5

***

その翌日から、僕は部屋に閉じこもりました。
練習はもちろん学校にも酒場にも行きませんでした。
仕事の手伝いも、ヴァイオリンを手に取ることも諦めて、日がな一日ぼぅっと寝ていました。
そうしていると、一日があまりに長く、時間の進みが遅く感じるのです。
両親は僕を部屋から引きずり出そうとしましたが、しばらくして諦めました。
お手洗いに行こうとした時に、待っていたと言わんばかりに捕まえられましたが、ひたすら泣きじゃくるとその手を離してくれたのです。
よほどのことがあったのだと理由を聞いてきましたが、僕は答えませんでした。
目に焼き付くオリバーの顔を思い出すたび、己の過ちが色鮮やかに思い出されるのです。
これなら殴られたほうがマシでした。
オリバーに馬鹿野郎と思いっきり殴られたほうがスッキリします。

「お前、最低だ」

言葉の語尾が滲んでいました。
きっと彼も泣きたいほどショックだったのだと思います。
無害な顔をしてずっと隣にいた友人が裏切っていたのですから、その悲しみはどんなに慮っても癒せません。
僕が家に閉じこもっている間に、子どもとエオゼン先生の対立は露呈されていました。
そもそもオリバーが僕のしていることに気付いたのもそれが原因でした。
何かの拍子に子どもたちが無断で休んでいることが責任者に伝わり、大きな事件になったのです。
オリバーはそれを知らせようと僕の家へ来たのでした。
しかしその家には僕はいません。
両親には、みんなで練習していると嘘を吐いて帰っていませんでした。
そのことを聞き出したオリバーは町を探し歩きます。
こんな小さな町で探すのは簡単なことです。
しかも夜ともなれば森には入りません。
行くところは限られてしまいます。
そうして彼は、僕とエオゼン先生が練習しているのを訊いてしまったのです。
卑猥な行為をしていることに気付かれなかったのは不幸中の幸いでしょうか。
もし知られていたら、二度と顔向け出来ません。
ですが、もう彼は僕を見てくれないでしょうからどっちにしろ同じだったのかもしれません。

それから数日後、僕は、朝食をとりに一階へ降りました。
両親との約束で、食事の時は必ず顔を合わせることにしています。
その代わり何があったのかは訊かず、そっとしてくれました。
もう学校や練習へ行けとは言いません。
こうなると梃でも動かないことを知っていたからです。

「そういえばハイネス」

スープをよそいながら母さんが話しかけてきました。

「エオゼン先生が子ども音楽団を辞めるそうね」
「え?」
「ま、子どもたちと上手くいってなかったんだから仕方ないね。あんたやオリバーたちもみんな練習を休んでいたんだし」

彼女はさも当然と言うかのようにスープをテーブルに置きました。
しかし僕は動揺して立ち上がると、そのテーブルを思いっきり叩いて、

「どういうこと! やめるっていつ!」
「昨日、町で訊いたんだよ。後任の先生が見つかったらしくて、すぐにでも――と。ハイネス?」

僕はそれを訊いていてもたってもいられなくなりました。
まさか本当に辞めてしまうとは思いませんでした。
僕はご飯も食べず、寝間着のまま飛び出すと、学校へ向かいました。
授業中で静かな廊下をバタバタとけたたましい足音を鳴らせて自分の教室へ向かいます。

「オリバー!」

僕は勢いよく教室のドアを開けました。
一斉に生徒たちの視線が注がれます。
みんな白けた顔をしていました。
僕がエオゼン先生と練習していたことは、もう全員の知るところになっていました。
当のオリバーも冷めた目で僕を見つめ、返事すらしてくれません。
それでもめげませんでした。
今までの僕なら、こんな大胆なこと絶対に出来ません。
でも、今はそんな小さなことを言っている場合ではないのです。
(エオゼン先生がいなくなるなんて嫌だ)
その思いだけが僕を支えてくれたのでした。

「エオゼン先生がいなくなっちゃうよ!」
「知ってる。今日の午前中に発つって言ってたからそろそろだろ。つーか、むしろいなくなって清々するよ」

オリバーはムッとしたままそっぽを向きます。
僕は授業を中断させたままズカズカ中まで入ってくると、オリバーの席まで来ました。

「僕のことは裏切り者でも何でも言っていいよ。でも、エオゼン先生は絶対に辞めさせない」
「はぁ? お前何言ってんだよ。ハイネスだってエオゼンの所業は散々見てきただろうが」
「でも、あの人の言うことは間違ってない!」

