11

「あ……でもっそれは……」

突然のことにあたふたしていた。
体温が上昇して顔が熱くなる。
シリウス様の名前を呼ぶなんて考えたことさえなかった。
あのセルジオールでさえ旦那様としか呼ばない。
いつだったかジェミニが彼の名は特別だと言っていた。
だから皆“旦那様”と呼ぶのだと。
名称に拘るわけではないから、さほど気にせず同じように呼び続けた。
もしかしたらシリウス様は名家のご子息かもしれない。
何か隠せざるを得ない理由があるのかもしれない。
過去が過去なだけに、シリウス様の出生を聞く事はしなかったが、そんな風に見ていた。
何より僕の主人である。
こんな関係でも公私混同は出来ない。
それほど身分の差というのは厳しいものであったのだ。

「だ、だだ、だって……僕はそのっ」

動揺して呂律が回らない。
その間にシリウス様は、首筋や胸元にキスマークを残した。
僅かな痛みと共に赤い印が刻まれる。

「立場的に難しいのは私も分かっている」
「ん、はぁ…っ…だ、だんな様っ」
「だからせめて二人の時だけ。二人っきりの時だけでいいから呼んで欲しい」
「ひゃ…あっ…ん、ふぁ……」

体をなぞる指が悩ましげに触れた。
耳元で甘く囁かれると、何もかもを受け入れてしまいそうになる。
ベッドの軋んだ音に溶けて僕自身を煽っていた。
こうして見上げるシリウス様はやっぱり綺麗で、見惚れてしまう。
彼からのお願いは絶対で、拒絶するなんて出来ないのだ。
だから膝の上で抱っこも当たり前になったし、服を脱ぐのも着せてくれるのも大人しくしている。
これ以上ないくらい甘やかされて恥ずかしいのに嬉しかったのだ。
それはやっぱり特別だったからである。

「……じゃ、じゃあ……しっし、シリウス様……」
「様?」
「うぅ……」

どうにか呼んでみたものの彼は満足しなかった。
そのまま僕の右手に触れるとじっと見つめる。
だから僕は観念するしかなかった。
否、覚悟と言ったほうが正しいかもしれない。

「し…………シリウス」

僕はポツリと消えちゃいそうな位小さな声で呟いた。
恐る恐るシリウス様を見上げると彼は嬉しそうに見ている。
その顔にひと際胸が高鳴ると直視出来なくなった。
思わず目を泳がせて彼を見ないように努める。

「ん……っ」

するとシリウス様は触れていた右手を自分の方に引き寄せて指にキスをした。
しかも丁寧に一本ずつ。

「ケイトはケイトだ」
「ん、くっ……」
「お前はシンデレラじゃなくていい」
「あ、あぁ…んぅっ……」

するとシリウス様は昂ぶった自身を僕のお尻に挿入した。
突然の衝撃に彼に抱きつくとシリウス様は優しく包み込んでくれる。
その腕の中で乱れた僕は泣きながら喘いでいた。

「ずっと私の傍でそう呼んでいて欲しい」
「はぁ…ん、や…っ、いきなり…っ…はげし……っ」
「いつまでもこうして腕の中に居て欲しい」
「あぁ…ん、し…りうすっ…っぅ」
「どんなことがあっても必ずお前を守ってみせる」

体中がシリウス様を求めていることを知っている。
でもシリウス様の願いを叶えられないことも知っていた。

「愛している。私のケイト――」

いっそ本当にシリウス様のものになれたら良かったのに。
僕は無我夢中で彼を受け入れた。
外の三日月は今日も穏やかな光を注いでくれる。
消えたランプの明かりに月光だけが二人の体を浮かび上がらせた。
春の嵐とでもいうかのように外の風は強い。
ざわめく木々の唸りが自分の喘ぎ声に重なっていた。
枯れ枝から徐々に葉を伸ばして賑やかになった木は春の息吹を感じる。
僕はその中でめいっぱい深呼吸をするのが好きだった。
新しい命の匂いは清々しくて心地良かった。
青い葉の艶やかで美しいさまはずっと見つめていても飽きない。
それどころか瞬きするたびに新鮮な気持ちを僕に与えてくれるのだ。
伸びる葉の強さに憧れを抱く。

ようやくこの城にも春が訪れた。
暖かで優しい命の季節だ。
そしてそれが僕の去る日であること。
この城の庭を菜園や花畑にする夢は叶わなかった。
でもきっと、今のシリウス様なら素敵な城に変える事が出来るだろう。

