4

「……恭子ちゃんが連絡取りたがっていたぞ」

兄貴は片手で湯飲みを持ちながらぼそりと呟いた。
俺は予期していたように黙って頷き、もう一口お茶を飲み直す。
恭子とは、元彼女で振られた相手だ。
振られたといっても俺に原因があったのだから、彼女を悪くいうつもりはない。
元々恭子は兄貴の大学の後輩で、同じサークルに入っていた。
兄貴は卒業後もよくサークルの仲間とつるんでいて、その時に俺と恭子を合わせてくれた。
大学は違えど同い年で話も合ったため、恋人になるのに時間はかからなかった。
当時俺はフリーだったし、恭子からの告白で付き合い始めた。
彼女とはかなり長く続いた。
(約七年か……)
とはいえ、最後のニ三年は仕事の都合上どんどん会う機会が減り、最後の一年に至っては月に一度会うかどうかのレベルだった。
会っても喧嘩ばかりだったような気がする。
こう見えても俺は浮気しない。
可愛いものは愛でるべきとはあくまで信条であって、女好きに直結はしなかった。
多分学生時代は女に飢えていなかったし、作ろうと思えばすぐ彼女が出来たから、異性に対してガツガツしなくなった。
肉食系男子も一周回れば草食系男子になる。
その分本当の恋愛や恋する気持ちも目新しさを感じなくなっていったのかもしれない。
付き合った彼女全員を真剣に愛していたかと問われると首を縦に振れなかった。

「ああ、そういえば電話来てたっけ。忙しくてすっかり忘れてた」

本当は気付いていながらあえて無視していたが、兄貴に言ったらぶん殴られるだろう。
口は災いの元である。
近頃よく電話がかかってきていたことは知っていた。
その上で接触を持とうとはしなかった。

「話をしていたがっていたぞ。電話してやれよ」
「今さら何を話すんだよ。大体振られたのは俺の方なんだぞ」

そう言いながら振られたことに傷ついているわけじゃなかった。
別れたこともどうでも良かった。
再三書くが原因は俺にある。
元々結婚する気もなく、喧嘩が増え始めたころから終わりはどこかで見えていた。
だが友人の忠士に奪われたことが悔しかった。
恭子には結婚願望があって、それに気付かない振りをした結果誰かに取られても文句は言えない。
頭では理解出来ているのに、奪われた相手を知って臍を曲げた。
我侭な子どもだ。
恭子は物じゃない。
人間だ。
彼女には彼女の考えがあって、それが自分とそぐわないのなら別の道へ行くべきで、その道は誰にも止められない。
だがどうしても友人に奪われたことが納得いかなかった。
知らない間に二人でコソコソ会って、気持ちを盛り上げて、最後には俺が捨てられるなんて惨めすぎて笑い話にもならない。
そこにはきっと女にモテていたという自負があって、傷つけられたプライドに失恋の傷が染みたのだろう。
(よりによって忠士に奪われるとは)
学生時代を思い出すと、哀れな道化が浮き彫りになる。
忠士は俺と違い、女と付き合うことは少なかった。
何度か仲間内で彼の失恋を慰めたこともある。
そんな相手に恋人を持っていかれたのだ。
恭子の気持ちが離れたことより、友人に恋人を奪われたというレッテルを貼られたことが辛かった。
自尊心を傷つけられて憎んでいる。
結局俺は一番自分が可愛くて、一番自分が大切なんだ。

「そう言うなって。どうやら忠士君と別れたそうなんだ」
「は?」
「お前から声をかけてやれって。きっと恭子ちゃんも待っているぞ」
「待っているって言われても……」

今さらよりを戻す気はなかった。
だが忠士と別れたことには驚いた。
忠士にとっても友人の彼女を奪うというのは大きな決断である。
彼は全てを踏まえた上で、恭子と付き合うことを決めたと思っていた。
だから結婚の報告なら納得したと思う。

「ほら、これやるからさ」

すると兄貴が取り出したのは、駅前に出来た屋内プール場のチケットだった。

「恭子ちゃん誘って行ってこいよ」
「はぁ?やだよ」
「いいから」

兄貴は昔からお節介で、人の世話を焼いてばかりだった。
大体が余計なお世話で面倒な事態に巻き込まれる。
しかし彼の気持ちも分からないではなかった。
恭子は可愛い後輩で、俺との関係に悩んでいたのも知っていたのかもしれない。
(だけど俺にはもう成瀬君がいるんだ)
そういう線引きだけはしっかりしていて、変な部分で生真面目だった。
兄貴のチケットは受け取らず、お茶を飲み干すと横を向く。
そんな俺に見かねて、兄貴はチケットをレジ台の上に置いた。
尻目にそれを見て、いらねーよ――と、毒づく。

