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すると横にいたアロイスが大佐の服を引っ張った。

「ねーねー聞いて、クラリオンおじちゃん」
「何度も言っているが俺は兄だぞ。おじさんじゃないぞ」

大佐が注意するが、アロイスは気にも留めず、

「ミシェルが凄かったんだ。足も速いんだよ」

僕の話をする。
それだけじゃなく今日遊んで楽しかったことをエルザと一緒に報告していた。
二人の圧倒される勢いに、

「そうかそうか。良かったな」

クラリオン大佐がそれぞれの頭を撫でる。
その様子は兄弟というより親子みたいで、僕は隠れてクスリと笑ってしまった。
大佐と子どもが戯れているというのも貴重な場面である。
元々面倒見の良い人なのだろう。
大佐の悪い噂は訊いたことがなかった。
軍人を毛嫌う貴族たちも大佐には一目置いている。
兵士からも好かれている。
(僕の世話をしてくれたのもそういうことなんだろうな)
二人を見る眼差しに心音が騒ぎ出すと、いかんいかんとかぶりを振って三人のあとを追った。
自分が途方もなく畏れ多い気持ちを抱いていたことに気づいたからだ。

「しかし泥だらけだな。昼食の前に体を洗うんだぞ」
「はーい」

そうして僕たち四人は石畳の道を帰っていった。
午後は、大佐が町を案内してくれた。
僕は大佐のもうひとりの弟であるフィデリオの服を借りて外へ出た。
フィデリオは大佐の五つ下で、見習いとはいえ格好良い靴を作るんだ。
見せてもらった靴に感動していると一足くれた。
黒い革靴は足のサイズもピッタリで、これに燕尾服を合わせたらさぞ似合うだろうと嬉しくなる。
明るい性格の彼は下の二人にもよく懐かれていた。

「おう!クラリオン、帰ってきていたのか」
「久しぶりだな」

町を歩いていると色々なところで声をかけられた。
大佐は地元が生んだ英雄として人気があった。
市場に寄れば次から次へと野菜や果物、チーズを持たされて、大佐は「参ったな」と喜びと戸惑いの入り混じった表情で笑う。
あとできっちり代金を払うのが真面目な彼らしかった。
それだけじゃなく昔からの友人知人がたくさんいて、王都にいるより砕けた雰囲気だった。
故郷だから気を許しているのだろうか。
友人と笑い合う大佐を見ながら少しだけ羨ましくなった。
僕にはそんな風に声をかけてくれる仲間がいないからだ。

「おい、なぁ、国王陛下様は何をやってるんだ」

だけど全員が歓迎しているわけではなかった。
道の途中で昼間からたらふく酒を飲んだ酔っぱらいに絡まれた。
アルドメリアは今、経済が悪化の一途を辿っている。
僕が実家にいたころ、父さんが書類を見ながら渋い顔をして、

「解せんな」

と、呟いていたのを思い出した。
王都にいれば困窮しているようには見えないし、僕自身庶民との関わりがないからどういう状況なのか仔細には分かっていない。
情報といえば社交場で入ってくる噂話くらいである。
ユニウス陛下は妃を亡くされたあと、急に放蕩三昧となられ、貴族たちと夜な夜な遊んでいた。
公務は人任せでほとんどせず、昼間は鹿狩りや賭博に勤しんでいる。
その結果、どれほど逼迫しているのか定かではないが、国の経済が傾いているのは確かなようだ。
アバンタイの町も活気だっているとはいえ懐事情は厳しいのかもしれない。