――僕はそれを信じている。

「……さようなら」

朝焼けの眩しい光の下で僕は別れを告げた。
シリウス様は僕の隣で健やかな寝息を立てていた。
その穏やかな顔は何より僕を満たしてくれた。
僕は最後に笑顔で黒い城に手を振る。
そして魔の森の奥へと還っていった――。

***

僕の生まれは小さな農家だった。
そこには優しいじいちゃんとばあちゃんがいた。
畑の仕事が忙しくて学校に通えなかったけど僕は満足していた。
それは土いじりが何より楽しかったからだ。
途中じいちゃんとばあちゃんが死んで土地だけが残ったけどそれを人に貸して生活出来た。
前ほど稼ぎは無くなってしまったけど子供ひとりが生活できるぐらいは何とかなった。
ようやく学校に通える。
家からは結構な距離だったがそれでも勉強が出来ることや同い年の友達が沢山出来ることが嬉しかった。
――しかしその直前家にある男がやってくる。
どこぞの公爵で元老院の命令で王都からこの地にやってきたというのだ。
何人かの兵士を引き連れてやってきた彼は突然僕の体を縄で縛り付けると町の宿場に連れて行った。
彼は言う。
「お前は悪魔の手先で人に災いをもたらす」と。
だが僕には一切見に覚えがなかった。
第一に子供が人に災いをもたらすなど出来るはずがない。
だから僕は何かの間違いだと懸命に身の潔白を訴えた。
宿場に吊るされて鞭や木の棒で叩かれても絶対に認めなかった。
どうやらこの宿場には僕と同じような人が何人も居たらしく色んな部屋で悲鳴が聞こえた。
一番僕が苦しんだのは叩かれることより手を縛られてその悲鳴を塞ぐことが出来なかったことだ。
耳を押さえたいのに勝手に流れ込んでくる女の悲鳴はより苦痛と恐怖を与える。

「仲間がいるなら言え。そうすれば縄を解いてやる」

男はそう言った。
甘い囁きに委ねてしまいそうになったが仲間なんていなかった。
彼は誰でもいいから名前を言えと言ったがどうしても言えなかった。
(もし名前を言えばその人はどうなるのだろう)
考えただけでも怖くて押し黙った。
そうすると余計に男は怒って僕の背中を叩いた。
何日も続く悪夢の中で他の部屋の人が入れ替わっていることに気付く。
またしばらく経つと女性が多いことに気付いた。
部屋から聞こえてくるのはどれも女性の苦しそうな叫び声である。
ごくたまに凄まじい叫び声のあと急に部屋が静かになることがあった。
すると翌日今度は違う女性の悲鳴が聞こえてくるのである。
そのことを深く考えようとすると気が変になりそうだった。
叩かれた背中の爛れた傷が衣服に付着して痛い。
そのまま貼り付いてしまうと、脱ぐ時一緒に皮が剥がれて失神しそうなくらい痛かった。
幸い夏ではなかったせいか、ウジ虫が湧かずに済んだが、背中の傷はみるみる悪化した。
それこそ傷が原因で発熱することもあったぐらいだ。
だが治らない傷の上からまた激しく叩かれて身悶える日々。
男はいい加減何も言わない僕に痺れを来していた。
仲間の名前を言わないし、悪魔の手先だと自供することもない。
このまま死ぬのは目に見えていた。
男はここで死ぬことを許さなかった。
彼は僕の服を脱がすと、何かを探すようにじっと見つめる。
脇腹に出来たホクロを発見すると、悪魔の証だと罵倒した。

