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「はっ――徳田はここに居りますゆえっ」

後ろの窓が開いた。
突然の出来事にぎょっとしたまま振り返ると、ずぶ濡れの侍がじっとこちらを見ている。

「と、徳田さん!いつからそこに……」
「拙者は藤千代様に仕える者。だからどんな時でもお側に参ります」
「はあ?」

私は雨に打たれ続ける彼を見ながら間抜けな声を出してしまう。
(だからってわざわざ外にいなくても)
屋根のない場所で、ずぶ濡れになる必要はなかった。
むしろ一緒に入ってくれば良かったのに、何でそこに居たのか理解出来なかった。

「それより見たか。先生が今笑ったぞ」

藤千代様は疑問を抱かないのか、今も雨に濡れている徳田さんに笑いかけている。
また徳田さんも状況をおかしいと思っていないのか
「さすが藤千代様!やはり殿の跡を継ぐ御方である」
と頷きっぱなしであった。

「しかし先生。藤千代様に余計な入れ知恵をするのは止めて頂きたい。農民に頭を下げるなど殿が聞いたら卒倒されます」
「あ……」
「徳田、それはもう良いのじゃ」
「ですがっそんな情けのう藤千代様のお姿は見たくありませんっ」

徳田さんはずぶ濡れのまま詰め寄ってきた。
それこそ窓から入ってきそうな勢いだった。

「ふふ、分からぬ男よのう」
「なんと!」

だが藤千代様は意地悪そうにニヤッと笑う。

「あくまで表面的にじゃ。そんなのあとで百倍返しにしてやれば良い話。この意味が分かるか?徳田」
「ほほう、さすが藤千代様!なんたる素晴らしい戦法。謝る事によって相手を油断させるわけですね」
「ふむ、ついでに謝っておけば先生は笑いかけてくれる。つまり一石二鳥なわけじゃ」
「おおおおおお!」

徳田さんは感動したのか、興奮したような雄叫びを上げた。
私は何も言わずに立ち上がると、一気に窓を閉める。
そして開かないように突っ張り棒を立てかけた。
(まったく。何も分かっていない)

ドンドン、ドンドンっ!
「と、徳田っ?先生何するんじゃ…これでは徳田が――」

締められた窓は外側から叩く音が聞こえた。
それを無視して窓際から離れる。
先程までのやりとりが無駄だった事に気付くと、怒りを通り越して呆れた。
疲れてこれ以上怒る気力もない。

「……せ、先生?」
「…………」
「どうしたんじゃ?」

その様子を見ていた藤千代様は、並々ならぬ威圧感に押されて引け腰になっていた。
まるで機嫌を窺うように顔を覗き込む。

「――さて、邪魔者もいなくなった事だし」
「え……?」
「朝までたっぷり時間がある事だし」
「え?え?」

私はもう一度正面に座った。
正座したまま彼を見下ろす。
私が怒っている事に気付いたのか、藤千代様の顔は真っ青になっていた。

「さぁて、私もそろそろ徳田を連れて帰らねば――」
「待ちなさい」

慌てて帰ろうとする着物をしっかり掴む。
振り返った藤千代様は顔をヒクつかせて冷や汗を流していた。

「先生と楽しいお勉強をしましょうね」

捕まえると玄関も開けられぬように突っ張り棒を置く。
こうすればどこからも進入不可能であった。
(もし強引に開けたら村から追い出してやる)
私は静かな怒りを背中に背負いながら、ニッコリと笑った。
藤千代様はびくびくと震えている。

「い、い、嫌じゃあああ~~」

彼の喚きは外の雨に掻き消された。
それから丸々一晩正座させられて、説教を受けることになる。
寝る事はもちろん足を崩すことすら許されず、わんわん泣き続けた。

「おや?武士は泣かないのでは?」
「黙れっこれは汗じゃ。こんな暑くて狭い場所に閉じ込められたら、誰だって汗ぐらいかくに決まっている」
「そうですか。ならもっと頑張れるでしょう。あと三百回追加」
「な、なんて恐ろしい男じゃ!」
「つべこべ言わない。話している余裕があるのなら追加します」
「くぅっ」

