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「その後、エオゼン様がどのような経緯でこの国へやってきたのかは分かりません。彼が国を追われて数年が経っています。ただ、今回の話を聞いて、もう一度彼の音を聴きたいとこの国へやってきました」
「エオゼン先生の音?」

僕が意味を咀嚼出来ずに問うと、ミシェル様は頷き、

「私が演奏家を志すきっかけになったのは名もなきヴァイオリニストの音色を聴いたからでした。そのころエオゼン様はもうとっくに宮廷楽団に在籍していたのですが、素晴らしい演奏家と知ってもどうしても心惹かれなかったのです」
「……………」
「原因は音楽院に入ったあと、すぐ分かりました。あの方は暗闇に足を取られてしまっている。欲まみれで他人を蹴落とすことしか頭になかった。そんな人の音色が心に届くことはありません。死んだ音も同然です」

ミシェル様は沈痛な面持ちで顔を上げると、僕を見ました。

「もちろん演奏技術は比べ物にならないくらい素晴らしいです。あの巧みな指使いは私の目標でもありました」
「ミシェル様……僕は……」
「今の彼がどんな音を出すのか興味がありました。同時に私のことを認めて欲しかった。私は音楽院にいたころ、あの人に認められたくて必死に練習してきた。どんなに苦しくてもそれが願いだった。それがようやく果たせる――エオゼン様を越えられると思ってたのに……溝は思ったより深いようですね」
「…………………」
「無理もないです。私は彼から何もかもを奪ってしまったのですから」

ミシェル様はそれを最後に口を噤んでしまいました。
俯き、じっと耐えるように唇を噛み締めます。
その隣でクラリオン大佐は心配そうに見下ろしていました。
馬車はゆったりと城へ向かっています。

「僕は……エオゼン先生の音に惹かれました」

その静かな車内で、僕はふと口をつきました。
エオゼン先生との思い出が走馬灯のように蘇ります。
酷い話、嫌な思い出ばかりで思わず笑ってしまいました。
すると、取り留めない思い出が心のうちで引っかかります。

「そうです、そうですよ!」

僕はある種の確信を抱くと、目を輝かせて立ち上がりました。

「エオゼン先生の音は死んでなんかないです!」

僕は知っているのです。
まるで人の悪意の固まりのような曲を奏でる彼や、何もかもが赦されていると泣きたくなるような演奏をする彼。
僕はきっとあの夜、恋に落ちてしまったのです。
先生の音色だけではありません。
彼自身が放つ光に惹かれてしまいました。
思い出しただけで心が震える。
だからどんな不条理な要求でも従ったのです。
あの音を知ってしまったら離れられないと思ったのです。
(ああ、この感動が伝われば良いのに)
なんてもどかしい。
エオゼン先生がアルドメリアにいたころのことは何も知りません。
だから彼が放つ死んだ音は分かりません。
僕なんかの耳で分かるとの確証もありません。
でも、今の先生の音を死んでいるとは思えません。
だって、僕を――子どもたちを――ひいては町中の人たちを虜にしたのです。

「ミシェル様に聴かせたい!どれだけエオゼン先生の音色が素晴らしいか」

僕は悔しそうに唇を噛み締めました。
先生はあくまで指揮者で演奏するパートはありません。
彼の性格を考えるに、ミシェル様の前で弾こうとすら思わないでしょう。
だけどいくら僕が言葉に言葉を重ねてもこの気持ちは伝わらないのです。
(聞いて欲しいのに)
もどかしくて、歯がゆくて、頭を抱えたくなりました。
すると、僕の話を訊いて険しい表情を解いたミシェル様が、

「なら、楽しみにしています」

僕に笑いかけてくれました。
そして親しみの湧く柔らかい眼差しで、

「これまでの数ヶ月間、エオゼン様がどう音楽と向き合ってきたかは、あなたたちの演奏を聴けば分かると思います」
「ぼ、僕たちのですか? だって演奏は――」
「音楽は演奏家だけが作るものではありません。むしろ、どう譜面を理解し、演奏家たちを指導していくのかで曲というのはまるっきり変わってくるのです。つまり、この演奏会がエオゼン様にとっての集大成。だから私たちは聴きにきたのですよ」
「僕たちの演奏がエオゼン先生の集大成」

