5

「おいっ、人が来て……訊いてんのか!」

さすがの弓枝も声を荒げずには入られなかった。
その間も足音はどんどん近づいてくる。
早く桃園から離れなければならない。
なのに力を入れても押し退けることが出来なかった。
桃園は涼しい顔をして首筋に吸い付いているというのに。
(桃園のやつ、顔には出してないけど相当イラついてるな)
案外頑固なのは、弓枝だけが知っている桃園のもうひとつの顔だ。

「うるさいなぁ」
「はぁ、あっ……んぅっ……!」

すると桃園は弓枝を黙らせるように唇を奪ってしまった。
再び口付けられて、ぬるりとした舌を挿入される。
これが嫌いな相手なら舌を噛み切ってやるくらいの気持ちで抗うが、桃園に対してそこまでの態度に踏み切れなかった。
こんなことをされても好きなのだ。
だから最後の最後で甘やかせてしまう、許してしまう。
近づく人の気配。
荒々しく貪られる唇。
滾らせた性器は、彼の手で慰められている。
死にたいくらいの状況なのに、体は火照るばかりで思考がぐちゃぐちゃになる。
嫌だ。
こんなの嫌だ。
桃園に触られるのは嬉しいのに、泣きたくてたまらなかった。

「んっぅ……っ、ふ………ぅ」

そのうち暗い夜道に中年男性の影が浮かぶと、街灯の下でその姿が明らかになる。
紺のスーツにストライプのネクタイをした男は、弓枝と桃園に気付くと僅かに歩みを鈍らせた。
動揺したのだ。
人気のない道で、いきなり男同士が濃厚な口付けをしながら絡み合っていたら目を疑わざるを得ない。

「こ、こほん」

まるでその動揺を濁らせるように男は咳き込んだ。
「う、ううん」と、痰が絡むような喉を鳴らし、チラチラとこちらを見ながらすぐ目の前までやってくる。
男の眼差しは、この恥知らずめと言っているようだった。
(き、消えてしまいたい)
それでもいいようにされている弓枝は、桃園の肩口から男の視線を一身に受け、羞恥心で燃え上がりそうだった。
恥ずかしさが焼けつくような痛さで心を食い尽くす。
桃園だって背後に気配を感じているはずなのに、悉く無視して夢中で唇を這わした。
弓枝以外の人間などどうでもいいという態度だった。
そうしている間にようやく男は目の前を過ぎ、彼の視線が弓枝たちから外れた。
過ぎてしまえば興味は失せるのか、彼は二度と振り返ることなく、猫背気味の背中が遠くなっていく。
それでも帰宅後、奥さんに話すだろう。
帰り道に変なホモがいたのだと。
最悪明日会社で話のタネにされるかもしれない。
弓枝は屈辱感が頭をもたげて、今すぐにでも穴に入りたい気分になった。
地味で空気のような存在を通してきた彼には、あまりに辛いひと時だった。
僅かな時間が永遠のように長くて、冷や汗が背中を濡らしていた。
男の足音が徐々に小さくなっていく。
その後ろ姿が闇に消えていくのを横目で見て、弓枝はやっと胸を撫で下ろした。
だが、またすぐ次の誰かが通りかかるかもしれない。

「はぁ……はぁ……何考えてんだよ!」

このままではまずいと、手を緩めず桃園を力いっぱい突き放した弓枝は、息を弾ませながら吐き捨てるように言った。
しかし桃園に動じた様子はない。
まるでこうなることを予期していたような反応だった。

「ここでバイバイ」

辺りは何事もなかったように深々と冷えた夜が続いている。
深い水底のように澄みきった紺碧の空は、黙って二人を見下ろし、その行く末を気にかけている。
桃園は濡れた唇を歪ませると、平然とした表情で手を振った。
それに反論しようとした弓枝は、その眼差しに射抜かれて押し黙る。
決然たる瞳には有無を言わせない力があった。
勢いが消えた弓枝に、桃園は畳みかけるよう、

