4

***

そのあとに起こったことは、あまり思い出したくなかった。
口では整理したいと言っておきながら、言葉にすることを躊躇っている。
その弱さに虫唾が走った。

「君は何者なの――?」

がらんとした部屋で怪訝そうにヤマトを見た。
表情を窺うのではなく、本心を知りたかった。
だがヤマトの心は肉体に阻まれ、どんなに目を凝らしても見えなかった。
それが余計に僕の不安を掻き立てた。

――――話は昨日の夕方に戻る。
あの日、楽器や本などの私物は、全部自主練室から自室へ移されたと思い、手ぶらで寄宿舎へ帰った。
ドアは不自然に隙間が開いていた。
僕はドアノブを握るとゆっくり引く。

「―――――っ――!」

すると、見えてきた部屋は、朝出かけた時とは比べ物にならないくらい無惨な状態になっていた。
本当にこれが自分の部屋かと廊下に出たくらいだ。
だが、この部屋こそ音楽院に入学してから今日まで生活していた場所だった。
足が震える。
家具からカーテンに至るまですべて破壊されていた。
壊されたのではなく、破壊されていたのだ。
瞬間、心からペロリと何かが剥がれた。
その何かは感情だったのか理性だったのか定かではないが、取り乱すことなく冷静さを保っていた。
まるで他人事のように俯瞰して室内を眺める。
ぐるりと部屋を見て回る。
服や本は破られて、ベッドや布団はナイフでズタズタ、机やヴァイオリンも原型を留めることなく潰されていた。
この部屋だけ巨大な竜巻に呑み込まれたみたいだった。
大きな暴力の跡がいくつも残っている。
一歩外に出ればいつもと変わらない日常が続いているというのに、落差が酷かった。
生徒たちの笑い声がここまで届いている。
まるで世界を分断されてしまったようだ。
あっちとこっちは、全然違った。
(どうして僕はあっちに行けないのかな)
楽しそうな声が残響する。
貝殻を耳に押し当てると、どこまでも波の音が聴こえるような、そんな声が繰り返された。
残酷な声だ。
途端に、頭のどこかがプツリと切れた。

「……………っぅ…」

すると、それまで客観的に見ていた視界が、突如自分のものとして降り掛かった。
実感が槍のように突き刺さった。
実体のない刃物が頭に、手に、腹に、足に、心に刺さった。
すると急に目の前が歪んだ。
まるで、描いた円をいびつに潰すようにぐにゃっと曲がった。
心は己の許容範囲を超える痛みを抱えきれない。
視界が歪んだのは、きっとそのせいなんだ。
見えるものが形を変えるくらい、脳が、心が傷を負った。
僕は眠気にも似た目眩に、その場で座り込んだ。
背後のドアは開きっぱなしだったけど、そこまで気が回らなかった。
腕が粟立つ。
うるさい音がすると思えば歯の音だった。
ガチガチと歯が鳴るほど僕は震えていた。
視線を落とすと、手のひらも震えている。
意図的に揺らしていると思えるくらい過剰に揺れていた。
(怖い)
異常だった。
あまりに異常すぎて悲しみより恐怖が勝った。
戦慄の部屋。
何せ、部屋の前を通った生徒が足を竦ませ、慌てて先生を呼びに行ったくらいだ。
普段ならどんな嫌がらせをしても見てみぬ振りをする彼らが、この時ばかりは大騒ぎとなった。
それくらい完膚なきまで破壊され尽くされていたのだ。
僕は体の力が抜けて、声を出すことも動くことも出来なかった。
足元には灰が溜まっている。
僅かな燃えかすの中には懐かしい母の字があった。
焦げ臭さが鼻につく。
僕の宝物を燃やした匂いだった。
僕はただ静観していた。
まるで人形のようにじっと座り込んでいた。
瞬きするたびに視界がぼやける。
涙が溢れたわけではなかった。
駆けつけた先生が僕の肩を掴んで、がなり立てるように喋っていたが聞き取れもしなかった。
人の騒ぎも川の流れのように見えた。
誰もが犯人を知っている。
だけど言及されることなく僕は違う部屋を与えられてこの件は終わる。
あとは声を封じられて、どんな発言も許されずに消える。
翌日からは変わらぬ日常が待っているのだ。
僕は練習する。
最も酷いことをした人のために、ちぎれそうな心を隠して楽器を手にする。
そう思っていたのに――。

