6

「だ、旦那様っ」

さすがの僕も驚いて振り返ろうとするがシリウス様はそのまま後ろから僕を抱き締めてしまう。
彼は僕をブランケットごと包み込んでしまった。
体の感触が衣服を通して体に伝わる。
預ける程度じゃ判らなかった力強さを目の当たりにしてひと際胸が高鳴った。
まさかここまでの事態を想定していなかった僕は目を回しそうになりながら冷静に状況を把握しようとする。
(おっ落ち着け。落ち着け~)
まるで願掛けのように何度も呟くが思考は所々遮断され上手く機能していない。
それはこれが今まで経験してきた抱っことは全く違うものだと本能的に判っていたからだ。
顔の赤さが見なくても手に取るように分かる。
むしろ窓ガラスを開けていたお蔭で今の情けない顔が映らずにラッキーであった。
ぎゅうっと力のこもった抱擁にそろそろ心臓が危ない。
今でさえ時限爆弾のようにいつ破裂してしまうのか判らないのに秒読み段階に入ったみたいだ。
耳元に響く微かな吐息がじわじわと僕を追い詰める。
(シリウス様は僕の主人で先生で命の恩人でそれでそれでそれで)
ああもう、頭がぐちゃぐちゃで何を考えているのか自分でも理解できなかった。
客観的に見たら僕が誘ったようなものであり、仕掛けたのも僕だ。
それを考えると随分大胆な事をしたものである。
というより無知や無邪気は恐ろしいと思った。
いや、誤解していたのかもしれない。
シリウス様は触れ合いが苦手だから淡白なのだと。
そして彼だって男なのだという部分の認識をすっかり怠っていた事を悟った。
(でも僕、シリウス様になら……)
――全てを捧げてもいい。
ふとそんな心境に陥った。
その後どうなるかは理解していないが、話はもうそんな細かい部分に言及している場合ではなかった。
今まさにこうして抱き締められている。
シリウス様をこれ以上ないくらい間近に感じて覚悟を決めている自分が居た。
だから僕は今度こそ彼の手の中にある自分の手を握り返そうと思った。
そしてありのままの気持ちを伝えようと思った。

「ふむ、やはり子供は体温が高い」
「は…?」

すると今まさに人として重大な事実に気付き覚悟を決めようとしていたところで思わぬ横槍が入った。
だから僕は瞬きも忘れて間抜けな声を出してしまう。
しかしシリウス様はそんな僕に気付きもせずあっさりと体を離した。
突然自由になった体を持て余して動揺する。
(子供って)
そして彼の発言から自分は子供として抱き枕のように扱われた事を知った。
いや、枕というよりぬいぐるみや人形といった方が正しいであろう。
つまりそこに性的な意味を感じていたのは自分ひとりだったのだ。
それに気付くと己の自意識過剰っぷりに恥ずかしくて穴に入りたくなる。
むしろこのまま塵となって消えてしまいたい。
だが残念な事に入る穴も無ければ細かい塵になれるわけがなかった。
僕はガックリとうなだれたままため息を吐く。
チラッと彼を見ればもう何事もなかったようにイスに座って紅茶を飲んでいた。

「はぁ……」

二度目に出たのは先ほどより重いため息で今の気持ちを象徴している。
(胸の音は凄くドキドキしていたのに)
シリウス様の鼓動は僕より速かった。
それは僕よりドキドキしている証だと思った。
あの時、二人は同じ思いの中に居たと思っていたのだがそれは僕の一方的な勘違いでしかなかった。
今も思い出す高鳴りに体が熱くなる。
だからどうするというわけでもないのに、体は順応してくれない。
それに対してがっかりしている自分がいた。
主人を思うにしては度が過ぎている。
(というより僕なんかを捧げられても困るだろう)
それこそ正論で思わず嘆きたくなった。
しかし忘れようにも忘れられずしこりのように気持ちが残った。
気付けば掛けられたブランケットが床に落ちている。
僕は窓を閉めてそれを拾うと気持ちを押し静めるように彼のテーブルへと戻った。