「あれ……?」
「ん、どうした」

すると俺はその横にあった星柄のハンカチに気付いた。
ついさっきまでいた成瀬が使っていた物で、慌てて帰ったせいかしまい忘れたのだろう。
それを手に取るとポケットに入れた。
兄貴は気にした素振りもなく「恭子ちゃんのことは許してやれよ」と言葉を残して立ち去る。
誰もいなくなった店内にはカントリーミュージックがかかっていた。
場にそぐわない陽気な南部音楽に深いため息が漏れる。
残されたチケットを一瞥すると、店を出てイチョウ並木を見上げた。
ここ数日間で色が変わり始めた葉が風に揺れている。
そろそろ高校の授業が終わってまた賑やかになる時間だ。
青々とした空に向かって手を伸ばすと肩を回しながら店へ戻っていった。

翌日、成瀬に洗濯したハンカチを返そうとしたが、彼は店にやってこなかった。
閉店後に急いでレジ閉めをした俺は、自転車を飛ばして成瀬の家までやってくる。
デートや夜遅くまで店にいた場合は自宅まで送っていた。
店から家まで自転車で十五分くらいだった。

「こ、こんばんは」

成瀬に電話をするとすぐ近くの公園にまで来てくれた。
本当は郵便受けに入れて帰ろうとしていたのだが、気がついたら勝手に番号の履歴を探して電話をかけていた。
出なければ諦めようと思ったが、予想外にもすぐ出て公園へ来るという。
そうしてやってきた彼は、パジャマの上に水色のジャンパーを羽織り、いつもより無防備だった。
きっちりとした制服と違い寝巻き姿は隙だらけで、現れた瞬間吹きだしてしまいそうになった。

「夜遅くにごめんね。お母さんは平気?」
「はい!今日は遅いので……」
「そっか」

夜の公園は静寂を保ち深々と冷えている。
ガウンを着ていても寒く、自販機で買ったホットコーヒーが身に沁みるようだ。
成瀬は風呂上りなのか頬が林檎のように赤く、買ってやったはちみつレモンを当てて気持ち良さそうに目を細めていた。
置き忘れていったハンカチを返すと、彼は顔に喜色を浮かべて受け取った。

「良かった」
「え?」
「今日店に来なかったじゃん。もしかしたら具合でも悪いんじゃないかと思っていたんだ」
「あ、すみません。よ、余計なご心配をおかけして――」
「そうじゃないんだよ」

あからさまにオロオロする成瀬に首を振ると、腰掛けていたベンチに手招きして、

「ごめん。言い方間違えた。俺が会えなくて寂しかったの」
「秋津さっ……」
「なんか調子狂うね。一日会えなかったくらいでブーブー言うなんて」

前髪をくしゃっと掻き、照れ隠しのように苦笑いする。
昔から人を待つのは嫌いじゃなかった。
待たせるよりは待つ方が性に合っていて、約束の時間より十五分前には待ち合わせ場所へ着くようにしていた。
その間に、何を話そうかどんな一日にしようかと思いを巡らせて、のんびりと相手が現れる時間までを楽しむのだ。
だけど今日は全然楽しめなかった。
接客をしていてもどこか上の空で、せっかく可愛い子がたくさん来店したのに、気分は高揚することなく終わった。
何度柱時計を見上げてため息を吐いたのだろう。
そうなった時に気づいた。
二人は約束で会っていたわけじゃないんだ。
成瀬が俺に会おうとして、わざわざ店へ寄ってくれていたのだった。
(メールしておけば良かったな)
閉店作業をしながら、基本的なことすら忘れていたことに失笑する。
どこまで能天気な男なのだろう。
ひとつ気付くと寂しさは波のように襲ってきて、考える間もなく寒空の下自転車をかっとばした。
そうして会えた今、心は凪のように穏やかで、まるで欠けていた体の一部を見つけたような安らぎを覚えている。
成瀬との時間はそれくらい当たり前の日常に組み込まれていたのだ。

「あ、秋津さん……っ!」

すると俺の手招きに応じた成瀬は、勢い良く隣に座ったかと思えば、膝の上の拳を震わせた。
それが見えた俺は首を捻る。

「あのっ、あのっ……あのっ!」

成瀬は俯いたまま意を決するように何か言おうとしているようだ。
前かがみの彼は、俺からだと耳しか見えず、その耳は拙い街灯の明かりでも分かるほど赤くなっている。
微かに白んだ息を吐きながら、思いつめたように視線を下げて動かない。

