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食堂の大きさは僕の家を越える。
そこに長細いテーブルが置かれ、所々にキャンドルの火が灯されている。
テーブルには気持ちの良いほど真っ白なテーブルクロスが掛けられており、沢山のイスが並んでいた。
晩餐会やパーティーの時は多くの人で溢れかえっているのだろう。
だが今は正面に城主である男と執事のセルジオールしか居ない。
男は挨拶もせず席に着くと黙々と食事をとっている。
昨日近付くなといわれた通り、最も遠い席で食事をしていた。
長方形のテーブルの端と端で食事をしていた事になる。
その光景は異様なものであった。
しかし男もセルジオールも気にした様子はなく食事は進む。
だから僕も無用なことは口に出さなかった。
口は災いの元であるとは良く言ったものである。
(ふむ……)
その代わり正面の男を観察してみた。
年齢はざっと三十前後に見える。
体格は大きく貴族というより騎士や兵士に見えた。
藍色の髪の毛が美しく顔の上品さに拍車を掛けている。
右目は見えないのか黒皮の眼帯で隠されていた。
その若さや風貌からこんな豪華な城を持てるとは思えない。
他に付き人が見当たらないという点も不思議であった。
だが当の本人は気にする事もなく食べ続けていた。

食後、早速セルジオールは僕の話を男にしてくれた。
男は無頓着なのか勝手にしろと一言呟いて食堂を出て行った。
こうしてあっさりとこの城で働く事を許されたのである。
ただセルジオール曰く条件があるというのだ。
それは一定以上男に近付くなということである。
余程人間不信なのか、そんな条件を出してきた人は初めてだった。
だが今までの態度を見てきたのだから納得は出来た。
それでも気になる事はある。

「あの……」
「はい?」
「セルジオールさんは近付いても大丈夫なんですね」

昨日の夜からセルジオールには気を許しているのか、近付いても何も言われなかった。

「ええ」

セルジオールは短く返事をしただけで、それ以上深い話はしなかった。
だから二人の膨大な時間が信頼という形で得ているのだと考えた。
そして僕は余所者ゆえに警戒心が強いのだと思うことにした。

その後、仕事の説明や他の使用人を紹介された。
他にこの城で働いている人がいるのかと驚いたが、昨日出歩いたのは夜中である。
紹介された使用人は皆、ずっと年上で、使用人として働くにはいささか年を取りすぎている人もいた。
道理で会わなかったはずである。
この広大な城には使用人が四人、庭師のおじさんが一人、料理人が一人、そして執事にセルジオールしかいなかった。
普通に考えてありえない人数であろう。
何せ一階は倉庫や大広間があり、二階は食堂に書庫、それから使用人の部屋がある。
三階は全て客室であった。
また同じ階にテラスがあり、そこは大きな野外階段に繋がっていて、直接庭に降りられるようになっている。
初日に僕が泊まったのは三階の客室で、あの不気味な男に会ったのがベランダではなくテラスだった事を知った。
暗くてそこまで広さが判らなかったのである。
そして四階は主の寝室や居間など、全て彼の部屋であった。
最後に主人である男の名前を教えてもらった。
名をシリウスという。
名字はおろか彼が何をしているのか、また他の家族がどこにいるのか分からなかった。
これから仕える主人の名前しか知らないというのも変な話だが、誰も口を割ろうとしないので仕方がない。
僕は使用人のジェミニから詳しい仕事内容と城の案内をしてもらった。
彼女はふくよかで良く笑う優しい人であった。
育てた子供はとっくに嫁に行ったらしく、住み込みで働いている。
彼女に好感を持ったのはまだ子供の僕をちゃんと“叱って”くれたことであった。
まるで自分の子供のように間違えた時は怒り、褒めるべき時は頭を撫でてくれた。
お蔭で仕事や城での生活に慣れるのも早かった。
相変わらず男との接点は皆無に等しかったが、城で暮らす他の皆とはすぐに打ち解けて、家族のように仲良くなった。

「ふぅ」

それから一ヶ月経った。
今日も朝から城内の仕事に明け暮れていた。
だいぶこの城に対する恐怖は和らいだが、やはり暗くなると不気味である。
だからなるべく日の高いうちに掃除を終わらせておく必要があった。
そこまで仕事がキツくなかったのがせめてもの救いだったかもしれない。
僕ははたきと箒を持って書庫へと向かう。
城に似合わず沢山の書物を収蔵してある部屋があった。
僕は学校に通っていなかった為、本を読むことは出来なかったが、本に囲まれるというのは新鮮で面白かった。