僕は自ら言い聞かせるように鸚鵡返しをしました。
するとミシェル様は肯定するように頷いてくれます。
(そうか。なら僕らの演奏によってエオゼン先生の音が見えてくるんだ)
俄然やる気に燃えた僕は途中で馬車を降りました。
だって指先がむずむずしてしまったのです。
早く楽器に触れなくては、この急き立てられるような焦燥感は満たせないと思いました。

「僕、僕たち――エオゼン先生のために一生懸命頑張ります!だから演奏会を楽しみにしていてください!」

僕は二人に別れを告げると、足早にホールへ戻っていきました。
いまだ騒然としていたみんなに、音楽院の事情は伏せてエオゼン先生の音の話をしました。

「しょうがねーな。訳ありだらけの面倒なおっさんだけど、いっちょ顔を立ててやるか」

オリバーは誰よりも先にやる気になってくれました。
その声に、次々と同意する返事が返ってきます。
僕らは全員一丸となってエオゼン先生のために弾くことを決意しました。
そうして、夜遅くまで繰り返し練習をしました。
僕は自宅へ帰ったあとも自主練に努めました。

翌日、エオゼン先生は練習に来ませんでした。
それでも僕らは黙々と明日の本番へ向けて練習をこなしました。
指揮者の先生がいないから、僕が彼の代わりとなって全体を見ました。
先生が言っていたこと、曲への理解を思い出して言葉にします。
伝えようと必死でした。
指揮棒だって握ったのは初めてです。
今までなら、こうして指揮台に立って、リズムを取って、人に指示を出すなんて度胸はありませんでした。
でも僕はがむしゃらに先生の代わりをやり続けました。
自分でもこんな積極性がどこに眠っていたのか知りませんでした。
オリバーはけらけら笑って僕の背中を押してくれます。

「エオゼン先生と出会ってハイネスは変わったんだよ」
「…………っ……!」
「相手がエオゼン先生なのはちょっと癪だけど」
「オリバー……」
「今のお前のほうがずっと好きだ」

今まで人の顔色ばかり窺って、何も自分じゃ出来ませんでした。
意見を言うことや動くこともせず黙ってことの成り行きを窺っているような子どもでした。
オリバーの言う通りなんです。
僕は先生と出会って惹かれて変わることが出来たんです。
変わるだけじゃありません。
もっと音楽が好きになりました。
もっとヴァイオリンが好きになりました。
これから先もずっと弾いていたいです。
少しでも上手くなってエオゼン先生に認められる演奏家になりたいのです!
(今すぐ先生に会いたい!この気持ちを一粒残らず伝えたい!)
僕はオリバーにあとを頼むと、楽器を持って練習を飛び出していきました。
外は雪が降っています。
深々と降る雪が町に静寂をもたらせていました。
辺りはもう真っ暗で、市場は雪に早じまいをしたようです。
眠りについた町にはひとっこひとり歩いていませんでした。
吐いた息が風に乗って流れていきます。
僕は意を決すると、その中へと飛び込んでいきました。

そうして辿り着いたのはエオゼン先生の家でした。
小さな二階建ての家は、とても大国の宮廷楽団に所属していたとは思えない古さでした。
窓からは何も見えません。
暗く明かりすら灯っていません。
もしかしたら家にいないのかもしれない。
戸を叩いても応答がなく、なす術がありませんでした。
エオゼン先生がいなければ、明日の演奏会は出来ません。
でも他に行く場所が分かりません。
酒場やレストランにも顔を出していないそうです。
町行く人にも声をかけましたが、誰もエオゼン先生を見ていないようでした。
昨日から行方不明なのです。
あんな風に出て行ってしまったエオゼン先生は、今、どんな気持ちでいるのでしょうか。
不安が胸を締め付けます。
僕はそれを払拭させるように、ヴァイオリンを構えました。
そうして音を奏でました。
静かな夜にヴァイオリンの音が溶けていくようです。
寒さでかじかむ指先も構いません。
この音がエオゼン先生の心に届きますように。
そんな祈りにも似た気持ちでいました。
雪は強さを増していくばかりです。
まるで花びらのように舞う雪が僕の頭に、肩に落ちました。
そうしてうっすら白くなったころ、頭上でガタガタと、音が聞こえました。
僕は演奏する手を止めて見上げると、そこには窓を開けたエオゼン先生が僕の演奏を聴いていました。
目が合った彼は、