「悪魔の手先は死刑か国外追放」

僕は自供もせず仲間の存在も口にしなかった為、前者となった。
処刑が決まると暴力は止んだ。
静かに夜を過ごしながら、他の部屋の悲鳴を聞き続ける。
あの夜は物凄く長く感じたと思う。
ぼんやりと古臭い宿場の天井を見上げながらどうしてこうなったのかを考え続けた。
ランプの明かりもない部屋は真っ暗でこのまま闇の中に消えてしまいそうな錯覚を起こす。
(なぜ僕は誰でもいいから名前を言わなかったのだろう)
そうすればもしかしたら助かったかもしれないのに。
精神的に限界を迎えていたせいか馬鹿正直な自分に後悔した。
そしてそんな後悔をした自分に嫌悪した。
どこまでも続く嫌悪は果てがなくて声に出さずに泣いてしまう。
(怖い怖い怖い怖い怖い)
死というより、死ぬまでの過程を想像するのが怖かった。
これ以上痛いのは嫌だし苦しいのは耐えられない。
縮こまった体を抱き締めて、痙攣するように体を震わせた。
暗闇が余計に恐怖を煽るのだろう。
僕はひたすら神様にお祈りをした。
いや、誰でもいいから助けて欲しいと願った。
貧しかったけど平凡な生活は、それだけで幸せだったのだ。
高望みはしないし、生きているだけでいい。
どうにかして生かして欲しいと強く願った。

――すると夜が明ける頃、真っ暗だった部屋に一筋の光が差し込んだ。
涙でぐしゃぐしゃな顔を光に向ける。

「可哀想に。こんな子供まで――」

誰かが部屋の入り口に立っていた。
涙で視界が霞んでいた為、はっきりと見えない。
だが声でそれが男だと判った。
床を軋ませながら近付いてくる。
僕は放心状態で身動き一つ出来なかった。
男は恐怖で声さえ出なくなっていた僕を抱き上げて、部屋を出て行く。
他の部屋のドアも開きっぱなしになっていた。
奥まで確認する気力がなくうなだれる。
男が兵士だとして、処刑しに連れ出したのかと思ったが、宿場を出て違うことを知った。

「よく聞いて下さい。私はまだ奥に捕らえられている人を助けねばなりません」
「…………」
「だからまだ幼いあなたには過酷ですがここからは一人で逃げるのです」
「…………」
「この道を真っ直ぐいって橋を渡った更に奥に人が近付かない森があります。その森を抜けるのです」

男は僕の手をぎゅっと握ってくれた。
それは温かな人の手であった。
姿は砂漠の国からやってきたような全身マントで包まれていてよく分からない。
格好だけなら旅人だが、そんな人が僕らを助けてくれることを不思議に思った。
しかしどんどん日が昇り悠長に話している場合ではない。
結局男の素性も知らずにそこでお別れになった。

「その森を抜ければ隣の国に繋がっています。森なら国境にいる兵士もいないはずです。そうすればあなたはきっと助かる」
「…………」
「だからとにかく走るのです。何があろうと振り返らずに」

彼に急かさせて駆け出した。
幸い背中しか叩かれなかったから足は動いた。
(ありがとうございます)
少し走ったところで振り返りお辞儀をした。
本当はお礼を言いたかったが、煩くして危険になったらまずい。
男は僕に軽く手を振ると、また宿場の中へと戻っていった。
与えられた状況故に、彼がどのようにしてあの宿場に入ったのか分からない。
宿場の主人や見回りの兵だっている。
また宿場であのような恐ろしい拷問が行われていた事をどうやって知ったのかも疑問だった。
(いったい何者なのか)
だが生きることに精一杯で、それ以上男について考えなかった。
森を目指して全力疾走した。
いつ雪が降ったのかも分からぬ雪の上を走り続ける。
白い息に寒くてどうにかなってしまいそうだったが、その時の僕にはどうでもよかった。
生きていられるのなら他の苦しみは全て無と同等だったのだ。
だが残念なことに森で迷う事になる。
また子供の体力では森を抜けること自体難しかった。
無我夢中で駆け抜ける。

「はぁっ、けほっ」

そうして体力が尽きかけてきた頃に見えてきたのは――。

「はぁ、はぁっ……えっ?」

世にも恐ろしい黒い城――であった。

運命とは面白いものである。
最初雪解けまで――もしくは騒動が落ち着くまでの間だけ城で働く予定だった。
だけどいつの間にかそこが居心地良い場所になって、離れられずにいた。
きっと神様がほんの少しの間だけ、幸せを与えてくれたのだと思う。
シリウス様に出会わせてくれたのだと思う。
しかしあの城を知られてしまったからには“生きたまま”捕まらなくちゃいけない。
でなければ疑われたまま、最悪彼らも捕らわれることになるだろう。
皆は優しいから僕のことは口にしないと思う。
そうすれば彼らも同じ末路を辿る事になる。
どうしても避けたかった。
なら自ら出頭して、城など知らないと潔白を晴らさなければならない。
それが今の僕に出来る唯一の恩返しであった。
あの時助けてくれた旅人には申し訳ないが、これが選んだ道である。
当然後悔はなかった。
そして今度は後悔がなかったことに安堵した。