僕の反論に益々苛立ちを隠せなくなったオリバーは嘲笑うと、

「あー、そういえばハイネスはエオゼンにべったりだもんな。何せ二人で陰に隠れてコソコソと練習するくらいだもんな」
「…………………」
「もしかしてそういう関係? あーあ、なるほどね。だからハイネスはそんな必死なんだ。うっわー、あの人生徒に手を出して気持ち悪――」

僕はオリバーが言い終わる前に彼の頬を叩いてしまいました。
パン――と異様な響きが教室内に木霊します。
一瞬のことで、オリバーが叩かれたと気付いたのは少しあとのことでした。
結構な威力だったのか彼の頬が赤くなってしまいました。

「もう一度言うよ。僕のことは何を言ってもいいけど、先生のことを悪く言うのは許さない」

僕の声は地に響くかのような低さで、凄味がありました。
自分でもどこからこんな声を出したのか分からないほどでした。
よほどの怒りに我を忘れていました。
それくらいエオゼン先生を悪く言われることが許せなかったのです。
今までならきっと、そういう場面に出くわしても、曖昧に笑って流していました。
余計な波風を立てることを毛嫌いし、穏便に済まそうとしていたのです。
でも、そういうのは止めにしようと思いました。
見ない振り、訊かなかった振りをするのはこりごりです。
僕は自分の気持ちを言葉にしたかったのです。

「お願いオリバー、みんなも。もう一度だけエオゼン先生を信じて! あの人しかこの音楽団を救うことが出来る人はいないから!」

こうなればなりふり構っていられませんでした。
僕は、それまでの態度と一変して、オリバーの足下に土下座しました。
床に頭を擦り付けて何度も必死に頼みます。

「お願いだよっ、オリバーも、みんなも! 信じてっ……お願い!」

さすがの状況にクラスメイトたちはざわつき始めました。
「ありえない」と嫌そうに首を振る者や「今さら」だと鼻で笑う者もいます。
みんなエオゼン先生に期待していないからです。
それどころかいなくなって良かったと思っているのが大半の意見でした。
説得しているのが裏切り者の僕なのですから言うことを訊くわけがありません。
先生が駆け寄ってくると、僕の頭を上げさせようとしました。
それを振り切って僕はオリバーに――みんなに頭を下げました。
すると、しばらくしてオリバーが音もなく立ち上がりました。
そして僕の横まで来ると、瞳の色を覗き込むように深く見据えます。

「頼むよ、オリバー! 僕のことは嫌いでいい! 一生許さなくていい! 出て行けっていうなら音楽団にも来ない! だから、お願い……!」

僕はオリバーの服を掴むと、手を震わせながら縋り付きました。
こんなにも取り乱したところを見せたことがない僕に、その場にいた全員が絶句して見ています。
オリバーだけは真っすぐ僕をみてくれていました。
叩いた頬は微かに赤く腫れています。

「オリバー!」

すると彼は一度深く目を閉じました。
思考を巡らせるようにじっとしています。
しばらくして瞳を開けた彼の唇はきつく閉じられていました。
何かを決めたような顔でした。

「……分かった。そんなにハイネスが言うなら一度だけ信じる」
「オリバー!」
「ただし、もしエオゼンの態度が気に入らなかったらそのまま国を出ていってもらう」

オリバーの声は厳しいままでした。
僕に対しての許しもありませんでした。
でもそれで良かったのです。
とにかく今はエオゼン先生のもとへ行かなくてはなりませんでした。

僕らは授業を放って駆け出しました。
王宮へと向かうのです。
僕は間に合うことだけを願い、先頭をきって走りました。
あとに続くのはオリバーと、ほかの音楽団のメンバーです。
子どもたちは乱れる呼吸のままに校門を出て坂を下り、町を突っ切りました。
午前中の閑散とした市場を横切ると、町人たちは不思議そうに僕らを見送ります。
それぞれが首を傾げ、互いに顔を見やりました。
そのころ僕たちは王宮へと続く道に出ていました。
石畳の橋を渡れば城はすぐそこです。
ひと際高い塔が見えてくると、僕は益々走るスピードを速めました。
もう何日も家から出ず、ゴロゴロしていたため、体力がなく足に力が入りません。
石畳の硬い感触が靴の裏を突きました。
足が棒のようです。
止まればもう歩けないほど限界は迫っていました。
心臓が軋みます。
そこへようやく城門が見えてきました。
その前には黒い馬車が止まっています。
きっとエオゼン先生の馬車です。