翌日は最悪な一日であった。
前日にあんな事があったものだから仕事が手につかず何度も怒られた。
寝不足が祟って集中力も皆無である。
それでも眠れなかった。
自分がシリウス様をどう思っているのか。
そして彼は僕をどう思っているのか真剣に考えれば考えるほどよく判らなくなったからだ。
実際、そんなくだらない問題を考えている時点でどうかと思う。
だが僕は馬鹿みたいに考え続けて朝を迎えてしまったのだ。

「ケイト君っ。いい加減にしなさい」
「はい、すみません」

朝から続くやり取りにさすがのジェミニも呆れていた。
今日何度目かの説教にひたすら頭を下げる。
ボーっとしていたら昼食に使った食器を割ってしまったのだ。

「どうしちゃったの?ケイト君らしくないわ」
「すみません」
「何があったか知らないけど仕事に支障を来すのは良くない事なの。それぐらいあなたは分かるわよね?」
「はい」

僕は厨房の隅でジェミニに叱られていた。
あまりに注意散漫だった僕を心配しているのである。
でも彼女は僕の失敗をセルジオールに言わなかった。
本来なら報告する義務があるのだが、上手く隠してくれたのだ。
失敗を重ねるという事はそんな彼女の気持ちを踏み躙る事でもある。

「まぁまぁ、ジェミニ。もうそれくらいにして」

すると二人の間に料理人のクリスが割って入って来た。
彼はこの城の調理一切を仕切る男で年齢はやはり結構いっている。

「お皿一枚ぐらいなら全く問題ないから」
「そうだけど……」

余程見ていられなかったのだろう。
クリスは僕とジェミニに即席で暖かいスープを作ってくれた。
お盆に乗せたスープ皿は美味しそうな匂いを漂わせ湯気が誘っている。

「分かったわ。じゃあこの一件はもう良しとします」
「はい。本当にご迷惑をお掛けしました」
「ふう」

それでも彼女は心配そうに僕を見ていた。
今日の仕事は殆ど終わったとはいえ、気になるのだろう。

「大丈夫?」
「はい」

何度も確認するように僕に問いかけてきた。
それが逆にこちらとしては気になる。
僕がそれを聞き返すとジェミニは腕を組みながら唸るように一点を見つめていた。
せっかく作ってくれたスープも飲まずに固まったまま動かない。

「実は今日の旦那様も様子がおかしかったから」
「え?」
「もしかしたら何かあったのかと思って」
「…………」

思い当たる節はあったがそれがシリウス様に関係あるとは思わなかった。
何せ昨日動揺していたのは僕一人で彼は最後まで平然としていたからだ。
また今日も特別変わった様子はなくいつも通り無口に無表情を貫いていた。
といっても僕が会ったのは朝食と昼食の時だけである。

これだけ親しくなった僕とシリウス様だがどうしても越えられない一線があった。
それは彼の寝室がある四階への立ち入りが許されていないことである。
「近付くな」というセルジオールの約束の他にもうひとつだけ契約事項があった。
それが四階への進入禁止である。
いついかなる場合においても僕は四階にはいけない。
だからシリウス様は僕の為に下の階まで降りてきてくれたのだ。
どうやら四階への立ち入りが許されていないのは僕だけである。
だがこればかりは頑なに許されなかった。
それはもちろんセルジオールだけでなくシリウス様本人も許してくれなかった。
(四階に一体何があるのだろう)
どうしても気になったが禁忌を犯すわけにはいかない。
むしろ無断で四階に上がった場合は即刻クビを言い渡されていたので近付く事もなかった。
大体四階は全てシリウス様の私室なわけで僕には必要ない場所である。
掃除はジェミニやセルジオールが行っているらしく、どんな部屋なのかも教えてくれなかった。
というより四階の話題は皆避けているみたいで質問には答えてくれなかった。
あまりしつこく聞けばそれこそセルジオールの耳に入ってしまう。
そうすれば余計にややこしい事態になりかねないのでこれも仕方がなく諦めた。

