7

***

「今日はいい天気ですね」

その日は、町の外にある森を抜けて広い草原で大佐とのんびり過ごしていた。
柔らかな草の上に座り込むと、頬を撫でる風を受けながら体を伸ばす。
大佐はその隣で寝転がっていた。
冬の澄んだ空気に、まるで水素を垂らしたような空が青々しく広がっている。
風は冷ややかでも陽の温かさは日増しに強くなっているようだ。
春の訪れは案外近くまで来ている。
大佐は腕を枕にして寝ているのか目を閉じていた。
娘たちに喜ばれる華やかな顔に反して、その体は鍛えられている。
固く引き締まった筋肉はまるで彫刻のように無駄がない。
彼は帰省後も毎日鍛錬を忘れず、朝は陽が昇る前から裏庭で素振りをしていた。
その剣は王都から持ってきたものらしく、古い剣だが丹念な手入れのお陰で刃は鋭さを失っていない。
持たせてもらったことがあるが、意外と重くて振り上げるだけで腕の筋肉が悲鳴をあげた。
大佐はそれを軽々と持ち、何百と素振りをする。
常にどんな事態になっても動ける体で居続けるためだ。
その犯しがたい凛とした眼差しは僕の胸を焦がした。
日に日に憧れ以上の感情を抱いていることを抑えられないでいる。
もちろん、そんなの態度には出せない。
だって僕は遠くから眺めているだけで良かった。
国の英雄なんて手の届かない高嶺の花だ。
さわさわ
風が吹く。
冷たいけど清々しい早春の風だ。
膝ほどに伸びた草がそれに合わせて揺れる。
まるで波間のようにゆらゆらとくねらせる。
僕も目を閉じた。
雑音のない世界で、体が勝手に動き出す。
まるでヴァイオリンを持っているかのように左肩に楽器を置く仕草をした。
(弾きたいなぁ)
ヴァイオリンの音さえ聴きたくないと思っていたのに、このごろふとそんなことを思う。
もう自分には美しい音を出せないことを分かっている。
弾こうとすれば、せっかく閉じかけていた傷口を開くことになる。
苦しみとも、憎しみとも、後悔ともつかない鈍い痛みが胸の奥底にわだかまっている。
染みのように広がり続ける焦燥感は、もはや手に負えなかった。
(……なのに、なぜ手を止められないのだろうか)
楽器の重みを恋しいと思う自分がいる。
僕はヴァイオリンを構えた気になると、その感触を思い出し、運弓するかのように右手を引いた。
自ずと動き出す指は、血の滲むような努力の賜物である。
たとえ本物の楽器がなくても、音が出なくても、僕にはヴァイオリンの伸びやかな音が聞こえる。
その音に乗って小刻みに右手を動かした。
まるでパントマイムだ。
しかし大道芸で終わらないのは、リアルにヴァイオリンを感じ、想像の中で弾いているだけなのに、指使いの間違いまで正確に音の再現をしてしまうところだ。
そのたびに「失敗した」と膨れっ面になる。
間違えた小節から弾き直そうとする。
あくまで弾いているフリなのにおかしな話だ。
そうしてひとり演奏に浸っていると、不意に大佐と目が合った。
どうやら見られていたようだ。
それに気付くと一瞬にして顔を紅潮させる。
羞恥の念が全身に漲ると、どっと汗をかいた。
周りから見た時、かなり気味悪い遊びだ。
というか変な人だ。

「あ、う、これは……」
「ミシェル殿」

すかさず大佐が僕の名を呼んだ。
曖昧にすることを許さないような強さがあった。

「そういえば君はどの楽器を学んでいたんだ?」

目だけこちらを向いた彼がまっすぐに僕を見上げている。
大佐の視線から逃れられないのは彼の眼光が鋭いせいなのか。
それとも僕が大佐に対して特別な感情を抱いているせいなのか。

「ヴァイオリンです……」

僕は言いづらそうに眉を引きつらせてしまった。
平然と振る舞おうとすれなするほど墓穴を掘り、唇の端を神経質にピクピクさせてしまう。
それに気付いているのか否か、

「ヴァイオリンといえばエオゼン様か。そういえばこの間、急に国からいなくなったと訊いて驚いたな」
「――っぅ」
「あの人は長らくヴァイオリンを牽引してきた御方だったが」

僕はその名に肩を震わせた。
薄い頬に恐怖のような血の色がのぼる。
もう十分立ち直ったというのに、いまだにエオゼン様の名前には反応してしまうのだ。
それ以上に忘れてならないのは、エオゼン様を国外追放という厳しい罪へ追いやったことである。
嫌がらせは辛かったが、彼には比べ物にならないほど酷いことをしてしまった。
エオゼン様を巻き込んだのは僕だ。
爵位剥奪に財産没収なんて、虐め程度の人間が受ける罰ではない。
彼は僕と関わったが故に、それまでの功績を無に返されたどころか罪人へと落ちたのだ。
誰にも言えない秘密に呵責の念が突き刺さる。
そうしてまごついていると、クラリオン大佐は起き上がって隣にいた僕をじっと見下ろした。
まるで見透かすような瞳の深さに、後ろめたさがまとわりついて目を逸らす。
どんなに振り払おうとしてもやりきれない負い目が頭をもたげた。
すると大佐の手が僕の頬を包みこんだ。
彼は傷だらけの手だと自嘲するように言っていたが、僕にとっては温かくて大好きな手のひらだった。
大佐に触れられると荒んだ心が春の陽射しに撫でられたように和らぐ。
こんな優しく触られたら、期待してしまう。
帰省してから僕に触れる回数が増えた。
その眼差しが、手のひらが、僕をうぬぼれ屋にする。
でも勘違いしてはならない。
大佐は僕を弟のように思っているから、こうして触れてくれるのだ。
アロイスやエルザにもよく頭を撫でている。
薄い希望は抱いたら毒だ。