「陛下には陛下のお考えがあるのだ。俺の知るところではない」

クラリオン大佐はどんな時も毅然としていた。
殴られそうになっても顔色を変えず、また自らは手を出そうとしなかった。

「チッ。軍の犬め」

男は舌打ちすると、酒瓶を片手に近くのプランターを蹴っ飛ばして去って行った。
(酷い)
大佐は己の仕事に忠実なだけなのに。

「ここはまだいい」

すると僕を見て表情を緩めた大佐は、また道を歩き出した。
その後ろを小走りでついていく。

「この町にはクラウス様がいらっしゃる。彼の庇護の下、厳しい課税の取り立ては免れているし、様々な面で守られている」
「……………」
「だが、ほかの町や村では失業者が相次ぎ、飢えや疫病が蔓延しているところもあるという。国としてもどうにかしたいだろうが……」

大佐は一旦立ち止まると、

「それは俺の役目ではない」

もどかしそうに苦笑いをした。
彼の話では、町人の間でもクラウス様を国王にという声があがっているらしく、どこかギスギスした雰囲気があるのは否めないらしい。
人それぞれに考えや思想が違うのは当然だし、相容れないまま対立してしまうのも分かる。
いつまで経っても現状が改善されないならなおさらだ。
地方へいけばいくほど経済悪化は深刻だった。
廃業せざるを得ない人、職を追われた人も入り交じれば祭でも険悪なムードになるという。

「祭ですか?」

僕は鸚鵡返しした。
すると彼は思い返すように頷く。

「アバンタイでは古くからこの時期に祭をするのだ。城の前にある広場で火を焚いて、一晩中歌ったり踊ったりして春の訪れを祝うのだ」
「まさかそれで帰省を?」
「そうだ。実は昨年も希望を出したのだが、あのころはまだ戦況がまずまずで休暇が取れなかった。今年はだいぶ落ち着いたので、休みを取らせてもらった。元々俺の指揮する部隊の役目はとうに終わっていたからな」
「その祭はいつなんですか?」
「十日後だ」
「へぇ!楽しみです」

大佐がそれ目当てでわざわざ帰省するくらいなのだからよほど楽しいお祭りなのだろう。
僕は楽しみで早く祭がこないかとわくわくさせる。
だが、祭のあとはもう数日で大佐と離ればなれになってしまうと思えば複雑だった。

その日の夜は大佐の帰省を祝って大勢の仲間が家に集まった。
朝までどんちゃん騒ぎが続き、大佐の幼いころの話も訊かせてもらった。
みんな気のいい人たちでその輪にいるだけで楽しかった。
翌日は全員ぐったりと寝坊した。
僕はお酒を飲まなかったから二日酔いもなく、その日の午後にはまたアロイスとエルザと一緒に町の子たちと遊びに行った。
それまで僕が末っ子で、年下の子たちと遊んだことがなかったから新鮮だった。
夜はまた別の友人たちがやってきたが、昨夜のような騒ぎにはならず、彼らは食事を終えるとそれぞれ自宅へ帰っていった。
就寝時間になると、屋根裏部屋(今は寝間)で大佐と二人きりになる。
大きめのベッドだけで部屋はいっぱいだった。
屋根裏ということで天井は斜めになっており、それが窮屈に感じる要因なのかもしれない。
屋根をくり抜くように天窓が取り付けられていて、そこから淡い月光が降り注いでいた。
昨夜は朝まで騒いでいたし、そのまま居間で寝たから、屋根裏で寝るのは初めてだった。
家人は寝静まってより二人きりだということが強調されているようだった。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

大きなベッドとはいえ、男二人が寝るのは少々きつかった。
自然と体がくっついて、肩が、腕が触れてしまう。
大佐の温かな体がすぐ隣にあると思うと勝手に意識してしまう。
右側――大佐の体側にある皮膚が溶けてしまいそうだ。
(こんなの眠れるわけない)
天窓から見える満天の星すら霞む。
大佐が呼吸をすると毛布が大きく上下する。
息づかい、僅かな動きにもいちいち反応してしまいそうになる。

「……なぁ」
「は、は、はい」

そう思っていたところで突然声をかけられたから僕は声が裏返ってしまった。
死ぬほど格好悪い。
というか意識していることが見え見えで恥ずかしかった。
僕は布団の中で小さく丸まる。

