5

翌日、その日も十分なくらい良い天気だった。
最近は日が長くなり徐々に季節が移り変わっている事を知る。
未だに溶けない雪は太陽光によって白く反射し、眩い景色を見せた。
大きな森は春の準備が始まっている。
一見すると枯れ木なのだが、枝にはしっかりと新芽の影を捉えていた。
その日、僕は庭師のおじさんを手伝うために悪魔像を磨いていた。
初めて見た時は薄暗くなっていたのも相まって怖かったが、こうして何度も磨いたり雪掻きをしたりすると愛着が湧くものである。
とはいえ近くに人が居て、明るい空の下という二つの条件が重ならないと無理だった。
やはり何十体と気味の悪い悪魔像が並んでいるのは怖い。
しかも、よくよく見ると一体ずつ顔や表情が若干違うのだから、余計に生々しく見えるのかもしれない。

「おじさん、入り口の像は全部終わりました」
「おおそうか。ありがとう」

大きなシャベルで雪掻きを続けるおじさんに声を掛けた。
彼は曲がった腰に手を置きながらニコリと笑う。

「あとは裏庭にある五体だけですよね」
「そうだ。悪いがそれもお願いできるかな?」
「はい。わかりました」

彼は申し訳なさそうにお辞儀をすると、作業に戻った。
一人でこれだけの広大な土地を管理するのだから大変だと思う。
否、比較的楽な冬でさえ大変なのだから、それ以外の季節はもっと重労働になるだろう。
雑草を刈ったり、植えた花の面倒も見なくちゃいけない。
もちろん城に花壇があればの話である。
僕は庭の悪魔像を磨きながら辺りを見回した。
こうして雪一色の庭だが、アレンジ次第では美しい庭を作れると思う。
農家の息子という事だけあって、昔から土いじりは好きだった。
ここを畑として耕して菜園にするのも面白いし、一面花畑にするのも素敵だと思う。
城に来てから雪に埋もれていた大地がそろそろ芽吹き始める頃だ。
厚い雪の下で時期を待つように植物達が眠っている。
考えるだけでワクワクするのだから、根っからの農民だと思う。

「ここに植えるならチューリップやパンジーがいいかな。あとは夏にひまわりでしょ。秋にコスモスもいいかもしれない」

想像するだけで楽しかった。
今は寂しい庭も、花を植える事によって虫がやってくる。
蝶々やみつばち、てんとう虫。
今度はそこに集まる虫や花の蜜を目当てに、様々な鳥がやってくる筈だ。
魔の森の奥に眠る動植物のユートピアなんてロマンチックである。
だが残念なのは今磨いている悪魔とは合いそうにないことだ。

「ぷっ、へんなの」

僕はゲラゲラと笑ってしまった。
あんな風貌で童話を読むシリウス様と、花に囲まれた悪魔像が重なって見えたからだ。
似合わなくて脚立の上で笑いが止まらなくなる。
雪にしっかり支えられながらも笑うたびに振動が伝わりグラグラ揺れた。
持っていた雑巾の冷たさも忘れて笑い続ける姿は、それこそおかしいというのに。

「あ――」

その時ふと視線を感じて振り返った。
庭から伸びる野外階段の一番上にシリウス様の姿を発見する。
噂をすればなんとやらでテラスに出ていたのだ。

「旦那様」

僕は見上げて目一杯に手を振る。
もちろんうんともすんとも言わない。
判っていたから尚更おかしくて、脚立から降りると一目散に野外階段を駆け上った。

「はぁはぁ……へへへ」

一気に三階まで駆け抜けるのはさすがに疲れる。
彼の前までいくと、息を荒く吐きながら腰を折って呼吸を整えた。
それを黙って見下ろしている。
さすがにテラスは見晴らしがいいせいか風も強かった。
いきなり走って火照った体に心地良い風が通り過ぎる。

「ずいぶん楽しそうだな」

一人で笑っていたところを見ていたのか、彼はそう呟いた。
僕はニヤニヤ笑いが止まらず、悪戯っぽい笑みでシリウス様を見上げる。

「へへ、実は」

掻い摘んで想像していたことを話した。
無論、童話がシリウス様に似合わないという部分はカットする。
この庭に花を植えたら綺麗だと思うこと、沢山の虫や鳥がやってきたら楽しいだろうと話した。
いつもの様に僕が延々と話し、彼はただ頷くばかりである。
だがそれがいつものスタイルだった為、構わずに話し続けた。
シリウス様は植物の薀蓄から雲の名前まで、話したい事は何も言わずに聞き続けてくれる。

