11

城へ行くとクラウス様とエマルド様が温かく迎えてくれた。
エマルド様はさっき会った時にはもう全部知っていたようで困ったような笑みを浮かべていた。
先ほどの無礼を謝ると、彼は、

「そうじゃないんです」

と、首を振ってもどかしそうにした。
僕はその晩、城の広い部屋を宛てがわれて眠りについた。
二人は優しかったし、ご飯も美味しかったし、文句のつけようがなかった。
部屋は鮮やかな絵画が飾られて、白いふかふかのベッド、高い天井と、大佐の家と比べて雲泥の差である。
そもそも僕は大佐の家では狭い屋根裏で寝ていた。
もう窮屈な思いはせずにすむのに、その日は落ち着かなくて朝を迎えるまで何度も目が覚めてしまった。

翌日は祭だったが、昨日の出来事が尾を引いてみんな白けていた。
いまだ残る瓦礫を前にして大騒ぎは出来まい。
せっかく建てた木の塔も舞台も壊されて使えない状態にあった。
これでは全くといっていいほど盛り上がらず、それどころか、

「くそったれ、あいつら全部壊していきやがって」
「こんな時に祭気分なんて味わえるか」
「だいたいなんであんなことになったんだ。もっと兵士が多ければ早く鎮圧出来たのによ」

人々の口から出るのは愚痴ばかりだった。
徹夜での作業も体に響いているようだ。
陽が沈み、城の大通りに木を組み立て火を放つが雰囲気は思わしくない。
中には昼間の修繕で疲れているのか眠りこけている者もいた。
火の前に建てられた舞台も、簡易的にしか作り直せなかった。
そこで住民たちの歌や踊りが披露されるが、野次ばかりが飛ぶ。
今度はその野次を注意する声が飛ぶ。
双方で喧嘩になると、舞台に立っていた演者は萎縮して中止してしまう。
その悪循環を繰り返していた。

「本当はこんなはずじゃなかったのに」

僕は隅っこでポツンと祭の様子を眺めていた。
火を囲むように住民たちが座り込んでいたが、その中に大佐の家族を見つけて胸が痛む。
ドリスさんとフィデリオには祭が始まる前に会った。
だけど二人とも態度がよそよそしかった。
それまで本当の家族のように接してくれたのに、困惑して目配せをする二人はほとんど口を訊いてくれなかった。
僕が貴族だからか、それとも生まれを黙っていたことに気を悪くしてしまったのか。
どちらにせよ、もうあの楽しい日々はやってこないのだ。
そう思うと孤独で、いっそのこと消えてしまいたいとさえ思った。
(いつも僕は空回りばかり)
ことごとく物事が上手くいかない。
それは王都にいた時も今も。

すると、その時――後ろからぐいっと服を掴まれた。
驚いて振り返ると泣きそうな顔のアロイスとエルザがいた。
いつの間にこちらへ来たというのか。
二人は向こうから僕を見つけてやってきたらしく、そのまま手を引かれて薄暗い路地へ連れていかれた。

「どういうことだよ!」

アロイスは頬を膨らませて怒っていた。
その隣でエルザは大きな瞳に涙を溜めている。

「急にクラリオンおじさんがもうミシェルには会えないって言い出したんだ。喧嘩でもしたのか!それとも偉いやつになったから俺たちを見捨てたのか!」
「違うよ!僕はそんなこと言ってない!」
「でもミシェル昨日帰ってこなかったじゃないか。母さんも父さんも兄ちゃんもみんなしょうがないってよく分かんないこと言うし。あげくお前は黙ってろって怒られるし!」
「……ミシェル…、わたしたちのこと嫌いになったの?」

二人に言い寄られて困った。
だって僕だってみんなと一緒にいたいんだ。
(だけど、大佐が……)
僕は怖かった。
大佐に突き放されて、あれ以上縋り付くことなんて出来なかった。
だって嫌われたくなかったんだ。
もし拒絶されたらと思うと何も出来なくなる。
だからあの場では大佐の望むがままに従ってしまった。

「違うんだよ。これ以上みんなといたら僕が嫌われちゃうんだ。だから僕……」
「俺は嫌いにならないよ」
「わ、わたしも!」
「そうじゃないんだよ。だって僕は何も出来ない。だめなやつだから」

