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***

 

城は今日も多くの人で賑わっていた。
僕は王子に姿が知られてしまわぬように人目を隠れながら行動する。
前回フラフラするなと怒られた僕だが、肝心のモニカ達はさっさとどこかへ消えてしまった。
仕方がなくダンスホールの隅でひっそりとシャンパンを口にする。
見回せば豪華なドレスに身に纏った男女が踊っていた。
口を開けば妬み憎しみが聞こえてくるものの、こうして見れば美しい。
ステップを踏む足だとか、柔らかな上体は見ているだけで夢のような気持ちにさせる。
華やかな男女の姿はどこから見ても完璧で圧倒された。
だから改めて思う。
自分がこの中に入ったらゴミ以下の存在なのだろうと。

「あ、来たわ!」

すると傍に居た女性が一際明るい声で呟いた。
同時にダンスホールに居た全員が止まる。
僕は興味本位で人々の隙間から覗き込んだ。

「あ…」

見ると中央の階段から三人の青年が下りて来る。
一番後ろから歩いてくるのはあの王子だった。
数日前にお会いしたばかりの彼の姿に不覚にも胸がきゅんとする。
他の二人は察するところ兄達だろう。
この国には三兄弟の王子がいる。
三男がクラウス様だ。
その中の一人が指揮者に合図した。
同時にオーケストラは演奏を再開させる。
ホールに居た男女も再び踊り始めた。
周囲は未に王子達の登場にざわめきたっていた。
誰が一番だとか誰が王のあとを継ぐだとか話している。
それが居心地悪かったから外に逃げようと歩き出した。
しかし人混みにかさばるドレスは歩きづらい。
だからといって人波を掻き分けて堂々とホール内を突っ切っていったら王子に見つかるだろう。

「はぁ…」

仕方がなくホール内が落ち着くのを待って会場を出る事にした。
暫くしたら騒ぎは収まるだろう。
だから僕は隠れて王子の様子を伺った。
王子達は玉座にいた父親である国王に挨拶をしている。
それが済むと今度はその周りに人だかりが出来ていた。
いかにも偉そうな人達と話している。
だが、彼は浮かない顔をしていた。
初めて会った時の笑顔など嘘のように冷たい顔をしている。

「…っぅ…」

まるで貼り付いたお面の様に顔を崩さない王子に体のどこかが痛くなった。
五感を越えた感覚が内臓を摘む。
それはまったくの知らない姿だった。
同じ顔なのにまるで別人に見えて怖くなる。
その挨拶が済んだ三人は女性達のもとに向かった。
僕なんかよりずっと豪華なドレスを身に纏った彼女達はきっとどこかの国のお姫様なのだろう。
身に突ける宝石は結構離れたこちらの場所まで輝いて見えた。
ふわふわな巻き毛に青い目が愛らしい。
まさに理想とする姫君たちだ。

「……?」

だが彼は不自然に辺りを伺っていた。
他の二人が周囲の女性と話しているにも関わらず見向きもしなかった。
ひとり輪から外れた王子は見回しながらこちらにやってくる。
僕は咄嗟に顔を背けると気付かれぬ様に屈んだ。

「おっと」
「わっ」

するとそこに年老いた紳士とぶつかってしまった。
彼のふくよかな体が僕の小さな体を突き飛ばす。

「…失礼。大丈夫ですか、お嬢さん」
「あ、すみませんっ…」

つい王子に気を取られて前を見ていなかった。
その紳士はぶつかった僕の腕をぐいっと引っ張って支えてくれる。
怒られるかと不安げに見上げれば彼は優しく笑っていた。
だからホッと息をついて体勢を整える。

「――エマ!」

そこに王子の声が響き渡った。
瞬間、ホール内がシンと静まり返る。
だから恐る恐る振り返った。

「お嬢さん?」

未だ僕の手を握り、体を支えてくれていた紳士は不思議そうに呟いた。
まさか王子に声を掛けられたのが僕だとは信じられないだろう。
だが王子は一直線にこちらへ向かってくる。
同時に周囲は道をあけた。
まるで波が二つに割れるように僕と王子の間に一本の道が出来る。
いつの間にかオーケストラ達は演奏をやめていた。
皆が僕の顔を見て驚いている。
だがそんな彼らの戸惑いを余所に王子は躊躇いもなく僕の元へやってきた。