「誤摩化さないでよ。どうして僕に声をかけたんだ?どうして、こんなこと……僕はっ……、僕は望んでいなかったのに」

翌朝、僕は手ぶらで登校した。
あらゆるものがなくなってしまったからだ。
唯一着ていた制服は難を逃れたが、余計に滑稽に見えた。
これ以上失うものなんてない。
そう思っていたのに、違った。
音楽院へ行くと、理事長や学院長、数名の生徒たちの姿が忽然と消えていた。
生徒は僕に嫌がらせをしていた人たちだった。
たった一夜の間に魔法みたいに消えてしまった。
それだけじゃなく、あのエオゼン様までもがいなくなってしまった。
彼らは、陛下によって国外へ追放となったのだ。
信じられない事態に弱り果てるが、それだけでは終わらなかった。
その日から音楽院に属するすべての人たちの目が変わった。
彼らは怯えていた。
まるで悪魔を見るかのように、先生も生徒も僕に恐れ慄き、瞳を恐怖の色で覆い尽くした。
今までなら肩がぶつかっても謝らなかった連中が、廊下の端を歩き、避けるように逃げていく。
教室では僕の机だけ異様に離されて、何か発言しようとすればまるで脅迫されているかのように青白い顔で訊いた。
僕は何もしていない。
それどころか被害を受けたのは僕だ。
今日はどんな酷いことをされるのだろうと不安に思いながら登校してきたのも僕だ。
なのに、今、この音楽院の恐怖の中心にいるのは僕だった。
いつの間にか僕が周囲に同じ気持ちを味わわせていたのだった。
なんていう皮肉。
見てみぬ振りをされていたころのほうが断然良かった。
過剰に怯えられることは僕の心を深く傷つけた。
ただでさえ部屋を荒らされて何もかもなくなってしまったのに、この仕打ちはあまりにも無情だった。
そこへ現れたのがヤマトだった。
僕が新しい部屋で呆然としていると、高価な楽器と陛下からの令状を持ってやってきた。
僕がエオゼン様の空きの分、宮廷専属楽団へ入るという命令を伝えに来たのだ。
僕は納得いかなかった。
だってこんなの望んでいない!

「前に一度言ったよね。僕は君の味方だよ。それで十分じゃないか」
「でもこんな酷いことをするなんて!」

僕は目の前にいるヤマトという人間が分からなくなった。
彼の瞳を覗き込むと、沈淵を覗いているような気がしてうすら寒くなった。
だから普段では出ないような感情剥き出しに怒鳴ってしまった。
信じられなかった。
ヤマトがエオゼン様を煽って僕の部屋を壊させた?
ありえない!
そのエオゼン様や理事長の財産を没収して、爵位も剥奪、国外追放なんて、もっとありえない!
こんな恐ろしいことを手引きしていたのがヤマトだと信じたくなかった。
ヤマトはそんなことしない。
だって彼はあんなに美しい歌声を持っている。
まるで天使のような声だった。
彼が歌う讃美歌は本当に神の許しに聴こえた。
僕はヤマトのお陰で久しぶりに音楽に触れられたのだ。

「酷いこと?僕は君に酷いことは何もしていない」
「でも、エオゼン様や理事長は……」

興奮しているのは僕だけだった。
ヤマトに心の揺れはない。
あくまで淡々と、

「彼らは当然の報いを受けたのだよ。惨たらしい因習を断ち切ってやっただけの話だ。君だって凄惨な虐めから解放されて楽になっただろう?しかも憧れの専属入りだ。これで一生食うに困らない」
「違う……違うっ!」
「何が違う?」
「確かに辛いことがたくさんあって、何度もやめようとした。だけど僕は実力を認めて欲しかった。そうすればいつかきっとエオゼン様も僕を評価してくれる。虐めはなくなるって」

我ながら甘い考えだ。
だけど僕はそう思っていられたから辛くても耐えてこられた。
自分の音楽がどれだけ通用するかなんて分からないけど、音は正直だから、いつかきっとエオゼン様のもとにも届く。
だからそれまで僕が歯を食いしばって頑張ればいい。
そう思ったから、どんな理不尽な嫌がらせを受けようとも練習はやめなかった。
音楽にしがみついていたのだ。
しかしヤマトは首を振ると憐れむように、