本当は家柄関係なく、僕は弱虫でぐずで、大佐の傍にいられないんだ。
これ以上近付いたところで、落胆が大きくなるだけである。
始めから叶わない願いを胸に秘めてしまったんだ。

「だったら出来ることからやればいいじゃん!」

するとアロイスは、それまでの険しい表情を緩ませ、さも簡単だと言いたげにふんぞり返った。
僕は背中を丸めて首を振る。

「僕に出来ることなんか……君たちと遊ぶくらいで」
「はぁ?本当に何もないのか?」
「本当に?」

二人してあめ玉みたいな瞳で覗き込んでくる。
子どもの無垢な眼差しはどんな凄味ある睨みより効いた。
その瞳に映ることを躊躇う。
僕はとうに汚れた人間だ。
そんな自分を見られたくなかった。
己に恥じ、臆し、卑屈で嫌なところばかりが目につく。
後ろめたいこと、隠したいこと、逃げたいことから目を逸らしている。
楽な道が望んだ道と違えど、頭で納得させて忘れようとしている。
今さらヤマトの言葉が胸を貫いた。
最後に寄宿舎で話した時、あのころの僕を「愚か」と評した彼の心の痛みが、時間差で僕の心を震わせた。
あの時の僕は何も分かっていなかった。
それが大人になるということならば、人間とはなんて悲しい生き物なのだろう。

「僕は……」

たじたじになって壁に追いつめられる。

「ミシェルが気付かないだけで、本当はあるんじゃないの?」
「……それは……」

子どもの何気ない言葉は光る宝石だ。
アロイスの不審がるような呟きに昨夜の大佐の言葉が重なった。
そのせいで声に詰まる。
何も言えなくなる。

〝「見えていないだけ。あなたはたくさんのものに囲まれているのに、それを見ようとしていないだけなのです」〟
(ねぇ、大佐?本当に僕は見ようとしていないだけなのかな?僕に何があるのかな)
〝「ちゃんと見てください」〟
(僕は……僕は、何を持っている?)

大佐は嘘は言わない。
不器用なくらい愚直だから、初めて会った仮面舞踏会でも仲間に先抜けされ、女性に言い寄られ、困っていた。
だけど、僕の様子を心配してわざわざ戻ってきてくれたし、一緒にも帰ってくれた。
一番辛い時、何も知らない彼の言葉に救われて励まされた。
せっかくの家族水入らずの帰省にも誘ってくれて心癒す時間を与えてくれた。
彼は僕が何者であろうと同じことをしてくれたに違いない。
例え侯爵の息子でも、靴屋の息子だとしても、大佐は同じように笑いかけて温かい手で撫でてくれたに違いない。
(そういう大佐が好きで好きで……その好きな人の言葉を信じなくて誰を信じる)
僕が持っているもの。
考えるんだ。
ちゃんと、自分の中から絞り出すんだ。

「ミシェル……?」

二人は怪訝そうに僕を見上げた。
だがそれどころじゃなかった。
乱暴なくらい左胸のシャツを掴むと力をこめる。
今の僕にとって家柄しか誇れるものはない。
でも、それだって僕には価値がないし、力もない。
何より嫌悪すべきなのは、家に拘っている自分だ。
だってそれじゃ爵位だけを楯に威張っている貴族と変わりないじゃないか。
思い出せ。
僕が持っていること。
僕が望んでいること。
そもそも、王都へ上京してくる前の僕は自分の力で何かを成し遂げたかった。
道を切り開いてみたかった。
家にいれば自ずと兄さんたちに引っ付いていた。
遊びだって優しい彼らは時に手を抜いてくれたり、気遣ってくれたり、甘やかせてくれた。
自分が先頭に立って何かをするなんて一度もなかったし、それに対する不満もなかった。
しかし音楽との出会いがそれを一変させてくれた。
自宅のサロンへやってきたヴァイオリニストの出会いが僕の人生を変えてくれた。
それから僕は寝る暇を惜しんでヴァイオリンを弾き続けた。
兄さんたちには音楽なんて嗜み程度のお稽古ごとだったが、僕だけが演奏にのめり込んでいった。
いつか世界中の劇場を回るんだ。
僕が感銘を受けたように、誰かの心に残る演奏をするんだ。
密やかな夢が膨らみ、次第にそれは夢見るだけじゃ満足出来なくなった。
だから僕は一大決心をしてアルドメリア音楽院を受験した。
合格したあと、父さんには大反対をされたが、勘当同然で家を飛び出したのも、その夢があったお陰なのだ。
(ちゃんと見る)
僕は手のひらを開いた。
幼いころヴァイオリンを持つ左手が上手くいかず、何度もマメが出来た。
先生が厳しくて、姿勢が少し悪いだけで背中を板で叩かれた。
楽器を構え挟む時に出来る顎の痣は、膨大な練習量によっていつの間にかタコになってしまっていた。
兄さんたちは、狂ったように練習を続ける僕に「お前って凄いよな」と笑ってくれた。
いつも彼らのあとを追いかけていたからその言葉が何より嬉しかった。
(そうだよ。僕にはあるじゃないか)
やっぱり人前でヴァイオリンを弾くのは怖い。
でもそれ以前の、僕が朝から晩まで練習し続けた日々が支えてくれる。
やってきたことには必ず結果が出る。
どんなことでも必ず血肉となって身に付いている。
だから無駄じゃない。
何百回と弾き続けてきたことは、どんなに今を否定したって消せない事実だ。