「うーんっ」

書庫に入ると書物独特の匂いに包まれる。
でも嫌いじゃない。
僕は窓辺のカーテンを思いっきり開けると日の光を入れた。
室内にはいくつもの棚に所狭しと本が並べられている。
それだけでは足りなかったのか、所々平積みにされた本が溢れていた。
部屋の隅に置いてあった脚立を持ってくると、はたきを使って丁寧に埃をはたいていく。
分厚い本を手に取ってみるが、知らない文字でいっぱいだった。
僕はため息を吐くと本を閉じて元の場所へ戻す。

コツコツコツ――。

しばらくして、こちらに向かってくる足音に気がついた。
周囲は森に囲まれている事もあって静かである。
その中で響き渡る靴の音は核なる部分で緊張感をもたらせた。
相変わらず脚立の上で作業をしていた僕はピクリと体を硬直させる。
仕事をしているだけだから、気に留めなくても良いと分かっていてドキッとしてしまうのだ。
それはやはり男の雰囲気があまりに異様だからであろうか。
僕は城主である男の気配に対して敏感に察知するようになっていた。

ギギギ――。

すると書庫のドアが開いた。
僕は一番奥の棚の間で掃除をしていた為、入り口が見えなかった。
お蔭で視覚は役に立たず、耳だけで男の気配を感じ取る。
それにひと際鼓動を速めた。
室内に糸を張ったような緊張感が生まれる。
それは僕だけでなくあの男も感じているようであった。

「…………」

すると室内に入って来た彼の足音が消える。
静まり返った部屋が波打って、どこまでも続くような息苦しさが胸を突いた。
身動きひとつ出来ずに辺りを伺う。
(シリウス様の気配が消えている)
先ほどまでの気配がいつの間にか消えていた。
ゴクリと息を呑み、手汗をかきながら、冷たい指先を握り締める。
僕は自らのアンテナを周囲に張り巡らせた。
少しでも空気が揺れたならその方へと素早く顔を寄せる。
目だけは不自然なくらい動き回り男の行方を窺った。
主人に対してここまで警戒するのもおかしな話だが、体はどうしたって反応してしまう。
それはきっと彼自身が僕に対して警戒しているからだ。
なら始めから雇わなければいい話だが、その矛盾がどうしても理解できない。
男を見ると矛盾や常識で突き詰めて考えてはいけない事を分かっていた。
もっと大きな意味で何か隠されている。

魔の森の奥にひっそりと建てられた不気味な城。
城の大きさに合わない年老いた少数の使用人たち。
素性も不明な当主であり、片目を失った神経過敏な男。
この城の正確な位置は分からない。
お蔭でこれが自国なのか隣国なのか判断できなかった。
どちらにせよこんな城が野放しにされているのは可笑しな話だ。
(しかも悪魔の像なんて……)
庭に置かれていた薄気味悪い像を思い出して背筋を凍らせる。
悪魔は地獄の使者と伝えられていた。
醜悪な姿の通り、残忍で卑劣で恐ろしい魔物である。
悪魔や魔女は現世の人間に多大な悪影響を及ぼすと言われ、自国では討伐が行われていた。
人間に化けた悪魔や魔女が次々に捕らえられている。
家のお向かいに住んでいたおばさんも魔女だと疑われてどこかへ連れて行かれた。
その後どうなったのか知らない。
だがどうしても信じられなかった。
聡明で優しい彼女が魔物だとは思えなかったからだ。
今、この城はこんなにも不気味に瞬いている。
もし兵士達に見つかれば即座に悪魔だと疑われるだろう。
そういわれても仕方がない要因が沢山あるのだ。
それでも平然としている男や使用人たちに不信感が募る。

ズキン――。

すると急に背中が疼いた。
僕は歯痒さに唇を噛み締める。
原因は判っていた。
だから身じろぎもせず、その疼きが収まるのをひたすら待つ。
次第に呼吸が苦しくなってきたが堪えるように目を瞑った。

「…………おい」
「ひっ――!」

そんな時に後ろから声を掛けられた。
おかげで緊張は頂点に達する。
自分の事で手一杯だったせいか、男の存在をすっかり忘れていた。
気が逸れていたところで彼の声を聞いたせいか、一瞬で頭が真っ白になる。

「うわっ――!」

僕は動揺してガタガタと音を立てながら脚立から落ちてしまった。
冷たい床に投げ出された体に顔を歪める。
言葉にならない痛みが目の奥にまで響いて、そのまま身を縮めた。

「……っぅ……」

痛みに堪えながら僅かに目を開ければ、いつの間にか側まで来ていた男がじっと僕を見下ろしている。
その顔は相変わらず無表情で何を考えているのか読み取れない。

「…………」

まさか声を掛けてくるとは思わなかった。
体中に広がる痛みに体を軋ませながら男を見つめる。
すると彼は僕の方に手を差し伸べてきた。
近付くだけで剣を構える男が、寄って来ただけでなく手を差し出してくれたのだ。
(まさか助けてくれるのか?)
驚きというより衝撃に近い。
普通なら当たり前の善意も、男を知っている僕から見れば、天地が引っ繰り返ったような衝撃だ。
ゆっくりとこちらに差し伸ばされる手。