「へったくそ」

悔しいくらいおかしそうに笑います。
普段だったら腹が立つ言葉なのに、僕の視界は滲んで目が開けられなくなります。

「ひっぅ……ふ……」

温かな涙が冷えた頬の上を伝いました。
次々に溢れてくる涙を止める術はありません。

「ふ…ぇ……っぅ、すき……」
「…………………」
「ひっく…う、すき、好きなんです……あなたが…すき、なんです……音だけじゃない、ぜんぶ…大好きなんです……」

些細なきっかけと共に言葉が止まらなくなりました。
感情が堰を切って溢れ出します。

「すき……っ、すき…………!」

この雪のように儚く溶けていきそうな声でした。
それでも僕は縋るように言葉を紡ぐのです。
体中の想いをかき集めました。
寒さより引きつるような心が痛くて、身を震わせていました。
顔を見ただけで、その声を聞いただけで僕は先生に支配されてしまう。
まるでだだっ子のように同じことを繰り返し呟いていました。
誰が訊いていても構わなかったのです。
ただこの気持ちが少しでも伝わって欲しい。
頑なだったエオゼン先生の心に届いて欲しいとの願いしかありませんでした。

「ハイネス――!」

するとその時、一階の扉が開きました。
中から現れたエオゼン先生は、慌てて下りてきたのか息せき切っていました。
それはまるで数日前の自分のようでした。
僕とエオゼン先生は、逆の立場になっていました。

「……お前は、言っていることが分かっているのか?」

エオゼン先生はそれまで合わせていた視線を下げました。
彼から目を逸らすことは滅多にありません。
いつも俺様で、尖らすような眼差しで人を痛めつける彼には珍しい反応でした。
(それほど追いつめられているんだ)
えぐるような痛みを覚えます。
昔のエオゼン先生がどんな人だったのか分かりません。
でも彼は己の行いを悔いているのではないかと思いました。
あの夜、憎悪の固まりのような曲を弾いていた時のことを思い出します。

「分かっていなくちゃ言葉に出来ないですよ」

さも当然という口調で言い返すと、エオゼン先生は少しだけ頬を緩めました。
まるで僕にだけ気を許してくれているようでした。

「嘘だ。お前は俺がどんな人間か知らないからそんなことが言えるんだ」

それでも心の奥は閉ざされて、無理にでもこじ開ければとりかえしのつかないことになりそうでした。
僕はそれをゆっくり一枚ずつ剥がしていきます。

「先生が最低な人間であることは始めから知っています。こんなどうしようもない人、見たことがないです。あげく子どもなんかにストライキをされてみっともない」
「………………」
「僕、エオゼン先生の酷いところならいくらでも挙げられます。全部言っていたら朝までかかっちゃうかもしれない」
「クソガキが」

僕が指を折って数えるような仕草をすると、エオゼン先生は吐き捨てるように呟きました。
その悪態のつきかたには慣れません。
やっぱり怖いのです。
でも僕は逃げませんでした。
まるで悪魔に立ち向かう勇者のような気分でした。

「たくさん、酷いことをされました」
「………………」
「正直、自分でもマゾなんじゃないかと笑いたくなるんです」

僕は目元を拭いました。
じゃないとまた泣いてしまいそうだったからでした。

「だけど心は偽れないから、従うしかないんです。こんなに慕って、想わずにはいられないくらい僕はあなたが………」
「俺は犯罪者だぞ」
「……っ……」
「大勢の人を傷つけて国を追われたろくでなしだ。お前のような人間にふさわしくない」

エオゼン先生の態度は変わりませんでした。
下を向いたままの彼は、僕を拒絶していました。
好きな人に拒まれているということがこんなに辛いのだと今初めて知りました。

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