「――――僕にもあった」
「やっぱりあったんじゃん」

アロイスは安堵したように胸を撫で下ろす。
対するに、僕は深く息を吸うと、

「だからちょっと行ってくる!」
「あ、え……ミシェル……っ?」
「そこで僕の持っているもの、ありったけ見せるから聴いていて欲しいんだ」

アロイスとエルザに手を振って駆け出した。
二人はぽかんと口を開けたままそれを見送る。
(そうだよ。僕は見ない振りをしてた。後悔したくないとか言いながら逃げていたんだ)
自然と溢れる笑みに足取りは軽くなる。
僕は人ごみを縫うように前へ進み、そのまま城内へと入って行った。
するとそこにはエマルド様の姿があった。
僕の姿に気付いた彼は、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う。
彼が大事に抱えていたのはヴァイオリンケースだった。

「あのっ、私……!」
「何も言わなくていいんです。きっとミシェルさんなら来ると思っていました」

そうやってケースを開ける。
中には古いヴァイオリンが入っていた。

「ありがとうございます!」

僕はそれを受け取ると踵を返す。
そうして舞台のある大通りへと向かって駆けて行った。

***

そのころ祭は盛り上がらないまま進行していた。
帰ろうかと片付ける者や、酒盛りして内輪だけで騒いでいる者たちもいた。
舞台にはもう誰も立っていなかった。
誰も見ていない。
誰も聴いていない。
拍手もない。
たまにある野次に耐えられるほど、演者だって強くない。
何せ彼らも町の住人なのだから。
(これが初舞台)
城から出てきた僕は、一目散に無人の舞台へ向かった。
その階段を躊躇いもなくあがる。
間に合わせで作ったためか、張り継ぎばかりで舞台と呼べるどうかも危うかった。

「おい、次はガキが出てきたぞ」

酔っぱらった男が僕を見て馬鹿にする。
燕尾服どころかシャツにズボンの僕は演奏家にすら見えない。
楽譜もなければ譜面台もない。
持っているのは楽器だけだった。
(それでいいんだ)
譜面なんていくらでも頭に叩き込んである。
この十日ばかりほど楽器には触れていなかったが、それでも不安はなかった。
壇上に立った僕はヴァイオリンを構える。
からかうような野次がひっきりなしに飛んでくるが、心は波ひとつ立たない水面だ。
(エオゼン様に感謝するべきかな)
彼から受けた嫌がらせに比べれば、どんな野次も小鳥のさえずりに聞こえた。
決して動じず、決して揺らがず。
僕は顔をあげると、弓を上からゆっくり引く。
チューニングにラの音を出した。
その一音は、野次を飛ばしていた者、騒いでいた者たちを黙らせるに十分な力を持っていた。
(なんて軽やかな音)
その甲高くなめらかな音に、僕自身鳥肌が立った。
さすがクラウス様が用意した楽器は違う。
きっと彼は最高のヴァイオリンを与えてくださったのだ。
あとは演奏者がその良さをどれだけ引き出せるかである。
(――――面白い)
僕は再び楽器を構えた。
驚喜に静まり返った人々を見下ろしながら、己の限界に挑む。
どこかでクラリオン大佐が聴いてくれていることを願って。

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