「あのっ――――へっくしょんっ!」

すると夜の寒さに豪快なくしゃみをした。
カトちゃんも吃驚する威力に、自然と口許が緩んで身に付けていたマフラーを巻いてやる。
ついでにティッシュで鼻をかませてやったら「子ども扱いしないで下さい」と口を尖らせてしまった。
(そんなところが子どもなのに)
口先で謝りながら幼い表情に魅了される。
女のような美しさはないのに、なぜ可愛いと思ってしまうのだろう。
仕草のひとつひとつに目を奪われてしまうのだろう。
慌ててマフラーを外そうとした成瀬に俺が押し切った。
ぐるぐる巻きにして結んでやると、ぷっくり膨れたほっぺが柔らかそうで好奇心のままに触れてしまう。
(あったか……)
指先から伝わる温度に、慈しみに似た愛しさが込み上げた。
成瀬の頬を優しく包み込むと体を引き寄せる。
肌の温かさに笑みが零れてずっとそうしていたくなる。

「湯冷めしちゃったかな、ごめんね」
「い、いえっ……全然そんなこと…っ。おれの方こそマフラーごめんなさい」
「んーん。じゃあ明日もあるし、無事にハンカチも返せたし帰ろっか」

このまま際限なくここにいたら風邪を引かせてしまう。
親がいないとはいえ、あまり長く家を留守にするのもまずいだろう。
もう二度と会えないわけではなく、明日もまた会おうと思えば会える。
そう思って立ち上がろうとした俺のジャケットを成瀬が掴んだ。

「もうちょっとだけ……っ!な、なんて……」

見下ろすと忙しなく目を泳がせた彼が蚊の鳴くような声で呟く。
困らせたくないという躊躇と、甘えたい欲の板ばさみになっている顔だ。

「……ごめんなさい」

すぐに手を離した成瀬はしゅんと肩を落とした。
咄嗟に言ってみたものの我侭が過ぎたと判断したのだろう。
いちいち感情が読み取れるから見ていて飽きない。

「なんで謝んの?」

俺はベンチに座り直すと、温めるように成瀬の肩を抱いた。
一瞬びくりと強張らせた彼は、驚喜に近い表情を顔面に漲らせる。
すぐに力が抜けると、嬉しくてたまらないというように目を輝かせた。
二人きりの公園で寄り添い体を温め合う。
最近まで涼しく感じた風は肌を刺すように冷たくなり、もう少ししたらコートが欲しくなる。
入り口には大きなポプラの木があり、黄色くなった葉が地面に落ちると、絨毯のように鮮やかに足元を色づかせていた。
密やかに近づいてくる冬の気配はあらゆるところに散らばっていて、人の意識とは別にゆっくりと移り変わる。

「寒かったら言ってね」
「寒くなんかないです!」

即答した成瀬は身を捩ると胸元に頬を寄せた。
預けられた体の重みを感じながら、俺も肩から背中へと手をずらす。
体温を分け合うように密着すると、風呂上りのせいかシャンプーの甘い匂いがした。
その甘さは色気立った女の香りというより、あくまで子供の、ホットミルクのような柔らかな匂いである。
(あー、帰したくなくなるわ)
こういう時、学生は不便だ。
社会人なら気軽に泊まりに来ないかと誘えるが、保護者付きの学生にそんなことは言えない。
それでなくとも俺は気を遣っていた。
成瀬の母親には、関係を伏せて挨拶に行っている。
いきなり成瀬の行動パターンが変わって不審に思われるより、先に「こういう者です」と名乗っていた方が後々楽なのだ。
幸い店が家の近くということで俺を知っていたらしく「一人っ子の甘えん坊ですがよろしくお願いします」と、頭を下げられた。
それ以来、遅くなる時は電話をかけさせ、自分が一緒であることを告げている。
中々紳士的な振る舞いだろう。
問題は「ご安心下さい」と言っている俺自身が最も安心ならぬ人物なことだ。
商売柄そういった対応は慣れているため怪しまれたことはないが、罪悪感を感じずにはいられない時もある。
俺だって人の子だ。
人並みの常識や価値観は持っている。
昔から人当たり良かったし、この顔のお蔭も手伝って他人の印象が悪かったことはなかった。
こればかりは産んでくれた両親に感謝している。
あとはこれ以上成瀬の母親の信頼を裏切らないことだろう。
(それが一番大変なんだけど)
サラサラとした髪は乾ききっていないのか少し湿っていて指に絡みついた。