「……ん……」
「どうした?頬が赤いぞ」
「だ、だって……大佐に触られたら…緊張して、あがってしまいます」
「君はいつも素直だな」

大佐がふと笑った。
林檎のように色づいた僕の頬を撫でながら目を細める。
ほろほろと零れるような早春の陽に似合う微笑みだった。
僕はその顔が好きだ。
軍人らしい硬い表情からは想像出来ないくらい優しい顔になる。
声に出して笑う時は、子どもみたいに無邪気で、ぐっと幼くなるんだ。
その瞳に射抜かれたら、この気持ちが全部露呈されてしまう。
僕は決まり悪げに目を伏せたまま胸を詰まらせる。
もっと触れて欲しい。
僕だけに笑いかけて、僕だけの特別な人になって欲しい。
(大佐の全部が僕のものになったらいいのに)
欲望には果てがないから困った。
わがままだ。
大佐の傍にいられるだけで天にも昇る気持ちでいたのに、どんどん欲が膨らんでしまう。
あげく、男同士だというのに、大佐の逞しい腕で抱きしめられたいなんて願望を抱いたりしている。

「俺はミシェル殿のそういうところが好きだ」

どこまでが許される願いなのだろうか。
僕はどこまで求めてもいいのだろうか。
誰かに止められないと僕の望みは制御出来なくなる。
誰かの心を渇望するなんて初めてだ。
これが恋ならば、恋心とはどんなに図々しく醜い感情なのだろうか。
憧れと尊敬を抱き、真っすぐ見ていたころのほうがずっと健全だ。
ケダモノのような浅ましさに吐き気がする。
こんなの、同性に対して想うには気持ち悪い感情だ。

「ミシェル殿……?」

大佐に触れたくてシャツを掴もうとしていた手を寸前のところで引き戻す。
思い迷う手のひらを握りしめると草むらに隠した。
絶対に知られてはならない。
知られたら最後、もう彼の傍にはいられない。
彼に拒絶されることは最も僕が恐れていることだった。
だから泣きたい気持ちをこらえて奥歯を噛み締める。

「……君の姓を訊きたいと思いながら、ずっと怖くて聞けなかった」

すると、低く囁くような声が耳を掠めた。
ひと際強い風が二人の間を割って入ってくる。
クラリオン大佐は僕の頬から手を離すと顔を背けた。
その手が離れる直前、後ろ髪を引かれるような躊躇いを残したのを見逃さなかった。
僕は逸らしていた目を合わせる。
だけど大佐はこちらを見ようもせず、遠くに視線を這わしていた。

「君の後ろに控えている存在を知ってしまえば……もしかしたら俺は今までのように接することが出来なくなるかもしれない」

その言いかたは冷たく突き放すようで、

「どうしてですか!家柄なんか関係ないです。僕はただのミシェルです!」

僕は頭が真っ白になると大佐に詰め寄っていた。
傍にいられるためには、恋しい想いだっていくらでも我慢出来る。
大佐に恋人が出来ても結婚しても子どもを作っても祝福出来る。
だけど突き放されたくなかった。
隔たりを感じて欲しくなかった。
彼にまで家柄で見られたくなかった。
どうせ僕は四男坊なんだ。
爵位は継げないし、何の力もない。
そうだ。
僕は無力なんだ。
何も出来ないただのミシェルなんだ。

「……嫌です。そんなこと…言わないで…ください」

僕は声を絞り出すように呟いた。
望みを絶たれたら本当に僕は空っぽだ。
すると大佐は、一言「すまない」と謝った。
次の言葉は見つけられなかった。
僕も大佐も心の中にしこりがあった。
そのまま気まずい雰囲気になって僕らは早々と帰ることにした。
特に会話もなく晴れやかな空の下を歩く。
歩調は以前よりずっとゆっくりだった。
それでも僕は遅くて、大佐より少し後ろを歩いた。
隣に並ぼうと思えば並べたのだけれど、今は顔を合わせにくくて隣に並べなかった。
だから僕は彼の広い背中を黙って見つめていたんだ。

「あれ……?」

すると前方を歩いていたクラリオン大佐が立ち止まった。
僕はその後ろからひょっこり顔を出す。
見れば大佐の店の前でドリスさんと青年が立ち話をしていた。
大佐は慌てて駆けつけると、その人の足下に跪く。