「今日はずっと四階に?」
「ええ」

僕は恐る恐るジェミニに問いかける。
すると彼女は低い声で小さく頷くだけであった。

結局シリウス様の詳しい状態も聞けずにその場はお開きになった。
相変わらず頑なに口を閉ざすジェミニにはこれ以上何も聞けそうになかった。
四階の話をした途端に空気が淀んだ気がして背筋が粟立つ。
何も知らないくせにその先には何か途轍もなく邪悪で恐ろしいモノが潜んでいる気がした。
(はぁ、どうしたらいいんだろう)
結局見て見ぬふりをせざるを得ないわけだがシリウス様の様子が気になる。
あのジェミニがいうのだから相当なのだろう。
食事中の彼しか会えなかったから気付かなかった自分が恨めしい。

僕はその後、いつも通りの手順で掃除をしていた。
さすがの僕でも午後には頭が冴えてきたのか失敗はほとんど無かった。
これだけ広い城なら何らかの仕事がある。
悩みがある時ほど一心不乱に出来る掃除の存在はありがたかった。
のめり込むと一時的とはいえ余計な事は忘れられるものである。

僕は玄関の掃除を終わらせると次に書庫の掃除へと移った。
今日は一週間に一度のモップを掛ける日である。
モップの日はいつもより掃除時間が長くなるため先に他の場所を掃除する必要があった。
僕は太陽が傾き始めた頃ようやく書庫の前まで辿り着く。
バケツに汲んだ水を零さないように注意しながらゆっくりと扉を開けた。

ギギギ――。

相変わらず鈍い音を立てながら扉が開く。

「!」

するといつもなら無人の書庫だが今日は違った。

「すぅ……すぅ……」

静かな室内に健やかな寝息が聞こえる。
扉を開けた先にはテーブルに伏せているシリウス様がいた。
余程深い眠りに入っているのか扉の音にも気付かない。
シリウス様が眠っているところ見たのはこれが初めてであった。
僕は忍び足でのっそりのっそりと彼に近付く。

「すぅ……ん、ふぅ……」

随分心地良さそうに寝入っていた。
テーブルの上には大量の本が置かれている。
どうやら僕の授業に使う童話を探していたようで別の紙には何やら文字が書かれていた。
箇条書きに書かれたそれをぎこちなく言葉に繋げていく。
(花、自然、お菓子、動物、虫、おじいさん、おばあさん、魔女)
何のことだか判らずにもう少し近付いて他の文字を見る。
(誰かが傷つく話は×。例え敵役でも老人が傷つく話は×。最後は皆幸せに。花や植物が出てくる話は尚可)
更に書かれてあった文字を見てハッと気がついた。
それはこれまで僕が喋った中で話題に出していたものであった。
以前、自分の好きなものについて聞かれたことがあった時に思いつく限りそれを話した。
だがそれが些細な話題のひとつであると思っていたからこんな形で知るとは思わなかった。
彼はこうして僕が好きな物を照らし合わせながら本を選んでいてくれたのだ。
思えば色んな童話があるのにいつも僕の好きそうな話を読んでくれた。
それこそ怖いお伽話や残酷な童話だってあるのに。

「……っぅ……」

書き殴ったような文だったが物凄く嬉しかった。
今日一日の失敗すら吹き飛ばすほど嬉しくて堪らなかった。
こうして気に掛けてくれると思うだけで胸の奥が熱くなる。
それはきっとシリウス様だからこんなに暖かい気持ちになるのだろう。
だっていつもより幼く見える寝顔が無性に愛しい。
もっともっとシリウス様を知りたくなる。
ずっとずっとシリウス様に近付きたくなる。
言葉では表せないほどの高鳴りにどんな気持ちなのか答えが出そうな気がした。
(とりあえず起こさなくちゃ)
だが今は自分の気持ちを追求している場合ではなく早く彼を起こさねばならない。
こんなところで寝ていたらそれこそ風邪を引くと思ったのだ。

「だ――……」

僕はそっと気遣うように彼を起こそうと思った。
軽く肩を叩こうと思って手を伸ばす。
しかし僕が彼の肩に触れる事はなかった。

ガタッガタガタ――!!

