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月曜日、何事もなかったように桃園と通学路で会った時は、さすがに開いた口が塞がらなかったが、そういう男だと判断してあえて先週の話はしなかった。
蒸し返す必要はない。
冗談に違いないのだ。
でなければ男の手になんかキスはしない。
土日は眠れなかったし勉強も手につかなかったし散々だった。
いまだに手の甲に唇の感触が残っている。
おかげで屋上から桃園と別れた商店街までの間何を話したのか覚えていなかった。
風呂に入ってようやく思考は戻った。
それからぐるぐると疑問が頭をもたげて悶々としたが答えは出ず、気を紛らわせるために休みの間は劇の脚本を進めていた。
一から作っていてはどんなに時間があっても足りないと、地元の本屋で売っていた台本を買い、学校の演劇用に短く省く。
その方が効率良いのは当然で、おかげで半分以上仕上がっていた。
(自己満足のつもりだったんだけど)
桃園の隣で他愛無い話をしながら、鞄の中に入っている脚本がずしりと重い。
書き始めたら止まらなくて、頼まれたわけでもないのに完成させようとしている。
それどころかいつ声がかかってもいいように学校まで持って来ている。
自分なんかが彼の役に立ちたいなど大笑いモノで、その図々しさに辟易としていた。
(違う。持って歩いているのは、知らない間に部屋に入った母親に台本を見つけられるのが面倒だったからだ)
実際、弓枝の母親は鼻が利き、僅かな変化も見逃さない鋭さがあった。
こうして脚本を書き始めて数日だというのに、

「真面目に勉強しているんでしょうね」

なんて疑いの眼差しを向けてきた。
もはや犬なみの嗅覚で、苛立ちを通り越し感心すら抱く。
今は熱心に自習をしているということで塾通いも週三に抑えられているが、書いていることを知られたら週五に増やされそうだ。
何もかも――棚の本すら捨てられてしまう。

「そんな時間があったらもっと多くの問題を解けるでしょう」

暇な時間は無駄な時間というのは両親の考えだ。
だらけてテレビを見たり寝たりする時間を無駄だと思うのは結構だが、その中に趣味の時間も含めているのが痛い。
結局彼らにとって勉強以外はすべて無駄な時間なのだ。
少しでも反論しようものなら、お前はまだ何も知らないからだという言葉で一刀両断してしまう。
事実だから弓枝は以降一切口答えせず、大人しく両親の望む子どもであり続けた。
下手に刃向かうよりそっちの方が楽だったからだ。
その後、桃園と弓枝は下駄箱で上履きに履き替え教室へと向かった。
先に来ていた冬木が目ざとく二人に気付くと、

「また二人一緒かよー。俺も仲間に入れろよー」

口を膨らませて近寄って来た。
その横を、

「偶然偶然。羨ましがらないの」

と、気分良さ気な桃園がすり抜け、そのあとを弓枝も追おうとする。
しかし待っていたのは冬木だけじゃなかった。
桃園が教室に入った途端、クラスメイトの視線は一身に注がれる。
彼が席に着くと、早々周りを他の生徒が囲んだ。

「俺さ、金曜の夜に駅前で桃園見たんだけど、隣にすっげー綺麗な女の人がいたじゃん、あれ誰?」
「腕組んで歩いてたっていうけど本当か?」
「まさか桃園君の彼女? だから今まで全員の告白を断っていたの?」

傍にいた男子生徒が口火を切ると、周りは速射砲のようにせかせかと言葉を連ねた。
桃園が来る前に触れ散らかされていたのか、みんな知った顔で詰め寄る。
途端に教室内が騒がしくなり、それに興味ない生徒は呆れたような顔でため息を吐いた。
人だかりで席が埋まり、鞄を置くに置けない弓枝は遠巻きから見つめる。
こういう話が好きそうな冬木も輪には加わらず黙って隣にいた。
桃園はヘラヘラしながら適当に話を流そうとするが、クラスメイトは食い下がる。

「やーね。誤解だってば」

これだけの人に囲まれても桃園の態度は変わらなかった。
困った顔もうんざりした顔も見せず、飄逸とした態度で接している。
それでも治まらないほど話は知れ渡っていて、このままでは収拾がつかなくなりそうだった。
仕方がなく彼は口を開く。