「エマ」
「あ…」
「良かった。また、会えましたね?」

僕の前までやってきた彼は嬉しそうに笑った。
途端に表情が変わる。
それが僕の知っている王子の顔だと気付いた時には胸がいっぱいでろくな返事も出来なかった。
そんな僕に王子は軽くお辞儀をする。
そしてスッと手を差し伸べてきた。

「――それではエマ」
「え?」
「宜しければ私と踊って下さいませんか?」

その手に驚いて彼を何度も見てしまう。
この状況を理解出来ずに戸惑いを露にした。
色んな人達が僕らを見て驚いている。
いや、驚きを通り越して何が起こっているのか分からないだろう。
こんなみすぼらしい娘が王子に話しかけられたのだ。
家名も分からない女が紛れ込んできたくらいにしか思っていなかったはず。
でも本当は僕が一番驚いているのだ。
だってまさかこんな風にダンスのお誘いをうけるとは思わなかった。
美しい姫でもない僕が王子に誘われている。

「あ…でも、わたし…」

僕は自分が踊れない事に気がついた。
だから王子に手を重ねようとしていたところでピタリと止める。
この状況で王子の誘いを断れば彼に恥ずかしい思いをさせるだろう。
だが一緒に踊っても恥ずかしい思いをさせてしまう。
僕のせいで彼が笑われ者になるのは嫌だった。
自分ならどれだけ笑われても蔑まれても慣れている。
だけど王子に同じ思いをさせたくなかった。
先ほどの冷たい人形のような顔が頭を過ぎって胸が痛くなる。

トンっ…

するとどちらの選択も出来ず焦っている僕の背中を誰かが押した。

「え……?」

驚いて僅かに振り返れば、先ほどの紳士が僕を見て軽くウインクをする。
そのまま誰にも気付かれないように背中を数回叩いた。
まるで「いっておいで」と言っているような優しい手の感触が背中に伝わる。
僕はその紳士に小さく頷いた。

「お、お願いします」

王子の方に振り返り緊張しながらその手を取った。
一歩前に歩み寄る。
すると王子はさらに嬉しそうな顔で笑った。
彼は僕の手を優しく握ると慣れた手つきでエスコートする。
その光景に周囲はざわめき始めた。
止まっていた時計が動き出すみたいにホール内は騒がしくなる。
それに合わせて演奏を忘れてこちらを見ていたオーケストラも慌てて演奏を再開させた。
見回せばみんなが僕と王子を見ている。
先ほどの静けさが嘘のようにヒソヒソと陰口を叩いているのだ。
身分違いもいいところである。
しかも国王の前で彼は躊躇う事無く僕の名を呼んだのだ。
それがどういう意味なのかは誰だって分かるであろう。

「あ、でも…王子様」
「ん?」
「私っ…踊れないんです」

今の僕はそんな事まで考えていられなかった。
彼は手を引いてホールの中央に向かう。
隅っこでひっそりと楽しんでいた僕が、広いホールの中にポンッと入ってしまったのだ。
あれほど場違いだと謙遜していた場所に向かおうとしている。
ダンスも踊れない僕が。

「……大丈夫です」

王子は真ん中で止まった。
そしてもう一度会釈する。
僕もそれに合わせてぎこちなくお辞儀をした。

「私がリードします」
「で、でも…」
「上手く踊れなくてもいいじゃないですか」
「でもそれじゃ王子様が笑われてしまいますっ」

只でさえ注目の的なのに申し訳なくて消えたくなる。
だが王子は僕の腰に手を回し、片方の手で僕の手を握り締めた。
そうして踊る準備をする。

「――いいじゃないですか」
「え?」
「誰に笑われたって痛くも痒くもありません」
「で…でで、でも」
「それよりもまた貴女に会えた事が嬉しい!」

王子はぎゅっと抱き締めた。
明るい声色にチラッと顔を覗けば笑っている。
僅かに覗いた八重歯が可愛くて息を呑んだ。
僕も王子に触れる手を強める。

「自分達が楽しければいいんです。下手でも不恰好でも構わないんです」
「あ…」
「私は貴女だから踊りたかったんです」

その顔は本当に嬉しそうだった。
――そう。
王子は雨の日も風の日も城を抜け出して僕を探し回っていた。
ただ僕に会いたいという気持ちだけを募らせて。

「ダンスは楽しいのが基本です」
「…っ…」
「だから今夜は二人で思いっきり道化になってしまいましょう?」
「王子様…」
「どうせならホール中の人間に笑われるぐらいに、ね」