――その後は簡単だった。
魔の森を出て町をうろちょろしていたら兵士に見つかって捕まった。
その場で殺されるかと思えば教会まで連れ戻されて公爵の男に突き出された。
彼は元老院直属の執行人で自尊心の高い嫌な男であった。
ありがたいことに奇跡の再会を果たしたが全く印象は変わらない。
むしろ子供の僕に逃げられたのがそんなに悔しかったのかお前を絶対に処刑すると言って頬を叩かれた。
シリウス様と同じ金持ちなのに彼は品の欠片もない男である。
身なりはシリウス様と違い派手な格好をしているというのに雰囲気が伴っていなかったのだ。
それがまさにいつか読んだ西の国の童話で吹き出してしまいそうになる。
すると男は僕の態度に余計腹を立てて今度は拳で殴った。
実際に殴られた箇所より衝撃で切れた口の中が痛い。

「明日の夕方、広場でお前を公開処刑する」

様々な罪状を述べられたがどれもこじ付けで忘れてしまった。
その日の夜は前に脱走した宿場に泊まり一夜を過ごした。
といっても兵士を四人も付けられたし、今度は助けてくれる旅人もやってこなかった。
当日、僕は手を後ろで縛られたまま荷車に乗せられた。
そうして広場までの道のりをわざわざ遠回りして向かう。
道中僕を見る町人は卑しい目で見ていた。
(悪魔の手先だから仕方がない)
この地方の飢饉や不作、疫病は全て悪魔と魔女のせいだと言われていた。
それによる財政悪化も何もかもが悪いのは彼らのせいだとお布施が出ていた。

「痛っ……」

すると誰かが投げた小石が頬に当たった。
思わず痛みに顔を歪める。
きっと町人にとって僕はおぞましい存在なのだ。
それこそ子供の姿をしているから余計にそう思うのだろう。
広場が近付くにつれて罵声を掛けられるようになった。
中にはただ単に面白がって見物しているような輩もいた。
同い年くらいの少年が酷く怒った顔で何か叫んでいたが今の僕には何も聞こえなかった。

夕方の広場は血で染まったような朱い空が広がっていた。
石畳で出来たゆるい階段の上にはずいぶんと古い教会が建てられている。
ここは庶民の憩いの場でありこの町の中心であった。
四方に伸びた大きな道が続き普段なら多くの馬車が行き交う。
いつくかの出店が市を開き賑わう様子は僕にとっても馴染み深い場所であった。
傍には大きな鐘の塔が建てられていて昼と夕方に美しい鐘の音が鳴り響く。
だが今の広場にはそういった活気が全て取り除かれてあとに残ったのは人々の悪意だけだった。
まるでこれからショーが開かれるかのように人々は柵まで押しかけてぎゅうぎゅう詰めになっている。
その先には木で出来た滑車が聳え立ち僕を待ち構えていた。
兵士は荷車で側まで行くと僕を降ろす。
そして腕を縛られたまま今度は胴体と滑車に付けられた縄を強く結んだ。
Tの字型の滑車はシーソーのようになっていて僕を縄で取り付けた逆の端に兵士が立つ。
その兵士が手元の板を引くとコテの原理で僕の体は宙に浮いた。
胴に食い込んだ縄に顔を歪ませながら不思議な浮遊感に足をバタつかせる。
滑車の大きさが結構なものであった為、いつの間にか町を見下ろすぐらいの高さにまで吊るされていた。
おかげで町の広さや押しかける人波が自在に見渡せる。
執行人の男は町人達がいる柵とは逆にある教会側の階段の上で高みの見物をしていた。
側に兵を従えニヤニヤとこちらを見ている。
さすがにその顔を見るのは気分が悪くて顔を背けた。
それならまだ柵のギリギリまでやってきた見物客の罵声を聞いていたほうが心地良い。

「――!」

すると振り返ったところで一人の少年と目が合った。
彼は僕よりずっと幼い子供で柵の最前列に立ちこちらをじっと見つめている。
そこには嫌悪も悪意も蔑みも感じない。
それどころかこれから何が行われるのか分からないといった顔であった。
何せ彼の瞳が好奇心で輝いている。
それを見て唐突にフラッシュバックした。
そして僕は自分の嫌な過去と対面した。

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