「マザコンだと思われたくなかったから黙っていたんだけど、あれ俺の母親。れっきとしたお母さんなんだよね」
「え、えええっ!」

だが目撃した生徒は引き下がらなかった。

「でもめっちゃ若くて綺麗で母親って年齢じゃなかったぞ」
「ああそれは後妻だから。うちの親父ってば若いお姉ちゃんが大好きでさ、かなり年の離れた人と再婚したんだよね。あ、言っておくけど俺と母さんは普通に親子の関係だから。みんなが望むような妖しい関係じゃないからね」

真実が露呈されても勢いはなくならなかった。
むしろ継母であることが余計に話を盛り上がらせて周囲を熱くさせた。
男女共にそういった話題に興味津々な年頃である。
矢継ぎ早に浴びせられる質問に答える桃園はどこぞの芸能人のようだった。
つい最近も女優の熱愛やらタレントの不倫やらで各局ワイドショーがこぞって取り上げていた。
その中であっけらかんと話し続ける桃園は、どこか違和感があって胸の奥がモヤモヤした。
なぜそう感じるのか謎で、答えが出ないから余計に靄がかっていた。

「俺、あの顔嫌い」
「え?」

その時、隣にいた冬木がぼそっと呟くから思わず振り返った。
珍しく険しい顔をした彼が桃園を睨んでいる。

「嫌なら嫌って言った方がいい。ニコニコする必要なんかない。心と顔がバラバラなのは気持ち悪い」
「あ……」

そういうことか。
ぼんやりとした違和感の正体に気付いて納得した。
冬木はやはりちゃんと人を――桃園を見ている。

「でも仕方がないんじゃねーの」

踏まえた上で桃園を見れば、確かに無理をしているのかもしれないが、

「桃園には桃園のやり方があって峻別しているんだろ。本当は誰だって無理して生きたくないけど、せざるを得ない時だってあるんだ」

今ここで彼が口をへの字に曲げて無愛想でいれば、余計な諍いが起きるかもしれない。
変な噂が広まってしまうかもしれない。
人は剥き出しでは生きていけないから皮を被る。
心で思っていないことも口にしなければならない時だってある。
それが上手く人と付き合うコツで、だから桃園は人気者なのだ。

「うん。そうだね」

するとえらく素直な声が返ってきた。
先ほどと打って変わって冬木は喜色を頬に浮かべて弓枝を見ている。

「な、なんだよ」
「いんやー。弓枝はいいよね」
「何がだ」
「んんぅ。分からん」
「感覚だけで喋るな」
「うっす。ごっつぁんです」

やっぱり冬木は解りにくい。
きっと桃園のことも他のことも感覚で考えているから鋭く、しかしそれを他人が推し測ろうにも言葉が足らなすぎて理解に難いのだ。
もう少し解ることが出来れば意思疎通も楽になるし歯痒さもなくなる。
それ以上に冬木のことをもっと知りたくなった。
何を感じているのか、何を考えているのか頭の中を覗きこんでみたい。
今まで特に話すこともなくただのクラスメイトとして見ていたから、こんなに興味深い人物だと思わなかった。
彼を見つめると、ふっと笑みが零れる。
するとちょうどよくチャイムが鳴った。
同時に桃園の周りにいた生徒も散ってようやく席に着ける。

「ごめんね」

鞄を置いた時、前にいた桃園が振り返った。
黙って首を振る。
なんて答えていいか判らないほどいつも通りな顔をしていたからだ。

その日の放課後、五時間目の社会科教師に頼まれて整理の手伝いをしていた。
社会科準備室は図書館さながらの書物と古びた農具、昔使われていたのか地元の歴史が書かれたパネルが所狭しと置かれている。
(……ついてない)
まさか自分に声がかかるとは思わず、喟然として嘆息を漏らした。
こういう時優等生に見られていると不利である。
断るに断れず、ほこり臭い部屋でダンボールに入った古本を取り出していた。
ただでさえ月曜日は憂鬱なのに、窓の外は雲行きも怪しく、すぐにでも雨が降ってきそうだった。
今日は夜に塾があり、長い時間図書室にはいられない。
脚本を早く完成させてしまいたかった。
書き終えれば満足して興味をなくすかもしれない。
また元のように勉強に集中できるかもしれない。
十月の上旬には中間テストがあり点数は落とすわけにはいかなかった。
ならこの不透明な状況を早く打破する必要がある。
桃園に台本を渡すにしろ渡さないにしろ終わらせるべきであった。
(でないと書く楽しさを思い出してしまう)
今は元ある脚本を使って書き直しているだけだが、これ以上続けていたら自分の文章を書きたくなる。
人は欲深き生き物だ。
忘れたつもりの喜びはむくむくと首をもたげて顔を出す。

