動を高鳴らせ中村は震えた。
キスされた時のように甘く色っぽい声。

「いつか中村の袴を脱がせてみたいって」
「!!」

腰を抱き寄せていた手が下がる。
気付けば彼の手が袴の隙間から滑り込むように入ってきていた。

「や、いせっ……」

思わず彼の手を掴む。
嫌なわけではない。
だけど心の準備が出来ていなかった。

「だめ?」

すると伊瀬は困った顔で見下ろす。
先程より余裕がないのか不安そうに中村を窺った。
その瞳を見てしまえばダメなんて言えない。
中村は渋々手を離した。
やはり伊瀬には敵わない。

「や、優しくしてくれる?」

中村は恥ずかしそうにモジモジしながらそれだけ呟いた。
愛し合う行為だと分かっていても未知なる恐怖に尻込みする。
それが余計に伊瀬を煽っているとは気付けなかった。
(ただでさえ小動物みたいに可愛いのに)
伊瀬は昂ぶる感情を抑えながら中村の額にキスを落とした。
すると目が合った二人は吸い込まれるように口付ける。

「んっ……」

唇の感触は相変わらず新鮮だった。
ファーストキスが濃厚だった分、甘く蕩けそうである。
伊瀬は胸元にいる中村を気遣って優しく触れた。
頭の中でがっつくなと警告を鳴らし冷静を装う。
そうしないとまた勢いで襲ってしまいそうだった。
中村が抵抗できないことを知っていて押し切ってしまった自分。
だけど自分の腕の中に中村がいるというだけで胸が震えた。
ずっと想い続けた大切な人。
一番近くで守り続けた人。
始めはただ弱い奴だと思った。
いつもオロオロして、自信がなく下を向いている。
だから自分がしっかりせねばと思った。
ひ弱な彼を守らなくちゃという使命感である。
しかし気付けば伊瀬の方が中村を必要としていた。
いつから――なんて、分からない。
ただ一緒にいるとホッとして、微笑まれると全身が熱くなった。
無意識に目で追っていて、一日中バカみたいに中村のことを考えた。
そうなった時、ようやく自分が恋をしていることに気付いた。
まるで空から降ってきたように自然と心の奥で落ち着いた。
あとはもう止められる筈がない。
蓄積された感情は例えようがない程詰まっていた。
ちょっとしたことで喜びに湧き、些細なことで地の底まで落ちる。
……何度夢の中でキスをしたのだろう。
中村の前では最良の友人でありたいが為に無理をしていた。
彼から“友達”と言われる度、どれだけの心が死んでいったのか。
何度も胸が潰れるような痛みを味わった。
それでも恋は消えてなくならなかった。
(きっと中村は知らない。俺がどれほど深く想っていたのか)
誰にも知られず募る想いが加速していく。
伊瀬は気持ちを隠して笑った。
全ては目の前にいる幼馴染の傍にいる為だった。

「中村、本当にお前が好きだよ」
「伊瀬……」
「言葉にしないと溢れてしまいそうだ」

目を閉じたら消えてなくなってしまうかもしれない。
だから伊瀬は中村の一挙一動を見つめ何度も口付けた。
柔らかくて温かい感触を味わい続ける。
(夢ならどうか覚めないで)
薄暗い倉庫の中で――。
ロマンチックとはかけ離れた雰囲気で――。
二度目のキスは二人に幸せな現実を与えてくれた。

「ん、ふぁ……っ」

あとはもう止まらなかった。
伊瀬は自分の想いを伝えるように中村に触れ続けた。
篭った倉庫内は熱くて汗さえ滲む。
狭い室内に中村の甘ったるい声が響いた。
戸惑いと幼稚さを残した愛らしい声だった。

「いせっ……はぁ、ぅ……っ」

伊瀬は約束した通り優しかった。
怖がる中村を宥めて何度も包み込んでくれた。
あやす様に微笑み触れる指先は恐れを鎮めてくれる。
だから中村は彼の性器を受け入れ、痛みに泣いても我慢できた。
(伊瀬とひとつに繋がっているんだ)
抱き起こされて、膝の上で喘ぐ。
袴はいつの間にか脱がされ放置されていた。
白筒袖から見える白い首筋が艶かしい。
恥ずかしいからとこれだけは脱がさなかったが余計に色っぽかった。
時折覗く桃色の乳首に気を取られる。
二人はどんなことがあっても手を離さなかった。
しっかり握り合った掌で互いの絆を確認する。

「ここ気持ちい?」
「ん、ふぁぁっあ……あっ、うぅっ……」
「気持ちいいんだ。お尻ヒクヒクしてる」
「や、だめっ……んぅ、い、いせのおっきいから…っおくにあたるぅ…っ」