「浅はかな夢だ。君は清すぎた。あの男がそんなことをすると本気で思っているのか?」
「だから僕は挫けなかった!絶対に負けないって思って頑張っていた」

それがどんな戯れ言であっても拘りたかった。
じゃなきゃ僕はもう演奏出来なかった。
楽器なんか持てない。
僕は音楽に救われた。
どれだけの喜びと楽しさを与えてもらったのか計り知れない。
だから素晴らしい音を奏でる人は、心根も美しいと思っていた。
それはエオゼン様も、ヤマトも同じ。

「……君は愚かだよ」

するとヤマトの口元が歪んだ。
寒気がするほど艶かしい微笑みだった。
だから声を荒げていた僕も大人しくなる。
その表情に、まるで世界が凍りついたかと思った。

「僕はミシェルが羨ましかった。でも同時に嫌いだった。世界は君が思っているほど綺麗ではない。能力あるものはいつだって妬まれる。先に蹴落とした者が勝ちだ。そういった汚い輩が君臨する世界なんだ」
「……ヤ、マト……?」

僕は声を失った。
急にヤマトの態度が変わったからだ。
せかせかと言葉を連ねる彼の声は悲痛に満ちるほど追いつめられた色をしていた。
己の言葉に煽られるように次第に熱を帯びてくる。
こんなに取り乱すとは思わなかった。
声をかけるのも憚れる。
その痛み。
(僕の背後に誰を見ているの?)
ヤマトは僕を見ているようで違う人を見ていた。
その人に対しての憎悪を言葉にしているようだった。

「でも君には綺麗なままでいて欲しかった。世界の真実なんて知って欲しくなかった。だから僕が消してやった。君に仇なす者は全部葬った。ただ君が前だけを向いていられるように仕向けたかった」

なんて悲しい叫びだ。
その細い肩が震えている。
抱きしめたいと思った。
守ってあげたいとさえ思った。
何がそこまで君を追いつめたのか。
どうしてそんな絶望の淵に佇んでいるのか。
(僕は“その人”じゃないんだよ?)
彼は僕に何者かの幻影を重ねている。
その幻影に縛られて苦しめられている。
(ああ、これが本当のヤマトなんだね)
なんて弱い子どもなのだろう。
いつも飄々として誰が相手だろうと態度を変えない。
人を翻弄することばかりを口にしながら、その本心は見せない。
決して動じない姿に尊敬していた。
僕よりずっと大人に見えた。
でもそれは本当のヤマトじゃなかった。
彼が意図的に作った替玉を僕は見ていた。
こうなって初めて僕はヤマトの芯に触れられた気がした。
なぜ今なのだろうと思うと切なくて言葉にならなかった。
僕が彼に出来ることはなんだろう。
痛い痛い傷口を開かせて、この子は何を望んでいるのだろう。
考えるととても悲しくて、でも、僕もいっぱいいっぱいでその痛みにこれ以上は触れられなかった。
多分、ここでヤマトの望みを叶えてしまったら、もっと彼は追いつめられてしまう。
(だから……さようなら)

「……そんなこと、頼んでない……」

僕はヤマトを突き放した。
口にするのも辛くて喉から声を振り絞る。

「ごめんね……僕はヤマトにまだ言ってなかったよね」
「………………」
「僕は宮廷専属になりたかったんじゃない」

もし僕が思いのままに夢を語っていたらヤマトはこんなことしなかったのかな。
宮廷専属になんかなりたくないんだって胸を張って言えたら結果は違っていたのかな。
(もしも、なんて言葉は嫌いだ)
僕は覚悟を決めたように深く息を吸うと、ヤマトが差し出したヴァイオリンケースを閉じて令状と共に返した。
もう彼の目は見られなかった。
見てしまったら、今度こそ取り返しのつかないことになると思った。

「城で弾きたかったんじゃない。世界中の劇場でみんなに聞いて欲しかった。でもそんなこと誰にも言えなかった。みんな目指していたのは城に勤めることだったから。でも僕は地位も名誉もいらなかった。ただ最高の音楽院で演奏家としての実力を磨きたかったんだ」
「……そうか。君がそう思っているなら僕はもう何も言うことはない。だがいいのかい?陛下の指名を断ればここにいられないだろう」
「分かっているよ。だから僕は学院を辞める」

そうだよ。
この結果は僕が招いたんだ。
だから君が負い目を感じなくていい。
お願いだからヤマト、それ以上傷つかないで。
言葉にしたいことはたくさんあったけど、今の僕が何を言っても彼の心には届かないと分かっていた。
縁が切れる。
後悔だけが胸にわだかまりを作る。
僕は思った。
こんな嫌な気持ち、二度と味わうものか――と。

次のページ