「おい、あれ見ろ!」

オリバーは後ろから指を差しました。
ちょうど城からエオゼン先生と数人の貴族が下りてきたのです。

「ちょっと待って!」

僕はありったけの声で叫ぶと、エオゼン先生を止めようとしました。
僕の声に顔を上げた彼は酷く驚いた顔をしています。
いつも不機嫌な顔ばかり見ていたから新鮮な気持ちでした。

「待って下さい、エオゼン先生!」

周りが足を緩める中、僕はエオゼン先生の胸に飛び込んでいきました。
彼は「おっと」と、衝撃に背中を仰け反らせます。

「どこにも行かないで下さい! ここにいて下さい!」

僕は構わずその腰に抱きつきました。
誰が見ていてもいいのです。
とにかく彼が離れていくことが怖かったのです。

「おい」
「嫌です。絶対に離しません。ここにいるって、音楽団の指揮をするって言わない限り離さないです!」

ぎゅうっと力をこめました。
息が切れてほとんど声になりませんでしたが、僕は首を振ってしがみつきました。
今はエオゼン先生の顔が見られません。
どんな表情をしているのか想像するだけで辛くて見られなかったのです。
だってエオゼン先生は無理を言ってまで残るわけがないからです。
今の彼には執着なんてなく、放浪の旅に出ることすら厭わない人間です。
引き止めるなんて不可能。
きっと迷惑がっているに違いない。
うんざりして僕を見ているに違いない。
一方通行な尊敬だと分かっているのが悲しくて寂しくてやりきれませんでした。

「はぁ」

すると頭の上から盛大なため息が聞こえました。
エオゼン先生が吐いたため息です。
僕はそれにビクリと震え、益々掴む手に力を込めました。

「苦しい。離せ」
「い、嫌です!」
「この場で犯すぞ」
「そ、そ、それでも離しません」

どんな脅しだってきかないんです。
だって僕は散々あなたの脅しに付き合ってきたんです。
もう慣れっこになってしまったのですから、何を言っても無駄なんです。

「おい」
「だから何を言われても――」

そう言って僕が顔を上げると、額に温かみを感じました。

「え」

エオゼン先生が僕の額に口付けていたのです。
僕はそれに気付くと全身が焼けるように熱くなって手を離してしまいました。
こんな優しいキスは初めてでした。

「お前は本当に強情だな」

ようやく僕の体が離れたエオゼン先生は窮屈そうに肩を回しました。
眉間の皺はいつも通り深く刻まれています。
(やっぱり不機嫌な顔してる)
途端に僕の頬に涙が伝うと、止める間もなく次々と溢れ出てしまいました。

「ひっぅ、ひっく、うぅっ」

僕は顎を震わせてその場で泣き出します。
突然泣き出した僕に、後ろで見ていたオリバーやクラスメイトたちは呆然と立ち尽くしていました。
かける言葉を探しているようでした。

「好きなんですっ、エオゼン先生の音色が、好きなんです! だからいなくならないで欲しいんですっ」

涙と一緒に言葉が溢れました。
感情的になっても仕方がないのに止められないんです。
自分のことなのに抑えられない気持ちで爆発しそうでした。

「……なんだ、お前もう音楽をやめたんじゃなかったのか」
「ひっぅ、ちょっと引きこもっていただけです……」
「裏切り者だもんなぁ」
「っぅ」

エオゼン先生は愉快そうな口ぶりでした。
彼は本当に人を甚振ったり意地悪したりするのが好きなようです。
目を輝かせる場所を間違えています。
なんて酷い人なんでしょうか。
なぜこんな腹立つ人があんな素晴らしい音色を奏でられるのでしょうか。