「で、今はカラスぐらいしか来ませんけど、きっとここも――――くしゅんっ」

すると話し途中でくしゃみが出てしまった。
走ったあとは気持ち良かった風も、体が落ち着いた今じゃ寒く感じる。
しかしそれ以上に話したい気持ちが大きかったから何とも思わなかった。

「ここも――」

僕は何事もなかったように話を続けようとする。

ふわっ。
すると突然シリウス様がガウンを脱ぎ、僕に掛けてくれた。
急に暖かさを覚えた体は驚いてピクリと反応する。

「だ、旦那様。ダメです。これじゃ旦那様が寒いはずです」

ふんわりと包み込むガウンはシリウス様の匂いがして、急に胸の鼓動が速くなっていく。
慌てて脱ごうとしたが、その手を引っ張られてしまった。
両手を包み込むように握り締められる。

「だだ、旦那様?」

彼の手は温かくて暖炉にかざしているようだった。
倍近くある大きな掌は指先まですっぽり収まってしまう。
突然の事にあたふたしながら見上げるが、何を考えているのか判らなかった。
おかげで僕だけが取り乱している。

「冷たい」
「あ、ああっあの、さっきまで水仕事していたから……そのっ」

肝心の雑巾は悪魔像の上に置きっぱなしであった。
後からその事に気付いて何とも言えない気分になる。
(仕事を放ったらかして何やっているんだろ)
ついシリウス様の姿を見つけると駆け寄ってしまうクセがついていた。
その場面を見ていたジェミニが苦笑していた事を思い出す。
これじゃ尚更子分と言われても無理はない。
(うーやばい)
だが今は他人のことを考えていられるほど余裕を持っていなかった。
まるで全身が心臓になったみたいに鼓動が響く。
寒かった体が異常に熱くて、息苦しさすら感じていた。
初めて触れた手の暖かさや、彼の匂いに、心臓が飛び出そうになっている。
なぜそんな風になるのか理解できなかったが、体が反応しているのに説明のしようがない。
(もしこの手を握り締めたらどんな反応してくれるのかな)
今は彼任せの掌に、もし意志を見せたらどんな風に僕を見るのだろう。
実際は恥ずかしさのあまり下を向いて、彼を見られなかったが、気になって仕方なかった。
始めの頃と態度が違ってきている事に変な期待をして、やはり自分が特別なんじゃないかと思い始めている。
あまりに自意識過剰な気持ちに呆れるが、思わずにはいられなかった。
願望が次第に現実味を帯びている幸せと、触れそうで触れられない距離がもどかしくて悩ませる。
特別だからどうなるとも知らず、単純に彼の一番が自分であったらいいなんて浅はかな感情を抱いていた。
使用人としては図々しすぎて涙が出そうである。

「ばかもの」
「え…………?」

すると彼は見下ろして穏やかに微笑んだ。
その顔に驚いたと同時に触れていた手が離される。

「後でジェミニに手荒れの薬を持たせる」
「え……あっ……」

それだけ言うとテラスを抜けて城内へと入っていった。
僕は立ち去ったあとも動けず、固まったまま突っ立っている。
(わ、笑ったよね)
確かに今シリウス様は笑った。
前回は一瞬過ぎて見間違いかと思ったが、今回は絶対に見間違いではない。
僕はガウンを掛けてもらったまま返しそびれた事にも気付かず、シリウス様の笑みに気を取られていた。
そうすると「ばかもの」の言葉にすら愛を感じてしまう。
それこそ馬鹿な奴だが、今の言葉には不思議とそれ以上の意味が織り込まれている気がした。
ここまでくると勘違い野郎だが、この際無視をして喜びに浸る。

「やばい、嬉しい」

思わず声に出してしまったのがその証拠だろう。
僕はガウンを脱いでぎゅうっと抱き締めると、馬鹿みたいにヘラヘラ笑い続けた。

おかげでその日は一日中どんな仕事をしていても楽しかった。
むしろ自らそっせんしてお手伝いに励んでいた為、周りも不思議そうに僕を見ていた。

「あらあら、ずいぶんご機嫌さんね」
「あっジェミニさん」

彼女はいち早く僕の状態に気付くと茶々を入れるように話しかけてきた。
ジェミニの事だからそれがシリウス様関係だと気付いているだろう。
厨房で夕食の洗い物をしているところに彼女が汚れた食器を持ってくる。
だからそれを受け取り他の食器と一緒に桶の水に浸けた。