そういって僕に笑いかけてくれた。
会えた喜びが彼に笑い皺を作らせるのだろう。
その顔が愛しくてどうしたらいいのか分からなかった。
だから僕も覚悟を決める。

 

「はいっ」

そして王子に負けないぐらい目一杯に笑った。
丁度良くそこに軽やかな音楽が流れ始める。
僕は高鳴る心臓に落ち着けと言い聞かせた。
それを分かっているのか王子は耳元で「大丈夫」と囁いてくれる。

「そこで右足を一歩…そう、上手です」
「わっ…」
「ここで私に体を預けて」

王子は軽やかなステップを踏みながら動き始めた。
踊れない僕にリードしながら優しく教えてくれる。
僕は言われた事に必死で外野の声すら入ってこなくなった。

「あっ…ごめんなさっ!」

するとステップについていけず王子の足を踏んでしまう。
高そうな靴を思いっきり踏んでしまった。
慌てて飛びのく僕に彼はクスッと笑って背中を撫でてくれる。

「大丈夫。気にしないで」

そのまま何事も無かったようにダンスは再開された。
王子は僕の間違いを上手くカバーしてくれる。

「次はそこで上体を反らして。大丈夫、支えてありますから」
「ん」

まるで彼の手の中で踊っているような気がした。
ぎこちない足の動きも王子のおかげでなんとかなっている。
―――ドン!
「わわっ…」

すると今度は傍で踊っている貴婦人にぶつかってしまった。
彼らは王子にぶつかってしまった事に困った顔をする。
怒る事もバカにする事も出来ずにどうしたらいいのか分からないといった表情だった。

「すみません」

王子はニコッと笑って一礼する。
だから僕も傍で深々と頭を下げた。
それに驚いた男女は何事も無かったようにダンスを再開する。

「ふふ」
「王子様?」

しかし王子は楽しそうだった。
満足に踊れない僕を相手にして足だって踏まれたし、ああして他の人にぶつかったのに気にした素振りは見せない。
再度、僕の腰を引き寄せるとまた踊り始めるのだ。

「すみません。私…」

その姿になんだか居た堪れなくなってぼそりと謝ってしまう。
すると彼は首を横に振った。

「なぜ謝るのでしょうか?」
「…だ、だって…」
「私は今とても楽しいんです」

王子は僕の額に小さくキスを落とした。
思わず顔を上げてしまう。

「こんなに楽しい舞踏会は初めてです。この時間が永遠に続けばいいのに」
「え?」
「エマはどう?やっぱりつまらなかったでしょうか?」

王子は心配そうにこちらを見つめていた。
僕は踊りながら必死に首を振る。

「わ…私も楽しいです」

そういうのが精一杯だった。
すると王子はその言葉にまた顔をくしゃくしゃにして笑う。

「良かったっ」

そうしてまた彼は軽やかに僕の体を支えた。
だからくるっと回ってそっと王子の体に身を寄せる。

「じゃあもっともっと楽しみながら踊りましょう?」
「はいっ」

そうして僕たちは踊り続けた。
最初はぎこちなくカチカチだった体だが、次第に音楽を聞く余裕すら出てきた。
徐々に間違えるステップも減っていく。
安心して任せられる王子のリードに体が軽くなった。
密着したままクルクルと回って、時に身を預けて、上半身を反らせて。
完璧じゃないし不恰好かもしれない。
動きだって大雑把で周囲から見たらあの下手糞な踊りは何だと笑われるだろう。
だが、僕たちは気にせず踊り続けた。
美しいシャンデリアに光沢を放つ大理石の床。
演奏家達の調べを聞きながら僕はホールの中央で踊っている。
それがどれ程の幸せなのか検討もつかなかった。
舞踏会の華とは言いがたいが、こうして城の中でドレスを身に纏いダンスに耽る。
今の時間ならいつもはきっとホコリだらけの屋根裏部屋で一人本を読んでいるだろう。
皸の手を擦り泣いた夜もあった。
一人ぼっちが心細くて部屋の隅で震えた夜もあった。
そんな時、窓から見える城を眺めては母親の言葉を思い出した。
正直に誠実で心優しくいれば、いつの日かきっと幸せになれる。
神様が見ていて下さって僕に許しを与えてくださる。
―――いつかのシンデレラのように。