「はぁ、ずっとこうしていたいなぁ」

呟いた言葉は夜のしじまに消えて、あとに何も残らない。
夏場あれだけ街灯に群がっていた羽虫もどこかへ消えて、冷ややかな明かりが俺たちを静かに照らしていた。
成瀬を抱きながら、いつまでも胸元に閉じ込めておきたいと思い始めたのはいつごろだっただろうと振り返る。
肌を通わせたからって、そんな簡単に情が湧くのか。

「おれもこうしていたいです」

成瀬は遠慮がちに擦り寄ると瞼を震わせた。
俺の感触を確かめるよう服を掴んだあと、間を置いてからポケットに手を突っ込む。
取り出したのは何の変哲もない茶封筒だった。

「何?」

俺は渡されるがまま受け取り、中を開けてみるとチケットが二枚入っている。

「お母さんが新聞屋さんからもらったらしいです」
「屋内プールの入場券?」
「そうです。駅の傍に新しく出来たところで、おれはまだ一度も行ったことがないんですけど……」

成瀬は珍しく神妙な顔つきで見上げ、射抜くような強さで俺を見据えた。

「…一緒に、行きませんか…?」

その割に自信なさ気な口調で、断られることを前提に誘っているようだった。
恋人が恋人を誘うのは自然な流れなのに、大きな不安を抱えているようである。
俺はこの時それを成瀬ゆえの弱さだと勘違いしていた。
なぜなら脳裏には、昨日店へ来た兄貴とのやり取りが浮かんでいたからだ。
恭子と行けと渡されたチケットは、あのあとも触れることなくレジの横に置きっぱなしである。
同時に彼女も待っているという言葉を思い出して苦い気分になっていた。
(今さら俺にどうしろっていうんだ)
離れたのは彼女の方で双方共に納得した別れだった。
望んだ未来の先には互いの姿が見えなかったのだから仕方がない。
だから恋人を友人に取られた男との烙印を押されても甘んじて受け入れた。
先を望まなかった俺の結果だからだ。
なのに今、急に戻ってきたいと言われても困る。
何年付き合っていようが別れはあっさりしていて、心を揺るがすことはなかった。
引きとめようさえ思わなかった。
時折そんな自分が怖くなる。
本当は凄く冷淡な人間かもしれない。
本当は誰のことも好きじゃないのかもしれない。
(初恋はちゃんとここにあったのに)
苦しそうに軋んだ胸は、温もりがなくなって寒そうに縮んだ。
恋人と別れるたびに美化されていく初恋に、煩わしくも取り戻したい焦燥感に駆られて頭を抱える。
告白されて舞い上がったのは、あの時一度限りだった。
その後も嬉しかったけど、あれを超えるほど全身が喜びに迸ることなんてなかった。
他の人も同じなのか。
だから初恋は特別なのか。
誰かと一緒だから安心とは考えないが、自分だけ違うとしたら、感情のどこかが欠落しているようで不安になる。
明確な数字として表れたら分かりやすいのに、比較しようにも気ままな心は曖昧で、己が己に翻弄された。

「成瀬君」

いつだって理性的に考えれば、成瀬といるより恭子といた方が楽である。
性別や年齢差だけでなく、気持ちの上でも負担になることは少ない。
元々彼女に飽きたわけでも、嫌いになったわけでもなかった。
なのに――――。

「じゃあ一緒に行こうか」

どうして俺は成瀬を選んでしまうのだろう。
答えは霧の中に隠される。
決して晴れることのない靄が四方に広がり愚かな旅人を迷わせるのだった。

***

数日後の土曜日。
本来なら定休日ではないが、土曜日なら良いと兄貴から特別に許可をもらって店を休みにした。
俺と成瀬は夏に出来たばかりの屋内プール場に来ていた。
周辺で最も栄えている駅の西口にどどんと目新しい建物が出来て話題になった場所である。
海はすぐ近くだが、遊べるような砂浜がないため海水浴は出来ず、地元の子供たちはバスで市民プールへ行くのが常だった。
だから夏にオープンしても客は集まり大盛況だと人づてに聞いた。
入り口には南国を思わせる大きなヤシの木が植えてあり、従業員は揃ってアロハシャツを着ている。
中も南の島を連想させるような内装で、アジアンテイストなオブジェや外と同じく南国植物が配置されている。
白を基調とした壁や床は清潔感があって、ホテルにあるようなプールの高級感があった。
広々とした場内は、スタンダードな二十五メートルプールに、流れるプール、人工砂浜の波のプール、ウォータースライダー、飛び込み台と充実していて、サウナや温泉、ジャグジーまであった。

 

次のページ