「大体想像がつくからあえて聞かないけど旦那様が呼んでいるわ」
「え?」
「ほら、もうそろそろお勉強の時間でしょう?」
「あ」

時計を見ればいつもの時間になっていた。
日中は使用人としての仕事がある為、大体が夕食後から寝る前までが勉強時間になっている。
書庫を掃除している時に旦那様がやってくるとそのままそこで勉強タイムに入るが大体は夜のまったりした時間の中で行われていた。

「今日も特別に美味しい紅茶とお菓子を用意したから持っていってね」
「はいっ。ありがとうございます」

側のカウンターにはいつの間にかジェミニが用意してくれたティーセットとお茶菓子が可愛いお盆に乗せられて置かれていた。
彼女は僕の仕事を代わってくれると「早く行きなさい」と促してくれる。
だから僕はジェミニに一言お礼を告げるとお盆を持って厨房を立ち去った。
そして小走りに寒い廊下を抜けると居間への扉を押し開ける。

ガチャ――。

重厚な扉は音に似合わず軽い力で開く。
その先にはいつものように丸テーブルの横に座り暖炉に当たっているシリウス様がいた。
テーブルの上には今日読む童話が何冊か置かれている。
彼は僕が入って来たことに気付くと小さく促して手招きした。

「遅くなってすみません」

日が落ちて静けさを取り戻した室内はどこか穏やかで心地良い雰囲気であった。
暖炉のお蔭で廊下に比べるとずっと暖かい。
僕は一度お辞儀をすると彼の元まで向かった。
そしてテーブルの上にカップやお菓子を置くとポットに入った紅茶を注ぐ。
今日の茶葉はアールグレイだった為、淹れただけで独特の香りが辺りに広がった。
それを彼は冷ましながら口をつける。

「さて始めるとするか」

それが授業開始の合図で僕はシリウス様の隣に座ると彼の手元を見ながら耳を傾けた。
この頃になるとだいぶ文字の意味が判るようになっていた。
幸い童話という子供向きな教材が適していたのかもしれない。
また同じような表現を多く使う為、覚えやすかったのもひとつの理由だ。
シリウス様は飽き性っぽく見えるが実は粘り強く根気良く僕に文字の意味や使い分けを教えてくれる。
この時ばかりは主人と使用人ではなく先生と生徒という立場であった。
授業中はたとえセルジオールといえども気を利かせて入ってこない。

「じゃあそろそろ一旦休憩とするか」
「はい」

キリがいいところで一度休憩をとることにした。
開いていた本を閉じるとテーブルの端に置く。
僕は温くなってしまったティーポットを換えようと席を立った。
すると彼は僕の服を掴んで首を振る。

「かえなくていい」
「え、あ……でも」
「そのままでいい」
「……わ、わかりました」

本人がそういうのならかえる必要はない。
だから僕は大人しく席に座りなおした。
先ほどまで勉強をしていたという事もあり騒がしかったせいか余計に今の静寂が耳に障る。

「あ、そういえば昼間お借りしたガウンを部屋に忘れてきちゃいました。今急いで取りに行って来ます」

なんだか居ても立ってもいられなくて僕はもう一度立ち上がった。
するとまたもや首を横に振られて僕は再度イスに座りなおす。
シリウス様は喋る事もせずただゆっくりと紅茶を飲んでいた。
いつもより響く時計の音が余計に緊張を促して僕を煽る。
考えてみれば静かな部屋に二人っきりなのだ。
いつもならここぞとばかりにペラペラと喋り始めるが昼間の事を思い出すとシリウス様の顔をまともに見れなくなる。
むしろティーカップを持つ手に意識が集中してそこばかり見ていた。
(手、大きかったな)
ふと自分の手を見つめて開いたり閉じたりするが指の太さや長さが全然違う。
僕のじいちゃんは年中鍬やシャベルを持っていた為、豆が沢山潰れて硬く強張った手をしていた。
それに比べてシリウス様は筋張っていて綺麗な手をしている。
本人は剣を遣うようだし独特の豆はあったがじいちゃん程ではない。