何かが僕の腕を掠める。
テーブルの本が崩れる音がすると思った時には既に遅かった。
一旦間を置いた後に突然腕が焼けるように熱くなる。
それが痛みだと気付いた時には僕の腕が血で赤く染まっていた。
斬られた腕は衣服と共にパックリと肉が見えている。
何が起こったのか判らずに目を見開くと目の前には大きな剣を構えた男が僕を睨んでいた。
それは先程まで穏やかな寝顔を見せていたシリウス様である。
だから僕は持っていた剣に付着している血が自分のものだと瞬時に悟った。

「だ……な、さま……」

シリウス様を起こそうとした刹那、彼は瞬時に剣を抜くと斬りつけてきた。
その見事な剣捌きは僕に何も言う暇を与えず目の前の獲物に襲い掛かる。
気がついた時には腕を斬られていた、が一番正しい表現といえるほど一瞬の出来事であった。
僕自身、いつ斬られたのか判らないほど見事な一撃であった。
幸いなのは腕を斬り落とされなかったことぐらいである。

「痛ぅ…っ…く…」

だがそんな事を考えている暇が無いほど猛烈な痛みが僕を襲った。
斬られた瞬間は熱さの方が際立っていたのにじわじわと蝕むような痛みが続く。
僕はその場で腰を抜かすと無心になってシリウス様を見上げていた。
腕から垂れた血さえ気に留めないほど彼を見つめていた。

「はぁはぁはぁはぁ」

彼は血で汚れた剣を構えながら荒く呼吸を繰り返している。
うっすら見える目は虚空を映す様に正気を保っていなかった。
窓から射し込む夕陽は徐々に強さを増して空を紅く染め上げる。
彼の顔は夕陽の赤と影の黒が滲み到底人には見えなかった。
まるでそこに蹲る悪意の塊が呼吸をしているように見える。
その、人ならざる者は僕を逃がさないように仁王立ちをしていた。
(このままじゃ殺される)
まるで血に飢えた悪魔のような形相はこれから起こる惨劇を予感させるようなものであった。
あまりに異質な気配にゾクッとする寒気が背筋に伝い下りる。
その姿はいつものシリウス様からは到底想像できないものであった。
腕の痛みを上回る恐怖は自身の理性を崩壊させ何もかもを呑み込んでいく。

「いやだ…ぁっ、旦那様っだんな…様っ……」

(こんな人知らない。こんなのシリウス様じゃない)
僕が知っているのは無口で無表情だけど本当は優しい主人である。
だが僕の声が耳に入らないのかシリウス様の口元はにゅうぅと歪んだ。
持っていた剣を振り垂れていた血を掃うと一歩一歩と僕に近付く。
その先に待っているのは世にも恐ろしいお伽話で最悪の結末だ。
彼はきっと腕一本では満足しないだろう。
たとえここで命乞いをしてもそれは無残な結果で終わることは誰だって想像できた。

「ひっぅ…ひっく……」

僕は彼が近付くたびに後ろに下がった。
腰が抜けて下半身が使い物にならなかったが片方の手を使って必死に逃げた。
あまりの恐怖に涙がとめどなく溢れて顔を汚す。

「……だから近付くなと言った」
「ひぃ…ぅ、だって……だって……」

西日に照らされた彼の顔はずいぶん人から離れてしまっていた。
あれだけの美しい顔が苦痛に歪み瞳には恐怖が映し出されている。
なぜ彼が恐れを抱いているのかわからなかった。
殺されるのは僕なのに同じように絶望で満ちているのはなぜか。
だがもう本棚に阻まれて後ろに下がれない僕には答えを導き出す時間が得られなかった。
幼い命がここで散る。

ダダダ、ダンッ――――。

「……っ……」

書庫に凄まじい音が響き渡った。
だが消えたと思われた命の灯火は未だに揺らめいていた。
痛みを覚悟して目を瞑っていたがいつまで経ってもその痛みがやってこない。
あまりの恐怖に体が硬直して筋肉が強張っていた。
お蔭で目を開けることすら難しく恐る恐る時間をかけながら目を開く。

「だ……んな様……」

その先には未だに苦しそうな彼の顔があった。
吐息が交わるほどの至近距離にシリウス様がいて思わず息を呑む。
僅かに顔が痛かったがどうやら頬が切れたようであった。
まるで涙を流すように一滴の血が零れ落ちる。

「はぁ……はぁ……」

シリウス様は首を斬ろうとしたのか僕の顔のすぐ横に剣が刺さっていた。
そのせいで頬が切れたのである。
また同じ理由にてサイドの髪が切れていた。

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