中村は首を振った。
目はトロンとまどろみ、蕩けた顔をしている。
唇から垂れた涎は誘っているようで、伊瀬は堪らず唇を重ねた。

「ん、はぁっ」

一度離して見つめると再び同じことを繰り返す。

「んんぅ…またっ、ん……ちゅ…いせ、キスすき?……」
「はぁ…っ、好き。ちょー好き」
「そな、んっ…また…っする……ふぅ…ふっ……んぅっ」

慣れない呼吸に戸惑いながらも中村は嫌がらなかった。
口を開けば自然と唇が触れる距離で甘い睦言を囁き合う。
潤んだ瞳の中村が可愛い。

「おれも…すきだよ…っんぅ…はぅ…」
「中村……っ」
「どきどきして、へんにっ…なりそうっ」

気持ちよくてこのままどこかへ飛んでいきそうだ。
与えられる愛撫に恍惚とした表情で応える。
下半身の熱はとどまることを知らず二人を溶かした。
粘膜が絡み合ってトロトロに蕩ける。
触れ合った吐息の熱さに眩暈がした。
下から突き上げる体は強く響く。
いつの間にか痛みは消えて甘い疼きだけが残った。
人が通るたび、声を潜めて体を貪る。

「はぁ、あぁっ…ひ、みつ……だよねっ…?」
「ん、そうだよ……っ、俺と中村の秘密…っ絶対に誰にも内緒っ……」
「……んくっ、いせ…っ伊瀬……ぇっ……!」

秘密という言葉が胸を擽った。
高鳴る鼓動はその喜びを知っている。
打ち付けられた熱に中村はよがり鳴いた。
卑猥な腰のうねりを見せつけ伊瀬の気を引こうとしている。
無知ゆえの無邪気さで彼を虜にしていた。
(こんなこと誰にも言えないよ)
乱れる肢体は誰にも止められない。
貪欲に求められて悦びに震えていた。
自分でさえ聞いたことのない嬌声が木霊する。
その狭さ故に響いて自らの耳を犯した。
溢れ出る蜜が二人の体を汚し床に垂れる。
膝の上に乗っているせいか、視線が逆転していた。
伊瀬に見上げられる度、中村は火照りを抑えられない。
強い眼差しが突き刺さって抜けてくれなかった。
改めて見ると彼は十分大人の男になっている。
無邪気に遊んだ面影は消えて、凛々しい瞳が中村を捉えていた。
部活で引き締まった体がより一層男らしい。
腰を掴む強さも、胸板の厚さも中村にはないものだった。
それが心の奥に爪を立てる。

「伊瀬っ…い…せっ……」

中村は伊瀬の首に手を回した。

「ぎゅってして…っ?どこにも…いかないで…っ…」

(ひとりで大人にならないで?)
呑み込んだ言葉の代わりに足を絡める。
肉体は繋がっても心が離れていたら意味はない。
体が限界に近付くにつれて心の弱さが露呈した。
押し寄せる寂寥感に涙が溢れてくる。

「ひっぅ、やっぱりおれダメだ…っ、伊瀬が傍にいると甘えたくなる」

どんなに背伸びをしても伊瀬を前にすると弱い自分が顔を出した。
あれだけ颯爽と弓を引いた面影はない。
薄弱ないつもの自分に戻ってしまう。

「あっ!や…ぁっ、んんっ…はぁっ…」

すると突然伊瀬の力が強くなった。
振り落とされそうなほど激しく突き上げられて喘いでしまう。

「きゅうに…ど…しっ…あぁっ、んぅ、だめっだめ…っ…そんなにしたらっ!」

お尻の穴から卑猥な水音が響く。
内壁を抉られて目を見開いた。
滑らかな肌に唇を落とし痕を残していく。

「ひぁあ、あっ…うぅんっ、いせ…ぇっ、伊瀬……っ」

伊瀬は中村の未熟な性器を扱いた。
ガマン汁でドロドロになったソレを強弱をつけて刺激する。
そのせいで中村は喘ぐしか出来なくなった。
余計な思考は働かず、快楽が背中を駆け上がってくる。
そうなると射精することでいっぱいになった。
あの伊瀬に好き勝手体を許し貪られている。
何がなんだか分からなくなった。
見上げた天井は埃まみれで汚れている。
それを客観的に見ながら伊瀬に抱きついた。
混濁した意識で虚ろに彼を想う。