「じゃないとここでもっと酷いことをしちゃうよ?」
「……っ……!」
「だから、バイバイ」

一歩後ろへ下がる。
それは弓枝に対して早く去るよう警告を促しているようだった。
境界線。
決して交わることのない線引きを二人の間でされてしまった。
桃園はあっち側の人間になってしまった。
それは明確な拒絶の意思があってのことだった。

「ももっ……」

弓枝は引きとめようとした言葉を喉の奥へ押し込む。
この場で話し合いを続けても無意味だと覚ったからだ。
彼は奥歯を噛み締めると、僅かな躊躇をし、最後に桃園を一瞥すると、頬に赤さを残したまま大人しく走り去った。
纏わりつく冷気を振り払うように暗い道を駆け抜ける。
目を閉じると桃園の冷ややかな薄笑いが蘇った。
絡みに絡んだ糸は簡単には解けない。
それがたとえ赤い糸だとしても同じことだ。
二人はそれを分かっていた。
だから桃園は黙って弓枝を見送ったし、弓枝も振り返らなかった。

翌日は土曜で学校は休みだ。
弓枝は台本を完成させるために学校へ来ていた。
本当は桃園に会わないためにも家でひっそり完成させたかったのだが、その前に約束していたし、推敲が終わったあとすぐに演劇部に渡すには、やはり学校の図書室で仕上げるのが一番だった。
弓枝は朝からこもってひたすら続きを書き続けていた。
ここしばらくはテスト勉強に明け暮れていたため、またこうして台本を書けることが新鮮だった。
両親との話し合いから数週間経つが、いまだ家族内は変わらずの雰囲気で、口うるさいところはまったく変わっていない。
だから執筆の許可が下りたという実感がなかったのだが、テストを終えた解放感と親に隠さず続きが書ける現実に、今さらながら幸せを噛み締めていたりする。
(もう誤摩化さなくていいんだ)
隠し事は気分の良いものではない。
何をしていても心に引っかかって、尾を引くようなモヤモヤでいっぱいになる。
それから解放されただけで清々しく満ち足りた気持ちになるはずだった。
(くそ……桃園のやつ)
だが、今の弓枝に清々しいなんて気持ちは一滴もなかった。
瞼の裏には昨夜の桃園の残像が焼き付いて離れない。
まだ唇にも感触が残っている。
あんな道端で濃厚なキスをされた。
しかも赤の他人にその場面を見られてしまった。
嫌だと言ったのに許してくれなかったのは初めてだ。
建前だけの嫌がりなら今までも散々言ってきたが、そういう場合、桃園は理解してうまく取り繕ってくれる。
しかし昨日のは本気だった。
本気で抗ったのに、強く押さえつけられて離してくれなかった。
思い出しただけで恥ずかしくて死にそうになる。
幸い、夜だったし、街灯があっても薄暗かったから顔自体互いにぼやけていたが、そういう問題ではない。
人前が苦手な弓枝にはショッキングな出来事であった。
忘れようと念じるが、ふつふつと怒りがこみ上げて治まる気配はない。
大体、その前からおかしかった。
急な話だった。
いきなり友達に戻ろうなんて、何を考えているというのか。
そもそもここ最近は、関係だけなら友達と変わらず、始まりだってつき合おうとかなんとか言ってない曖昧な関係だった。
そんなの不安に思って当然なのに、次に言い出したのは「無理をしてる。顔色を窺っている」だった。
そりゃあそうだろう。
弓枝は桃園と違って、付き合うことはおろか、恋をするのだって初めてだったのだ。
いつまで経っても戸惑いが消えるわけがないし、短期間で慣れるような順応性はない。
正直に言えばどうしたらいいのか分からなかった。
友人だって桃園たちが初めてなのだ。
恋人がどんなことをするのかすらまったく分かっていないというのに、無理をするのは当たり前じゃないか。
(……だって好きなんだから)