「エマルド様。いかがなさいましたか?」

するとその青年――エマルド様は慌てたように両手を振って、大佐に立ち上がるよう促した。

「注文していた靴を受け取りにきただけですよ。そんな畏まらないで下さい!」
「しかし、ならばこちらに出向いていただかなくとも、私が届けに参りますのに」

大佐の隙のない峻厳な態度に、エマルド様は恐縮するように、

「いいんです。私が来たくて店へ寄ったんです」
「そうだよ。エマルド様は町を見て歩くのが好きなんだからね」
「母さん。今は危険がないとも言えないんだ。そんなことを言っていてもし何かあったら」

大佐は食ってかかろうとするが、ドリスさんは、

「大丈夫よ。この町でエマルド様とクラウス様を襲うなんて不届き者はいやしないんだから」

と、即座に言い返した。
そのまま二人は言い合いを続けるが、いつまで経っても平行線を辿る。
頑固なのは両方みたいだ。
エマルド様が間に入るまでその喧嘩は終わらず、

「まぁまぁ。私も迂闊でした。今度から気をつけますから、お二人は喧嘩なさらないで下さい」

結局一番腰が低いのはエマルド様で、彼はぺこぺこ謝りながら「また来ますね」とはにかみ帰ろうとした。
当然大佐が許すはずもなく、彼は慌てて剣を取りに家へあがると、一瞬で戻ってきてエマルド様のあとを追いかけていった。
その姿を僕とドリスさんで見送る。

「まったく、父親に似て石頭なんだから」

それは呆れと感心と誇らしさが混じったような言いかただった。
僕は、ドリスさんも似てます――と、心のうちで呟く。

「クラウス様とエマルド様はどうして好かれていらっしゃるのですか?」

僕は昔からクラウス様と交流があった。
彼はユニウス陛下の弟である。
十年ほど前に王都からこちらへ移り住んだのは耳にしていたが、以前と変わらず公務をこなしているし、たびたび父さんとも話をしていた。

「ここは職人の町と呼ばれているでしょう?作るのは上手くても売るのが下手な人たちばかりでね、これだけの田舎だと関税も高いし、どこも生活は厳しかったのよ」
「…………」
「そんな時、クラウス様がやってきてね。この町も一気に注目を浴びた。しかも率先してクラウス様が町の品を使ってくれたから、貴族たちの間でも人気が上がってね。どの店も注文が殺到したのよ。一番の問題だった関税も政府に掛け合って規制を緩めてくれてね、厳しい取り立ても少なくなった。そのお陰で寂れた田舎町に賑わいが戻ってきたというわけなのよ」
「アバンタイの銀食器や絨毯、靴などは王侯貴族御用達として有名ですが、では、それは結構最近の話なのですね」
「そうなのよ。本当にあのころは大変だったわ。うちも家計が厳しくて」

ドリスさんは思い返すように深呼吸をすると、ぐぐっと腕を伸ばした。
そうしてゆっくり視線を僕へ移すと、

「実は、店も本当はクラリオンが継ぐ予定だったのよ」

ほんの僅かに瞳を揺らして微笑んだ。

「当時は子どもたちを学校へ通わせることも難しかった。あの子は賢いからね。十三の時に兵士の養成所へ通うって言いだして。ほら、あそこは学費や生活費が免除されるでしょ?旅団に入れば国から給料も出るし、活躍次第で報奨金も出る。だからクラリオンは靴職人を諦めて兵士になったのよ」

その姿が目に浮かぶようだ。
だって彼はあんなに気遣える人だ。
時として言葉や態度が厳しいことはあれど、その心は誰よりも優しさで溢れていた。

「あれから約二十年、本当にあれで良かったのかと時々考えてしまうの」
「ドリスさん……」
「戦争へ行くと連絡を受けるたびにね、どんな姿でもいいから帰ってくるようにと祈るんだけど、それくらいしか出来ないことが不甲斐なくて」

ドリスさんは声を絃のように震わせ、空を仰ぎ見た。
レンガが赤く染まる。
日暮れを迎えた町は切ないくらい静かで、一日の終わりを物語っている。
職人の町は朝が早い分、店じまいも早かった。
彼らは太陽と共に生きているのである。
活気のある市場が閉まり、通りにいた人たちの数も徐々に減っていった。
閑散とした路地の端では、猫が香箱を作るように丸まり、暢気にあくびしている。

「大佐に昇進しただとか、いくつ武勲をたてられたとか、親としてはどうでもいいのよねぇ」
「………………」
「クラリオンには誰よりも幸せになって欲しいと思っているのよ」

彼女は母親の顔をしていた。
きっと親というのは息子が何歳になろうと自分にとっては子どもなのだ。
(母さんは今、何をしているかな)
僕はドリスさんと同じ空を見ながら、故郷の母親を思い出していた。
彼女は今も僕のことを一流の音楽家になるべく励んでいると思っている。
楽しみにしているかもしれない。
心配しているかもしれない。
こんなところでのんびりと生活していていいのだろうか。
逃げているだけではないだろうか。
心に暗い影を落とす。
居心地の良さに浸って厳しい現実から目を背けている自分に情けなくなった。

次のページ