5

「後ろからもしかしてと思って見ていたけど、まさか本当に弓枝だったなんてね」
「あ……今日は塾だったから」
「それでこんな時間にいるのか」

私服姿の桃園はコンビニの袋を持っていた。
中にお茶やお菓子が入っている。
シャツにスエットとラフな格好だが、桃園が着ると爽やか好青年に見えるから羨ましい。

「あーあ濡れちゃって。塾行く前に家へ寄るか、塾で傘を借りれなかったん?」
「どっちも面倒だった」

そう言うと桃園は目を瞬かせ破顔した。

「ぷっはは。意外と面倒くさがりなんだ」
「悪いか」
「いーえ、悪くないです。むしろちょうどいいんでない?」
「何がだよ」
「俺は学校一マメな男なんで」
「はぁ?」

するとポケットからモスグリーンのハンカチを取り出した。
濡れた弓枝の髪や顔を優しい手つきで拭いていく。
やめろよと制したが、聞き入れぬ間もなく拭き終わった。

「出かける時にハンカチとティッシュは必需品っしょ」
「言い切れるお前がすごいよ」
「あ、そう?」

しかもハンカチには本人と同じシトラスの淡い香りがつけられている。
どこまで完璧なのかと無遠慮に相手の顔つきを物色するが、その視線は笑顔で流された。
隣で傘を開くと弓枝に入れと促す。

「送ります、ジュリエット」
「オレはジュリエットじゃねーし」
「いいじゃんいいじゃん。細かいことは気にしないの」

何がいいのか判然としないが、雨に濡れずに済むのは助かった。
大人しく入れてもらうと「近くまででいいから、悪いな」と付け足す。
桃園の傘なのに、彼の方が身長が高いから柄を持たせてもらえなかった。
それが居心地悪かったが、当人は鼻歌交じりで機嫌良さそうだ。
降りしきる雨は住宅街を闇に変え、他の余計な音を掻き消す。
濡れないようさりげなく傘を向けてくれるとか、車の往来を気にして車道側を歩いてくれるとか、些細な気遣いは桃園らしい。
手馴れているように思えるのは、今までたくさんの女たちに同じことをしてきたからか。
気取らずさり気なくて意識していなければ気付かなかった。
そのスマートさが憎らしい。

「そういえばせっかく携帯のアドレス交換したのに、弓枝ってば全然メール寄こさないんだから寂しいなあ」
「用もないのにメールしてどうするんだよ。大体お前が勝手にやったことだろ」
「正論で返されると何も言えないねえ」
「事実だ、事実」

言いながら己の愛想のなさにげんなりした。
とはいえ他に理由は思い当たらないし、言い訳を述べるのも不誠実な気がして嫌だった。
本当はメールをするタイミングが分からなかっただけなのに。
桃園はたくさんの友人がいて、特別仲良い冬木もいて、彼らを相手するだけでも忙しいだろうに、用もない自分が手間を増やしたくなかっただけだ。
わざわざ個人的に連絡を取らなくても、翌日学校へ行けば必ず顔を合わせる。
弓枝にとって携帯は必要なかった。
だけどそこまで説明するのも格好悪くて、結果として嫌なやつになってしまう。
上手く生きられないことがもどかしい。

「まぁね。それでいいんだよ」
「は?」
「連絡なくったって繋がっていることに変わりないでしょ。そりゃ携帯のアドレス如きでーなんて言われたらどうしようもないけど、何でもいいから繋がっていることが大事なんじゃない。それがいつか大切な繋がりになるかもよ? たとえ今は必要なくったってね」
「どういうことだよ」
「はいはい、そんな難しい顔しなさんなって。要約するとどこかで繋がっていれば安心だよねって話。人ってそんなもんっしょ」

桃園は笑みの溢れる甘ったるい目で諭すように言葉を紡ぐ。
冷たく返されても顔色ひとつ変えない。
今朝見たように無理をさせてはいないだろうかと懐疑的になり、探るようにじっと見つめた。
弓枝には繋がっていることが安心なんて思えなかった。
携帯には家族以外桃園しか連絡先を入れていないし、たとえ今ここで携帯が壊れたところで何の問題もない。

「なに? 熱い視線を向けられると照れるんだけど」
「いや、別に」
「別にって顔じゃないでしょ。弓枝ってさ、よくそうやって自分の気持ち濁すじゃない?」
「…………」
「あ、悪い意味で言ってるんじゃないよ。逆に言うと濁さないことには嘘がないんだ。ぶっきらぼうでも言葉足らずでも弓枝の言葉は誠実なんだ。んで、同様に視線も嘘がなくてさ。――というか言葉で濁す分、目は口ほどに物を言うっていうか……」

桃園は見下ろし照れくさそうに鼻を掻くと、

「弓枝に見つめられると全部見透かされそうで怖い」

と呟いた。
その言葉に弓枝の方が絶句した。
視線なんて意識したことがなかったし、しいていうなら子供の頃から目が悪かったから凝視してしまうクセがついていた。
もし桃園を不愉快な思いにさせていたら詫びるべきで、でも故意にしていたわけではないからどう謝っていいのか判らなかった。