「あーくそ。むかつく」

結局そこなのだ。
悔しい。
腹が立つ。
何をしても、何をされても、根本は惚れてしまっているから、どうしようもないのだ。
惚れた弱みなんて言葉があるが、桃園より弓枝のほうが立場は弱い。
好きだから勝てっこない。
無理やりキスをされても、別れを告げられても、それによって傷つけられても、桃園が特別だという気持ちだけは薄れなかった。
だから余計に腹立たしいのである。
至極簡単な答えを中心に堂々巡りをしている愚かな自分にうすら笑みが零れた。
女々しいなんてレベルではない。
もしこれが一年前、隣の席のやつが同じ悩みを抱えていたら鼻で笑ってやる自信がある。
それほど他人事としてはくだらない悩みだった。
ふとロミオとジュリエットの台本に目を落とす。
そこはもう終わりまで来ていた。
仮死状態から目覚めたジュリエットは、すぐ傍らで愛すべきロミオが死んでいることに気付く。
口元から血を流し、冷たく事切れている恋人。
キスをすれば唇はまだほのかに温かい。
ジュリエットは動揺する。
彼女の計画では、自分が特殊な薬を飲み、仮死状態となって荼毘にふされると、その霊安室でロミオと待ち合わせをし、神父ローレンスの計らいで、夜明け前にはこの町から去るつもりだったのだ。
そうすれば二人の愛は永遠になる。
様々な困難を乗り越えた二人にはようやく幸せが訪れるはずだった。
ささやかな希望。
微かな光。
しかし運命は彼らを見放した。
それもたった一枚の手紙がロミオとジュリエットの命運を決めたのだ。
なんて残酷な結末なのだろうか。
その手紙にはジュリエットが仮死しているだけで実際には死んでいないこと、そして共に町を抜け出す手筈が書いてあったのだ。
しかし手紙はロミオへ渡ることはなかった。
ボタンは一度掛け違えると、必ず最後にひとつ余らせてしまう。
最初の掛け違えはどこだったのか。
結局物語はそのまま掛け違えを続け、過ちを正すことなく進行してしまった。
それがこのザマだ。
ロミオはせっかくジュリエットの婚約者であるパリスを倒し、傷だらけでこの教会へとたどり着いたのに、待っていたのは心臓を止めた愛する者の姿であった。
死んでいたジュリエット。
それが仮死だと気付かないロミオ。
揺るぎない自信とへこたれない若さで数々の難題をこなしてきた青年の心を折るには十分な絶望だった。
寝ているように穏やかな死に顔の恋人を見下ろし、ロミオは静かに冥界へと旅立つ決意をする。
口に含んだのは、一口で命を奪う劇薬。
ロミオは潔いほど真っ直ぐな青年だった。
だから死んだ。
死さえも彼の愛を止めることは出来なかった。
彼は一途すぎたのだ。
その一途さが恋に燃える男を盲目にしてしまったのだ。
現世で倦み疲れた肉体から煩わしい鎖を外す。
まさかそのあとジュリエットが目覚めるとも知らず。
ロミオはジュリエットのもとへ向かうつもりで逝ったのに、その彼女を置き去りにしてしまった。
――この世は無常そのもの。
一通の手紙が届かなかっただけで、世にも美しい純愛は悲惨な末路を遂げるのだ。
目覚めたジュリエットは悲劇の階段をのぼる。
一段一段ゆっくりと、噛み締めるように歩みを進める。
そして最期の時――。
ジュリエットは冷たくなっていくロミオの傍で、その豊かな胸に短剣を突き刺した。
透き通るような白い肌に鮮血が滲む。
もたれるように二つの体が折り重なる。
死ぬ間際に見た彼女の世界は、どんな色をしていたのだろう。
吸い込んだ息に何を思ったのだろう。
どんな問いにも答えは出ず、ジュリエットの瞳も二度と光を映さなかった。

 

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