「これで終わりだ。弓枝、ありがとな」
「いえ」

手伝いを終えると教師と別れて廊下に出た。
図書室へ行こうと歩き出したところで、廊下の向こうから誰かが走ってくる。
よく見ると冬木だった。
彼は先に弓枝の姿に気付くと子犬のように手を振って駆け寄ってくる。
すぐ傍まで来ると目を輝かせて、

「弓枝、暇か!暇だよな!」
「は?」
「すぐそこの視聴覚室で部活やってんだ。見に来いよ」
「お、おいっ。引っ張るなってば」

暇かと訊いておきながら返事は求めておらず、有無を言わさないまま弓枝の腕を引っ張った。
今日はとことんついてない日である。
社会科準備室の近くには広い視聴覚室があった。
体育館の舞台が使えない日はそこで練習しているらしく、扉を開けると演劇部の連中が大勢いた。
見慣れぬ顔が現れたことに顔を見合わせていたが、冬木が適当に説明すると練習は再開された。
桃園は今日も脚本執筆で遅れてくるとのことだった。
脚本がない今はエチュードや簡単な群像劇、基礎体力作りをしているという。

「桃園がロミオで俺がティボルト。二人で決闘するんだぜい」
「あいつがロミオは想像つくけどお前が敵役かよ。つーか配役はもう決まってるのか。気が早すぎはしないか?」
「うん、早いに越したことないっしょ」

それは脚本担当の桃園に言ってやれと内心思った。
どうせ彼のことだ。
部員から言い寄られてホイホイ引き受けてしまったのだろう。
そのくせ台本を拾うことなく自分で書くなんて無謀というかプライドが高い。
いつの間にか視聴覚室の後ろに席を用意され、弓枝はそこに座って練習を見守った。
演劇部なんて興味がなく劇を見たことがなかったが、意外に部員数は多く活気があった。
進学校のわりに運動部、文化部共に盛んで、中には全国で結果を残す部もあった。
弓枝は帰宅部で勉強しかしてこなかったから部活を楽しむ生徒が羨ましい。
といって特別入りたい部もないから、たとえ自由な時間があっても帰宅部になっていたかもしれない。
隣にいた冬木は見ながら説明してくれて、部員へのアドバイスもしていた。
後輩から好かれているところを見るに、案外頼りになる先輩なのかもしれない。
(オレの劇をこの人たちに演じてもらえたらどんな風になるのだろう)
どこか心がそわそわして落ち着きなかった。
今まで机に向かいっぱなしで、実際にそれを目の前の人たちが使ってくれるとは思わない。
分かっていたことなのに実感は別で、妙な高揚感に包まれた。
無論、夢のまた夢の話である。
何せ彼らは弓枝が書いていることすら知らないのだから。

「ちーっす。遅くなりました」

その時、ひと際明るい声が教室に響いた。
目をやると桃園が中へ入ってくる。

「あれ?弓枝」
「よう」

存在に気付いたのか目が合うと瞠った。

「遅いぞ、桃園!」
「あ、ああ悪い」
「弓枝は俺が連れてきたんだ。んで、ずーっと一緒に練習見てたんだよな?」
「うん。まぁ……」
「ふぅん。冬木は見てるだけで練習はしてなかったんだね」
「う。い、今から混ざるとこ!」

痛いところを突かれたのか、冬木は言い濁すと持っていた一枚の台本を手に立ち上がった。

「じゃあ次のグループやるぞ」

そう後輩に声をかけて彼らに混ざる。
慌てた姿が妙に子どもっぽくて笑ってしまう。
冬木の態度を見ていると純真そのもので、気を張るのが馬鹿みたいに思えるから不思議だ。