「エマ」
「王子様」
「貴女が好きです。誰よりもずっと……」

僕は今、その幸せの中にいた。
ずっと忘れていた人の温もり。
王子に触れる度にそれを思い出しては胸を掻き毟りたくなった。
嬉しくて暖かくて、ほんの少し切なくて。
有り余るほどの愛しさを胸に抱いて王子の体温を感じる。
ただただ楽しくて二人は顔を見合わせる度に微笑みあった。

それから数曲踊り続けた僕たちは中庭へと出て行った。
王子に手を引かれて噴水のところまでやってくる。

「ぷっ」

二人で顔を見合わせて吹き出した。

「ははっ。見ました?みんな私達の事を変な目で見ていましたね」
「ホント!凄く不思議そうに私達を見ていたわ」

ホール内に居た紳士淑女達は揃いも揃って狐につままれたみたいな顔で僕たちを見ていた。
その顔が間抜けで笑える。
完璧に踊れるわけでもないのに堂々と真ん中で踊ってしまった。
曲の後半には僕も慣れてきて、それはもう楽しいひと時だった。
下手糞なくせに楽しそうに踊る僕たちはあまりに異質。
きっとどんな反応をしていいのか分からなかったのだ。
今頃は出て行った僕たちの話でいっぱいかと思うと尚更おかしい。

「私今日は本当に楽しかったです。まるで夢を見ているみたいで…」

噴水の縁に腰掛けて精一杯深呼吸をする。
時折吹く風にひらひらとレースが揺れて水面が波立った。

「……私もです」

王子は僕の隣に腰掛けた。
そっと僕の手の上にその手のひらを重ねる。
その仕草にドキッとして顔を上げたら王子は優しく微笑んでいた。

「っ…」

だから恥ずかしくてなって思わず顔を背ける。
彼は僕の手を握り締めた。
手の暖かさに王子をチラ見する。
だが彼は変わらず優しい目で僕を見つめていた。

「よっ……」
「よ?」
「あ…う…」

その顔に胸の鼓動が煩くなる。
だけどそれ以上に嬉しかったから気にならなかった。
彼には悲しい顔をさせたくないし、今日みたいな冷たい顔も嫌だ。

「……良かったなって」
「え?」
「私、王子様にはそうやってずっと笑っていて欲しいんです」

この世界はお伽話なんかじゃないから、苦しい事も辛い事も沢山あると思う。
ご都合主義ではないし、貧しい人を助ける神様も心優しい魔女も存在しない。
皆が幸せであるようにと願いながら、影では多くの人がもがき苦しんでいるのだ。
祈りを捧げながら虚しく死ぬ者も、無神論を掲げて己の道に走る者も欲しいのはただひとつ。
限りない幸せと安息の地。
物語と違って現実には約束された未来などない。
だからこそこの目に映る人達には笑っていて欲しいのだ。
それが愛する人なら尚更。

「王子様の笑っている顔が好きです」
「エマ」
「だからずっと笑っていて欲し――」
「……っ……」
「わっ…」

すると言い終わる前に王子に抱き締められてしまった。
まるで逃れることを許さない抱擁は強くて暖かい。

「お、王子…様…?」

彼はぎゅっと僕を抱き締めたまま動かなかった。
背中に回った手は未だ僕の動きを封じている。

「…………いつか」
「え?」
「いつかあなたの様な素晴らしい人が私の前に現れますようにと祈っていました」

すると王子の体は少しだけ震えていた。
湿った声が胸に響く。

「私はこの国の王を父に持ち、出来の良い兄が二人居ます」
「………」
「二人は跡継ぎの事で揉めていました。本来なら王位継承権第一位は長男ですが彼は側室の子で……」
「え?」
「その事で王室はずっと揉めていました。しかし父はそういった話を疎ましく思い今度は私に跡を継がせると言い出したのです」
「お、王子様が……」
「今じゃ三つ巴状態ですよ。表面的には分からないでしょうけど、それはもう酷い有様です」

そういって苦虫を噛み潰したように笑う彼は苦しそうだった。
だからぎゅっとしがみ付く。
すると僅かに王子の雰囲気は和らいだ。

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