説教を終えると延々わら半紙に「悪い事をしたら謝ります」という言葉を書かせた。
お蔭で藤千代様は泣きながら机に向かい、小言を聞きながら書き続ける。
そうして二人は長い夜をどうにか越えた。

だがこの地獄のような一夜は藤千代様の価値観を少しだけ変えた。
結果功をそうしたと言ってもいいだろう。
翌日ちゃんと一之助に詫びていた。
謝り口調はぎこちなかったけど素直に頭を下げていた。
その後、徳田さんに言った通り百倍返しにするのかと思ったが、そんな事はしなかった。
しかも今まで寺子屋の子供達を小馬鹿にした態度であしらっていたがそれもやめた。

「先生聞いてくれ。凄いんじゃ」

それどころか一件以来藤千代様と一之助は仲良くなった。
子供とは不思議なもので、ほんの少しのきっかけさえあれば関係をガラリと変えられる。

「どうしたんです?」
「見てくれ。遊んでる途中に引っ掛けて解れてしまった浴衣の端を一之助がすぐに直してくれたんじゃ!」

嬉しそうに着物の端を見せてきた。
そこは拙い糸の縫い目が続いていて微笑ましい。

「私の知る限りじゃ男で針仕事が出来る奴なんていない!一之助は女々しい奴じゃ。まったくもって弱い。私に言わせると男の風上にも置けん。じゃが使える男よのう」

彼は顎に手を当ててニシシと笑った。
褒めているのか貶しているのか分からないところが藤千代様らしい。
垣間見える自尊心がおかしかった。
最初はなんて生意気な子供なのだろうと思っていたが、それも愛情表現のひとつだと気付くと愛らしかった。

「じゃあ今度は私の着物を直してもらいましょうかね」

私は並んで家までの道のりを歩きながら笑いかける。
その後ろでは徳田さんが何も話すことなく黙って付いて来ていた。
山の陰に日の光を感じながら畑のあぜ道を三人で帰る。

「だっだめじゃっ!」

すると藤千代様は眉間に皺を寄せて吠える様に言い放った。

「先生のは私が縫うっ。誰が一之助なんかにやらせるか」
「おや?男が針仕事をするのは女々しいのではなくて?」
「う」
「男の風上にも置けないのでしょう?なら藤千代はそんな仕事したくないでしょうに」
「それはっ」
「無理して嫌な仕事を頼むつもりはありませんのでご安心ください」

謙遜の意味を込めて軽く頭を下げると、彼は悔しそうに見ていた。
言いたい事を押し込めて口をへの字に曲げる。

「せ、先生は本当に私を苛めるのが好きじゃのう…」
「そうですか?私は事実を述べたまでのことですよ」
「だから意地悪なんじゃ」

藤千代様は呟くように言った。
口調が拗ねているように幼くて、思わず吹き出してしまう。

「すみません。今のはさすがに意地悪過ぎましたね」
「本当じゃ!まったくもってけしからん」
「でも仕方がないんです」
「なんでじゃ」

すると眉間に皺を寄せながらも不思議そうに私を見上げた。
その顔に微笑み返す。

「藤千代を見ていると言いたくなってしまうんです」
「なっ」
「可愛くてつい構いたくなるというか」
「――!!」

すると藤千代様は目を見開いた。
(本当は突っつくと丸まるだんご虫みたいで面白いって意味なんだけど、実際に言ったら怒るだろうな)
内心そんな事を思う。
もちろん口に出さなかった。

「なっなんと無礼な!藤千代様に向かって可愛いなど戯けたことを!」

後ろの徳田さんはそれすら許さなかった。
確かに男子相手に可愛いと形容するのも失礼な話である。
徳田さんは怒りの形相で間に入ってこようとした。
藤千代様も加わるように怒り出す。

「そそ、そ、そうじゃそうじゃ!天下の藤千代様を相手に可愛いとは失礼な……っ」
「藤千代様。さすがにこの侮辱としか思えない発言だけは許せませぬ。ここは一思いに拙者が斬り――」
「――って、ばかものっ!」