「ありがとな」
「え?」
「今日もちびっ子たちの相手をしてくれたんだろう。あいつら喜んでいたぞ」

ちびっ子――とはアロイスとエルザのことだろう。
僕はあどけない二人の顔を思い浮かべてふっと頬を緩めた。

「いえ、遊んでもらっているのは僕のほうなんです」
「?……だが、君の年じゃあいつらの相手をするのもつまらないだろう」
「そんなことないです。僕、すっごく楽しくて」

彼らの太陽みたいな笑顔を見るだけで救われた気になった。
あの子たちには裏も表もない。
企てることも欺くこともなく、ただ楽しいから笑って、悔しいから怒るのだ。
その単純さが何よりも心地よかった。

「ここへ来て本当に良かったです。大佐には感謝してもしきれません」

アバンタイへ来てどれほど癒されたか。
こんなに明日が楽しみなんて久しぶりだった。
音楽院にいたころは、明日はどんな嫌がらせを受けるのだろうと重くため息を吐いてベッドへ入っていた。
好きだった音楽も馬車馬に急かされるように上手くなることしか考えられなかった。
だからイライラしていた。
指使いが正確さに欠けるとそれだけで腹の底が煮えるように苛立った。
思い通りの音色が出ないと弓を叩き付けたい気分にさせられた。
理想に技術が追いついていない。
頭の中では奏でたい音が明確にあるのに、実際に弾く音には雲泥の差があった。
頭と指は繋がっているのに、思い通りに動いてくれない。
胃が焼けるような焦燥感だけがまとわりついて、今思えば相当追いつめられていた。
ヤマトとの一件がなくても、僕は音楽が嫌いになっていたかもしれない。

「大佐は以前仰いましたよね?自分がしているのはただの殺戮で、本当はちっぽけな人間なんだって」
「………………」
「でも、僕にとっては救いのヒーローです。それは、子どものころから変わらない――いえ、子どものころよりずっと尊敬しています」
「ミシェル殿」
「僕は大佐に出会えて良かった」

その時、大佐の体が動いた。
僕もそれに合わせて彼のほうを見ようとしたら、すぐそば、息がかかるほどの至近距離に大佐の顔があった。
(…………っぅ……)
二人とも思わぬ近さに息を呑む。
明かりを消していたため始めは輪郭しか分からなかったが、目が慣れてくると徐々に秀でた相貌が確認出来るようになる。
闇夜に甘い顔立ちが浮かび上がった。
同時に目が合っていることに気付く。
大佐も僕を見ているのだと知る。
すると、心臓がひと際強く鳴り響くと全身が強ばった。
途端に身動きが取れなくなる。
体が重なっているのに退けなくなる。
僕らはそれを最後に口を開けなくなった。
互いに見つめ合ったまま石のように固まる。
緊張が糸のように張りつめた。
部屋は潮が引いたように静まり返り、壁にかかっている時計の音だけが時間の流れを教えてくれる。
そうしてどれほど経ったころか。
突然大佐が上体を起き上がらせた。
すると僕は慌てふためき大佐から身を引いた。
まるでそれぞれの時間が急に動き出したみたいにぎこちない態度だった。

「あ、あのっ」
「やはり俺は居間で寝る。ここは好きに使え」
「クラリオン大佐!」

すると大佐はこちらに見向きもせず、毛布をひったくると部屋から出て行った。
三階の居間へ向かったのか、ギィギィと階段の軋む音が聞こえてくる。
僕はけたたましく鳴る胸の鼓動を抑えようと深呼吸した。
あのままでは心臓が爆発していたかもしれない。
それくらいバクバクとうるさかった。
両手で頬を覆うと火がついたように熱い。
(暗かったから頬の色は分からなかったよね)
そんな間抜けな顔を大佐に見せられなかった。
憧れの人とはいえ、あまりにも過剰な反応すぎる。
僕は竦んだ己の肩を掻き抱いた。
呼吸は落ち着けど、火照りは治まらない。