「だから図書室来なかったんだね」

するとすぐ隣に荷物をおろした桃園が座った。
いつものようにひとつ間を空けては座らなかった。
途端に緊張して左胸が痺れたのはその距離のせいだろうか。

「あーあ。弓枝いなくて寂しかったな」
「えっ」
「なんて、嘘」
「……は……?」
「寂しいのはこの真っ白な台本なんだよねえ」

ニッと白い歯をこぼしたのに視線は冷たく感じた。
だから話しかけるのも躊躇われた。
何も言えないまま逃げるように外へ目をやる。
窓の外は分厚い雲が押し流されて薄暗さを増していた。
今にも泣き出しそうな空は、空気が雨をはらみ湿気で肌がベタベタする。
今日の予報は晴れのち曇りだった。
雨とは言っていなかったはずだが、この天気なら雨もあるかもしれない。
これから塾だというのに降られたら困る。
一度自宅に戻るよりそのまま塾へ向かった方が早いが、雨が降ってくることも考えて傘を持っていくべきなのかもしれない。
だがそれも面倒くさくて嫌だった。
こんな天気だからこそ家に帰ればもうどこへも出かけたくなくなる。
雲で隠された空は普段より一段色を落として物憂い気分にさせる。
日差しが遮られると夏の暑さは消えた。
湿った風の匂いは早秋のもので、八月までのとは全然違う。
季節は人の気付かないところで着実に移り変わっている。
いや、気付かれぬようひっそりと変わっているのかもしれない。
そう考えるとなぜか心細くて暗鬱な気持ちが広がった。

案の定、雨は降った。
今朝の若く可愛らしいお天気お姉さんは予報を外してしまった。
いや、彼女に責任はない。
なにせ他のチャンネルでも同じ予報がなされていたからだ。
塾終わりに入り口で外を見上げていると、傘を持っていない生徒が舌打ちをして駆けていった。
星ひとつ見えない夜空は轟々と唸りをあげながら喧嘩をしているようだ。
やむ気配はなかった。
重苦しい空から冷たい雨が降り注いでいる。
後ろからきた別の生徒は折り畳み傘を持っていたようで、手際良く傘を広げると何事もなかったように帰っていった。
どっちにしろここで雨宿りしていたところで意味はない。
(とりあえずアーケード街まで走るか)
コンビニなら傘を売っているだろう。
水たまりに繽粉と雫が跳ねた。
弓枝は意を決すると明かりの乏しい夜の闇を駆け抜ける。
途中かなり濡れて服が肌に透けたが構わなかった。

夜のアーケード街は閑散として物寂しげだった。
塾の終わる時間にはほとんどの商店が閉めてシャッター街になっている。
いつもならギター片手に歌っている若者がいるが、さすがに外は大雨で肌寒い中誰もいなかった。
薄暗い拱廊にそぐわない煌々とした明かりのコンビニが異彩を放っている。
せっかくコンビニに寄ったのに、傘は売り切れて置いてなかった。
(……ついてない)
今日はとことんついてない日である。
コンビニで売り切れるほど傘がなくなるなんて悪意に近い。
店員は駅前のコンビニを勧めたが、家とは逆方向で、わざわざ駅前まで濡れて行くのならこのまま帰った方が早いだろう。
アーケードの先まで行くと、激しい音を立てる外を見やる。
バケツをひっくり返したみたいに大量に降る雨に視界は霞んですべてがおぼろげだ。
天気ひとつで気が塞ぐのだから人間も単純だと思う。
(やっぱり一度家に帰って傘を持って来れば良かった)
面倒だからとやめてしまったことを後悔した。
半袖の夏服は夜の雨に堪える。
とはいえ、ここでいくら待っていても状況は好転しないだろう。
やむを得ず大雨の中を帰ろうと諦めたところで、急に後ろから声がかかった。

「ちょっと待ちなさいって」

同時にぐっと腕を掴まれる。
冷えた肌には熱いくらいの温もりだった。

「も、桃園……?」

不意をつかれて引っ張られるがままに振り返ると、苦笑した桃園が傘を片手に弓枝を掴んでいた。

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