「…………」

何を考えているのか判らない顔をしていたがどうでも良かった。
やはり主人に優しくされると嬉しいものである。
今までの冷たい態度を思えば、彼の行為は痛みを忘れるほど喜ぶべき出来事であった。

「……だ、旦那……様」

僕は彼に合わせて、手を伸ばした。
交わろうとする掌。
――だがもう触れるであろう距離まで近付いた所で、その掌は交わるどころか交差してしまった。

「――――へ?」

僕の伸ばした手は虚しいくらいに空を切る。
思わず間抜けな声を出してしまったが、目の前の男は一切気にしなかった。
僕の顔の横にあった本を手に取ると、こちらを見ようともせず体の向きを変えてしまう。
それは僕と一緒に落ちてしまった本のうちのひとつであった。
(…………)
男は何事もなかったようにこの場から立ち去っていく。
その後姿を唖然として見送ったのは言うまでも無い。
来た時と同様に響き渡るのは男の革靴から鳴る足音だった。
遠くなっていく足音を、起き上がりもせず聞き続ける。
しばらくするとその音も途絶えて消えた。
あとに残ったのは耳が痛くなるほどの無音で封じられた部屋だけである。
あまりの出来事に僕の思考は止まったままだ。
ようやく指先が動いたのは、彼が立ち去ってから、しばらく経ったあとである。
薄暗い室内に冷たい北風が吹き荒んだような気がするのは気のせいだろうか。
いや、確実に北風は吹いたんだ。
――――僕の心に。

だが僕はこの出来事にもめげなかった。
むしろ男の違った表情に興味を持った。
ここまで人を無視できるのは凄い事だと思う。
人は三種類の人種にわける事が出来る。
好きな人と嫌いな人――どうでもいい人。
人に嫌われるという事は辛くて悲しい。
だがその側面から見みるに、嫌いとは気になるが故に意識をしてしまうという結論に達する。
嫌悪という意味は置いて、結局はその対象に興味があるという事だ。
とりあえずは存在を認めた事になる。
しかしどうでも良いというのは根本的な存在否定といっても過言ではなかった。
在っても無くてもいい。
もっと強く言ってしまえば、今そこで産まれようが、朽ち果てようが興味がないのだ。
人に関心を向けてもらえないというのは、想像よりずっと酷なものである。
――否、関心がないという言葉で切り捨てるのは実に虚しくて寂しいものだ。
明らかな故意のもと、そういった態度を見せられる事が潔ささえ感じるほど凄いと思った。
それこそ尊敬すら覚えるほど感心していた。

そこで僕は自ら行動を起こすことにした。
どうにか「無」の存在から脱出して、男の本性を知りたかった。
理由は分からない。
とにかく当たって砕けろの精神のもと、アプローチを開始したのだ。
だが変に近付いて斬りつけられたら堪らない。
ここでみすみす命を落とす必要はない。
だから彼との距離を充分にとった上で話しかける事にした。
例えば男はいつもテラスで本を読んでいる。
そういう時は庭師の手伝いをしながら、遥か上の男に声を掛けて興味を引いた。
延々と家の手伝いで身に付けた野菜や花の薀蓄をしゃべり続ける。
男は話を聞いているのか判らなかったが構わず押し切った。
また、図書室や廊下ですれ違った時や、食事中も話しかけるように努めた。
ここまでしつこくやり続けたら、必ず好きか嫌いに別れるだろう。
嫌われる事に躊躇いはあったが、それでも今の状況よりはずっと前に進んでいる気がした。
他の使用人たちは僕の態度に驚いた様子だったが、一ヶ月も経てばそれほど気に留められなくなった。

「ふふ、ケイト君が来てから城が明るくなったみたいだわ」
「そうですか?」
「ええ間違いないわ。だって皆もそう言っていたもの。この城が賑やかになったって」
「はぁ」

僕とジェミニは食事後の後片付けに追われていた。
彼女はそう言って笑う。
あまりに楽しそうだったから萎縮してしまった。
使用人に噂されるほど、派手に動き回っていたのかと驚いていたのだ。

「旦那様は相変わらずみたいね」
「はい。相手にもされていません」

食事中も話しかけたのだが、変わらず流されるだけだった。
表情ひとつ動かず、黙々と食事をして、彼はさっさと自分の部屋に戻っていく。
だがここまでの出来事ならそれこそ日常茶飯事だった為、気にしなかった。