「恥ずかしい……僕……」

自分が自分じゃないような気がして不安になる。
戸惑う僕を嘲笑うように体が先に反応を示した。
若い滾りが下腹部に熱をもたらす。
どんな対処の仕方も学んできたと思ったが、これは予想外だった。
筋肉が引きつる。
僕はどうしても眠れなくて、その日は空が白むまで天窓の空を見上げていた。

それからも大佐は屋根裏部屋へは来なかった。
何を言っても訊いてくれず、「ミシェル殿は屋根裏で寝ろ」の一点張りだった。
その代わり彼はいつも居間のソファで眠りについた。
ベッドでないと休めないだろうに、申し訳なくてドリスさんに相談すると、

「あの子は昔っから頑固で一度言いだしたら聞かないから」

気にするなと笑いかけてくれた。
その割に大佐の態度は変わらなかった。
あの夜のことなどなかったかのように、他の兄弟同様に接してくれた。
僕も口にすることなく平静を装う。
一度意識をしてしまったら止められなくなりそうだった。
だからあの時のことを忘れるよう努めた。
それから祭までの間はアバンタイでの暮らしを満喫した。
アロイスたちと遊ぶことはもちろん、時に店番を手伝ったり、市場へお使いにいったりと、多くの貴重な体験をさせてもらった。
家での皿洗いも生まれて初めてだった。
実家にいたころは使用人がいて家事をする必要がなかったからだ。
高い棚にしまおうと思ったら手が届かなくて、いつの間にか後ろで見ていた大佐が皿を奪うと、ささっと仕舞ってしまった。
自分で出来ますって文句を言うと、背が足りないだろうと真顔で突っ込んでくる。
そんなことないと否定しようにも、フィデリオを始めとした家族全員が頷くからこっちは劣勢になる。
だけど決まって最後は大佐が、

「君の頑張りは認める」

と、頭をぽんぽんしてくれるから僕もへの字にしていた口を緩めてしまうのだ。
大佐に認められると心が弾む。
無力な自分が、何か成し遂げられたような気になる。
毎日のご飯も美味しかった。
ドリスさんは料理上手で、僕は好奇心に駆られてよくご飯を作っているところを眺めた。
寄宿舎には食堂があったし、実家では出来た料理が運ばれてくるのが当たり前だったから調理風景を見る機会がなかった。
それが今や居間の隣がキッチンで、否応なしに目に入ってくる。
僕はイスから身を乗り出して興味深そうに覗き込んだ。
一度見てしまうと面白くて、つい繁々と見入ってしまう。
だってドリスさんは魚も手早く捌くし、色とりどりの野菜をささっと切ってしまうんだ。
あの包丁さばきは一度見たらやめられないんだ。

「ぷはは。ミシェルってば面白いヤツだな」

フィデリオは僕の肩を抱きながらけらけら笑う。

「だってドリスさんは凄いんだ。一瞬で野菜を細かく切ってしまうんだ。しかも切りかたも色々あって――」
「はいはい、やめておくれよ」

鍋を煮立たせながらドリスさんが振り返る。

「食事の用意でそれだけ感動されたのは初めてだよ。背中がむず痒くなるからよしておくれ」
「そうなんですか。僕はこの凄さをみんなに伝えたいのに!」
「こんなの普通のことだよ。恥ずかしいから、ほら、あっちいってなさい」
「ぷぅ」
「変な子だね」

彼女は笑いながら僕に「しっし」と手で振り払った。
仕方がなく体の向きを変えると、フィデリオとチェスをして夕飯を待つことにする。
そんなささやかな会話が嬉しくてたまらなかった。
穏やかに流れる時間。
静かな生活。
いつの間にか大佐の家が我が家のように思えて、自然と彼らに受け入れられていった。

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