だが徳田さんが刀に手を掛けたところで、彼の足を思いっきり踏みつけた。
一番無防備な場所に突然の攻撃を受けて痛みに飛び上がる。
後ろに下がると慌てて頭をさげた。

「まったく。徳田は血の気が多すぎじゃ」
「はっ申し訳御座いません」

藤千代様は呆れてため息を吐いた。
それを見ながら同意できず、何も言わない。
(十分藤千代も血の気が多いと思うが)
この家来あってこの子ありだと思う。
端から見ればどっちもどっちで、まさに同類であった。

「じゃが先生」

やりとりを見ていた私に振り返る。

「可愛いというのはやめてくれ。私は大名の跡継ぎじゃ。何より男たるもの、惚れた奴に可愛いと言われるのは悔しい」

藤千代様は腰に手を置くと諭すように言った。
困っているのか戸惑っているのか形容しがたい表情をしている。
台詞は背伸びをして大人になろうとしている子供だった。
無理している姿はやはり「可愛い」が当てはまる。
だけどこれ以上子供扱いをしたら可哀想な気がして素直に頷いた。

「そうですね。藤千代はもう立派な大人の男ですものね」

彼の年頃は一番背伸びをしたいのかもしれない。
それに微笑ましさを感じながら笑いかけた。
再び夕陽に照らされた道を歩き出す。
藤千代様は目を輝かせて引っ付いてきた。
どうやら認められたのが嬉しかったのだろう。

「先生好きじゃ!」
「はいはい」
「先生大好きじゃ」
「それはもう分かったから」

苦笑しながら静まり返る村の道を歩き続ける。

「ほれっ。徳田、置いていくぞ」

上機嫌になったのか、藤千代様は未だに頭を下げ続ける徳田さんに笑いかけた。
満面の笑みで手招きする。

「お、おおおおおっ。ただいま参りますゆえ!」

すると途端に表情が変わり、嬉しそうに駆け寄ってきた。
(まったく。本当に似ているじゃないか)
徳田さんが加わり二つの影が三つに繋がる。

「先生好きじゃ」
「何度も言わなくても分かっていますって」
「拙者は無論藤千代様が好きです」
「やめろっ徳田には聞いておらん。気色悪い」
「そんな――!」
「ほら、二人とも喧嘩するんじゃありません」

他愛もない話をしながら歩く道。
まだそんなに経っていないというのに、もうずっと二人と一緒にいたような気がしていた。
心地良い既知感に揺れながら、言い合い続けている二人を微笑ましく見つめる。
(仲間ってこんな感じなのだろうか)
村人からは先生として慕われているが、彼らとの関係はまた少し違った。
くすぐったく思い始めている自分がいる。
(変なの)
いつもなら耳障りな蛙の鳴き声すら気にならなかった。
雨上がりの涼しげな風が通り過ぎていく。
道の先に見えた古屋が妙に愛しく感じた。

「今日は皆さんで畑に参りましょう」

三日後、寺子屋の子供達を連れて畑へと降りた。
この地方ではかんぴょう作りが盛んで、村の殆どがかんぴょう農家である。
ちょうど収穫生産時期は今頃から夏の終わりぐらいで、畑には大きな実がなっていた。
農家の人達は丑三つ時頃から起き始めて、日が暮れるまで仕事に追われる。
村の子供も家業を手伝わなくてはならないため、最盛期には寺子屋は休みになった。
当然私も手伝う。

「さあ、よく観察して御覧なさい」

梅雨に珍しく晴天に恵まれた。
久しぶりの太陽は、初夏であることを証明をするような強さを持っている。
日差しに昨日まで降り続いた雨による湿気が気持ち悪い。
じっとりとした気温は咽返るような暑さだった。
そんな時に大人しく部屋で勉強出来るほど子供達も我慢強くない。
そろそろ寺子屋を一時閉めなくてはならないため、遊ばせてあげたかった。
子供は畑に散らばると、思い思いに遊び始める。
藤千代様は一之助と畑を走り回っていた。