「判った。もう見ない」

言葉に詰まって顔を逸らすと何とかそれだけ言う。
気まずかった。
無意識を指摘されても困る。
知らない間に少しでも不快にさせていたとしたら、何も気付かなかったことが申し訳なかった。
鈍感な己を卑下する。
下を向くと穴に入りたいほど恥ずかしくて耳まで真っ赤にした。
あくまで普通だと思っていたから、今さらどう接していいのか分からなかった。
激しい雨が傘を叩きつけ、鼓膜を遮る。
見れば自宅付近にまで来ていて、咄嗟に「じゃあな」と傘から出た。

「ちょ、ちょっと、どうしたのっ弓枝!」

桃園は聞いたことがないほど狼狽した声で追いかけてきた。
それから逃げるよう早足になる。
もう髪も服もずぶ濡れだ。

「悪い意味じゃないって言ってるでしょ! 勘違いさせるようなことを言った俺が悪いけどさ。待ちなさいって!」
「分かってるよ、だからついてくんな」
「分かってない!」
「別に気にしてないっ。ただもう家の近くまで来たから傘を出ただけで」

雨の住宅街はどこも静かで二人の足音が異様に響く。
出歩く人もおらず点在している街灯が鈍い光を放ち、掠れるように雨粒が浮かび上がっていた。
水たまりには黒い雲が映り、波紋を広げている。
全身濡れて重く感じながらあと少しの距離を駆け足になった。
なぜか桃園は諦めたりせずついてくる。

「悪かったよ。次から気をつける」
「はぁ? 何を気をつけるんだよっ」
「だからお前を見る時に――」
「そうじゃないんだってば!」

それまで傘を差していた彼が、躊躇いなくその傘を道端に放り投げた。
同時に強く腕を掴まれて、どこかの家の塀に押し付けられる。
反動で体をコンクリートブロックにぶつけると痛みに顔を歪ませた。
見上げようとしたが、先ほどの話を思い出し、慌てて俯く。
ふいに訪れた無音。
二人とも全身を九月の雨に晒し、黙り込んでいる。
顔を合わせなくとも責めるような視線を感じた。
粘っこい眼差しに皮膚は焼けたように熱くなり、いてもたってもいられなくなる。
だが指一本動かすことも出来なかった。
腕は掴まれ、もう片方の手は顔のすぐ横に置かれて逃れられないよう囲われている。
横目で見ると、暗闇の中で桃園の傘が転がっていた。
その形からお椀のように雨粒を受け入れ溜めている。
雨を弾くために作られた物に水が溜まるのは滑稽だった。
霞んだ世界には鮮やかな黄色で、遠目でもハッキリと視認する。

「どうしてそんな顔するの」

ふと落ちてきた声は寂寥感に満ちていた。
思わず顔をあげる。
桃園は雨に濡れ、前髪が肌に張りついていた。
憂色を浮かべているのに、物憂げな表情が悩ましげで艶っぽかった。
こんな表情も絵になるのだから、美しさは罪である。

「冬木といる時は楽しそうなのに、俺といる時はいつもこんな顔してる」
「ど、どんな顔だよ」

塀についていた手が頬に寄せられた。
包み込むように撫でられて惑うも目が離せなくて見つめ合う。
今逸らしたらさらに彼を傷つけると思ったからだ。
雨に濡れているのに熱い手が、前髪を梳き、耳に触れると輪郭をなぞるように移動する。
その指先が顎まで来たところで固定された。
桃園を見上げる形で動けなくなると、唾を飲み、喉仏が震える。

「……悪かったな」
「だからなんで弓枝が謝んの? 何に謝っているの?」
「いや、だから……その」

いつもヘラヘラしている男の真顔は怖かった。
見透かされそうで怖いのは弓枝の方だった。
桃園が近くにいると、いつも感情が不安定になる。
わけが分からないまま左胸が痛くなって身を硬くする。
嫌っているわけではないのに。

「桃園がそういう反応するところなんて見たことがなかったから、オレが悪いことをしたと思った」
「俺の反応で決めちゃうの?」
「だ、だってお前、いつもニコニコしてオレが何言っても許してくれた。こんな風に深追いするようなことしなかった。だからオレの態度が間違えていたんだと思った。無意識のことだったから動揺して何て言えばいいのか判らなかった。……ごめん」

言葉選びに慎重になる。
焦っているのかいつもより早口で格好悪かった。
(怖い)
普段怒りを抑えている人間に怒られるのは怖い。
でもそれ以上に桃園という人間に怒られるのが怖かった。
せっかく話せるようになったんだ。
嫌われて疎遠になってしまうことが怖かった。
ずっとひとりで、これから先もひとりであろうと予期していたはずなのに、今さら身が竦む。
ひりつくような思いが纏わりついて離れなかった。
それくらい桃園の隣にいることが自然になっていたんだ。
まだ話せるようになって一ヶ月も経っていないのに。
嫌わないでなんて女々しいことは言えなかった。
溢れた言葉が行き場を失せたみたいに宙を舞う。
その時顔に影が出来た。
頭上の街灯が遮られたせいであり――では、なぜ遮られたのか。