「私の手がどうした?」

すると真剣に見入っていたところでシリウス様が声を掛けてきた。
さすがに見すぎていた事には気付いたみたいで不思議そうに首を傾げている。

「なっなんでもないです」

まさか昼間の事を思い出していたとも言えず大げさに手を振って答えた。
顔が熱くなりまともに顔を合わせられず勢いに任せて立ち上がる。
そしてそのまま窓際まで行くと一気に窓を開けた。

「さむ…っ…」

さすがに夜の森は冷たい空気で蠢いている。
開けた途端に入って来た風はまだまだ冬の匂いを強く残していた。
暗い森には当然明かりひとつ見当たらず大海原のようにどこまでも黒が続いている。
雪の白に混じって潜む陰鬱は見ているだけでも背筋を寒くさせた。
それに比べて空を見上げると風が強いのか先ほどから薄い雲が月に掛かっては形を変えていく。
時折降り注ぐ月光はあまりに儚く優しさを帯びていた。

「当たり前だろう」
「あっ」

すると後ろから忍び寄る気配がした。
空に気を取られていた僕は振り向くと同時にドキッとする。

「だ、旦那様っ」

彼は側に置いてあったブランケットを僕の肩に掛けてくれた。

「お前はもう少し学習能力を身に付けた方がいい」
「う」
「そんな薄着じゃ風邪を引く」

僕は尤もなことを言われて縮こまった。
昼間でさえガウンを借りたのに同じ過ちを繰り返している自分に呆れる。
だが柔らかな毛編みのブランケットが肌に馴染んで温かい。
そして何より自分の体を案じてくれることが嬉しかったのだ。
ほんの些細な気遣いが嬉しいのはきっとシリウス様が不器用な人だと気付いたからである。
だから小言だろうと口元が緩んでしまう。
(また触れたいなあ)
元々触れる以前に近寄る事すら嫌悪する人だ。
近づけるようになるまで結構かかったというのに、人の思いは貪欲で次々にその先を欲してしまう。
昼間のように手が触れるなんて事はもしかしたらもう二度とないかもしれない。
それほどに貴重な出来事であった。
僕は掛けられたブランケットの端をきゅっと握り締める。
何だか無性に甘えたくなって胸が疼いた。
(き、斬られてもいいや)
否、実際はこんなところで斬られるなんて堪ったもんじゃなかった。
痛いのは嫌だしもちろん死にたくない。
だが僕はそれほどに意を決して行動に移す事にした。
といってもやっぱりちょっと怖いから大胆な事は出来ない。

トン――。

僕がしたのは半歩後ろに下がってシリウス様の体に身を預けることであった。
その時のドキドキは僕の人生において比べ物にならない位激しいものである。
それは斬られることへの恐怖か触れることへの恥じらいか判らないほど双方に気持ちが分散していた。

「……っ……」

だがありがたい事に斬られる気配はなかった。
僕はシリウス様の胸より少し下に頭を預けるような格好になる。
そっと触れた部分は緊張のせいか上手く体重を預けられずにいた。
こうなると次に怖いのはシリウス様の反応である。
幸い第一難関を突破したわけであるが、すぐに次の壁が立ち塞がっていた。
彼が今どんな顔をしているのか物凄く気になったが見上げる勇気はない。
さすがにそこまで神経図太くないものである。
ただ僅かに聞こえるシリウス様の鼓動が後頭部に響いて心地良いリズムを作っていた。
それは僕と同じくらい――否、僕より速くて激しい音である。
こんな音を聞かせられたら彼も同じ気持ちなのかと勘違いしてしまいそうだ。
しかしいつまで経ってもシリウス様は口を開かず、されるがままになっている。
さすがに何もいってこない彼とそのままでいるべきか迷った。
(迷惑じゃないかな?嫌じゃないかな?)
そうしている間にどんどん時は過ぎていく。
だが初歩的な事に気付いた僕はあっさりと体を離してしまった。

「……って、すみません。僕だけ暖かい格好しているのにこれじゃ旦那様は寒いですよね」

いつまで経っても自分の事しか考えられずその幼稚さに苦笑いをする。
何より今日の授業はまだ途中で少しの休憩であったはずだ。
それにしては随分経っている気がして窓の取っ手を掴むとそのまま閉じようとする。

「!――」

すると僕の手の後ろからにゅうっと太い腕が伸びた。
と、思った時には自分の掌は奪われていて彼の手の中にあった。

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