「――気をつけてね?」
「え」
「あっ……えーっと、その……ほらっヘタに近付くと剣で斬りつけてくるでしょ?」
「あ、ああ」
「私達ぐらい長くここに勤めていると平気になってくるんだけど、ケイト君はまだここに来て浅いからね」
「そうですね。だから旦那様との距離にはいつも気をつけています」

彼女にも同じ経験があるのか、ジェミニは苦笑しながら頷いていた。
だが腑に落ちない部分を感じて彼女の横顔を盗み見る。

「ねぇジェ――」
「ケイトさん、ちょっとよろしいでしょうか?」

すると突然後ろから声を掛けられた。
食器を持っていた僕は驚いて大げさに振り返ってしまう。

「あっあらセルジオール、いつからそこに?」

そこにはいつも通りキッチリと黒いジャケットを羽織ったセルジオールがいた。
ジェミニは若干慌てた素振りを見せながら顔を引き攣らせる。
だが彼はジェミニには見向きもせず僕を見ていた。

「ジェミニ、彼をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「え、ええもちろんよ」
「あ……」
「では食器を置いてこちらに」

セルジオールは優しく微笑むと僕の持っていた食器をテーブルへと促した。
素直に応じて彼の後に続く。
ひとり残されたジェミニは困惑したままそこに佇んでいた。
食堂から連れ出された僕はセルジオールと廊下まで出てくる。
彼の放つ気迫に押されて何も話せずいた。
お蔭で居心地悪くてチラチラと周囲を窺ってしまう。

「お仕事中に申し訳ございません」
「い、いえっこちらこそ……その」

明らかに緊張した面持ちの僕は、ついどもってってしまった。
だがそれすら気にも留めないセルジオールは、軽く咳を吐くと振り返る。
しどろもどろだった僕はその様子に肩を張ると、軍隊のように背筋を伸ばした。

「ケイトさん」
「はい」
「あなたはまだ幼いのに随分働き者のようですね」
「は?」
「他の使用人からも可愛がられていると報告を受けています」
「…………」
「こんなにも辺鄙な土地でその頑張りは凄い事だと思います。もちろん、私も感謝していますよ。本当にありがとうございます」
「いっい、いえ」

てっきり怒られるかと身構えていたところで突然褒められてしまった。
なんて答えていいのか判らず、中途半端な謙遜しか出来ない。
大げさに手を振るが、それが彼にとって軽い前置きであることに気付けなかった。
頭を上げたセルジオールは変わらず穏やかでありながら、張り詰めた気配を感じる。
その両義的な感覚に混乱しながら僕は目を泳がせた。

「――それで」

一瞬、セルジオールの眼鏡が光る。

「あなたは私と交わした雇用条件をお忘れなのでしょうか?」
「え?」
「私はケイトさんをこの城で雇うと決めた時、条件を申し出ました。旦那様には一定以上近付くな――と」
「あ……」
「まさか実際に近付いてないから良いなんて浅はかな考えはお持ちではないでしょうね」
「…………」
「第一に使用人が主人に対して気軽に話しかけるなんて失礼にもほどがあると思いませんか?あなたは一体何様なんです?」
「申し訳ございません」

彼の言葉は丁寧でありながら、鋭く刃のようであった。
だが正論であるからこちらは何も言うことはない。

「しばらく目を瞑って参りましたが、どうやら条件をお忘れのようなのでもう一度いいます」
「はい」
「次に旦那様に近付いたら例え子供といえども容赦は致しません。直ちにこの城から出て行ってもらうことになります」
「はい」
「この森の春は遅い。あなたも雪深き森に戻りたくなければ大人しくしていることです。いいですね?」
「はい、申し訳ございませんでした」

セルジオールは釘を刺すかのように何度も確認させた。
僕はその度に頷いて頭を下げた。
凛とした空気を纏っているからこそ切れ味は鋭い。
セルジオールの静かな威圧感を前にしたらどんな言葉も出てこなくなる。
すると十分に僕が注意を受け止め、謝っているのを納得したのかセルジオールは立ち去った。
(確かに僕はやり過ぎていたな)
彼の後姿を見ながら反省する。
素性もしらない僕を雇ってくださっているのは、他の誰でもないシリウス様である。
その彼が近付いて欲しくないと条件に出しているのに、“距離としては一定を保っているから”なんていうのはあまりに子供っぽい言い訳だ。
何より今この城を追い出されたら、極寒の森に戻らなくてはならなくなる。
(情けない)
だが自己嫌悪に浸っていても意味がない。
僕はこの城で働くためにいるのだ。
だから自分の頬を叩いて気合を入れ直すと、側にあった鏡で自分の表情を確認した。

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