「ハイネス、こっち向け」
「ふぇ、ぇぇぇ……」
「酷い顔してるな。ただでさえ不細工なのに」
「そうさせているのは、ひっく、あなたですっ」

噛み付かんばかりに睨みますが、エオゼン先生は笑っていました。
蔑むでもなく企むわけでもなく、穏やかに微笑んでいました。

「……っぅ」

途端に文句が言えなくなるから不思議です。
その顔を見てしまうとすべてがどうでも良くなるから変なんです。

「エオゼン先生、すき…っ、大好き…!」

エオゼン先生は僕の涙を指で拭ってくれました。
出会ってから今までで一番優しい指先でした。

「よく耳かっ穿じって聴けよ」
「え?」
「この曲はお前に捧げるために弾いてやる」
「エオゼ――?」

するとエオゼン先生は僕の傍から離れてしまいました。
その代わり、おもむろに馬車に乗り込むとヴァイオリンを持って下りてきます。

「このクソがこんなところで役立つなんてな」

彼は自らのヴァイオリンを見下ろしながら吐き捨てるように言いました。
その楽器は滑らかなボディに弦がピンと張っています。
誰が見ても普段僕が使っているような安い楽器ではありません。
それはエオゼン先生のヴァイオリンだったのです。
僕との練習ですら一度も見たことのない彼専用の楽器でした。
エオゼン先生は辺りを見回します。
いるのは数人の貴族と僕ら子どもたちだけです。

「聴衆の質もだいぶ下がったもんだ」

彼は自嘲気味に呟くと天を仰ぎ目を閉じました。
それは一瞬。
次に目を開けた時には顔つきが変わっていたのです。
それどころか纏う空気も雰囲気も一変させてしまいました。
僕は息を呑みます。
そしてその場にいた全員の視線がエオゼン先生へ集中しました。
静寂が糸のように張りつめます。
エオゼン先生は楽器を構えました。
その立ち姿の美しいことに誰もが驚き目を見開きました。
しかしここからです。
エオゼン先生が本領を発揮するのは、そのヴァイオリンが音を奏でてからなのです。
彼は躊躇いもなく最初の音を紡ぎました。
その瞬間、その場にいた全員に雷が落ちたような衝撃が伝わりました。
あのオリバーですら絶句して息を止めていました。
(ああ、この音だ)
胸に迫り来るエオゼン先生の音。
二度目だというのに、その感動は一度目をあっさり超えてしまいました。
甲高いのに耳障りよく馴染みます。
エオゼン先生は口元に笑みを掠めたまま、左手を巧みに動かし、右手で持った弓を強弱付けながら引き下ろします。
(この曲は――)
僕は「あっ」と声を上げてしまいました。
その声に反応したエオゼン先生が柔らかく微笑みます。
(キラキラ星)
僕がエオゼン先生の前で初めて披露した曲です。
でも曲の質が全然違いました。
同じ曲なのに、全く別の曲のように聞こえました。

「……なんて品のあるキラキラ星……」

すぐ隣にいた責任者は恍惚と呟きました。
目を奪われるように、その瞳にはエオゼン先生しか映っていませんでした。
彼の言う通りでした。
なんて気品溢れるキラキラ星なのでしょう。
初歩中の初歩であり、単調な曲だというのに、あまりに瑞々しく美しい曲でした。
目を閉じれば眼前に満天の星が浮かんできそうです。
どこまでも濃い群青に息づく星の生が音を通じて伝わって来るようでした。
彼の音は人を動かす音なのです。
ほら、僕の言葉に間違いはありません。
つい先ほどまでここには僕たちしかいなかったのに、音に釣られてゾロゾロと町の人が集まってきました。
それどころか城からも貴族や官僚、侍女、兵士たちが寄ってきます。
みんなエオゼン先生の音に魅入り、吸い寄せられるように近づいてきました。
どの人も恍惚とした表情を浮かべ、エオゼン先生が奏でる音に酔いしれています。
僕はひたすら手元を見つめました。
同じ動きなはずなのに、こんなにも差があるのです。
それが表現力というものなのでしょうか。
いいえ。
それだけではないんです。
エオゼン先生は、ひとつひとつの音に細心の注意を払い、丁寧に音を出しているのです。
ひとつの音を弾き終える最後の最後まで神経を尖らせて、音の乱れや濁りに気をつけているのです。
確かな技術があるからこそ、豊かな表現を可能にするのです。
彼がキラキラ星を弾き終えたころには、たくさんの人で通りは埋め尽くされていました。
その人々が彼の演奏に大歓声と拍手を送ります。
肉屋の親父さんは、手に大きなハムの固まりを抱えながら雄叫びをあげていました。
いつまでも興奮は収まりません。
するとエオゼン先生は、その歓声に応えるよう片手を上げると、胸に置きお辞儀しました。
品のある振る舞いは普段のエオゼン先生からは想像出来ない姿でした。
いつか酒場の店主が彼を「一流のヴァイオリニスト」と言っていたことを思い出します。
音はもちろん、そういう世界にいた人はきっとこんなに格好良いんだなと見惚れてしまいました。

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