「すきっ……伊瀬っ好き…っ!」

すると急に頭が真っ白になった。
肌が粟立つような快楽に暴れだしたくなる。
しかし伊瀬が強く自分の体を抱き締めているため身動きが取れなかった。
内部で脈打つ熱が何かを吐き出している。

「ぅ……っん――――!!」

それが精だと気付くまでに時間が掛かった。
中村自身も伊瀬の掌に射精している。
びくんびくんと痙攣する体は急に重くなり気だるかった。

「はぁはぁはぁはぁ……」

波のようにやってきた快感が引いていく。
どっと疲れが押し寄せて伊瀬にしがみ付いたまま大人しくしていた。
二人とも息が荒く行為の激しさを知る。

「……甘えろよ」
「はぁ…はぁ……え?」

すると伊瀬の手が背中に回った。
汗ばんだ肌に吸い付く手のひらは自分と比べるとずっと大きい。

「お前はいつもひとりで抱えすぎなんだよ」
「伊瀬……」
「俺だけには甘えて欲しい。我慢しないで泣き顔もいっぱい見たいんだ」
「で、でもっ」
「そうしてさ、一緒に……ちょっとずつ大人になろう?」
「――!」

ぴったりとくっ付いた体から聞こえる心臓の音。
体格は違えど速さは同じ。

「伊瀬…ひっく、…っ」
「泣けよ。不安も寂しさも全部受け止めてやるからさ」
「…ふ…っ伊瀬……っひっぅ、ありがと…ひっく、伊瀬っ」

結局中村は彼に抱かれて泣いてしまった。
ポロポロと零れ落ちる涙は伊瀬の背中まで濡らした。
彼は何度も「大丈夫だよ」と囁いてくれる。
小さな子をあやすみたいにそっと語りかけてくれる。
だから安心して委ねられるのだ。
包み込む腕は何より優しく守ってくれる。
(一緒に大人になろう?)
伊瀬はいつも欲しい言葉をくれるんだね?
だからオレは一歩ずつでも前に進める。

「伊瀬っ…好き……」

きっと強くなってみせる。
大好きな人の為に――。

***

……それは淡い記憶の箱。
伊瀬は昔から正義感があってお山の大将だった。

「こらーっ、お前らまた中村を苛めて――っ」

相手が悪いと思えば、例え自分より体が大きくても立ち向かった。
彼は決して負けなかった。

「うわっ……伊瀬が来たぞ」
「行こうぜっ!」

だから同級生には好かれていたし、年上からも一目置かれていた。
毎日どこかしらに傷を作りながら、率先して遊ぶ。
伊瀬はいつも先頭きってみんなを引っ張った。
強きを挫き、弱きを守る。
それを地でいく強さを持った子供だった。

「おいっ大丈夫か?」

今日も颯爽と現れた伊瀬に、同級生は蜘蛛の子のように散らばった。
一目散に逃げていくのを見て呆気にとられる。
すると伊瀬は怒りながら傍までやってきた。
そして心配そうに中村の手を握る。
だから彼は苦笑した。

「大丈夫だって。伊瀬は心配しすぎ」

あれからも変わらずの毎日を過ごしている。
今日も勝手にいちゃもんをつけられて呼び出されていた。
そんな時は必ず彼が現れる。
伊瀬はどこにいても助けに来た。
やはりスーパーマンみたいだった。
むしろ最近じゃ、本当にスーパーマンなんじゃないかと思い始めていたりする。

「少しは強くなったんだからオレのことも信じてよ」

中村は握っていた手に力を込めた。
反対側に持っていたカバンを上に持ち上げて力を見せ付けようとする。

季節は移り変わっていた。
いつの間にか桜が咲き、自分より下の子達が入学している。
ようやく先輩になれたと思ったが実感はない。
なぜなら弓道部に入部した後輩たちは皆、中村より大きくてしっかりしていたからだ。
山岸先生は見比べて深くため息を吐いたことを覚えている。

「――相変わらず鈍いなあ」

すると伊瀬は呆れたように口を尖らせた。
道端の途中で立ち止まると振り返る。
夕方の河原はのんびりとした時間だけが過ぎていた。
伊瀬はぐいっと顔を近づけてくる。

「ちょっ、ちょっと伊瀬…ここ外っ」

さすがの中村も抵抗した。

「ちょ…っんぅ……!」

だがそれも虚しく額にキスされる。
強引な仕草からは信じられないほど甘く優しい口付けだった。
中村は顔を真っ赤にすると慌ててキスされた場所を隠す。

「いい加減気付けよ。好きな子が他の奴にちょっかい出されているのが嫌なの!」

そう言う伊瀬の横顔も真っ赤でリンゴみたいだった。

END