「先生」

すると後ろから声をかけられた。
呼ばれて振り返れば徳田さんが立っている。

「いかがなさいました?」

彼は困った素振りで頬を掻いていた。
隣に座るように促すと、律儀にもお辞儀して隣に座った。

「……あの、その…」
「…………?」

何やら口篭らせている。

「……せ、先生、ご結婚は?」
「はぁ?何を急に」

隣に座るなりそんな事を言うものだから、思わず顔を顰めた。
だが徳田さんは思いつめた顔をしていて、私もバツが悪い。
突然何を言い出すのか問い詰めたかったが顔を見てやめた。
少し間を置いた後に小さくため息を吐く。

「――いいえ、独り者の気散じです」

ちょっと嫌味っぽく聞こえたかもしれないが構わなかった。
もちろん縁談を持ちかけられたことはあったし、そういう人が居なかったわけではない。
それでも気楽な長屋生活を選んでしまったのだから仕方がないのだ。

「先生は気の強い人じゃのう」

すると徳田さんは苦笑していた。
藤千代様のような言葉遣いに驚く。
だがそれもお国言葉だと思えば気にならなかった。
あえて口に出す事なく動向を探る。
こんな風に徳田さんと話すのは初めてだし、話しかけられることもなかった。
興味の全ては藤千代様であり、以外は眼中に無い。
実に忠実な家臣であると思う。
そんな人が声を掛けてきたのだから、きっと何かあると思った。

「気を悪くしないで聞いて頂きたい」

やはり言いたいことがあるのか、姿勢を曲げながらこちらを見た。
話を続けるように頷いて先を促す。

「藤千代様が変わり始めているような気がする」
「…………」
「無論、まだ子供ゆえに環境で変わることは珍しくない。むしろ当然であろうと思っている。だが今の藤千代様が拙者にはどうも――」
「気に入らない?」

言いづらそうにしていたから口を挟んだ。
すると小さく頷く。

「今はそれでも許されるが城に帰ればまた同じこと。甘い考えのまま帰ればこれから先、余計に辛くなるのではないかと思うのだ。武家の厳しい毎日に藤千代様が耐えられるかと思うと心配で心配で…」
「じゃあ彼の父親はなぜ外遊見物を?そういった経験をしてほしくて旅に出したのではないでしょうか?」
「そ、それは……」

突然歯切れが悪くなった。
不審に思って見つめると、顔を背けられてしまう。

「と、とにかく」

まるで払拭させるように徳田さんは咳き込んだ。
話を戻そうとする。

「先生の教えが平民にとっては正しいことぐらい拙者も存じている。だが藤千代様は別だ。彼がこのまま変わってしまっては困る」
「それは国として?」
「そうだ。藤千代様は譜代大名の跡取りとして強く生きてもらわねばならん。だから――」

また言い淀んでしまった。
いちいち会話が止まってしまい、進まない事に苛立つ。
(だから口出しをするな?それとも約束より早く出て行く?)
言いそうな台詞を考えてみた。
だが口出しをするな、なんていつも言われている事で、今更躊躇うことではない。
何より始めに「結婚は?」と聞かれているのに、脈略の無い話をするようには見えなかった。
彼も実直な男である。
始めに抱いた感想は馬鹿侍だった。
でも今はとんちきぐらいに留めている。
それは徳田さんが真っ直ぐに藤千代様を思い、その為だけに行動しているからだ。
馬鹿馬鹿しいと思うが、真剣に仕えている姿に真意は伝わるものである。
代々藤千代様の家に仕えてきた重みもあるのかもしれない。
徳田さんは藤千代様の向こうに自分の国を携えていた。
一口に馬鹿と言っても色々で、だからとんちきに落ち着いたのである。
だがこの侍を嫌いにはならなかった。
それほど真っ直ぐでいい男だったのだ。

「だ、だから先生には一緒にきて欲しい」
「…………はぁ?」

彼は覚悟を決めたように振り返った。
今日もキリリとした眉毛が印象的である。
だが前後と脈略のない言い方にぎょっとした。
(何を了見違いなことを……)

「だから、と言われても全く納得できないのですが」

藤千代様が変わっては困るという話から、一気に私を連れて行く話になった。
確かに冒頭の結婚話に繋がる。
だがいささか話を変えすぎではないか。
あまりに見当違いなことを言われて、目を見開いたまま止まってしまった。

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