「んっ――……!」

桃園にキスをされたからだ。
ゆっくりと顔が近づいてきて、吸い込まれるように唇が重なった。
驚きで弓枝の瞳孔が開かれる。
咄嗟に出ようとした言葉さえ呑み込まれて音にならなかった。

「んぅ、んっ……ふっ……っ」

唇の肉感的な感触と、シトラスの香りに包まれる。
濡れた互いの前髪から雨粒が垂れた。
押し退けようとした手は、どちらも強く掴まれて動けない。
抗おうにも逃れられなくてなすがままになってしまう。
(熱い)
他の部分が冷たいせいか、重ねた唇の熱さに眩暈がした。
初めてのキスに動揺し、浅い呼吸に息を乱すと喘ぐ。
それでも離してくれなくて、悩ましげな吐息が漏れた。
角度を変え、鼻を擦り合わせながら唇を押し付けられる。
執拗なキスに頭は真っ白になった。
思考が働かず朦朧とすれば、余計に桃園の体温を感じるようになる。
この寒さでは唇の温度に縋りつきたくなった。
暖を得るかのように、強張っていた体を解く。
いや、貪欲なキスに腰砕けになって力が入らなくなっていたのだ。
それを彼も気付いたのか、暴れないように押さえていた手を離し、腰を抱き寄せた。
道端の水たまりは先ほどより広がっている。
排水溝へ流れる雨水は量を増し、今にも溢れてしまいそうだった。
遠くでしていた雷鳴が不穏な空気を漂わせて近づいている。
雨は空が憤っているような凄まじい降り方だった。
透けた服から瑞々しい肌が浮かび上がる。
絹糸のような雨が二人の頬を、唇を濡らして責め立てる。
桃園は土砂降りの中、飽きることなくキスをし続けた。
僅かに離しては弓枝の唇を甘く噛み、ふたたび吸い付くように重ねる。
延々と繰り返される官能的な感触に身が蕩けそうだった。
まるで夢うつつ。
唇だけでなく体も擦り寄せて求められた。
彼の大きな体が覆い被さるように囲い、抱き締められる。
普段何でもスマートにこなす男とは思えないほど荒々しくて力強かった。
雨に濡れ続けたせいかいつもなら熱い肌が冷たくなっている。
そうしてどれほど経ったのだろうか。
もはや意識は唇にしかいかなくて、時間の感覚がなくなっていた。
ほんの数秒に思えるし、もう数十分と経っているような気もする。
なぜ思春期の男二人が唇を重ね、雨に打たれて濡れそぼっているのだろうか。
人気のない住宅街は全ての音を無へ還して、辺り一面、白い雨の幕に閉ざされると、世界には桃園と弓枝しかいないような気になる。
潸潸と降る雨。

「ほ……ぅっ……」

ようやく離れたとき、零れた吐息の色っぽさに恥ずかしくなった。
拙い呼吸では酸素量を賄えず、肺が蠢くように収縮している。
上下する肩は弓枝だけで、初々しさに情けなくなった。
うっすら開けた瞳で桃園を見ると、息ひとつ乱れていない。
その代わり熱っぽい眼差しで弓枝を見つめ、逸らそうとしなかった。
途端に一連の出来事が走馬灯のように蘇る。
長い長いキスをした。
桃園の唇は同じ男かと思うほど柔らかくて心地好い弾力をしていた。
塀に押し付けられ身動きも取れぬまま強引にファーストキスを奪われたのである。
事実はいつも現前としているのに、まともに現実を受け入れられなかった。

しかし唇は温度を失った。
昼間までの夏を引きずった暑さは露と消え、冷雨に晒された体で唯一温かかったそこは瞬く間に冷えた。
同時に我に返ると、慌てて口を手で押さえ睨みつける。
無意識に手が出ると、気がついたら彼を殴っていた。
一瞬のことだった。

「……っぅ……」

端正な顔立ちが痛みに歪む。
それでも瞳は強いままで、なぜか口を開かなかった。
言い訳のひとつさえ出てこず、まるで弓枝の様子を観察するように見ている。
口もとは殴られた拍子に切ったのか、拭うように手で押さえていた。

「な、何すんだっ馬鹿!」

何も考えられなくて月並みなことしか言えなかった。
それを捨て台詞に狼狽したまま鞄を抱き寄せ、立ち去る。
あんなに寒かったのに、瞬間的に燃えた体は全身熱くてどうにかなってしまいそうだった。
桃園は追いかけてこない。
それをいいことに必死になって駆け抜ける。
水たまりで足元が濡れようが、それによって靴に水が染みて気持ち悪い感触になろうが関係なかった。
雨風の身を切るような寒さをものともせず霞んだ住宅街を突っ走った。
心臓が嫌な鼓動を奏で、不整脈のような息苦しさを覚える。
角を曲がって家の前に来るまで、それは治まらなかった。

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